今月の標語 2021年

2021年 「12月の標語」

「謙虚さ」は人格を測る試金石 

――― 『霊との対話』アラン・カルデック

先月の標語を更新後、いつものYさんから、以下のようなメールを頂きました。
「私の父は、先日癌の手術をして、「あと、何年生きれるかな?」なんて言っていましたし、近所の本当に良くしてくださるご夫婦のおじさんは、「次は、俺の番だな」なんて、言っていました。
 が、義父母は、2人の間でも「死」にまつわる話なんて絶対タブーだと、つい先日言っていました。主人は、妹を小学1年位の時に、病気で亡くしています。入退院を繰り返して大変だったと、そして亡くなった後、霊媒師?さん的な方の所にも行ってすがった事もあると、義母に何度か聞きました。
 「再会の確信」というものが、未だ持てずにいるのでしょうか?
 誰しもいつかは迎える最期の時 安らかに迎えられると、いいのですが。」

Yさんの御主人も先月ご紹介したヨーコさんの御主人と同じように、やはり幼い妹さんを亡くしていらしたのですね。小学一年生の子供を亡くすなど、ご両親、ご家族にとって言葉には表せないほどの悲しみであったことは察するに余りあります。

ただ、同じような身内の死に対しての態度は、本当に人それぞれで、Yさんの義父母様のように、「「死」にまつわる話なんて絶対タブーだ」という方々ばかりではありません。
同じように、標語の感想をお寄せ下さるN子さんの場合は、お勧めするスピリチュアルについての本なども読んでいただいて、お身内の死をまっすぐに受け止めて下さったので、大変うれしいことにスピリット(霊)からのメッセージを直に受け取ることができるようになりました。身内だからこそ共有できる体験があるわけですから、身内のスピリットが、せっかくメッセージを必死で送っても、「絶対タブー」などと心を閉ざしてしまえば、受け取ることができないので、このくらい残念なことはないと思います。

スピリチュアルについて学ぶというのは、沢山の本を読むことも大切なことですが、一番学びが多いのは、スピリットから直に学ぶことだということには、異論はないと思います。いうまでもなく、私たちの周りには目に見えないだけで、数多くのスピリットが居ます。私たち自身もスピリットが肉体を着ている状態ですから、死ねばスピリットのみになります。
皆さんは特殊な霊能がないとスピリットの声を聞こえないと誤解なさっているかもしれませんが、それは違います。真剣にスピリットを想い、切実にコンタクトを取りたいと願うことです。スピリットのほうからも様々な手段を用いて、コンタクトを取ろうと試みてきますので、柔軟な態度でいれば様々なメッセージを、折に触れて形を変えて受け取れるものです。
私の場合は、葬儀やご法事、納骨をお受けした時に、亡くなった方から何となく感じ取ったことをそのままご遺族にお伝えすると、当たっていると驚かれることが、かなりあります。
なるべく感じ取ろうと気持ちをクリアにすることが大切です。

このようにスピリチュアルを学ぶ上で、最近、これはちょっと問題だ、と思うことがありました。
10月末に、10年以上前にお寺の坐禅会に参加をしていたある夫婦が久しぶりにお寺にやってきました。当時、ダンナのほうが、職場に行きづらいほど、気持ちを病んでいたので、スピリチュアルの本を上げたのですが、
その後、その本をきっかけに、沢山スピリチュアルの本を読んだようで、そのこと自体は喜ぶべきことでしたが、なんと「スピリチュアル普及会」にはまってしまったようで、話を聞くうちに、暗澹たる気持ちになっていきました。

「スピリチュアル普及会」については、以前からかなり問題点を感じておりましたが、「yahoo!知恵袋」で以下のようなやり取りがあり、全く私の意見と同じでしたので、ご紹介したいと思います。

「yahoo!知恵袋 」 iam********さんの質問2012/8/1 9:27
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1491607534?__ysp=44K544OU44Oq44OB44Ol44Ki44Oq44K644Og5pmu5Y%2BK5Lya44CBIOOCq%2BODq%2BODiOaWsOiIiOWul%2BaVmeOBqOOBv%2BOBquOBl%2BOBpuOCiOOBhOOBruOBp%2BOBr%2BOBqOaAneOBhOOBvuOBmQ%3D%3D

【シルバーバーチ】について 自分はスピリチュアリズムには全く関心が無かったのですが、先月知人に勧められて「シルバーバーチ」関連の書物を読みました。 その時の感想は「へぇ、確かに正論だなぁ」ぐらいのものだったのですが、帰宅してシルバーバーチについて調べてみたら「スピリチュアリズム普及会」と呼ばれるサイトに行きつきました。
知人からもチラッと聞いた事があるサイトだったので少し覗いてみたのですが、第一の感想は「狂信的」と言うものでした。 自分達が真理を知っていると言って憚らない態度や、妙に高圧的な論調、何かにつけて地上を貶めたり、霊界を崇め奉ったりしている、そう素人目には映って仕方ありません。
また「神との対話」という本を徹底的に糾弾しているのも拝見しましたが、自分もその本だけは母の勧めで読んだ事があり、とても読みやすい良書だと感じていたので、そこまでクソミソに貶している事に驚きが隠せませんでした。
そこで質問なのですが、あの「スピリチュアリズム普及会、旧心の道場」は僕の感じた通り、カルト的な要素を秘めているのでしょうか? 自分個人としては「シルバーバーチ」自体は好きでも嫌いでもないのですが、あのサイトの言説は正直見るに堪えません。 スピリチュアリストを自称して、霊的成長を望んでいるのに、あの文章間から漂う傲慢さや侮蔑感、自分達こそ正しいのだという狂信は一体どこからくるのでしょうか・・・? 霊的成長どころか、退化しているようにしか見えないのですが・・・。 昔から宗教家が犯してきた「自分達こそ正しい、他は間違っている」という傲慢な主張と、あの「スピリチュアリズム普及会」の主張はどう見ても同じ穴のムジナなのですが・・・ それとも自分の勉強不足からそう見えてしまうのでしょうか・・? 本当に少し齧っただけの素人なのでよく分かりません。 回答を頂けると幸いです。
(補足)
普及会はキリスト教を「間違った」宗教と非難していますがスピリチュアリズム普及会も同じことをしているように見えます。 「正しい道を進まないと地獄におちる、だからこう生きろ」と命令するキリスト教の一部の人間と 「こう生きないと霊的進化を遂げれない。だからこう生きろ、私たちが教えてやるから」と言う普及会。どちらも狭量に思えてなりません。 勿論シルバーバーチ自体を否定している訳ではないので悪しからず。

「ベストアンサー」愛美さん 2012/8/2 6:05(編集あり)

「スピリチュアリズム普及会」、 カルト新興宗教とみなしてよいのではと思います。
危険かどうかはなんとも言えませんが、 人それぞれ考えが違いますから、 人それぞれから見れば、まぁ合ってるとこもあれば、オイオイというとこもありますしね。 もともと、こういった会のものって、言い切らないとならないと思いますよ。 信じさせなくちゃなんないですからね。 他宗に負けまいとしますし、それが宗教ですし。 人々は皆、考え方が違って当然ですしね。 (略)

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この知恵袋質問者さんの最初に出てきた「シルバーバーチ」とは、現在地球上においてメッセージを受け取ることのできる高級霊の中でも、最も高級な霊界に属していらっしゃる方だと私も思っておりますが、とても取り上げるのは畏れ多くて、今まで、敬遠しておりました。ただ、悩みの多い方には『古代霊は語る―シルバーバーチの霊訓より』(潮文社)を差し上げておりますので、興味のある方は読んでみてください。
そして一言付け加えるなら、現在の「スピリチュアル普及会」は、誰よりもシルバーバーチが最も憂慮なさるような状態であることは間違いありません。

この質問者さんも言っているように、「普及会はキリスト教を「間違った」宗教と非難していますが、なんと、先日お寺に来た夫婦の片割れが、お寺の本堂に座っているのに、仏教も間違った宗教の仲間に入れ、私に対して面と向かって揶揄するような、傲慢そのものの態度に出たことに本当に驚きました。一体この人たちはお寺に何しに来たのかと、まさに、「スピリチュアル普及会という名前の新興宗教」にはまってしまったコワサを改めて感じました。
スピリチュアルとは科学的には証明不可能な事象ですから、個々人の受け取り方次第で、何でもありの好き放題の世界になってしまうのが、最大の問題点であり、怖いところでもあります。

以下のブログを読んでみてください。

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「本当のスピリチュアルを学ぶ」 2011/08/08
https://adviser70.ti-da.net/e3547493.html

近年、スピリチュアル(スピリチュアリズム)を勉強する人が増えました。(略)
しかし、その中で一体どれだけの方が本当のスピリチュアル(スピリチュアリズム)を理解されているのでしょうか? 僕は時々考えてしまうのです。

スピリチュアルは目先のことの対処策ではなく、人生観に活かさなくては全くもって意味がありません。
別に、占い師や霊能者を一生頼って生きたいのであれば、スピリチュアルを学ぶ必要はないでしょう。
しかし、それではカルマは解消できませんし、いつまでたっても悩みはつきず、同じことを繰り返すだけです。
それでいいんですか?

僕は今まで何度も言っています。
「自分自身と向き合ってください。」「自分を見つめてください。」
「自分を理解してください。」「現実を受け入れてください。」
これらは一見スピリチュアルではなく、ただのアドバイスや現実論にしか見えないと思いますが、ちゃんとしたスピリチュアリズムを元に言っているのです。スピリチュアルは魔法ではありません。
スピリチュアルは即効性がある薬でもありません。
また、スピリチュアルを学んだだけで、現実が変わるわけでもありません。
スピリチュアルを正しく理解して自分の血肉にしていかなければ、スピリチュアルを学ぶ意味はありません。
どうか本当のスピリチュアルを学んでください。

本当に幸せになりたいのであれば、ちゃんとスピリチュアリズムを理解し、実生活で実践してください。
スピリチュアルは免罪符でも、魔法でも、特別なものでもありませんよ?
偉そうなことを言っていますが、僕もスピリチュアリズムを勉強中の身です。
僕はある程度のスピリチュアリズムは学びましたが、まだまだ勉強不足です。

だから、今も様々なスピリチュアリズムの文献を読んだり、有能な霊能者達から学んでいます。
僕がスピリチュアリズムを勧めるのには、ちゃんと理由があります。
僕の人生の流れや運の波は、正しくスピリチュアリズムを理解し、実践し始めてから変わってきたからです。
だから、僕はスピリチュアリズムを勧めるのです。

正しくスピリチュアリズムを理解し、実践すれば必ず波や流れが変わります。
これは疑り深い僕が、何度も何度も何度も何度も試して確信を得たことです。
だから、『本当に変わりたい』『本当に流れを変えたい』と思うのではあれば、まずはスピリチュアリズムを深く理解することが必要といえます。
そして、スピリチュアリズムを元に自分を見つめ直すことが必要なのです。(略)
本当のスピリチュアル(スピリチュアリズム)を理解してみませんか?

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今月の標語『「謙虚さ」は人格を測る試金石』は、『霊との対話』(アラン・カルデック)の中で、19世紀半ばに45歳で亡くなった生まれつき目が見えなかった女性の霊との対話の中で紹介されていました。
彼女は話の中で「傲慢というのは試金石みたいなもので、傲慢かどうかを見れば、その人がどんな人であるか分かるのです。御世辞に弱い人、自分の知識を鼻にかける人は、だいたい間違った道にいます。彼らはおしなべて誠実さを欠きます。そうした人々に注意なさい。キリストのように謙虚であってください。」

スピリチュアリズムについて本を読んだだけで、分かった気になるのは、機械の取扱説明書を読んで、機械が使える気になることと同じ、あるいは料理のレシピを読んで、料理を作れると勘違いしていることと同じです。
せっかく、スピリチュアルを学ぶのでしたら、本を読むだけでなく、現実のスピリットからのメッセージを感じ取り、良いエネルギーを発する高位のスピリットのお守りを頂けるように努めないと、本物は学べません。

本物のスピリチュアルを学べば、先に逝った人との「再会を確信」できるようになります。
すなわち、最も現代では忌み嫌われている「死」というものが再会の喜びに代わるのなら、死もまた、楽しみに待つべき瞬間だと確信できるようになるのです。
私は、一人でも多くの方がそのようになって頂けることを、切に祈っています。

2021年 「11月の標語」

幼児のままで死ぬ子供の霊は
時には大人より
ずっと進歩していることがある

―――  アラン・カルデック『霊の書』上

毎月、標語の感想を寄せて下さるYさんから、先月の更新後、以下のようなメールを頂きました。
「ここ数日、3歳の男の子が熱湯を浴びて亡くなったニュースが流れていますが、ふと思い出した事があって、息子の同級生で確か小学1年だったか、虐待ではないですが事故で沸きすぎたお風呂に落ちて亡くなった子がいました。(中略)
 自然災害で亡くなられた方々は苦しまずに行けるという事だったと思いますが、彼らもまた、肉体と幽体の分離が速やかに行われて苦しまずに旅立てて今、筆舌つくしがたい幸福に満たされているでしょうか?
間違いなくそうあって欲しいと深く思います。」

一般的に皆様は「死」というものをとてもネガティブに捉え、人の死の知らせには瞬間的に「可哀そう」という反応になります。
『霊の書』で一貫して説かれているのは「この地上生活は、今までの生における悪行の償いの場所である」というものです。ですから地上生活を早めに切り上げることができたということは喜ぶべきことなのです。
私が今までご葬儀であちらに御送りさせて頂いた方々も、すべて例外なく、死んだことを悔やみ、戻りたいと言ってきた方はいませんでした。
また、最年少は生後2日で亡くなった赤ちゃんでしたが、彼は両親の修行の為という使命を帯びて生まれてきた天使だと直感しました。
そのような前提で以下を読んで頂けると、御理解いただけると思います。

『霊の書』上、第八章人生の繰り返し (p124〜p125)「死後の子供の運命」より

(197)幼児のままで死ぬ子供の霊は、大人の霊ほどに進歩していますか?
「時には、大人よりずっと進歩していることがある。つまり、その子供は前生ではもっと長生きし、多くの経験を既に重ねていたかもしれぬから。それが相当な進歩を遂げていた霊の場合は、特にそうである」
──では、子供の霊が父親の霊よりも進歩しているかもしれないのですか?
「そういうことはしばしばある。諸君もそういう実例を数多く見るのではないか」

(198)幼児期に、しかも何も悪いことをすることなしに死んだ子供の場合、その魂は霊の段階の中で、高い段階に属しますか?
「何も悪いことをしなかったということは、何も善いこともなさなかったということだ。神は受けるべき試練を免れさせ給うことはない。もしそういう霊が高い段階に属するなら、それは彼が子供であったからでなく、それ以前の諸人生で進歩を遂げていて、その高い段階に達していたからである」

(199)子供のままで死ぬことが多いが、それは何故ですか?
「子供のその短い人生は、本人にとっては、前生で予定されていた寿命が中断されたための補いかもしれない。
また、両親にとっては、子供の死は試練であり、または罪の償いであることが多い」

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子供の死について語られている「ものぐさ スピリチュアル☆ダイアリー」ヨーコさんのブログが素晴らしかったのでご紹介します。
https://ameblo.jp/goronyan5691/entry-12696570627.html

子供たちにとって死は、とても優しい。死んでゆくとき、その先に起こることについてさまざまな否定的な思いをいだいている子供はめったにいないからだ。

子供たちは純粋だ。霊的(スピリチュアル)な領域から来たばかりだ。まだ「存在の核心」からそう遠く離れていない。「エッセンス」から分かれて現れたばかりだ。だから幼い子供たちは死の最初の各段階をすみやかに通り過ぎ、ほとんど瞬時に「エッセンスとの合体」に戻っていく。(中略)

「あの世」では子供たちは「成長する」と言うべきだろうね。つまり子供たちは起こっていることも「究極の現実」も充分に認識し、充分に意識している。自分がなぜ地上に来たのか、なぜそんなに早く地上を離れたのかも知っている。
どんなかたちであれ、選んだことを全部完了したと感じれば、子供たちは先へ進むだろう。完了したと感じなければ、ほかの魂と同じように「人生に戻る」機会を与えられる。

ある意味、子供たちは「あの世」から来てまだ数年しか物理的世界での生を過ごしていません。なので、世間の常識で頭がガチガチに洗脳されちゃった大人よりもずっと霊的だし、あの世の記憶も鮮明に残っているでしょうから、「こんなに早く死ぬなんて、さぞや無念だろう」「なんて可哀そうなんだ」「悲劇だ」などと、大人が子供の死について”憐憫”のレッテルを貼ることは、もしかしてちょっと見当違いなのかもしれません。

死んでしまっても、霊的領域に進む前に、必ず「さっきまでいた物理的世界に戻りたいか?それとも霊的な領域に進むか?」と聞かれて、どちらか自由に選択することができるのですから、「無念の死」は存在しないということになります。

どんなに幼い子供の魂であっても、十分納得したうえで物理的世界を離れるのです。
では、生まれたばかりの赤ちゃんや乳児の死はどうなのでしょう?それについても神様はちゃんと説明してくれています。

