今月の標語 2013年
2013年 「12月の標語」
安楽といえば 寝ころんでおること
温泉につかっておることぐらいに
思うておるが そうではない
ヨロコビ オチツキ タノシミにみちたものが
安楽である
――― 『禅に聞け』(澤木興道老師の言葉)
安楽といえば、 寝ころんでおること、温泉につかっておることぐらいに思うておるが、そうではない。ヨロコビ オチツキ タノシミにみちたものが安楽である。――ゆきつく所にゆきついて、はじめてオチツキもあり、真のヨロコビ、真のタノシミもあるのである。
泣き顔をヤメイ。ちっちゃな気で「オレはツマラヌ」と思い、「ヒトはエライ」と思うて泣き顔してコセコセして。――そしてちょっとツマルと調子づきやがって。
人間に生まれて、悩むということだけで過ごしてしまうのは情けない。ああ人間に生まれてよかったというところまでゆかねばならぬ。
オイ、どっちゃ向いとるんじゃ。藪にらみみたいな目をして――。お前自身のこっちゃ。
安心があって念仏するから念仏である。安心があって坐禅するから坐禅である。安心がのうてする念仏は念仏ではない。安心がのうてする坐禅は坐禅ではない。飯を食うのも、ゆきつくところへゆきついた食事をすればこそ仏行である。
『禅に聞け』(澤木興道老師の言葉)櫛谷宗則編 (大法輪閣)
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12月は当山東堂岡本光文師の師匠澤木興道老師のお祥月になりますので、老師のお言葉を取り上げることに致しました。
Amazonで「澤木興道」で検索しますと84冊出て参りました。老師が遷化されてから来年で五十回忌となります。時は容赦なく、確実に流れているのですが、老師の語録などを大手の書店等で見かけることも多く、禅に興味を持っていらっしゃる方の間では、未だに根強い人気があります。
光文師と御縁のあった方で、当ウェブサイトを御読み頂いている方は、当然ご存じのことですが、そうでない方の為に、澤木老師について簡単に御生涯をまとめてみます。
当サイトの「坐禅を科学する」のなかでも、ご紹介致しましたが、沢木興道老師は、明治13年(1880)6月三重県津市生まれ。4歳で母を、7歳で父を亡くし、澤木文吉の養子となりました。
明治30年(1897)に出家を志して永平寺に入り、32年に出家しましたが、兵役に取られ、日露戦争に従軍して重傷を負います。退役後、佐伯定胤師に唯識を学び、丘宗潭師の命により熊本県の大慈寺に入り、旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導しました。これ以後各地で坐禅指導に歩かれました。
昭和10年(1935)に總持寺後堂となり、駒澤大学特任教授も兼任して、学生の坐禅指導を行い、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせるなど、徹底した坐禅教育を行いました。只管打坐をその一生を通じて実践し続けられました。昭和40年(1965)12月遷化(86歳)
生涯、家庭もお寺も持たなかったために、尊敬の念を込めて『宿無し興道』とも言われています。
次に、澤木老師の弟子、光文師について、ご紹介いたします。
常宿寺四世光文師は大正14年(1925)生まれ、昭和17年(1942)3月青年学校卒業間近の頃、職員室掃除当番の時、机上にあった『大法輪』の中「禅談」を読み始めて、沢木興道という方がいることを知りました。(17歳)
東京で毎月坐禅会が行われていることを、『大法輪』誌上で知り、初めて出掛けていきましたが、遅刻してしまったため、坐禅を終わって出てこられた沢木老師と廊下でバッタリ遭遇。あまりの神々しさに打たれ、座り込んでしまったということでした。(老師63歳)
昭和22年(1947)4月7日常宿寺(釈尊降誕会接心に随喜の為)に初めて上山。同年9月9日常宿寺にて澤木老師に得度式を挙げて頂きました。これより、玄光庵主様、成光さんと3人の生活が始まりました。23年高等尼学林に入学、28年卒業。31年常宿寺にて澤木老師に嗣法。32年11月8日常宿寺住職に就任。