身体に入ってからごく短期間に身体を離れた魂──生まれたときやごく幼いころに死んだ子供たち──は、必ずとても高いレベルでほかのひとの課題に仕えるためにそうしている。

すべての魂は個々の課題に役立たせるために物理的世界にやってくるが、その課題がじつは当人とはほとんど関係がなくて、すべてが他者の課題にかかわっていることがある。

たとえば神の化身や<マスター>として戻ってくる魂は、そのような者として自らを経験する喜びのために戻ってくるし、そのためのいちばん良い方法は、もっぱら他者の課題に仕えることだと知っている。
(中略)
場合によっては、彼らはそのためにすぐに地上から去らなければならない。だが、それはその魂にとって決して悲劇ではない。彼らは早々に立ち去ることに同意している。
(中略)
他者の課題に仕えるために身体に宿った魂はすべて天使だ──そして、ごく幼くして死んだ子供はすべて、他者に贈り物を与えるためにそうしている。
両親やそのほかの人びとは、その贈り物をすぐには理解できないかもしれない。当然ながら、深い悲しみに沈んでいるからね。

だが約束するが、時がたって癒されれば、その贈り物が見えてくるし、受けとれるし──天使としか形容しようのない──いとし子の仕事は完成するだろう。

わが子に先立たれることほど、辛い、壮絶な深い悲しみはないでしょう。神様は私たちに「子供の死を悲しむべきではない」とは言っていません。けれど、もし、可愛いわが子が、両親の課題のために、喜んで物理的世界を後にしたのだとしたら──そして、そのことを、事前にあの世の霊的領域で一緒になって計画していたのだとしたら──そして、親が、辛い子供の死の悲しみを乗り越え、今生を精いっぱい生き切り、あの世で先立たれたわが子に再会できると疑いもなく「知って」いたら──。

課題を乗り切る年月も、辛く、苦しく、悲しいだけでなく、その人生に希望と喜びが少しずつ増えてゆくかもしれません。

私のダンナは、小学生(6年生かな)のとき、可愛がっていた幼い妹を交通事故で亡くしています。しかも、その事故現場の近くにいて、事のなりゆきを目撃してしまったのです。

この時の話は、付き合い始めた頃1度だけ聞きましたが、それ以来まったく話題に上ることはありません。まあ、40年以上前の事ですし、ダンナの今の日常生活のなかでは思い出すことも少ないのかもしれませんが、その当時、ダンナがどれだけの衝撃を受けたであろうかは、簡単に言葉にできないし、想像もできません。ダンナも義両親も、事故からの数年は、壮絶な辛い日々を過ごしたに違いなく、それを軽々しく論じることはできませんが、いずれにしても、ダンナは「妹の死」を通して、何らかの課題を乗り越えることとなったのだと思います。ものすごく優しく、強く、動じない性格であり、私のような未熟な人間の「師」のような存在であり、「無条件の愛」を言葉でなく生きざまで見せてくれている彼をかたちづくったもののひとつに、「妹の死」があるのかもしれないし、それがなかったらダンナの人生が変わっていて、私と会うこともなかったかもしれません。そう考えると、私は会ったこともないダンナの妹さんに対し、言いようのない感謝の気持ちと愛情がふつふつとわいてきます。

「Yちゃん、本当にありがとう。いつかあの世で会ったら直接お礼を言わせてね。あなたのお兄ちゃんのおかげで、私は人生がものすごく豊かになったし、本当に幸せだよ おねがい」
ダンナの妹、Yちゃんに、私の思い届きますように。

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幼くして子供を亡くした場合、その家族は自身を責め、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうでしょう。ただ、そのような状況は、誰よりも、亡くなった子供自身を悲しませます。残された人々の悲しみを感じ取ると、その子は「自分は大丈夫だからね」と言って、悲しむ家族を慰めようとします。すぐそばにいて、一生懸命分かってもらおうとしているのですが、それがほとんど伝わらず、もどかしく思っています。
ですから、亡くなった子供に、安心してもらうため、早く天国に行ってもらうためには、子供に「もう大丈夫」ということを伝え、「ありがとう」と、今生でわずかの間でも一緒にいられたことへの感謝の気持ちを伝えることが大切です。

先日、ホスピス財団理事長 柏木哲夫先生がTVでおっしゃっていました。
「安らかに最期を迎える方は「再会の確信」と「永遠のいのちの確信」を持っている。
人間が自身の死期を悟った時、剥げ落ちて、魂がむき出しになった時に、その魂に平安があるかどうか・・・人生の一番最後の勝負だ。
近代医学、緩和医療が発達し体の痛みはうまくコントロールできるようになったが、「魂の痛み」に関しては、その人が今まで魂に平安をもって生きてきたかどうか、ということに掛かってくる。」と。

子供に先立たれた方は、そのことを嘆くばかりでなく、ご自身の魂の平安を保ちながら、再会を楽しみに待つような心待ちで生きることができれば、「その瞬間」は最大の喜びに満ちた瞬間になると確信します。

2021年 「10月の標語」

わが友人たちよ
死を恐れる必要はありません
よき生き方をしているのであれば
死とは休憩にほかなりません

――― アラン・カルデックの「霊との対話」『天国と地獄』

5ヶ月にわたってスウェーデンボルグによって説かれてきた霊界の諸相を取り上げてきましたが、今月からアラン・カルデックのスピリティズムをご紹介します。

アラン・カルデック(Allan Kardec)は、フランスの教育学者・哲学者で、スピリティズムの創始者でもあります。アラン・カルデックは筆名で、本名はイポリト=レオン=ドゥニザール・リヴァイユ(Hippolyte-Léon-Denizard Rivail)です。

カルデックは、1804年10月3日、フランスのリヨンで生まれました。
10歳の時にスイスのペスタロッチ学院に入学し、化学、物理、数学、天文学、医学、語学、修辞学などを総合的に学びました。医学は博士号を取得しています。彼は六か国語が話せたそうで、フランスに戻ってからは自宅で語学を教えながら、参考書や教育書を出版、 教育学者として評価されるようになります。

霊媒を介して、あるいはひとつのテーブルを取り囲むことで死者とのコミュニケーションをはかる交霊会は、1840年代にアメリカで出現し、1850年代になるとヨーロッパのブルジョワ層にも広がりを見せていました。
さらに19世紀後半にかけ、欧米各地で、霊的な現象を伴う精神運動が一大ブームになりました。
1854年にカルデックはスピリチュアリズムと出会い、交霊会における霊現象が本物ならば、宗教的・科学的に非常に大きな可能性を秘めていると考え、自然科学的な手法を使い、調査を開始します。
友人の2人の娘が霊媒能力を発揮したこともあり、彼は毎週末その2人の協力で交霊会を開き、人生のさまざまな問題や宇宙観について霊たちに質問し、テーブルターニングや自動書記によって答えを得ていきました。

こうした実験を続け、複数の交霊会で「霊との対話」に基づく霊言を大量に収集しました。そして、それらを細かく実証的に比較・検討し、絞り込んで編纂し、霊実在主義あるいは霊実在論と呼ばれる理論体系(スピリティズム)を作り上げたのです。
1857年『霊の書 (Le livre des Esprits) 』を、1858年1月1日、月刊誌『霊実在主義』を刊行します。
その後まもなくしてパリに霊実在主義協会を創立しました。この協会は霊実在主義の普及において、中心的な活動拠点になってゆきます。カルデックが出版した一連の霊実在論についての著作物は、400万部を超える大ベストセラーとなりました。
1869年3月31日、心臓病で、65才の波乱の生涯を閉じます。
その亡骸は、ペール・ラシューズ墓地に埋葬され、いまなお献花に訪れる人が絶えないそうです。

カルデックが掲げたスピリティズムの基本原理は次のようなものでした。
(1)死とは肉体の機能が停止するだけのことであり、その人の本質つまり霊(魂)はエネルギー体として霊界で永遠に生き続けている
(2)霊界で暮らしている霊は、ある一定の期間を経ると、肉体をまとって再び地上に転生してくる
(3)輪廻転生の目的は、魂の向上すなわちより高い認識力の獲得と、より大きな愛する力の獲得である
(4)魂は絶えず向上しながら神に近づいてゆく。神に近づけば近づくほど、悟りが高まり、魂は自由となり、より大きな幸福を享受できる
(5)霊界にいる霊人たちは地上の人間にメッセージを送ってくることがある

カルデック自身の定義によれば「霊実在論とは実験科学である、と同時に哲学理論でもある。 実験科学としては霊との間に築かれる関係に基礎を置いている。哲学理論としては霊との関係から導き出されるあらゆる心の法則を含んでいる。」
すなわち、「霊実在論は霊の本質、起源、運命を扱う科学であり、また、霊界と物質界との関係を扱う科学である」ということになります(『天国と地獄』の序章より)

スウェーデンボルグは彼自身が幽体離脱体験を通じて霊界を探訪し、自由に霊界の住人と語り合うことによって多くの霊的事実を地上にもたらしましたが、カルデックは霊媒を介した交霊会において得られた多数の霊たちの霊言を元に霊実在論を確立しました。
 ですから、彼の著書には沢山の霊たちが登場し、彼らの口から死ぬときのあり様や、死後の世界について具体的に語られており、非常に臨場感あふれる生々しい証言になっています。

無事、地上での使命を果たし、天国に還って無上の喜びにひたっている霊もいれば、間違った生き方をして地獄に堕ち、塗炭の苦しみをなめている霊もいます。また、自殺をした結果、深い悔恨にさいなまれている霊もいれば、生前のプライドを死後にまで持ち越し、自分が死んだことさえ分からずに、威張り散らしている霊もいたりします。
とにかく読み進めていくと、他人ごとではなく、自分もよほど心して「その瞬間」を迎えないと、ヤバいことになるかも…と身が引きまる思いに駆られました。(汗)

カルデック著『天国と地獄』は「第一部死の恐怖と苦しみを克服する方法」から始まります。
第一章 魂と肉体が分離するとき
最期の瞬間に何を感じるのか?
魂と肉体をつなぐもの
意識の混濁、そして目覚め
第二章 この世からあの世への移行を楽にするには
病気や老衰で死んだら、どうなる?
非業の死を遂げたら、どうなる?
死後の世界は現実そのもの

本編において述べられていることの要点は以下の通りです。
@喜怒哀楽を感じ取るのは魂だけ
A死によって肉体と魂は切り離される
B幽体が魂を包み込んでいて、幽体と魂は一体。肉体の反応を感じ取るために魂が役立っている
C肉体の有機的な生命が終了すると、魂と肉体を結んでいた電子線が切れる。

死の瞬間に魂が感じる苦しみは、肉体と幽体が、まだつながっているから感じるのであり、分離に要する時間と、その困難さに応じて、苦しみの程度も決まる。
死に伴う苦しみは、肉体と幽体を結び付けている力の強さに関係しており、分離が速やかに行われるほど魂は苦痛を感じずに旅立つことができる。また、分離の速度と難易度は霊の悟りの進み具合、魂の浄化の度合い、脱物質化の度合いに左右される。

以上の事柄は、実際に亡くなった人々の霊を招霊した記録によって確かめることができます。
本書で一番初めに紹介されているのは霊実在主義協会の古くからのメンバーだったサンソン氏です。彼は生前から、自分の死後可能な限り早く、招霊して、話を聞いて欲しいと希望していましたので、交霊会にすぐに現れ、以下のようにお話しています。
まず、自分の遺体を前にした感想を聞かれてこのように述べています。
「哀れでちっぽけな抜け殻にすぎません。変形した、哀れな私の肉体が…見えます。そこに宿って、私は長年の試練に耐えたのです。ありがとう、私の哀れな体よ。おまえのおかげで私の霊は浄化されました。
おまえに宿って味わった聖なる苦しみが、私の功績となったのです。」

「息を引き取った時、地上の生命が粉々になり、視覚が失われました。空虚、未知…。そして、いきなりものすごい力に運ばれて、歓喜と偉大さに満ち満ちた世界にいることに気がついたのです。もはや、感じることも、理解することもできませんでした。ただ、筆舌に尽くしがたい幸福に満たされていたのです。もはや苦しみはいっさい感じられませんでした。」

「わが友人たちよ、死を恐れる必要はありません。もし、よき生き方をしているのであれば、死とは休憩にほかなりません。もし、やるべきことをやり、試練に打ち勝っているとすれば、死とは幸福にほかなりません。
 勇気を持って、そして熱意を持って生きてください。地上の財物に執着しないことです。そうすれば、必ず報われます。他者のために生きてください。心の中で悪を犯さないように。そうすれば、地球は軽やかな場所になります。」

ただし、サンソン氏は、霊実在主義協会で霊について充分学んでおりましたので、天国に直行できたようですが、このような死ばかりではなく、「死ねば何もかも終わる」と思い込んでいるような唯物主義者ですと、死はもっと苦痛に満ちたものになります。霊と肉体が分離するときに、霊としての自覚がもどってくるのですが、「終われば無になる、死後の世界などない」と思っていたのに実際には終わらないため、事態が理解できずに混乱し、苦しむのです。

先月の標語で「スウェーデンボルグは、人間だったときにその内面を深く耕していた人間と、そうでなくて、死んでもまだ外面的なものを強く残している人間とでは、死んだ後で大きな差が出て来ると説いています。前者は容易に天国に入れるのに対し、後者はそれを取り除くのに時間がかかるので天国になかなか入りにくかったり、入れなかったりするのです。」と書きました。上記のように、カルデックによって述べられていることがまさにこのことであると思います。

私たちは、どこかへ旅に出ようとする場合、まず目的地を決め、そこについての情報を得ること、そして、どうやってそこまでたどり着けるかを調べます。目的地の事情をあらかじめ詳しく知っていれば、旅も有意義なものになるでしょう。十分な準備をしてこそ快適な旅ができる訳ですが、現在生きている人々も、必ず漏れなく、次の世に旅立つのです。我々は全て「死出の旅路」の旅人です。死んだ後で、戸惑ったりしたり、右往左往しないですむように、入念な予習をお勧めします。

いつも、この標語をお読み頂いているアナタ、ここまでくどいほどお話してまいりましたので、まさか迷うことはないと信じておりますが、まず、何より生まれる前から自身で決めてきた、今生での課題や使命を全うすること、そして常に死後の世界に親しみ、深く学ぶことこそが、次の世界の行き先を決定しますので、くれぐれも「疑い」を持つことのないようにお願いしたいと思っております。

2021年 「9月の標語」

人間は自分の足で一歩一歩と歩いて
自分で天国に行かねばならない

――― 『霊界からの手記』スウェーデンボルグ

先月の標語で「時代は時を経るに従って次第に悪くなってきた」、「人間の霊的な能力は時代を追って低下してきてしまっている」と書きました。
それでも、このまま何もせず、このような状態を流れのままにしておいてよいはずはありません。

これまで天国や地獄について詳細に解説してきましたが、スウェーデンボルグは、このテーマの最後に、
「いつも善霊悪霊の影響下にある人間が、心臓にまで悪霊の影響を達せさせないために必要なのは、そうさせないという意志の力なのだ。
そして、その意志の力を本物にするのは行動(この場合は善行)なのだ。意志は行動することによって初めて本物になるからである。」と述べています。
確かに、『善は急げ』という諺もあるくらいですし、思っただけで、行動に移さなければ、何事も変わりませんね。とにかく、善く生きようと志し、少しでも善いと思える行いを、日常生活の場面で選択しながら生活していくしかないのでしょう。

 「人間は自分の足で一歩一歩と歩いて、自分で天国に行かねばならない。たとえ、キリストが助けてくれるとしても彼は手をとってくれるわけではない。一緒に歩いていってくれるだけである。
 一歩ずつ歩いていくということは、正しい意志と認識を(行動によって)少しずつ自分で積み重ねていくということである。」と述べています。

これ以上、世の中を悪くしないためには、彼によって述べられているような天国を目指して一歩一歩歩いていくことしか方法はないようです。
すなわち、目指すべきは「天国の本質とその心が同化している者」、「「天の理」を悟り、それに無垢な信頼を寄せている者」、「ほかの霊に対し自分を愛する以上の愛情を持っている者」、です。
「隣人に対する愛情」を行為によって具体的に示していくことが、天国への一番の近道なのです。

スウェーデンボルグは、人間だったときにその内面を深く耕していた人間と、そうでなくて、死んでもまだ外面的なものを強く残している人間とでは、死んだ後で大きな差が出て来ると説いています。前者は容易に天国に入れるのに対し、後者はそれを取り除くのに時間がかかるので天国になかなか入りにくかったり、入れなかったりするのです。
 素朴な人間の霊が容易に最上の天国に入って行けたのは、彼らが人間だったときによくその内面を耕していたからでした。そして内面を耕すのに必要なのが善行という行為なのだと彼は説きます。これは、「善を知って行動する」ということにほかなりません。