17歳で老師に御目に掛かってから、遷化されるまでの23年間、老師にご指導頂きました。
元々、お寺とは何のご縁もなかった私が、本当に不思議なご縁が重なって常宿寺に入れて頂いてから、15年になります。こちらに来る前から、ほぼ休みなく、毎日1〜2時間続けてきたことは坐禅でしたので、まさに坐禅によってこのお寺に導いて頂いたと確信しております。
お寺といたしましては、本堂工事前は、参禅会を月1回行っておりましたが、どのみち毎日行っているのだから、せっかく新しく快適にして頂いた本堂を、なるべく皆様に使って頂きたいと思い、本堂を毎朝開けることに致しました。それから今日まで、160人を超える人々が参禅に来て下さいましたが、なかなか続けていけないというのが現実です。
何故、私が、長い間続けてこられたのか、どうしたら皆さんに続けてもらえるか、坐禅の科学的側面に注目して、平成22年春に小冊子『坐禅を科学する』を著しました。当サイトにアップしてある「坐禅を科学する」はその要約版です。
私は、この標語のみならず、何かまとまった文章を書いた場合は公にする前に必ず光文師に読んで頂き、感想を聞かせて頂くことにしております。私が、明るく、楽しく、自由に、などと書きますので、私の独断で、好き放題やっているような印象を持たれるかもしれませんが、全ての事は前住職の光文様にご判断を仰ぎ、ご了解を頂いた上で行っております。『坐禅を〜』を読んで頂いた時は、「皆に何とかして坐禅をしてもらおうというのが老師の誓願だったから、これは老師が喜ばれるよ」と仰って頂きました。私が常宿寺で行っていることに100%賛同して頂けることが私の幸せでもあるとも感じております。
この文章を契機として、澤木老師が「坐禅する時には、十分に腰を前傾させる」と仰っていたということを光文様に教えて頂きました。私が意図したことと、同じことを老師が仰っていたことを知り、大変に嬉しゅう御座いました。
また、脳波に注目した時にも、澤木老師、弟子丸老師が、坐禅中の脳波の測定に大変熱心に協力なさり、科学的側面にも関心を寄せていらっしゃったことを知りました。
さらに、眉間の中央に、深い縦皺を寄せてくる参禅者には、「そんな顔をして坐禅をしてはいけない」と、懇切にご指導なさっていたという話も伺いました。
澤木老師と申しますと、「無所得無所悟」を宣揚し続けられ、「坐禅は悟りを求めるものではない」と仰っていますので、とても豪胆で些細なことには目もくれない印象があるかもしれませんが、実はその陰には筆舌に尽くしがたい工夫があったようです。
光文師は、老師が最晩年に、以下のような言葉を仰ったことを覚えております。
「長い間、只管打坐(しかんたざ:ただ坐る)と言って、坐禅を行ずることを、身を以て説いて歩いたが、只管打坐と言い・・・ただ坐るといい・・・只管とは何か・・・色々な文献を探したが、どこにもそれに当たる文章がなく、教えの中味が本当には伝わっていないんじゃ。北の中国大陸から伝わった教えだけでは、片方の耳だけで教えを聞いているようなもので、何か足りない気がしておった。
小乗と言われる南方の仏教に、お釈迦様の生の声が伝わっているだろうと思うが、分からん。戦後、お釈迦様の本当の元の教えというものが、入ってきたということが分かってはいたが、わしはもう勉強する時間がないから、間にあわないが、これからは若い者がやってくれるじゃろう。」と。
そこに老師の悲痛な想いを感じ取ったそうです。お身体の限界を感じられて京都の安泰寺に入られ、外へ坐禅指導に出かけられなくなってから、名古屋市の妙元寺に車で運ぶようにお連れしたその場で、光文師が聞かれた言葉です。中国大陸から伝わった「禅」には、お釈迦様の生の御声が入っていないということを直感していらっしゃり、常に隔靴掻痒の思いをお持ちでいらしたそうです。
生涯を坐禅一筋に生き続けてこられ、晩年に、なお、膝を叩いて歯がゆい思いを吐露しておられたことをどれほどの人がご存知でしょうか。「それなりに精いっぱいやっていればそれで良い」などと言う生易しいものではなかったようです。老師がここにいらっしゃったら「ざっとモノを言うな」と怒られることでしょう。「ゆきつく所に行きゆきついてこそ」の条件がついている「真のタノシミ」とは生半可な境地ではないと思います。
そもそも修行というものは、進めば進むほど、先が見えず「ここらでよい」ということはありません。自分なりに一生懸命やっているのだからと妥協してしまったらそこでストップしてしまうでしょう。『悟り』とか『成仏』とか簡単に言ってしまう人が多いのですが、血の滲む様な精進をし、身をもって体得している人はいるのでしょうか?本当のところは誰にもわからないというのが現実だと思います。上記の老師のお言葉は、全てを掛けて精進して来られた方の心の底からの本音であると痛感します。
冒頭のお言葉に戻りますと、本当の「ヨロコビ オチツキ タノシミにみちたものが安楽である」と仰っていますが、この真のヨロコビ、真のタノシミに行き着くまでに、どれほどの努力、工夫、精進が必要であるか、それを痛いほど分かっていらっしゃったのも、老師であると思います。
翻って、当サイトの「お寺でヨーガ」のなかで、「より明るく、健康に、楽しく生きることを目指して、ご一緒に御稽古できれば幸いです。」の部分も、当然、目指すところは本物の明るさ、本物の楽しさです。それは、私が今まで、毎月更新してきた「今月の標語」の中でも、随処に述べておりますので容易にご理解頂けると思います。先が見えない、気の遠くなるほど険しい道であるからこそ、なお明るく、楽しく精進して行こうという前向きな態度が不可欠なのです。私はそのことを意図して申し上げております。
「坐禅は龍の蟠(わだかま)るがごとく、颯爽たる姿勢と凛々たる気迫がこもっていなければならない。借り物の猫のようにフニャッとした坐禅、気の抜けたビールのような坐禅は何年やっても駄目」なのです。
2013年 「11月の標語」
しるべし 愛語は愛心よりおこる
愛心は慈心を種子とせり
愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり
ただ能を賞するのみにあらず
――― 『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻
今月も、ご好評にお答えして、先々月に続き、道元禅師の『正法眼蔵』から取り上げます。少々長くなりますが、『菩提薩埵四摂法』の巻から引用します。
「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世々生々にも不退転ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こゝろをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、たゞ能を賞するのみにあらず。」
意訳してみますと、概ね以下のようになると思います。
愛語というのは、あらゆる生きとし生けるものに対して慈しみの心を起こし、愛のこもった言葉を口にするように心がけることです。すべてにおいて無慈悲で酷い言葉を使ってはなりません。
世の中には(例えば「お元気ですか」などと)相手の安否を問う礼儀があります。仏道修行の上では(「お大事に」などと)辞去の際の挨拶があり、健康状態や近況などをたずねる作法があります。
生きとし生けるものに対して慈しみの念をもち、母親が赤ちゃんに対して接するような思いをもって語る言葉が愛語です。
徳がある人に対しては誉めて、徳のない人には憐れんで戒めの言葉をかけるべきです。愛語を好ましく思い、心がけるところから、次第に愛語の習慣が増して行きます。
そうすると、日ごろ気づかず見えていなかった愛語も目の当たりに現れます。この世での命がある限り愛語を好んでするべきです。そうすれば、生まれ変わり死に変わりしても、愛語の修行に精進努力して怠ることがないでしょう。怨みに思う敵を降伏させたり、権力者同士を和解させるにも、愛語を使用することが根本となるのです。