 毎月のお参りで、ある方のところに伺った時のことです。その方は、映画やテレビドラマを観るのが大好きで、お参りの後は、最近観た映画やドラマとかの話題になります。ある時その方に、私が「テレビドラマって、人間関係がグチャグチャして、観ていて嫌にならない?」と聞きますと「そのグチャグチャが、いいのよ」と言われ(@_@;)! もうそこから先は何も言えなくなってしまいました。(;-_-;)

テレビドラマといっても、大河ドラマのような歴史物や、社会派ドラマもありますから、一概には申せません。今、私が唯一観ているのが大河ドラマ『青天を衝け』ですが、渋沢栄一が徳川昭武の随員としてフランスへ渡航し、諸外国の事情を学び、先進的な産業・諸制度・近代社会の有様に感銘を受け、帰国後は、見聞きした知識を生かして、のちに「資本主義の父」と呼ばれるほどになるまでの活躍をしていくのです。渋沢栄一が目指したのは「皆が幸せ」な社会でした。このように、歴史上実在した人物、しかも世のため人のために生きた方に因んだ史実に基づいたドラマですと、スピリットを鼓舞する働きもあり、学べる点は多々あります。特に、幕末の動乱を生き抜いた人々の体験は、このコロナ禍の混迷した世の中を乗り切るための示唆が多くあるような気がしています。

その点、普通のドラマですと、概ね人間の喜怒哀楽を描いた、煩悩に基づいたドロドロしたものがテーマになっていることが多いのでは、と思いますし、そのドロドロが好きと言われてしまうと、「人間の内面を耕す」、「善を知って行動する」ということには程遠いと思われます。住職になって16年、毎月、各御家にお参りに伺い、様々なお話をさせて頂いていても、ここに私が書いているようなこと(つまり、僧侶としての私の使命)に全く興味さえも持って頂けないと、とても寂しく感じます。仏教において克服すべきとされる貪瞋痴(とん・じん・ち:むさぼり、怒り、愚かさ)を逆に助長するのではないかと危惧いたします。
あるいは、「人の不幸は蜜の味」という言葉がありますが、それを現実に目の当たりにすることはあまりないので、ドラマによって疑似体験したい面もあるのかなという気も致します。
(余談ですが:ウチの猫で、畳をバリバリやるのが好きな子がいて、見つけたときにすぐに「コラッ」と叱りますが、その子が叱られている時、ほかの4匹の子たちは、その様を周りでじ〜っと観察していて、彼らの「人の不幸は蜜の味」と感じている気持ちが伝わってきて驚いたことがありました。その時、彼らには、「そんな風だと、また次も猫やるよ」と言いました。)

私は、高校時代、古文の授業で『源氏物語』を読みましたが、登場人物が全て、ただひたすら欲望に従って行動しており、あまりに人間関係がドロドロして、このようなモノが古典文学として崇められることに強烈な違和感を持ちました。そのようなこと突然思い出しましたので調べてみましたら、同じような考えの方がいらして、うれしくなりました。(笑)  
以下、goo blog「私は源氏物語が嫌いです」より引用
(https://blog.goo.ne.jp/fouche1792/e/241c19a4768a8ea5e7238e3513d9dd78#comment-list)

文学史の教科書を見るとどれもこれも源氏を絶賛しているけれど、なぜなの? と思ってしまう。絶賛されればされるほど反感がわいてしまう。
文学も然り。10人が10人絶賛しているなんておかしい。きっと『源氏物語』というネームバリューに目がくらんでいる人もいるのではないか。(略)
(この、「『源氏』のよさが理解できないなんて」という風潮もいやですね)
と思ったら、谷崎さんもエッセイで同じようなことを書かれていた。 「光源氏は嫌いだ」と。
明石散人さんも源氏についてはほめていない。あれは家宝として受け継がれてきた、そのありがたみのせいだと。そうだ、私は光源氏という男が大嫌いなのだ。そしてその光源氏を贔屓している『源氏物語』という作品が嫌いなのだ。
考えてみてほしい。源氏の一生は何一つ主体性がないではないか。彼の女性遍歴も、めぐり合った女性をマメに世話するのも、「天皇の子」というステータスと、それに伴う身分があったからこそ。そして、失脚してまた復活するのだが、これも源氏自ら何かをした結果ではない。
婚姻の結果、一方の派閥に属し、それゆえ政界を浮き沈みしている。臣下として頂点まで上り詰めるのも天皇の実の親という立場からに過ぎない。 読んでいていらいらする。(略)
とまあ、日ごろたまっていたものを存分に晴らさしてもらった。
『源氏物語』というだけで素晴らしい、という風潮はもう飽き飽き。(後略)

・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用が随分長くなってしまいましたが、古典と評価されている『源氏物語』でさえこのありさまですから、私が申し上げたいことをお分かり頂けますでしょうか。(-_-;)
要は、上記のような全くのフィクションは「人間の内面を耕す」、とか、「人間は自分の足で一歩一歩と歩いて自分で天国に行かねばならない」といったテーマとは最も遠い、のではないかということなのです。
(あっ、スミマセン。フィクションでも中には素晴らしいものもあるかもしれませんが…)
もちろん、人それぞれですから、「ストレス解消!」「観ていて楽しければいいのよ」あるいは「人間の霊としての向上など興味なし!」という方もいる訳で、それを言われてしまえば仕方ありません (~_~;)

さらに…
人間は本来、霊的内面と肉体という外面を持った存在ですが、世間の人々はどうしても肉体という形に見えるものだけを考えてしまいがちです。肉体がなければ人間は生きて行くことはできないからです。
また、生存本能に囚われて、「死にたくない」と、ただ生きていることそのものが目的になりがちです。

人々が人間の物質的部分、すなわち、肉体ばかり見ていれば、死によって肉体が滅びれば、それで終わりと思い込むので、死に対する恐怖にとらわれます。昨今のマスメディアなど見ていますと、「死んだら終わり」、すなわち「死ぬことが最悪のこと」という風潮で覆われています。
一分一秒でも生き長らえることだけが目標になっていることがわかります。

たまたま、数日前にお参りに伺ったお家で、その方の90歳近いお姉様が老衰で、ほとんど意識もなく(つまり周りと意思疎通が困難な状態)食べられないので点滴をしている、と伺いました。
私は「あら、なぜ食べたり飲んだりできなくなったのに点滴をするの?」と申しました。大方の人は、点滴を当然だと思われるかもしれませんが、昨年96歳で天寿を全うした先代住職の場合は、ほとんど飲まず食わずになった時点で、本人の意向もあり、一切余分なことはしませんでした。普通は、食べられなくなるということは、体が死ぬ準備を始めたということで、そこから体が枯れて行き、自然に楽に逝くことができます。最後までお世話になった施設の方々とも十分協議のうえ、本人の気持ちを最後まで尊重して頂けたことは大変有難かったです。
以前申しましたが、今まで80人の方のご葬儀をお勤め致しました。最後のお別れに、必ずお顔を拝ませて頂きますが、不自然なことをして命を長らえさせた場合、見るに忍びないような状態になることが多いです。これ以上の表現は控えますが、人々の死に顔ばかり拝ませて頂いていると、それなりに学ばせて頂けるものです。
死という瞬間を敗北と捉え、一分一秒でも先延ばしにしなくては…ということ自体が間違っていると私は思います。

人間の肉体的側面にこだわりすぎた結果、内的な部分がおろそかになりすぎてしまうのは、悲しいことです。
死期が迫って、意識がなくなる前に、死後に赴く世界について十分学び、内面を耕していると、また違った死を迎えることができると思います。先に逝った方との再会を楽しみに待つこともできるようになります。
私自身は父や、先代住職との再会を熱望しています。
最近、あまりにも楽しみにしていますと、ふと、自分がもうすでに、あちらの世界にいるような錯覚にとらわれ、向こうの世界から、こちらを眺めているような気持ちになることがあり、この世的なことは、実は、ほとんど、どうでもよいことなのでは…と、ふっと思うことがあります。

本当のスピリチュアルを学べば、死は当然終わりではないので、死に対する恐怖もなくなりますし、一分一秒でも命を何とか引き延ばすことにこだわることが、どれだけ愚かなことか、ということがわかるはずです。

時代は悪化し、人間の霊的な能力も低下しているのですが、それでも、それを食い止めるためには、霊的真理をそれぞれが学び、お互いに広めあい、霊的真理に沿うように行動していくしか方法はないと思います。

最近、宮城県の村井知事の座右の銘が『天命に従い人事を尽くす』という言葉だという記事が目に留まりました。この言葉は「天の理を正しく理解してそれに従いながら、最大限の努力をする」と読むことができます。
従来は、『人事を尽くして天命を待つ』という風に、まず人事を尽くすことの重要性ばかりが先に言われてきましたが、その前に天命を知ることの重要性を強調することは、とても大切なことだと思いました。
自分自身が神から頂いたミッション(天命)はすでに持って生まれてきているわけですから、そのことを正しく理解し、確信を持って力を尽くせば必ずや成就できる、ということでしょうか。

私も、このページでは引き続き、スピリチュアルをテーマに皆さんに少しでもご理解を頂けるよう努力して参りたいと、誓いを新たにして、一歩一歩進んで参りたいと思っております。

2021年 「8月の標語」

時代は時を経るに従って
次第に悪くなってきた 

――― 『霊界からの手記』スウェーデンボルグ

このところ、スウェーデンボルグによって説かれた霊界の事情、地獄や天国についてご紹介してまいりましたが、彼自身がこれだけは言っておきたいと、念を押している部分がありますので、それを付記しておきたいと思います。

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さて、以上述べたことで、読者はどんな人間が死後霊界のどこへ行って、どんな霊的生を送ることになるかといった見当はついたに違いない。そこで私は最後にぜひ一つのことだけはいっておきたい。それは一言でいえば、時代は時を経るに従って次第に悪くなってきたということである。

私は霊界で古代の偉人たちにも多く会った。彼らはみな最上界の天国にいて、その姿も輝き、紫色の後光やオーラを背負っている者も少なくなかった。私は最初、彼らが誰かは知らずに会ったが、それはやがてモーゼなどの古代の偉人であることがわかったという具合であった。私は彼らとも様々な話をしたが、彼らも「時が下るにつれて次第に悪い時代になっている」と私と同じように指摘していたものである。そしてまた「だから最上の天国に至れる霊は時代とともに少なくなっている」ともいっていた。

では、どうしてそんなことになったのか。この結論は一言でいえば「世間の人々が科学とか学問とか、あるいは社会的栄達とかいった外面のことばかりに関心を持ち、内面のことを忘れるようになったためである」。

時代とともに人間の霊的資質が低下した証拠はいくらでも上げられる。
私はヘブライ語を独習して『聖書』をヨーロッパ語の翻訳でなく原語で詳しく調べてみた。その結果、少なくとも、もとの原語のヘブライ語の『聖書』には、実に多くのことが霊界に関して書かれていることがわかった。そして、それは古代人の人々が、いまの人々よりも霊の世界と交流する能力をはるかに豊富に持っていて、それによって知った霊界のさまざまな事実を『聖書』に書き残していたということだった。

現在のヨーロッパ語訳の『聖書』の中にも、その言葉の裏には霊的な意味がかくされているのが私にはわかる。しかし、現在の人々は宗教関係者といえどもそのような裏面の意味まで読み取れなくなっている。
つまり、これは人間の霊的な能力が時代を追って低下してきたということにほかならない。そして霊的能力の低下とともに、時代は科学などといった外面ばかりを問題にする時代になってきた。だから人々は外面ばかりを発達させたために、より天国には入りにくくなっている。

また、古代の文献にでてくる預言者たちは、みな私同様に霊の世界と交流をしていた。しかし、こういう人々は時代の経過とともに少なくなった。いな、古代の人々にはとくに預言者でなくとも霊界との交流はごく普通のことであった。だが、これも今の時代ではまったく少なくなっている。これも人間の霊的能力が時代とともに低下してきた証拠になろう。そして霊的能力の低下は、人間が「天の理」を素直に感じ取る素直な心を失って、より外面的になったために起きた。

このように霊の世界とも交流する能力があり「天の理」も、ちゃんと人間だったときから理解していた古代の心の素直な人々とその能力に欠けた現代の人々では、霊界に入ってから多くの面で大差がある。いまの人々は霊界に入っても外面的なことからなかなか抜けきれない。学者やこの世での権力者が自分の人間としての死を自覚せず、人間だった時の学問(つまり外面的な記憶)や、人間だったときの権力(これも外面のものに過ぎない)が、まだ霊界でも通用すると思い込んでいたりするのもこれである。(中略)

・・・私が繰り返し述べてきていることの一つは、現代のわれわれは本当の知覚とは何かを知らなくなっているということである。知覚とは私に言わせれば、「ものごとの外面の姿を突き破って本当の意味を直感的に捉える」ということである。
しかし現代では、外面の姿を知ることが知覚だと解釈されている。これでは“ものごとを突き破ってあるものを手に入れる”という知覚(Perception)という言葉の語源の意味からは全くずれてしまっている。

知覚それ自体をみると、それは心のいちばん深いところにさす一条の光のようなもので、その光はものを理解、認識しようとする時に発せられる光である。この光には理解、認識できたという感情が伴っているが、この感情は動物では本能と呼ばれ、人間では直感ないし直観と呼ばれているものである。

しかし、この直感は現代人の場合にはかなり歪んでしまった。現代人は良心などというものを持っていて、あれやこれやと考える中で良心という物指しに照らしてやっと正、不正を判断している。しかし、こういう直感が霊的、天国的レベルに達していたものたちはそんな良心などという面倒なプロセスを経ずともたちどころに正確な判断ができていた。
なぜ、われわれの直感がそれほど退化してしまったかを語るだけで一冊の本になってしまう。しかし、一言でいえば人間が次第に物質界的なことや利己的なことにより強く関心を持つようになって、天国や霊的世界を含めたすべてのバランスの中でものを理解しなくなり、直感もそれに伴って歪んでしまったからである。だから今日のわれわれは、霊的な直感とか、天国的な知覚能力とかは失ってしまっている。

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上記の文章を読んでおりますと、スウェーデンボルグが今ここにいて、我々に話しかけているような錯覚に陥りますが、「5月の標語」でも書きましたが、彼は17世紀から18世紀、今から約300年前に生きた方ですから、文中で「現代」と述べられているのは、300年も前のことになります。
彼の時代から、さらに300年も時を経てしまった現在、時代が良くなったといえる可能性は全くなく、事態はより悪化してしまっていると言わざるを得ません。それどころか、いまだかつてなかったくらい、世の中の状況はひどく、人類や地球上に明るい未来は二度と訪れないのではないかと思うほどです。

例えば、日本の大手メディアはコロナとオリンピックしか報じませんが(特にNHKは酷い)、「2月の標語」でかなり詳しく取り上げたアメリカの政治状況にしても、混乱状態はさらに加速していて、予断を許しません。昨年行われた大統領選挙の投票用紙監査がいまだに続いており、結果が覆る可能性を含んでおりますし、トランプ氏や心あるアメリカの人々がいかに忍耐力をもって耐えているか、想像を絶するほどです。
政治に無関心を決め込んで平気でいる人々は、そのうち、驚かされることになると思いますが、それもこれも突然起きる訳ではなく、事態は徐々に変化していっているのです。

本来ならば、科学の進歩は、人間の幸せを促進するはずのものでした。
狩猟採集生活を送っていたころは、人々は今日の食物を得ることで精一杯という生活を過ごしてきました。それからおよそ一万数千年の時を経て、日々の生活に困らない状態を追い求め続けてきた結果、科学や技術が進歩し、物質的な豊さを手に入れたのだといえましょう。

ひとたび便利さや快適さを味わった人間の欲望は限りがなく,科学技術者はそれに応えようと研究・開発を行ってきました。その結果、科学者に悪意が全くなくても,予想だにしなかった負の側面も出てきますし,悪意の利用も起こりえます。

 たとえば、コンピューター利用技術の発達は凄まじく,人の力を圧倒して領域を次々に侵略しつつあります。AIやITが発達すると多くの人が仕事を無くし,中国のような監視社会が拡大し,サイバー攻撃も増加してプライバシーの保護も無くなるかもしれません。ロボットやAIに支配されたり、あるいは我々のほうが強く依存し,それらが提供するものを黙って受け入れざるを得なくなるかもしれません。すでに大量に提供される情報に戸惑い,紛れ込んでくる虚偽情報を見分けることもできずに翻弄されている部分もあるようにみえます。テレビや、スマホ、ネットを通じて得た情報ばかりに依存した結果、それらを鵜吞みにし、その反動として、何か物事に接したときに肌で感じ取る直感力が鈍くなっているような気が致します。

スウェーデンボルグが指摘したように、人間が次第に物質界的なことや利己的なことにより強く関心を持つようになり、外面のことばかりに関心を持ち、内面のことを忘れるようになったために、目に見えない、天国や霊的世界、霊界の住人たちの気持ちを直感で感じ取ることができなくなってしまいました。

本当に、人間の霊的な能力は時代を追って低下してきてしまっているのです。
私自身は、ご葬儀や、法事等であちらに行った方々から、直接メッセージを受け取りますので、スウェーデンボルグ同様、「世界は、本当は目に見えないものこそが根本であり、それによって運命づけられ支配されているのだと断言できる。」と信じておりますので、だからこそ、ますます、天国が狭き門になり、地獄の住人ばかりが増える現代の状況を放置していることはできません。
科学が万能と信じており、その結果として、科学で証明できないものは存在しないとまでいう人間が現れてきているのは、ある意味必然で、恐ろしい事態だと憂慮しています。

7月23日にオリンピックが開幕しました。本来なら、国を挙げて喜ぶべきところなのでしょうが、今までの経緯を思い出しますと、素直に喜べないのは私だけではないと思います。
そもそも、このコロナ禍の中、開催を強行することには反対論も当然ありました。
思い起こせば、2015年9月、エンブレムのパクリ疑惑によりデザインが白紙になり、当初のオリンピック担当大臣(桜田義孝氏)が、東日本大震災の被災地を軽視する発言を行ったために辞任 、今年2月、森喜朗会長の「女性がたくさん入る理事会は時間がかかる」発言で森会長が辞任、3月、開閉会式の演出統括者“クリエイターの天皇”と呼ばれる元電通の佐々木宏氏が、渡部直美さんにブタ発言で辞任、極めつけは今月19日、音楽担当の小山田圭吾氏がいじめ問題発覚で辞任。問題になった当該記事を読みましたが、これはいじめなどという範疇を通り越しており、虐待、あるいは犯罪行為ともいうべき悪質なものです。さらに開会式演出担当だった小林賢太郎氏(48)が22日に解任されました。「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」やろう、とふざけて言った動画が拡散したのだそうです。(ここまでになってしまうと、もはや、言うべき言葉がみつかりません)

よくもまあ続いたと思いますが、不祥事そのものにも、そのたびに驚かされましたが、くわえて、それに対処する組織委員会の意思決定のスピードや、説明責任の不味さが際立ちました。
その裏には、恐らく、オリンピックの理念である、自由、平等、多様性、というものを運営側の関係者たちが本当の意味で全く理解していない上に、人間の質そのものが著しく低下してきてしまっている点にあるのではないかと思わざるを得ません。
昭和20年8月終戦の後、空襲で焦土と化した東京を瞬く間に復興させ、20年足らずで東京オリンピックを成功に導いたのは、戦争に負けた人々でした。父は、陸軍航空士官学校卒業後、航空第二師団参謀部付大尉として終戦を迎えましたので、公職追放で仕事に就けませんでした。そのため医科大学で学びなおしましたが、父の学年は「敗残兵」と呼ばれていたそうです。運動生理学を専攻いたしましたので、先のオリンピックにはトレーニングドクターとして参加しておりました。
そのおかげで開会式をあの国立競技場で実際に目の当たりにでき、当時の感激を肌感覚で覚えている私としては、今回のような不祥事が噴出するたびに、民度の低下ぶりに背筋が凍る思いです。おそらく、泉下の父も嘆き悲しんでいることと思います。私は、常日頃から、日本人に生まれたことに心から感謝し、誇りに思っておりましたが、今、その自信がぐらつき始めています。

(これを書いているのは、24日午前2時半です。昨晩、午後8時から開会式が行われましたが、冒頭の1時間ほどテレビをつけておりましたが、あまりグダグダの雰囲気で観るに堪えず嫌な予感がしましたので、テレビを消してしまいました。今、開会式を最後まで観た皆さんのコメントを読んでいて、圧倒的に不評コメが多く、観るのをやめてよかったと思いました。初めから、ここまで残念な印象を持たれるということに、本当に悲しく思います。)
 
ここまで残念な事の続いたオリンピック、まだ何か起きるのではないかという嫌な予感が外れ、成功裡に終わることを切に祈っています。


2021年 「7月の標語」

天国は「天の理」を悟り
それに無垢な信頼を寄せている者の
国にほかならない

――― 『霊界からの手記』スウェーデンボルグ

先月は地獄についてスウェーデンボルグが述べていることを紹介しましたが、それでは天国についてどのように述べられているのでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 天国の霊となっている者は、すなわち「天国の本質とその心が同化している者」なのだから、天国に行ける霊はそういう心を持った霊だといえば、一言でいってこれがそのまま回答になる。
 天国は「天の理」を悟り、それに無垢な信頼を寄せている者の国にほかならない。そして、天国の霊はそれゆえに「ほかの霊に対し自分を愛する以上の愛情」を持っている。

私は霊界ではいろいろな天国を見てきたが、とくに印象に残っているのは人間のときに素朴な人間だった者の天国、無学だが心の素直な者の天国、それに古代の偉人たちのいる天国などであった。

 私はある時、未開民族の霊たちの集まっている天国の団体に行った。そして彼らと「信」と「善行」について議論もした。
彼らがいっていたことで、今でも一番強く記憶しているのは次のことである。彼らはさかんにこう強調したのだった。
「隣人に対する愛情はとても大事なことだ」
彼らと議論した「信」とは「天の理」の本質を理解するという事なのだが、「信」だけではまだ知性のレベルなのだ。それはつぎに意志の中に流れ行って「善行」という行動になって初めて本当の本物になる。彼らはこのことをちゃんと理解していて、それを「隣人に対する愛情」といういい方で表現したわけであった。彼らは人間だったときから単純明快にそういう生き方をしていた人間たちだったのだ。

もう一つの例は、無学だが素朴な者たちの集まった天国の団体で、彼らはその姿も美しく輝いていた。私がここでもっとも印象に残ったのは外面のものがきれいに拭い去られ、最高のレベルの霊に導かれて彼らが暮らしていることであった。彼らは人間だったときには、無学だったとはいえ、いまは有名な学者などより、よほど高い知恵にも満ちていた。
 霊的な世界の知恵とは、この世の外面的な記憶などからする知恵(学者の知識はほとんどこのレベルの知恵に過ぎない)とは根本的に性質もレベルも違うものなのだからこれも当然であろう。

今の二つの例から大切なことがわかる。その一つは行為(善行)の大切さということだ。
今紹介した未開民族の霊などは天国に入りやすい霊たちだった。これに対して入りにくいタイプの人間がいる。それは地獄の霊にみる典型的な悪徳者とは違う。
 私はこんな霊に会ったことがある。この霊は結局いずれかのレベルの天界の霊となれる者ではあった。しかし、それには時間のかかるタイプの者だった。そして、こういうタイプの人間は実はもっとも多い。
 彼は熱心に天国に入りたがっていて、私のところへやってきてどうすれば天国に入れるのかと熱心にたずねた。そこで私はまずこういった。
「善霊とは会ってよく話しをしたか?それが天国に入るためのまず最初のステップだ」
すると彼はこう答えた。
「善霊とは会った。でも彼らは私を自分たちの団体に入れてくれようとはしないのだ」
私は、彼を受け入れなかった霊たちに彼のことをたずねてみたが、それでわかったのは、彼が人間だったときには「天の理」に通ずるような信仰のことなどにまるで無頓着な人間だったことであった。そして、今になって天国に入りたいというだけのために、そのことに過剰なほど急に熱心になっているということであった。天国は人間のもっとも奥深い内面の心と通じている世界である。
 それに対し彼は、人間だったときには自分の内面に関することにはまるで無関心で、外面的なこの世的なことばかりに熱心だった。だから霊となっても彼はまだ天界に行くには“準備不足”の段階にいたのだった。それは彼が人間だったときに、いってみればそんな外面の殻をあまりにつけ過ぎてしまったためであった。だからこの殻が打ち壊されて取り除かれないと彼は天国には行けない。それゆえ彼は「善霊たちが自分を受け入れてくれない」と嘆くよりなくなっていた。
 これに対し人間だったときに、その内面の準備ができていた者は早く受け入れられる。素朴な人、無学でも素直な心を持った者たちが天国に受け入れられやすいのはこのためで、彼らの心は人間だったときから、どこか天国に通ずるものを豊富に持っていたのだ。
 今いったことは、天国と人間の本質をじっと見てしっかり理解することができれば、比較的簡単に理解できる。そして、それがわかれば人間は、本来は天国に行けるべき性質を持っているものなのだということもわかる。人間は天国の胚種だと私が常にいっているのもそのことなのだ。
 人間は本来、霊的内面と肉体という外面を持った存在である。また、肉体的な外面という言葉だけだと世間の人々はどうしても肉体という形に見えるものだけを考えてしまう。しかし、私がここでいう外面とはそれだけでなく、食欲とかいった欲望も、また普通の視覚、聴覚などのいわゆる五感も、ものごとを覚えているといった記憶も実は外面に入る。
 なぜなら、このような欲望や感覚や記憶は、肉体を持った人間が肉体的な生存を確保していくために奉仕する心理的、感覚的な作用だからである。これなしには肉体を持った人間は生きて行くことはできない。(略)
 
…人間は霊的なものを内面深く持っていて、それゆえにその上において霊の世界や天国と通じている。人間は人間であるときには、いまの外面的なものを強く持っているがゆえに人間そのままでは天国に入れない。しかし、死んでそれが除かれれば入れる。だが、人間だったときにその内面を深く耕していた人間と、そうでなくて死んでもまだ外面的なものを強く残している人間とでは死んだ後で大きな差が出て来る。前者は容易に天国に入れるのに対し、後者はそれを取り除くのに時間がかかるので天国になかなか入りにくかったり、入れなかったりする。
 未開民族や素朴な人間の霊が容易に最上の天国に入って行けたのは、彼らが人間だったときによくその内面を耕していたからであった。そして内面を耕すのに必要なのが実は善行という行為なのだ。これは、私がよくいういい方でいえば「善を知って行動する」ということにほかならない。単に「信」があるだけでは内面は十分には耕されない。その「信」は意志に流れ入って「善行」という行為になって、初めてよく効果を発揮するものなのだ。
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以上、スウェーデンボルグによる、天国に行く人間についてのお話を抜粋いたしましたが、主に18世紀に活躍した方だけに、文章自体が古めかしくて、この解説を読んでも容易には理解できないかもしれませんね(-_-;)

実は私は、そのバロメーターとなる言葉は「ボランティア」なのではないかと思っています。
申し上げるまでもなく、ボランティアとは、隣人に対する愛を無償の行為をもって表していくことに他なりません。
2018年、山口県で行方不明となった2歳の男の子を無事救助し“スーパーボランティア”として脚光を浴びた、大分県日出町在住の尾畠春夫さんは、皆様のご記憶にも新しいと思います。
彼のボランティアに向き合う姿勢は徹底しており、参加する場合は被災地に迷惑をかけないようにと、車に必要な食料や水を積み込んで駆けつけ、車中泊をしながら活動を続けるとのこと、とても普通の人々がマネできるものではありませんね。
尾畠さんは、貧しかった家の事情で子供の時に農家へ奉公に出されたそうですが、それでも、人の親切に触れて成長し、その経験がやがて“災害ボランティア”に生かされていきました。尾畠さんがボランティアに汗を流すのは、これまで自分を助け支えてくれた人たちや社会に対する恩返しをという思いがあるからなのだそうです。男の子の捜索に向かったのも「困った人の役に立ちたい」という思いからだったようです。

ここに見事な「天国の胚種」を見せて頂くことができますね。これを読んで頂いているアナタ、「ボランティア」という言葉を読んで、何を思い浮かべましたか?「えっ、とんでもない」でしたか?それとも「ぜひ参加したい!」でしたか?「無償」ってことが、嫌ですか?それとも、「赤の他人になんでそこまで…」と思いますか?
これ以上は申し上げる必要もないことでしょう。

ある方にボランティアのお話をさせて頂いた時のことですが、彼女は帰宅後、そのことをご主人に話されたそうです。そのご主人Zさんは、T大卒業後、立派な御職業に就かれ、現在は大変広くて美しい御屋敷に住んでいるのですが、(よそでボランティアをするなどとんでもない)「ボランティアならウチでやってもらえ」と言ったそうです。どれだけ高学歴、高収入でも、施すことを知らないその方を、現実に裕福でも、なんと心が貧しいのだろうと、悲しくなりました。大抵、自分の生活に余裕が出てくれば、その余裕を、他の恵まれない方々に振り向けようとすると思うのですが…•(-﹏-。) 

スウェーデンボルグの文章の最後に
「未開民族や素朴な人間の霊が容易に最上の天国に入って行けたのは、彼らが人間だったときによくその内面を耕していたからであった。そして内面を耕すのに必要なのが実は善行という行為なのだ。これは、私がよくいういい方でいえば「善を知って行動する」ということにほかならない。」とありました。

大変残念なことにZさんは本当の「善」とは何かも知らないし、まして「善を行う」などは心の端にもないようです。でも、ご自分は高学歴、高収入ですから、恐らく当然天国に生まれ変わると信じて疑わないかもしれません。
そのことを、念頭に置いて、今一度初めからこのコーナーを読み返して頂くと、腑に落ちるのではないかと思います。
ただ、Zさんのみならず、私の身内には医師が多いと申しましたが、高学歴、高収入、あるいは著名であるといったことが必ずしも、善行には結びつかない例ばかりを常日頃見せつけられてきていますので、このような方達が、自分がいくら望んでも、天国の門の前で、門前払いになり、「何故だ(`A´)」と、戸惑う姿が目に浮かびます。
さらに、つい先日再放送されたNHKの『新・映像の世紀』第2集「グレートファミリー 新たな支配者 超大国アメリカの出現」をみましたが、最後の方で、以下のような場面がありました。

「100歳まで生きる」と公言していた石油王ジョン・ロックフェラー(1839〜1937)は、98歳の誕生日を目前にして亡くなりました。
死の床に就いたロックフェラーを自動車王ヘンリー・フォードが見舞ったとき、こんな会話がなされたといいます。
ロックフェラー:「さらばだ、天国で会おう」
フォード:「あなたが天国に行けるならね」

この場面をみていた時、思わず笑ってしまいましたが、そういうフォードも反ユダヤ主義の『国際ユダヤ人』という本を著し、アドルフ・ヒトラーは自宅の居間にフォードの写真を掲げ、来訪者に『国際ユダヤ人』をプレゼントしたという話も残っていますから、
「あなたが天国に行けるならね」といったフォードは、本当なら「我々が天国にいけるならね」というべきだったのではないかと思いました。

恐らく世界中の富をかき集めたかに見える大富豪をもってしても、天国行きの切符は買えない、あるいは、どのような優秀な頭脳をもってしても、いや、優秀な頭脳だからこそ、天国に入れない理由が理解できないとするなら、「天の理」を良く知り、内面を善行によって耕すことの重要性はいくら強調しても、し過ぎという事は無いと改めて思ったことでした(;-_-;)

2021年 「6月の標語」

地獄は悪業に対する刑罰の場ではない

――― 『霊界からの手記』スウェーデンボルグ

先月は、スウェーデンボルグをご紹介しましたが、彼の霊界に関する記述で最もユニークな点は、地獄に関するものであるとされています。
私も、30代に初めて彼の本を読んだとき、今まで世間で言われてきた地獄の印象と随分違うと思いました。
従来の、既存の宗教的死生観において、地獄は複数の霊界(死後の世界)のうち、悪行を為した者の霊魂が死後に送られ、罰を受け、あるいは厳しい責め苦を受けるとされてきました。

仏教では、輪廻する六道の内の最下層で閻魔の審判に基づいて様々な責め苦を受けるとされています。
キリスト教では、死後の刑罰の場所または状態で、霊魂が神の怒りに服する場所とされ、イスラム教では世界の終末に際しての審判において、不信心者や悪事を成した者が灼熱の責め苦を受けるとされているようです。
日本の仏教に拠れば、地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあり、服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされます。

 いずれにしても、本人の意図とは関わりなく、罰として、死後に落とされる世界という点では、いずれの教えも違いはないようですが、スウェーデンボルグによりますと、かなり様子は違っていますので、以下、彼の著書の中で、地獄に関する記載を紹介していきたいと思います。

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 私がいままで世間の人に説いて来たことで、もっとも議論を呼んできたのはつぎのことだった。すなわち、地獄の霊とても人間だったときの悪業に対する刑罰として地獄に落とされ、そこで刑罰をうけているわけではない。地獄の霊は地獄が自分に合っているがゆえに自分で自由に地獄を選んでそこに行くということであった。
 従来の宗教的な霊界観は、地獄は人間だったときの悪業に対する刑罰の場だという見方で、地獄のことを理解してきた。これと私の立場を比べてみると両者は完全に違っている。そして、それだけにもっとも議論を呼んできたのであった。
 悪霊も自分の自由で地獄を選んでそこに行くと私が説くのは、これがまぎれもない事実だからである。ではなぜそうなっているのか?実はこの点は私にも初めの頃はよく理解できなかった。だが、今の私の観点からいうと「天の理」が、善霊にも悪霊にも、また人間にもそういう自由を許すように世界をつくっているからなのだ。
 善霊や人間に自由を許すのはともかく、悪霊にまでそれを許しているのは理解に苦しむという読者がいそうだが、これも実は「天の理」の深慮なのだ。悪霊とても「天の理」によって初めて生命を受けている。ただ彼は「天の理」の生命や善や美や真理を、自分で悪・醜・虚偽といったものにねじ曲げてしまって悪霊になっている。そして自由なきところに実は生命はない。だから悪霊とても「天の理」から生命を受けている以上はこの自由は許されているわけだ。
 天国と地獄の違いをもっとわかりやすいいい方でいえばつぎのようにもいえる。
▼天国は生命と調和の国なので、そこでは霊たちはひとり(霊?)の幸福は万人(霊?)の幸福、万人の幸福はひとりの幸福という形の幸福を享受している。つまりここは連帯の世界だ。
▼これに反し地獄はひとりひとり(一霊一霊?)の利己的欲望の世界なので、調和はありえず連帯とは逆の分裂の世界になっている。
 
いまのふたつを比べて、善なる心を持った素直な人なら誰でも前の世界が幸福だと思うに違いない。しかし、これに反し地獄の霊はそうとは考えない。彼は、たとえばほかの霊あるいは人間を支配して自己の利己的欲望(この場合は支配欲)を果たした場合のほうが幸福だと感ずるものなのだ。彼は本質的にそのような性質の存在だからである。それだからこそ彼は自ら選んで地獄に行くのだが、このように地獄を選択する自由は彼にも許されている。

善霊は蝶で悪霊は蜘蛛だと私はよく説明してきた。善霊は「天の理」の支配を素直に受け入れているがゆえにのびやかな世界を軽やかに飛び回っている蝶にたとえられる。しかし悪霊は自己の欲望を中心とした巣をはりめぐらしている蜘蛛にたとえられる。そして悪霊は「天の理」の美を醜に、真理を虚偽に、善を悪にといったようにすべてをねじ曲げている存在なのだ。

一方で彼らが自分に許された自由を行使して、さまざまな悪事をなすことは善霊のための“教材”に役立っている面もある。
 天国は有用の世界であって、生命と調和の観点からそれに役立つことを霊たちはそれぞれの任務として遂行しなければならない。このような有用な役割を天国で働かせない者は天国には受け入れられない。そして、そういう役割を果たすようになるためには、根本的には生命と調和の原理がどんなものであり、その観点からいって、なにが善で、なにが悪かを判断し、その判断によって行動できる者にならなければならない。
 そのためには彼には修行が必要なのだ。そして、そんな修行のために悪霊も実物の“教材”として役に立っている。悪霊の悪があって善霊も初めて善と悪がよく理解できるからである。
 天国に行けば有閑な生活が送れると期待している人が世間には多い。こんな人は徒手空拳で額に汗せずとも、神は人間を天国に招いてくれるのだろうといったような身勝手な思い込みをしている人である。こういう人には私はよくこういってきた。
「もし神なる者があって、彼が人間を堕落させたいと思っているなら、彼は人間にほしいものはなんでも与えたに違いない。」
「天の理」はつまり“神”といってもいい。だから、いまの“神なる者”はそのまま「天の理」といい直してもいいわけだ。そして「天の理」はやはり人間になにもせずに哺乳ビンからミルクを飲ませてもらうような怠惰な幸福は与えていない。つまり、前にもいった修行を霊たちにも課しているわけだ。そして悪霊はそのためのひとつの“教材”になっていることになる。

…人間は善悪ふたつの種類の霊に取り囲まれて生きている。そして、悪霊はつねに人間にマイナスの影響を与えようとしている。これに対し善霊は悪霊から人間を守ろうとしている。ここには悪霊にも自由が許されているが、善霊(あるいは「天の理」が)その暴威をおさえようとしているという霊の世界にある力関係とまったく同じものがある。 (中略)

…しかし、善悪二種類のどっちの霊の力が強まるかは実は人間次第なのだ。
霊には自分がとりつく人間の中に見出す自分と似たものによって興奮させられるという根本的な再質があるのだ。
人間が悪いことを考えたり、したりする時には悪霊はそこに自分と似たものを見出して興奮し、その影響力を強め、人間により大きな影響力を行使するようになる。一度悪に染まった人間が、一層悪の道へ転落し、その程度がますます増幅されていくという悪循環が起きる理由もこれで理解できよう。

それでは、具体的に、地獄の霊になるのはどんな人間だろうか?これには利己主義者、強欲者、権力亡者、犯罪者などなど色々な人間が入る。人間の汚れた欲望には限りがない。その欲望も種々に雑多だからそれに見合って地獄も大繁盛せざるを得ない。
 私がそれほど程度のひどくない地獄でよく見た光景は、他の霊を押しのけても天国に入ろうといつも焦っている霊たちの姿だった。彼らのことを天国の霊に私はたずねてみた。すると答えは
「あの連中は人間だったときに、いつも他人の上に立ちたがっていたのだ」という返事だった。彼らは霊の世界でも自分より恵まれた者たちを羨望したりするのがつねで、この羨望やそねみゆえに地獄にいるのだということであった。羨望やそねみも自己を中心とする感情なのはいうまでもない。彼らも「天の理」の与える調和の中で「天の理」を主として、それに従うのではなく自己を主とする蜘蛛の巣が好きな人間であった。

 地下の穴ぐらみたいなところに薄暗いろうそくをともして暮らしている霊は多い。これにはいろいろなタイプの者がいるが、たとえば、金をため込むのばかりに熱心だった強欲な人間、学問(私から言わせれば、表面的な記憶に過ぎない知識を追う学問)に熱心だった学者などをよく見たものである。
 強欲な人間は、そんな薄暗いところで一生懸命に金や財を守ろうとしているのであった。そして彼らの様子は落ち着きがない。彼らは霊界にも霊界のネズミがいて、それに自分の財産を食い荒らされては大変だという心配もしているみたいなのだ。

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何だか、地獄の描写を読んでいると、重く暗い気持ちになってきますが、これとは真逆の例をご紹介しますと、さらに理解が深まると思います。
現在、NHK大河ドラマでは『青天を衝け』を放送しており、大実業家渋沢栄一の生涯を描いています。超イケメンの吉沢亮さんが演じていることもあり、毎週楽しみに見ております(笑)
このドラマの中で、栄一のお母さんが栄一に「皆がいいのがいいんだよ」と度々言っていたのが、記憶にあり、お母さんを調べて見ましたら、栄一に大変な影響を与えた方だったようです。

母「ゑい」(演・和久井映見)は、大変慈愛に満ちた女性で、偉ぶったところはなく、情にあつく、病気や貧困で困っている人を見ると号泣してしまうこともあったとのこと。
渋沢家の近在に、ハンセン病患者がいて、村のコミュニティーからは除外され、困窮していたようなのですが、「ゑい」は、これを黙って見ていることができず、彼らに食事を分けたり、自宅に招いて入浴させたり、共同浴場で一緒に入浴もしたといいます。このことからも、「ゑい」が差別や偏見をものともせず、困っている人を助ける慈悲の人であったことがわかります。その人となりは、のちに貧困者や孤児を救う養育院の運営など、社会事業・慈善事業にも熱心に取り組むことになる、栄一の人格形成に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。
渋沢栄一と母「ゑい」がその生涯をかけて行っていたことは、常に人々の幸せの為に…ということでした。それとは逆に、地獄は、自分の利益の為なら人を踏みつけることも平気、自分さえよければいい、という霊のたまり場となっています。実際に、生き見本が周りにいれば、容易に理解できると思いますが、アナタの周りにこのように残念な存在はありませんか?例えば、このページに度々登場して頂いているYさんの息子さんをいじめていたクラスメートも、地獄のグループ所属です。
実は、大変悲しいことに、私のごく身近に「絵にかいたような」地獄的状態で生きている人が数人いて、大変憂慮しています。ただし、ご本人達は全く地獄的エネルギーで生きているという事など、お構いなしで、平気で周りに被害を及ぼしています。自分から進んでそのような状態を選んでいること、自分で何とか変ろうとしていない事だけは分かりますので、今の私には、彼らの死後が本物の地獄でない事を祈ることしかできません。
( −∧− )

2021年 「5月の標語」

東洋の天命という言葉は
私の立場から言っても
深い真理を表した言葉である
というのは
人間の寿命は 実は
天が決めているものだからだ 

――― 『霊界からの手記』Emanuel Swedenborg

1月の標語でプラグ氏の著書をご紹介し、「本物のスピリチュアリズムは仏教の基本の教義と非常に共通点が多いです。」と書きました。
今年は、このページでスピリチュアリズムについて、解説していこうと思っていましたので、少し回り道になってしまいましたが、今後はスピリチュアリズムについて、可能な限りお話させて頂きたいと思います。

ネット上で「スピリチュアル」と検索しますと、占いやオカルトといった、いわゆる「目に見えない世界」にまつわる話が多く出て参りますので、いかがわしいとか怪しいイメージを持つ方も少なからずいらっしゃるでしょう。確かに、中には真偽が不明な占い師や自称霊能者なども存在し、実際に騙される方も出て来ると、そこから、自分は騙されないぞというふうになることで、少し前に述べたように、死後の世界まで否定してしまう方が出てきますので、スピリチュアリズムについて「正しく」学ぶことは非常に重要なことであると思っています。

現代のスピリチュアリズムにつながる流れは、定説では米国における1848年のフォックス家事件から始まりますが、それよりさらに約150年(今から300年以上)も前に現れたスウェーデン人エマヌエル・スウェーデンボルグが、恐らく、歴史に残る霊能者の先駆けであったことは、議論の余地はないと思われます。
彼は幽体離脱体験を通じて霊界を探訪し、自由に霊界の住人と語り合い、多くの霊的事実を地上にもたらしました。彼の霊界探訪によってもたらされた霊的知識は、近代スピリチュアリズムの考え方と基本的に大差ありません。
彼は霊の存在について、自身の体験をもとにした著作を多数発表していますが、『霊界からの手記』、『霊界からの遺言』、『天界と地獄』、『霊界日記』、『スウェーデンボルグの夢日記』など興味深いタイトルが並びます。
スウェーデンボルグはヘレン・ケラーや鈴木大拙をはじめとする、数々の偉人たちの思想に影響を与えたこともわかっておりまして、彼の手書き文書が2005年にユネスコの「世界の記憶(世界的に重要な記録物への認識を高め、保存やアクセスの促進を目的とした事業)」に選定されたことからも、世界で認められた人物だとわかります。

実は、私も、鬱々とした日々を過ごしていた30代半ばころから、精神世界についての本を片端から読み漁りましたが、一番初めに読んだ霊界に関する本が、このスウェーデンボルグの『霊界からの手記』でした。
当時は、本を読んで、感銘を受けた言葉があるとノートに書き写しており、冒頭の文章もその中の一節です。
スウェーデンボルグだけでも、ルーズリーフ20枚(40ページ)近くも書き留めてあり、正直申し上げて、最近読み返してみまして、かなり難解な部分もありましたが、当時はかなり衝撃を受けたことを思い出しました。 

[その生涯]
エマヌエル・スウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg, )生誕1688年1月29日  死没1772年3月29日(84歳没)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家です。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されています。貴族に叙された後はスヴェーデンボリとも称されます。
ここで彼の生きた時代にわが国では何が起きていたか見てみましょう。
(1687年:ニュートンが万有引力の法則を発見。)
1688(元禄1)年:柳沢吉保が側用人になる。(1680〜1709 5代将軍徳川綱吉)
1688(元禄1)年:長崎に唐人屋敷を作る。
1772(安永1)年:田沼意次が老中になる。 (1760〜1786 10代将軍徳川家治)
1772(安永1)年:江戸で大火がおこる(目黒行人坂火事)。
1774(安永3)年:杉田玄白、前野良沢らの「解体新書」が刊行される
1775(安永4)年:長久保赤水「日本輿地路程全図」 スウェーデンの植物学者カール・ツンベルグが来日
1776(安永5)年:平賀源内がエレキテルを復元

父イェスペル・スヴェードバリ(Jesper Swedberg)は、ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した人物でした。その次男としてストックホルムで生まれます。11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官に任命され、31歳のとき貴族に叙されます。彼は9ヶ国語を自由に操ったともいわれており、イギリス、オランダなどへ頻繁にでかけています。
18世紀最大の科学者として、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学など、20もの学問分野で多大な業績を残し、その業績は現代の水準に達するほど高度なものであったといいます。
動力さえあれば実際に飛行可能と見られている飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボルグが26歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されています。
このように、彼は一流の自然科学者でしたが、科学の経験的認識の限界を自覚し、次第に様々なビジョンを見るようになり、視霊者として聖書の霊的研究を行いました。
1745年、(57歳)イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、霊魂の独立存在、死後存続を信じ、自ら天使や霊と語り、霊界を見聞し、天界、地界、霊界などについて詳しく記述し、その著作は啓蒙時代のヨーロッパに大きな影響を与えました。日本女子大学の新見肇子氏は、彼の著作が文学的想像力の産物ではないこと、近代科学において相当の業績を残した人物によるものであることは重要であると指摘しています。
彼による霊界の描写は、現代人に起こる臨死体験と共通点が多いとされ、広大なトンネルを抜ける体験や光体験、人生回顧や時空を超えた領域を訪れる体験などです。

神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)しました。

ただし、『霊界日記』等において、聖書中の使徒パウロや、ダビデを地獄に堕ちているとしたり、宗教改革を先導したルターや、プロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンも地獄に堕ちたなどと主張したために、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展しましたが、王室の庇護により、回避されました。

スヴェーデンボルグが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、「ストックホルム大火事件」、もう一つは「スウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件」です。

「ストックホルム大火事件」については、http://caneton144.sub.jp/kant1.htmを参照しました。
『天界の秘義』の出版完了後わずか二年して、スウェーデンボルグは第七次外国旅行に発ちロンドンヘ行った。そこで一年間に五冊の著作(「ロンドン五部作」と言われる)を出版して、1759年に帰国した。「スウェーデンボルグの千里眼」として後世の語り種となった事件は、この帰国の途次に起こったのである。
 7月19日、土曜の夕方のことであった。スウェーデンボルグはイギリスから帆船に乗って、スウェーデン西海岸の都市イェーテボリに到着した。そして同市の商人だった友人、ウィリアム・カーステルの夕食会に招かれた。現在もサールグレン家として残っているカーステルの家には、ほかにも15人の客が招かれていた。
 食事中、スウェーデンボルグは極度に興奮し、顔面が蒼白となった。不安と焦燥に満ちた様子で、彼は幾度となく食卓を離れた。そして、騒然となった一同に向かって、「今、ストックホルムで大火災が猛威を振るっている」と、告げたのである。そして落ち着きを失ったまま再び外へ出て行き、戻って来ると、ひとりの友人に向かって言った。「あなたの家は灰になった。私の家も危険だ」
 その晩8時頃、もう一度外へ出て戻って来た彼は、大声で叫んだ。「ありがたい!火は私の家から三軒目で消えた」
 同夜、来客のひとりが州知事にこの話をしたため、知事の依頼に応じて翌日、スウェーデンボルグは火事の詳細を話した。火事のあった二日後、通商局の使者がストックホルムからイェーテボリに到着した。両都市は約480キロメートルも離れていたが、この使者の火災報告とスウェーデンボルグの語った内容とは、薄気味悪いほど一致していたのである。

もう一つ、「スウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件」は、https://ameblo.jp/agehacyouooo/entry-12358201070.html を参照しました。
王妃に求められて、大勢の前で交霊術を見せることになりました。
彼女と10年前に亡くなった将軍の間だけしか知らない遺書の内容を死者の霊と会って聞きだして公表しなさいと言われたそうです。 死者の名前だけが彼には伝えられたそうです。
スウェーデンボルグは見事に死者から遺言の内容を聞きだし、王妃をひどく驚かせたそうです。
彼の答えが細部にまで渡って正確だったからだそうです。

スウェーデンボルグは1772年ロンドン滞在中に、自ら予言した3月29日に亡くなりましたが、上記ブログにそのことも述べられていいます。

驚いたのは自分がいつ死ぬかを知っていて、死を予告した手紙を人に送りその予告通りに亡くなっています。
その手紙の最後にはこう書かれていました。
「私が、ウェスレーへの手紙で示した死の日の預言も、やがて私の死後においてその正しさが証明されるだろう。」

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以下、私が、ノートに抜き書きしたスウェーデンボルグの言葉を、ごく一部ですがご紹介したいと思います。

「世界は、本当は目に見えないものこそが根本であり、それによって運命づけられ支配されているのだと断言できる。」

「東洋の天命という言葉は、私の立場から言っても深い真理を表した言葉である。というのは、人間の寿命は 実は天が決めているものだからだ。人間には幼くして死ぬ者も百歳近い長寿を保つ者もあるが、これはすべて天の定めるところなのだ。
…人間が、死がこわくなくなれば、極端な話、風邪をひいて熱や咳が出て苦しいといったような、なんでもない苦しみに、面しただけでも「天の理」の定めた寿命を自ら打ち切って自分から死んでしまいかねないだろう。人間の不死性や霊魂の永遠性が本当に信じられる彼には、死は熱や咳の苦痛よりも恐ろしくないものになってしまうからだ。これはまるで笑い話みたいだが、間違いなくそうなると考えていいはずである。
死後の世界と直接の接触が許されれば、人間は不死をなんの疑いも恐れもなく信じることができ、いまのような笑えない笑い話も起こすだろう。
これでは人間それぞれのこの世における役割からして、寿命を定めている「天の理」そのものがなんの役にも立たないことになる。測りがたい知恵を持った「天の理」はそんな自己矛盾をおかすはずはない。
こう考えると一見逆説的だが、「天の理」は寿命を定めるとともに、人間には死後の世界との直接的な接触を許さないという二段構えの配慮をしているのがわかる。」

「…われわれはどうしても自分を主人公としてものごとを理解しようとする。それゆえ自分にわからない霊界や「天の理」はその存在さえ否定したくなる。しかしもともと自分は自分以上の「天の理」によって、そういうことがわかりにくくされているのだと気づけば、自ずと考えも変わってこよう。

…「天の理」とはなにかというと、これは生命、理性、愛情、悟りなどのすべての善を生み出す根本の原理であり、調和の原理でもある。
…「霊の生活の目的は霊的人格(霊格というべきだが)の完成にある。そして、それがより高度に完成されて彼は初めて最上の天国に入れる」

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私自身、仕事柄、人々の死を通して、あちらの世界に詳しくなるにつれ(笑)、早くあちらに行きたいという願望が強くなりすぎて、霊的人格の向上を目指すことについては、早々と諦めてしまっているところもあり、まさに、図星なのです。
死後の世界を信じない人々の方が多い、と鬱々としていましたが、それが「天の理」というものだと言われれば、それはそうだ、と納得せざるを得ませんね。もっと早くに昔のノートを読み返すべきだったと反省しています。(-_-;)

 彼の本に出会えたのは、ほぼ10年後に僧侶として、出家させて頂ける身などとは、想像もつかない時期でしたが、それでも、初めから正しい教えにご縁を頂けたことは、これも天の配剤だったのかと、改めて感慨深く、感謝の念しかありません。
(ここに、引用いたしました著書を私が当時ノートに書き写したものは、昭和に発行された版ですから、絶版になっておりますので、ご了承頂きたいと思います。)

2021年 「4月の標語」

情けは人の為ならず 
めぐりめぐって己がため

――― 古典落語『佃島』

 3月の初旬、お寺のヨガにいらしていたYさんから、大変嬉しいメールを頂戴しました。
「こんにちは。今日 息子の卒業式が無事終わりました。とはいえ、元々人数も少なく、コロナ禍と言うこともあって、本当に簡単なものでしたが。
 自分の子供が高校を辞める事になろうとは、夢にも思っておらず、住職に頂いた 恐れや不安は運命を悪化させるから大丈夫と言い続けなさい と言うメッセージにどれだけ救われたことか。
 あの時のクラスメイトや新米担任が100%許せたかと言ったら、それは嘘になりますが、きっとお咎めなしのあの子達も然るべき時に叱ってもらえていない事に関しては、ある意味この社会の犠牲者なのかもしれないのかなとは思います。
 本人が今どう思っているかはまだ聞けませんが、転校先の先生やバイト先の方々には良くして貰っていたようで、本当に有難いです。
 まだまだ通過点に過ぎませんが、春から大学で、高校でできなかった事も含めて色々な経験をして一回り大きなってくれたら、嬉しいなと思います。改めてありがとうございました」

Yさんは、ちょうど3年前、息子さんがせっかく受かった高校を同級生からいじめを受け、やめざるを得なくなり、ヨガの時間に度々お悩みを聞かせて頂いており、本当に私も心配しておりました。
それで
「息子さんのご卒業の御知らせを頂き、心からお慶び申し上げます。私が御願いしたことが少しでもお役に立てたのでしたら、なお嬉しゅうございます。
>きっとお咎めなしのあの子達も然るべき時に叱ってもらえていない事に関しては、ある意味この社会の犠牲者なのかもしれないのかなとは思います。
これは、全く、貴女のおっしゃる通りだと思いますよ。貴女や、息子さんの方が、何倍も御修行なさって、人間的にも大きくなられたのは間違いない事ですもの。
春から、大学に通われるとのこと、新しい環境が、今度こそ、息子さんにとって、喜びに満ちた場所でありますように心からお祈りしております。合掌
私は、最近の運動不足の罰が当たり、転んだり、不注意からケガをしたり、アザだらけです。(-_-;)整形外科へ行っても「年だから仕方ない」と言われております。
まさに、私こそ「大丈夫、大丈夫」とおまじないのように自分に言って聞かせることが必要のようです。」と、返信しました。

そして、この次の週には最近、いつもグズグズ言っている私の聞き役になって下さっているナオコさんからメールを頂きました。
「ここで・・・2013年11月の標語の一文をそのままお返ししたいと思います。
愛語というのは、あらゆる生きとし生けるものに対して慈しみの心を起こし、愛のこもった言葉を口にするように心がけることです。
徳がある人に対しては誉めて、徳のない人には憐れんで戒めの言葉をかけるべきです。今これを読んで頂いたアナタ!もし今鬱々とした気分でいましたら、ぜひ、鏡のなかのご自分に向って、肯定的な言葉を掛けてあげて下さい。周りが何と言おうと、ご自分が、ご自分の一番のサポーターになってあげて下さい。自分を肯定し、好きになってあげて下さい。自分の心を積極的に明るく保とうとする努力が、アナタの人生を、結果的に明るく幸せにしていくのです。将来に不安、心配、恐れを持つという姿勢は『百害あって一利なし』です。」

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以上の件で、まず初めに思ったことは、人様を心配し、言葉を発することができる立場というのは、よほど、気力も体力も充実していなくてはできないなという事、まだ当時の自分は、このような言葉が書けたり、言えるというのは恵まれた立場だったのだと思い知りました。
2013年といえば、8年前ですから、ちょうど、還暦の頃で、老化現象など、まだまだ感じていなかった時ですから、歳を取るという事がどれだけ気持ちにダメージを与えるか、想像もついてなかった頃でした。歳を重ねるという事は、心身ともに衰えたらもう逆戻りはできず、どこか体を損なえば、回復不能な事態に陥ることなのだと実感しています。ただ、そのように、全てが徐々に衰えていくのは、死ぬ準備をしているわけで、必ずしも悪いことばかりではないようにも感じてはいますが・・・。今の楽しみは、向こうへ逝った、父や、先代住職との再会ですので(笑)
自分で書いた文章とはいえ、久しぶりに読んで、何とかしてあげたいという熱い想いは伝わってきましたので、ウルっと来てしまいました。(-_-;)
さらに、その当時の真摯な、周りの皆様に可能な限り寄り添いたいという想いが、今になって逆に返して頂いていることを痛感し、なんと有難い事なのだろうと思いました。
そこで、ふと頭に浮かんだのが「情けは人の為ならず めぐりめぐって己がため」という言葉でした。
その意味は「情けを他の人のためにかけていると、かけた情けがめぐりめぐって自分に返ってくる。だから、人には無償の情けをかけましょうということ」ですが、
古今亭志ん朝さんの古典落語で「佃島」という落語があります。
「ある人が無償の心、心からの親切心で娘さんを助けたところ、その助けた娘さんから今度は自分自身が偶然に助けられた。」というお話です。

この「情けは人の為ならず」の同じような意味の言葉は、「因果応報」とか「御縁がある」、「善因善果」等があります。ここで、先月のテーマ「縁起の法」とつながってきましたね。ただ、先月は、どちらかというと、「人のせいにする」といったあまり好ましくない縁について述べましたが、同じ縁でも、今月のように、もちろん良い縁も頂けます。

そして、良い縁とは、自分に起きたことの中に、良い縁を見つけ出せるか?気づけるか? せっかく頂いた縁を生かすことができるのか、にもかかっているような気がします。

このように申しますのは、実は、東京で御寺とは全く何の関係も無かった一般人として暮らしていた私が、ここ愛知県で僧侶としての生活を営むことができるようになった経緯に、奇跡としか言いようのないご縁があったからです。
30代半ばから、「このままでは死んでいるのも同然」と表現するしか言いようのない苦しさの中で、七転八倒していた時期に、藁をもつかむ思いで坐禅やヨガを始め、あらゆる本を読み漁っていました。TVもNHK教育テレビでやっている「こころの時代」を欠かさず見ておりました。
平成4年10月4日この番組で沢木老師のお弟子の村上光照師を拝見した時、あまりの爽やかさに衝撃を受け、何度も見返しておりました。村上師はお寺に住まわず伊豆半島下田の山中の庵で坐禅三昧の生活を送っていらっしゃる方です。
翌年、4月14日所用で都内のデパートに出かけた時の事、エレベーターに乗り、壁を背にして立ちました。ふと前を見ますと、目の前に作務衣姿の僧侶の方が立っていました。横顔をそれとなく拝していた時、それが何度も繰り返し録画をみていたあの村上師だという事に気が付きました(!!!)。別の階に降りる予定だったのですが、なぜかふらふらと、老師が降りられた後に続いて降りてしまい、後に続きました。お線香売場で、御線香を選ばれている間、私が買い物をするでもなくモジモジして居たので、店員さんに不審に思われ「何かお探しでしょうか」と聞かれる始末(-_-;)。「実は、あのお坊様に御伺いしたいのです」と言いましたら、店員さんが取り次いでくれました。それでテレビで拝見した旨を御話ししますと、ご住所を教えて下さいました。この時はたまたま先輩のお墓詣りの為に出かけてこられ、帰路御線香を買いに寄られたとのことでした。
帰宅後、早速、お布施と共にお手紙を書いてお送りしました。この時に、私はなぜか、この縁を生かすことができなければ、一生どころか二生も三生も浮かばれない、と直感しました。
それから何度か下田の接心に参加しておりましたが、平成6年11月13日の坐禅会に伺った時、「実はどうしても出家したいと思っています」とお話しました。その時、村上師は「自分は山の中に居て、出家させてあげられる資格がないのでこの方に御願いしなさい」といって紙に「尾張一宮市住吉町常宿寺岡本光文」と書いて下さいました。(いまでもこの紙は大切にとってあります)早速、電話番号を調べお電話しますと「26日に、お袈裟の会で中野の功運寺に行きますからそこにいらっしゃい」と言って下さり、そこで初めて、光文師にお目に掛かることが出来たのでした。
 テレビで見て憧れていた存在に、普段は伊豆の山の中にいる方に、広い東京のデパートのエレベーターの中で、偶然お会いするというのは、恐らく、天文学的な確率であると思います。このようなストーリーは、ドラマで書いてもあまりに現実味に乏しく、脚本には採用されないと思います、それが実際に起き、それ以後も、予想を超えた出来事にいくつも遭遇して、今日に至っておりますので、これが天から頂いたご縁でなくて何でありましょう。
 今まで、頂き続けてきたご縁の大きさに思いを巡らせてみます時、よほど強力な守護霊様がお守り下さっていると確信し、そのことに改めて感謝申し上げ、ぐずぐず言っていては、本当に申し訳なく、罰が当たると、反省する日々です。
ここのところ、意図が通じない人々に対して失望することが多くありましたが、そこから学んだことは、文章等のやり取りでは、お互いの考えを変えることは不可能ということでした。やはり、身を切られるほどの苦しみに直面したり、深い気付き、深い因縁が自分自身にないと人間は変われるものではないというのが正直なところです。
そう思っていたら、ナオコさんから、「あの世のことを理解しようと努力もしない方々にいちいち落胆していたら身が持ちません。人生貴重な残り時間をそんな事で使いたくはないですよね。
災害現場でお医者様がなさるようにそういう方には黒色のトリアージを心の中でそっと渡してあげればいいと思います。」と、私の気持ちをなんとかポジティブにして下さろうとする、思いやりに溢れたご提案を頂きました。ナオコさん、いつも有難う!!!

ただ、一方で、死んだ人間が生き返る!という事も、本当に稀にではありますが実際に起こったことがあります。また、これも私の身にまさに起きたことですが、東京での生活は、死んでいるのも同然でしたから、「死んでも構わない」と思い詰めてこちらに参りました。当時の常宿寺は、天井から白アリが降り、雨の時は、ひどい雨漏りがしましたので、重たい本堂の畳を持ち上げねばなりませんでした。それがわずか7年で冷暖房完備の立派な本堂に改築して頂き、住職にまで就かせて頂くことになりました。まさに黒色から、赤になり、黄色、緑色になるという、奇跡が目の当たり起きたのです。
ですから、皆様にも同じように、いえそれ以上に奇跡的な良いご縁が訪れる可能性があると信じておりますので、真実の世界への目覚めが訪れますよう、心からお祈りしています。

2021年 「3月の標語」

人は種をまけば
必ずその刈り取りもすることになるのだ
すなわち自分の肉にまく者は
肉から滅びを刈り取り
霊にまく者は
霊から永遠のいのちを刈り取るであろう

―――  新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙  6章 7節

昨年6月に、お寺のヨガ教室に通って来ていたJさんのご葬儀をお勤めしました。ご主人も一緒にヨガに来ていたのですが、年末に、その残されたJさんのご主人が「なんで彼女がこんなに早く逝かなければならなかったのだろう…。Jさんが病気になったのは、肉親になじられたり、つらく当たり続けられ、それを苦にしていたからと、Jさん本人も思っていた。」というようなことを人づてに聞き、何とも言えない虚しさに襲われました。さらに続けて「因果関係は何とも言えませんが、僕はそう思っています」と付記してあり、夫婦そろってある期間お寺に通って来ていたとはとても思えない言葉を聞かされ、ガックリ。

仏教の代表的な教えは「縁起」だという事は、この標語のページでも何度か取り上げてきました。
即ち縁起とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指します。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものです。[Wikipedia]

1月の標語の後半に「本物のスピリチュアリズムは仏教の基本の教義と非常に共通点が多いです。その代表的なものは、因果律を説く点で、所謂「縁起の法」です。」と書きました。つまり、縁起とは因果律の事と言っても良いと思います。
Jさんのご主人が、病気になったのは無慈悲な肉親のせい、と考えるのは一見因果律のように見えるかもしれませんが、本来の因果の法とは、不幸を一方的に他人のせいにしてオシマイと片付くような、そのように単純な一面的なものではありません。

1月の標語でジェームズ・ヴァン・プラグ氏著『人生を、もっと幸せに生きるために』をご紹介しましたが、まさにJさんご夫婦にピッタリの文章を書いて下さっていますので、引用したいと思います。
「第4章 責任のなすりつけ合い」(97ページより)
私はこれまで、自分の境遇を他者のせいにしなければならない人、そしてそうしたがっている人を数多く見てきた。自分の失望感や実現できなかった夢を、他者の責任にするほうがずっと楽だからだ。人は自分が間違った選択をしたことを認めたがらない。このような考え方で人生を歩み続けると、被害者意識という落とし穴に落ちてしまう。被害者意識とは、私が「哀れみパーティー」と呼んでいるもので、多くの人が違和感を持っていないようだ。私たちは基本的に、罰を受けたくない子どものように、悪いことが起こった場合に責任を取りたくないのだ。そのため、自分は境遇の被害者になってしまい、苦境に陥った原因を自分以外のものに求める。」(中略)
(同111ページ)「ソフィーは、正に被害者としての人生を生きたのだった。自分が不幸であることを「他の人」、つまり特定グループの人びとのせいにするのが彼女にとっては楽だったのだ。生前は、気に入らない状況を変えるより、誰かのせいにするほうが簡単だった。このような考え方に陥った彼女は、楽な道を選んだということだ。そして他者に責任をなすりつけるという悪しき習慣が染み付いてしまったのだ。
 私たちは、勇気を出して自分の考え方に責任を負うようにならなければ、この責任のなすりつけ合いから抜け出すことは不可能だ。人生はいつも楽しいというわけではない。それどころか、かなり苦しい人生になることもある。ときには、ひどい選択肢か、それよりもっとひどい選択肢のいずれか一方の選択を迫られる時もあるが、このような選択をしていく中で人は学びながら成長する。どんな結果であっても、自分が生み出したのである。つまり、自分の運命を創り上げるのはあなたしかいないのだ。あなたが人生におけるすべての自分の選択および行動に積極的にかかわっていけば、自信を持てるようになり、怖れることもなくなる。
 私たちはみな、楽な道を選びたがるが、楽をすると自分を成長させ、学び、理解を深めることができなくなる。自分の人生に責任を持つことで、私たちはこの世で心地よく暮らしていくことができる。それはつまり、自分自身、お互い、そして社会全体のとらえ方を、慎重に検討することにほかならない。自分の人生に責任を持つ人には、同じように自分の人生に責任を持つ人びとが集まってくる。
 結局のところ、自分が置かれている状況を決めるのはあなたの考え方なのだ。誰もあなたに考え方を強要することはできない。あなたは自発的に自分なりの考えを持たなければならない。他者の考え方を受け入れるかどうかは、あなたが決めることだ。自分の言動には責任を持たなければならない。あなたの言動は他人の人生にどのような影響を与えるのだろうか?怒りっぽくてなんでも他人のせいにする人は、自分の言動は、自分の感情のあらわれなのだとわかるだろう。不安を感じている人は、自分の心の中だけではなく、他人の心の中にも大きな混乱を引き起こす。」

そして、プラグ氏はカルマ(=業)についても述べています。古来、インド哲学等においても、生きとし生けるものは、死して後、生前の行為つまりカルマ(karman)の結果、次の世に多様な生存となって生まれ変わるとされてきました。そこにおいては、今まで何度も申し上げて参りましたが、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦しみと見、二度と再生を繰り返すことのない解脱(げだつ)を最高の理想としており、仏教もそれを踏襲しております。

「第6章 カルマ」(146ページより)
 過去30年間でカルマの概念は米国の主流文化に浸透した。しかし大半の人は、カルマはある種の罰だと考えているので、正しく理解されているとは言えない。カルマは罰ではなく、ヒンズー教の古い教えが元になった、因果応報と言う概念である。カルマの概念は、ヒンズー教、ジャイナ教、シーク教、仏教、精神主義、その他の多数のニューエイジ哲学など、さまざまな宗教的イデオロギーに含まれている。この概念は、「人は種をまけば必ずその刈り取りもすることになるのだ」(ガラテヤの信徒への手紙 6章 7節)のように聖書にも記載されている。カルマについての説明はそれぞれの宗教の教えによってやや異なるが、根底にある考え方は基本的に同じである。それは行為の原因と結果だと定義されており、つまり自ら選択した行為によって、魂が現世または来世において体験する経験が決まってくるという原理である。
 カルマは常に輪廻という古くからあるもう一つの概念と密接に結びついている。(中略)
 これまで何世紀にもわたって、カルマの宗教的要素が道徳律だと誤解されてきている。実のところ、カルマは道徳とは何のかかわりもなく、因果関係という自然な宇宙の法則にすぎない。簡単に言えば、与えたものが自分に返って来るという事である。何らかの行為をすれば、結果が後に続くということだ。出来事は状況や人によって引き起こされる。(中略)
 カルマについての私の考えには、さまざまな規律が取り入れられているほか、カルマについて霊界から学んだ情報も混ざり合っている。霊界では、カルマは良いか悪いかで判断されることはまったくないようだ。カルマは学びを得て経験を積むための単なる手段であるため、偏りがないのだ。私たちのすべての選択は、愛または恐怖心のいずれかに基づいている。愛とは純粋な高次元のエネルギーで、恐怖は低次元の分断されたエネルギーである。これらはポジティブなエネルギーまたはネガティブなエネルギーとしてよく表現される。
 魂がこの世で人生を過ごす時、多様な教訓をたくさん学ぶ必要がある。体験をあらゆる角度から総合的に理解しなければならない。(中絡)
 カルマの存在を証明することは不可能だが、私たちが選択した行為の結果として物事は起きている。常にカルマを作り出すことで、私たちは将来の結果を変える力を持っているのだ。これまで繰り返し述べてきたが、私たちは自分の行為とその結果に責任を負っているのである。
(153ページ)私たちがこの世に生まれた理由は、魂が理解を深めて高次元の魂に成長することなのだから、教訓は絶対に必要なものなのだ。」

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さて、随分長文の引用になりましたが、それでは、Jさん夫婦はどうすべきだったのでしょうか?また、残されたご主人は未だに、Jさんの死を無慈悲な肉親のせいにして、嘆き続けているようですが、それがスピリチュアル的にどのような意味を持つかは、お分かりいただけると思います。
恐らく、無慈悲な肉親にひどい目にあわされるという被害者の立場に居続け、いまだに恐怖に支配され続けているのでしょう。動機はどうあれ、霊的には低次元のエネルギーに支配されているという状態に変わりありません。そして、そこにおいては、魂の成長は全く望めません。
 私たちは、何度でも、生まれ変わり死に変わりしながら、その都度、解決すべき課題に取り組んでいます。Jさんにとっては、理解の無い無慈悲な両親や姉のいるところに生まれて来たのは、そのような課題を克服するために、敢えて自分でそのような環境を選んで生れてきたのです。それなのに、ただ嘆くだけ、あるいは周りのせいにだけして今生を締めくくってしまいますと、また次の生で同じ課題に取り組む羽目になるような気がします。
「人のせいにする」という種を蒔けば、その結果しか、刈り取ることはできません。

実は私自身も、肉親、特に母親との関係は最悪でした。周りは医学関係者ばかりでしたから、結果的にこのような道に進んだ私だけが家族親戚一同の中でどれだけ異端だったか、お分かり頂けると思います。俗にいう「海より深い母の愛」みたいな情を私は感じずに育ちました。ただし、私も元々読書が大好きで、宗教や精神世界のみならず、社会の事情などにも、何にでも首を突っ込んで理屈を考えるのが大好きでしたから、母親にとっては可愛い娘ではなかったことも事実です。 (-_-;)
生来何のご縁もなかったお寺にたどり着き、さらにここまでくるのには、それこそ死に物狂いでしたが、今までの道を振り返ってみますと、魂の学びのために自分で選んで生れて来た環境なのだという事が今になって納得できます。
数年前に90歳を超した母を見舞った時、母の口から、私に対する肯定的な言葉を聞いた時は、60代半ばまでの人生の中で記憶にない初めての経験だったので、本当にビックリしました。
宗教には全く無理解な母親の立場からすれば、勝手に坊主になどなって、なんて親不孝な娘、と思っていたでしょうから、やはり、長い長い時を経なければ、分からないものだというのが実感です。
恥かき話をあえてお話したのは、程度の差こそあれ、人それぞれに様々な環境にあり、肉親との葛藤など普通にある訳ですから、周囲のせいにして、責任を回避することがどれだけ安易な態度かと、わかって頂きたいと願っての事です。

最後に、付記したいことがあるのですが、やはり、1月の標語の中で、プラグ氏の著書『天国との会話』の言葉「あなたの霊的な認識を活かしてほかの人々を励まし、慰めましょう。人々を高揚させ、啓発し、愛することで、みずからの幻想や批判や誤解に縛られている人々を助けるのです。内なる美しい光に気づく鍵を彼らに与えましょう。」と引用しました。
「人々を励まし、慰めましょう」とありますと、無条件にただ優しく接してもらえることを期待する方がいるのですが、あくまでもプラグ氏のこの言葉は「お互いに魂の成長を目指す」立場にいる、ということが大前提になっています。私の人生に残された時間にも限りがありますので、自助努力もなく、ただ甘やかしてもらいたい、優しくしてもらいたいというのだけの方のお相手はご容赦させて頂きたいと切に願っております。

2021年 「2月の標語」

マインドコントロールとは
操作者からの影響や強制を気づかれないうちに
他者の精神過程や行動 精神状態を操作して
操作者の都合に合わせた
特定の意思決定 行動へと誘導すること

――― フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ここはお寺のHPですから、今まで政治について取り上げることは自重しておりました。しかしながら、最近のメディアの現状を見るにつけ、ただならぬ、心の底からの危機感を覚え、今回はこのテーマで論じる必要を痛感しました。標語に取り上げたマインドコントロールと言いますと、今これを読んで頂いているアナタは何を思い浮かべるでしょうか。
おそらく、現在の日本でマインドコントロールというと、カルト宗教などと連想され「悪」とみなされます。オウム真理教が地下鉄サリン事件を決行したのが1995年(平成7年)3月20日のことですから、もう26年も経ってしまったのですね。当時、オウムの信者となったのがいわゆる学歴的には高い人達が多くみられ、彼らがマインドコントロールされてオウムに走ったというイメージが強く定着しました。
それではマインドコントロールは過去のものになってしまったのでしょうか。いやいや、むしろ最近の方が、それが加速しているように思っております。 なぜかといいますと、実はこのマインドコントロールというテクニックを最もよく使っているのが、MSMと言われる主流メディアに代表されるマスコミだからです。
暴力や恐怖などを使って強制するわけではなく、心理学を応用して人の心を誘導するテクニックを民間活用しているのが、広告や新聞、テレビだったりするのです。 
メディアの「スピンコントロール」(情報操作)を今から80年ほど前にはじめて確立したのは「広告の父」と呼ばれるエドワード・バーネイズです。彼は、フロイトの甥であり、フロイトの精神分析学とギュスターヴ・ル・ボンとウィルフレッド・トロッターの群集心理学に注目し、大衆扇動と広報活動の基礎を築きました。
フロイト派の心理学理論をアメリカに持ち込んで普及させた功労者であり、第二次大戦後の米国内で起きた精神分析ブームの火付け役でもあります。
 彼は医者に「ベーコンは健康にいい」「タバコにはダイエット効果がある」などと言わせて、ベーコンやタバコを宣伝したり、妻の親戚筋である「ニューヨーク・タイムズ」に共産主義の悪口を書かせて、政府の反共キャンペーンを手伝ったりしました。
叔父フロイトの本の英訳をしていたバーネイズは、この理論をマスコミに応用したら、大衆を意のままに操れるのでないかと考え、「プロパガンダ」(世論操作)という本を世に出してその名を轟かせました。
このような経緯からも分かるように、スピンコントロールとは「メディアを介したマインドコントロール」といえます。
さて、前置きが長くなりましたが、私が最も危惧しているのは最近のメディアの動向についてです。
昨年11月3日に第59回アメリカ合衆国大統領選挙が行われました。民主党の大統領候補はジョー・バイデン、副大統領候補はカマラ・ハリスであり、対する共和党の大統領候補は現職ドナルド・トランプ、副大統領候補は現職マイク・ペンスでした。
公にされている得票数は、バイデン: 81,268,867 トランプ: 74,216,747 得票差:7,052,120です。
当然のことながら、私はこの両者とは直接の利害関係は全くありませんので、どちらを強力に推したい事情もなかったのですが、選挙運動の最中から非常な違和感を持っていました。実は、バイデンがテレビやパソコンの画面に出て来ると、直視できないほどのマイナスのエネルギー、ハッキリ言えば「良からぬモノ」を感じるのです。これは私だけが感じているのか気になりましたので、サイキックや他の方々(特に宗教系、スピリチュアル系)の意見を色々調べたところ、やはり、バイデン推しの人は一人もいませんでした。これだけの負のオーラを発するバイデンが、選挙で圧倒的に勝つという予想を、アメリカの世論調査の結果として連日報じていたので、何らかの意図的な背景が強く働いていて、米メディアは何としてもバイデンを勝たせたいのだなと感じておりました。ですから、選挙後、得票数が発表され、バイデンが勝ったことになった時も意外な感じはしませんでした。

ところが、選挙後の昨年末にあのトランプと犬猿の仲のCNNが以下のような記事を出していて、フェイクではないかと疑ってしまいました(笑) https://www.cnn.co.jp/usa/35164488.html
「ワシントン(CNN) 米調査会社ギャラップが12月29日に発表した世論調査結果で、ドナルド・トランプ大統領とミシェル・オバマ前大統領夫人が、今年米国人が最も尊敬する男性と女性に選ばれた。
トランプ氏は、昨年は「最も尊敬する男性」部門でバラク・オバマ前大統領と首位を分け合ったが、今回初めて単独で首位に立ち、昨年まで12年間首位を守ってきたオバマ前大統領の連続記録に終止符を打った。」
トランプ18%、オバマ15%、バイデン6%と言う結果でした。もうすぐ大統領になる筈の人間が、わずか6%の人々にしか尊敬されていないって???この矛盾をどう受け止めれば良いのでしょうか?
また、現在は凍結されてしまったトランプ大統領Twitterのフォロワー数は8700万人、バイデン氏は1060万人と大きな開きがありました。
バイデンを尊敬していると答えた人が、トランプの3分の1、フォロワー数で8分の1、これで大統領選の得票数だけトランプより、突然多くなり、オバマより多い史上最高の8100万票ということが、どのくらい不自然な、疑惑に満ちた数字か…   アナタはどう思われますか。
「FOXニュースの世論調査で共和党員と名乗った回答者の68%が、選挙がトランプから奪われたと考えていると答えた。2020年12月の世論調査では、共和党員の77%が選挙中に広範囲な不正行為が行われたと考えていることが明らかになった。また、無党派層の35%が、広範囲の有権者による不正行為が行われたと考えていると答えている。」(Wikipedia)

以上の点だけから見ても、選挙は盗まれたと主張するトランプ氏側の主張は一理も二理もある様に思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/aacd674b9d71d4ad7facfd1c8e088e092f33622a?page=2
この記事は、たまたま昨日(1/23)アップされたのですが、今までの経緯を簡潔に纏められていますのでお勧めです。

今年1月6日に大統領候補者の正式決定を行う議会が開かれました。この時にトランプの支持者が襲撃したとされた暴動事件が起きましたが、私は、この時のニュース映像を見ていてやはり、非常な違和感を感じました。なんかあまりに動きが緩いので、やらせか?と思いました。
警官たちの本気で警備しようという気が、感じられませんでしたし、わざわざ招き入れているような画像もかなりアップされて実際に見ることが出来ますから、これをトランプ支持者たちが暴動を起こしたと断定している報道にも限りない疑問を持っています。
ただ、私が最も申し上げたい、今回の本題は、この暴動騒ぎに乗じて、TwitterやFacebookが9000万近いフォロワーのあるトランプ大統領のアカウントを凍結し、使えなくしたことです。

私は以前から、新聞はあまりにも偏向し過ぎているので、購読を止めており、最近のテレビも、同じような表面上の事しか報道せず、例えば、依然として、アメリカの政治状況は予断を許さないのに、初めから大統領はバイデンが決まりとの既定路線を崩さず、というかむしろ「トランンプは悪」と言うイメージを作り出そうとする意図を鮮明にしており、問題点を調査して報道するという姿勢が全く見えないので、見ても役に立たないので、ひたすらネットで少しでも真実に近そうな情報を検索しています。
その中で、最近、目立って酷い現象が、TwitterやFacebookからトランプ氏や、弁護士等側近のアカウントを凍結しただけでなく、YouTubeでトランプや不正選挙関連の問題を扱っている動画に対して、検閲が酷くなって、即削除と言う事態が起きていることです。このような言わば言論統制ともいうべき事態が、世界中で起きていることに非常な恐ろしさを感じています。

また、もう一つの恐ろしさは、報道されている内容に何の疑いも持っていない日本人の多いことです。新聞やテレビのニュースを鵜呑みにしている人々を見ていると、太平洋戦争中に、大本営発表を鵜呑みにしていた当時の人々を思い起こします。私は、何人か現地アメリカの事情を直接、聞ける方がいますが、Washington,D.C.以外でも、全米でラジオの緊急放送用の電波テストを行ったり、軍のヘリコプターがバラバラと音を立てて旋回したり、普段は見かけない、軍の車が走っていたりと言う様子を聞いていましたし、実際に送られてきた映像でも見せてもらっていましたので、今回の大統領就任式に対して、今までとは全く違った印象を抱いておりました。そのような中で、毎日のテレビの報道を見ても、あまりに温度差があり過ぎて、テレビの報道は一切見なくなってしまいました。

このような時に、人気Youtuberのナオキマン #naokimanshowさんが、『メディアの闇が作り出す洗脳社会とは?』と言う動画をアップしました! https://www.youtube.com/watch?v=3mcxD4bgc54
「今、世の中にはあふれる種類のエンターテインメント、メディアが広がっていて、自由にその中から選択していると思い込んでいる皆さん、もしかしてそれは全てまやかしで、全て意図的に仕組まれているかもしれません。」から始まり、この中で「メディアを支配した者は思考を支配する」という言葉が紹介されています。
「自由意志、表現の自由、言論の自由、これらは一応保証されているものだと思っているかもしれませんけど、最近の世界の流れを見ると、それどうなのって思う事が結構増えましたよね。」と述べ、動画の最後に、権力とメディアが一緒になって大衆を支配している構造について説明します。即ち、
「第一フィルター:マスメディアの所有者・オーナー、マスメディアを所有する大元です。巨大企業であるかれらは、他の大企業や政府、銀行と密接に繋がっており、最終目的は利益をうむところにあり、批判するジャーナリズムは二の次であり、彼らの利益に繋がることを世間に猛プッシュします。
第二フィルター:広告、消費者から得られる利益だけでは運営していけないので、そのギャップを埋めるのが広告主。広告主は人の集まりにお金を出すので、そのパイプ役であるメディアはお客さんを広告主に売り利益を生みます。じゃあ、どのようにしてメディアを操作するのか。
それが三つ目のフィルターになって来る第三フィルター:エリートの共謀、メディアの情報源。裏では政府、大企業と手を組んでニュースがどのような情報を与えるのか充分に理解しているので、時には、スクープを提供し、公式声明をし、用意した専門家にインタビューさせるなどジャーナリズムの全てのステップに関与しています。この確立した主張に疑問を抱いた、違った視点をもつ独自のジャーナリズムを持ち出したものがいたとしたらその意見は排除されてしまいます。
これが第4のフィルター:利益に繋がらない主張は排除。利益に繋がらない主張はマスメディアの中では排除されてしまいます。皆、共通の考えを持つことを求められてくるそうです。共通の意見を持つには、共通の敵が必要になってきます。
これが最後第5のフィルター:共通の敵を生む。恐怖に満ちた共通の敵が生まれることによって、群衆は一団となり、同じ考えも持つ人々が完成しました、こうして群衆を洗脳していく、これが恐ろしさ。今まさにメディアが分かりやすいように印象操作を行っているのがわかりますよね。
今回の大統領選でトランプ大統領のFacebookのアカウントは無期限凍結、Twitterのアカウントも永久追放、そもそも、彼のTwitterでの発言は、毎回「事実とは異なります」的な注意書きがされていました。これは彼が暴動を誘発させる恐れがあるという理由からなんですけど、とはいえここまで制限するとは、皆さんどう思いますか?純粋に暴力を目的とした首謀者を制限とかなら分かるんですけど、現大統領のアカウントですからね、かなり異常な事態ですよね。
メルケル首相もこれに関しては問題だと、苦言を呈しました。そしてトランプ大統領を弾劾訴追する決議案が提出されたというニュースも流れてきました。何故ここまで一刻も早くトランプを表舞台から消し去りたいのか、それには皆も分かると思いますけど、ある力が働いているからだと思うんですけど、そして今回の大統領選について話したらYouTubeでも排除されることが発表されました。インターネットの普及で個人の研究がしやすくなりましたけど、何時の日かネットメディアも第一フィルターに取り込まれてしまいました。これで真実かどうかをみんなで議論する場が大きなプラットフォームではできなくなってしまいましたね。まさに、フィルター4と5の訴える者は排除され、共通の敵が生み出された瞬間です。間違いなく今いい意味でも悪い意味でも転換期だと思うのでニュースや新聞で見る出来事ではなく、水面下で、本当に裏では何が起きているのか、僕も今回の話題をガッツリYouTubeでやろうと思ったんですけど、残念ながら制限されてしまったのでコメント欄では自由に皆さんのご意見を自由に語って下さい。」と結んでいます。

今回、ビッグテックは総力を挙げてトランプを潰しにかかりました。バイデンの方が自分たちに都合が良かったからです。
このHPでさえいわゆるビッグテック(主にAmazon、アップル、Google、Facebook、マイクロソフトの5社)から提供されている媒体を通して運営出来ているわけですから自己矛盾かもしれませんが、このHPが、もっと世の中に影響力があり、私が有名なYouTuberかなんかだったら、今書いているような記事は「このページは表示できません」と言う表示が現れ、読むことができなくなったり、アカウントごと凍結される運命になるのです。常宿寺が全然有名でないことが幸いしましたね(-_-;)

ただ、ビッグテックが自分たちの利益の為、大統領選挙をコントロールしたとしても、トランプに投票した7400万もの人々が、このまま黙っているとも到底思えません。
2021年の国際的な最大リスク(危険)は、米国46代目の大統領となるジョセフ・バイデン氏だ――。こんな予測を国際的に著名な米国の政治学者イアン・ブレマー氏が(ちなみに彼は民主党支持で、トランプには批判的です)1月冒頭に打ち出しています。同氏が代表を務める国際情勢分析機関「ユーラシア・グループ」が、「2021年のトップリスク」という報告書で発表しています。
ブレマー氏がリスクの2位に挙げているのは、コロナですから、バイデンはこれからの世界にとってコロナより危険因子だというのです。『米次期大統領、世界の最大リスクと認定されてしまう』(古森 義久:産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授)URLが長すぎるので、記事名で検索してみて下さい。

最後に、アメリカ政治に無関心なアナタの為に。アメリカの議会下院では民主党が多数を占めていますが、議会内で、性別の意味を持つ言葉の使用が禁止されているのをご存知でしょうか?牧師としての身分を持つ 民主党のエマニュエル・クリーバー下院議員は、新会期の開会祈祷を率いて、祈祷の最後に「A-men(アーメン)」に「A-women」を付け加えたことで、多くの保守派の反対を呼びました。これは笑い話ではありません。
 民主党のナンシー・ペロシ下院議長が、異なる人々の性別を尊重するため、ジェンダーニュートラルな言葉の使用や、男性、女性、彼、彼女などの性別の意味合いを持つ言葉の使用を禁止するなど、新たな議事規則を導入したのだそうです。つまり、お母さん、おじいさん、男の子と言った言葉を使ってはならないというのです。ここまでくるともはや異常事態ですよね。平等と言うより、本物の全体主義、ファシズムです。だから、半分の国民はその反動としてもトランプ大統領を支持しました。極端な平等主義は逆差別を生みます。トランプの支持者たちはこのような雰囲気に嫌気がさし、疲れてきているのです。
もし、明日から、これらの言葉を使ってはいけないと言われたら、アナタならどう思いますか?他人事だと思っていると、身近な問題になってくるかもしれませんよ。明日は我が身です。
世の中的には、一応、平等でなければならい、と言うのが建前になっていますが、実際は平等でないことは、ご存知の通りです。何故、平等ではないのでしょうか?何故、様々な条件の違いで人は生を受けるのでしょうか?それはその魂それぞれの課題に応じて、重荷を克服しながら魂の成長を遂げるためです。そもそも、魂も成長の度合いによりランクがあるのですから、死後の世界は絶対に平等な世界などではありません。ナザレのイエスもゴータマ・シッダルタも、この世に確かにある時代に生きていた人間でした。彼らが死後赴いた世界に、アナタも行けると思いますか?少なくとも、今の私には絶対ムリ!という事は、間違いありません。このことからも死後の世界が差別の世界だということは容易に理解できるはずです。それぞれのスピリットの成長度合いに応じた世界にいくのです。それに対して「差別だ」などと、抗議するのはお門違いです。
形だけ、言葉を禁止しただけで、平等になったと思うのはあまりにも愚かなことです。これが米国議会で、本当に起きているのですから、もう何をか言わんや、末期症状のように思います。

話を戻します。テレビや新聞で報道していることを、もし、アナタが何の疑いも持たず信じているとするなら、また、「海の向こうの選挙のことなど、自分には関係ない」と思って、無関心を決め込んでいると、その内、わが身に火の粉が降りかかってくる危性険があるのだということに是非気づいて頂きたいと願っています。
就任式の直前に軍事オプションがとられるという大方の予想がありましたが、それが今1月24日の段階では、行われていません。以下の動画や、複数のサイトで、分析がされており、ここら辺が真実なのか?と言う気がしています。
https://www.youtube.com/watch?v=o3CQNqJ6UqY

このまま、バイデン政権が継続していくと、明らかに米国は赤化していき、わが国ももろに影響を受けますので、大変危惧しています。そうでないことを切に祈るしかありません。
ただ、以下のようなことも、あちこちで、以前から言われていますので、期待して待ちたいと思います。
https://note.com/cryptraveler/n/ncb1c9c5fb235

2021年 「1月の標語」

やり残しのある人生を送ると
魂の成長が遅れる 

――― 『人生を、もっと幸せに生きるために』James Van Praagh

昨年最後の12月の標語で、「『あの世』の存在を信じる日本人が全体の40%もいる!」というAさんからのメールで、私がショックを受けたという話から始めました。この標語のページで「死んだら終わりではない」という事を分かって頂きたくて、毎月様々な例を上げながら、くどい位説明してきた私としては、「いつも標語を読んでいる」とAさんが言っていたのに、この程度の受け止めしかできていなかったという事に、今までの自分の努力や労力、時間が無駄になったような気がして、本当にたとえようのない虚しさに襲われました。

もちろん、感想のメールを下さる方々の多くは死後の世界の存在を信じており、亡くなられた方からのメッセージも時々受け取っておられると言って下さる方もいらっしゃいます。
なかでも、ナオコさんは、「今まで標語を読んでいらっしゃって、死んだらそれでおしまいなんてことは絶対にないと理解されている方でしたら、40%!??(*_*; 少ないのに驚きました。とか、少なくてがっかりしました。となるはずですよね?落胆されるのも無理ないと思います。」と、このようにいつも寄り添った暖かいメールを下さるので、どのくらい励まして頂いているか言葉では表現できません。

ですから、今まで、私とのご縁を喜んで下さった多くの方達の為にも、落ち込んではいられない、と何度も自分に言い聞かせたのですが、一昨年大晦日に法幢師小坂機融老師、昨年3月に先代住職と続けて二人の師匠を失い、さすがに喪失感が大きすぎて、文字通り孤児になったような気持ちにも陥りました。
特に、先代住職の介護はほぼ10年で、後半の5年間は介護施設にお世話になっておりましたが、4日に一度頭を剃りに行くだけでも、時間の都合をつけるのが難しい場合もあり、この時間がなかったら、さぞ楽になるだろうと思っておりました。ところが実際には、それが無くなってみると、4日に一度の時間でも、触れ合うことがどのくらいお互いの気持ちを和ませていたのか、泣きながら「有難う」と言って頂けることがどれ程有難いことか、癒して頂いていたのは逆に私だったのだ、ということを思い知らされました。
さらに隠居様の本葬儀が終わった後の脱力感に加えて、自身の加齢に伴う老化現象で、体調的に非常に衰えを感じることも多くなって、かなりpessimisticになっておりました。

実は 最近は、大好きな読書からも、眼の老化現象で、遠ざかっていたのですが、何とかしなくてはと、「溺れる者は藁をもつかむ」と言う位の気持ちで、再び本を色々検索しておりました。そして、たまたまジェームズ・ヴァン・プラグ 氏の『人生を、もっと幸せに生きるために』(河出書房新社刊)を手に取る機会があり、まさに、「目からうろこ」の驚きの体験となりました。
このまま、ただ衰えるままに、惰性で時を過ごしていくのか、という気持ちになりかけていたところに、まさに一発ガーンと喝を入れられたような状態になりました。そして、ここでも、守護霊様の御導きを実感したのです。
この本を手にしたのは11月20日の事でしたが、その日のうちに一気に読み、24日に更新するはずだった12月の標語の原稿を書き直しました。その位、気持ちが変わってしまったのです。最後の方に「Aさんのおかげで、このページが本当の意味でリニューアルできれば、最大の恩人という事になりますね。」と書いたのは、プラグ氏の本にご縁を頂けた、きっかけになってくれたという意味も、実は含んでおりました。

ジェームズ・ヴァン・プラグ氏は1958年8月生れの62歳。世界有数のミディアム(霊能力者)。死後の世界からのメッセージを伝えることができる特別な能力を持っています。その活動は米国内にとどまらず、世界各地で“セッション”、講演等を精力的に行っています。
ニューヨークタイムズ紙のナンバーワンベストセラー作家として知られ、過去 30年間にわたって精神世界の声≠ニして活躍し、この分野でのパイオニアとして世界をリードしています。 自らのメッセージを通じ、物質世界および精神世界の住人たちをインスパイアし続けている方です。
(プラグ氏ウェブサイトhttps://www.vanpraagh.com/より)

彼は上記の著書中、「第12章 やり残しのない人生」 でこのように書いています。
「私自身の人生の経験則は、すべての物事を、この世とあの世を含む広い視野から見ようと努めることだ。私が死んで霊界に帰ったとき、それまで生きた人生を誇らしく思えるのか、それとも後悔の念とチャンスを逃したという気持ちにかられるのか?このような長期的な視点を意識することで、私は日々の生活でどんな選択をしていくか、この世でどんなお返しができるかということに注意を払うようになったのは確かだ。
あなたは今、意識の中で分かれ道に立っている。一つは考え方を変え、この瞬間から自分の人生の主導権を握っていることを自覚し、自分には影響力があるとはっきりと理解するということだ。もう一つは、過去からひきずっている居心地のいい場所にとどまり、自分は境遇の被害者だと考える道である。今が、選択のときだ。充実した人生を生きたかどうかは、この世であなたが自分と人に与えた愛によってのみ評価される。だから、充実した人生を送れなかったというのは、自分と人に対して愛と思いやり、そして許しを与えるチャンスがあったにもかかわらず、あなたが実行しないことを選択したのだと言われても仕方がない。
やり残しのある人生を送ると、魂の成長が遅れる。」

まさに、この文章は、私に対して書かれたのだと確信しました。私は、45歳までの前半生で死ぬほど悩み、全てを捨てて仏道修行に励むべく常宿寺に入れて頂いたのでした。それからはあれよ、あれよという間に、沢山のご寄付を頂いて本堂や庫裡まで新しくして頂き、住職に就き、落慶式のみならず、晋山式までお勤めさせて頂きました。まさにここに至るまでの間は、頂くばかりの23年間でした。ここ、常宿寺に入れて頂いてから、やっと自分が自分らしく生きることが出来るようになったと、感じることができるようになっておりました。それなのに、私がこのまま、無為に過ごしたならば、何もお返しできないまま、人生を終えたなら悔いを残すことになる。だとしたら、ここで自分を甘やかしてはいけないと、気づかせて頂けたのでした。

あまりに驚いたので、彼の著書を調べてみると、20年も前に『もう一度会えたら―最愛の人―天国からのメッセージ(Talking to Heaven)』と『天国との会話―生と死をつなぐ心の旅(Reaching to Heaven)』が出版されていることが分かり、早速取り寄せ、一気に3冊とも読んでしまいました。

プラグ氏の2冊目の著書『天国との会話』の最後は
「あなたの霊的な認識を活かしてほかの人々を励まし、慰めましょう。人々を高揚させ、啓発し、愛することで、みずからの幻想や批判や誤解に縛られている人々を助けるのです。内なる美しい光に気づく鍵を彼らに与えましょう。誰からも見えるように地上の隅々にまであなたの光を輝かせましょう。光を輝かせたとき、あなたは価値ある現世の旅を成し遂げたのです。
やがてあなたはみずからの役目を果たし、神のエネルギーを地上にもたらしたと満足して天国に帰ります。
一己の魂としてあなたがこの世界をより良い場所に変えたのです。」
と言う言葉で締めくくられていて、泣きそうになりました。
(神、愛、光、と言うような言葉に馴染めないという方は、神=仏、愛=慈悲、という風に受け取っても、そう間違わないと思います)

なかには、理解してもらえない人がいたとしても、そんなことでめげてはいけない。理解して頂けた方達の方が多くいらっしゃったのだから、諦めずに、命尽きるまで、この世とあの世の真実を伝えていくこと、神仏の僕として生きることを、目標に生きて行こうと誓いを新たにしました。

ちなみに、プラグ氏の初めての著書『もう一度会えたら(Talking to Heaven)』84ページ「驚愕の事実」には、
自殺だと思われていた青年が、交霊の結果、実は殺されたと分かり、プラグ氏から伝えられた情報を元に、警察が再捜査した結果、真犯人が逮捕され、今服役中というエピソードが載っており、彼のリーディングの正確なことを裏付けています。

今まで、2006年12月、2019年11月と、2回もこのページでとりあげたお釈迦様の御言葉があります。
「わたくしは、幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、――家屋の作者(つくりて)を探し求めて。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。(法句経153)
家屋の作者よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は(自己を)形成するはたらきを離れ、妄執を滅ぼしつくした。 (ダンマパダ・154)
これは原始仏教における、お釈迦様が悟りを開いた時に発した言葉、勝利宣言です。
この言葉の詳細は、過去のページで、お読み頂きたいと思いますが、要は、お釈迦様にとっては、この世は「苦の娑婆」「苦しみに満ちた世界」ですから、もう一度、この世に生まれることなど、絶対に避けたいことだった、ということなのです。
ただ、お釈迦様のレベルですから、これを最後に、生まれ変わりのサイクルから抜け出し、修行を切り上げることができましたが、我々のような、ほとんど煩悩の塊だらけのような凡人レベルでは、今回で卒業などという、甘い考えは到底無理ですので、何度も何度も繰り返しながら、階段を一段ずつ上るように魂のレベルを上げていくしかないのです。
だから、せめて今生で目標とした、課題だけはクリアしましょう、という事なのです。そうしないと、悔いが残りますよ、とプラグ氏は警告しているのです。
(実は、修行を始めた当初は、身の程知らずにも、卒業をめざしておりましたが、残念ながら、どうやら今生でも失敗、ということになりそうです(-_-;)

スピリチュアリズムと仏教が全く別物と思っている方も多いと思いますが、本物のスピリチュアリズムは仏教の基本の教義と非常に共通点が多いです。その代表的なものは、因果律を説く点で、所謂「縁起の法」です。
来月以降、少しずつ、ご紹介していきたいと思っております。

いつも標語を喜んで読んで下さって、感想をお寄せ下さる方々にプラグ氏の上記の3冊の本を、もらって頂きましたが、やはり最後はナオコさんの感想です。
「この本に出合わせてもらえたことに感謝×感謝です。霊=幽霊ってネガティブなイメージが強すぎて、この年齢になるまで、あまり考えようともしませんでしたが、色々ご紹介いただいた本のおかげで、霊=自分を導いてくれるスピリットとしてのプラスのイメージに変えることができました。本当にありがとうございました。」

こちらこそ、本当に有難うございました。(。-人-。)

魂を向上させていく道は、本来孤独で苦難に満ちた道かもしれませんが、もし、仲間と共に歩んでいくことが出来れば、人生において、これ以上の幸せはありません。常宿寺が、魂の向上を目指す人々の心の拠り所になれますよう努めて参りたいと思っております。


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