面と向かって愛語を聞くと、喜びが顔に表れ、心も楽しくなります。 実際に目の前にいなくて、人づてに、間接的な形で愛語を聞いても、肝に銘じ魂に深く刻み込まれるような思いをするものです。愛語は愛心から起こり、愛心は慈悲の心から起こることをよく知るべきです。
(一度発せられれば覆すことはできないとされる権力者の命令が、家臣が愛語をもって権力者に翻意を促し、ついにその命令を変えさせたという故事があります。)愛語には世界を変えるほどの力があることを学ぶべきです。ただ相手の能力を誉めるだけが愛語ではありません。
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『修証義』をお誦みしていても、この「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」と言う段になりますと、一層力が入って参ります。
「慈悲の心が根底にある愛語には世界を変えるほどの力がある」何と美しいお言葉でしょう。
お釈迦様も同じようなことを以下のように説かれます。
「好ましいことばのみを語れ。そのことばは人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。」『スッタニパータ 第3章大いなる章、3 みごとに説かれたこと 452』
これを御読み頂くと道元様もお釈迦様も、慈悲の心を本とした優しい言葉を語ることの大切さを説いていらっしゃることが分かります。
さてここまでは周りの人々に対しての「愛語」がテーマとなっておりますが、ここでちょっと視点を変えてみたいと思います。皆様に是非お尋ねしたいことがあるのですが、それはご自分に対しても「愛語」を語っていますか?ということです。
様々な機縁でお寺を訪ねて下さる方がいらっしゃいますが、その中には、悩みが深く非常に暗い顔をなさっている方もいます。そのような方たちのご事情を一通りお伺いして、八方塞がりでどうにも解決策が見当たらなかった時、私は自身の体験をお話させて頂くことがあります。
30年ほど前、私は自己否定地獄の真只中にあり、出口の見えない辛さの中で鬱々とした日々をかなり長い間送っておりました。何とか解決の糸口だけでもつかみたいと、宗教の本など読み漁りました。その中にやはりどん底の体験をなさった方の話があり、「自分を立ち直らせてくれたのが『自分を尊敬する』という言葉だった」、とあったのです。その時になるほどと、真暗闇のトンネルの中で小さな光を見いだせた思いでした。
どれだけ辛くても本当の辛さは自分にしか分かりません。それならその辛さにめげないで「この辛さにめげないアンタは偉い」と言ってみたらどうだろう、と思いついたのです。それから鬱々としていた自分にこの言葉を言い続けました。なんとなく気持ちを取り直し、明るくなってきたなと感じ始めたのは三ヶ月位経った頃でした。
坐禅やヨーガを本格的に行い始めたのはその後の事です。気分が暗いと何事もやる気は起きないものです。私にとって「この辛さにめげないアンタは偉い」という言葉は、まさに廻天の力ある言葉となったのです。
最近ヨーガ関連の本を読んでいて「アファーメーション」と言う言葉に出会いました。先に結論を言ってしまいますと「アファーメーション」とは、自分自身に対して行なう肯定的な「自己宣言」なのだそうです。これは目標達成や潜在能力開発に、絶大な効果を発揮すると言われております。
「成功するためには、潜在意識の強大な力を、上手に活用することが必要だ」と言う立場から、「潜在意識の力を有効に引き出すために、前向き・肯定的な考え方をする」ことを試みます。その手法として、その目的に沿った言葉を自身に反復的に繰り返し言い続けるというものです。
http://coaching.livedoor.biz/archives/16044148.html
このアファーメーションはまさに自身に対する愛語だ、と強く思いました。私がたまたま実践できたことも、これだったのだと気が付きました。
潜在意識(=無意識)には、自分がこれまでの人生で習慣的に行なってきた「考え方」が刻み込まれているので、「今日から前向きになろう!」とか「自分はできる!」と思っただけでは変わりません。
一時的に前向きになっても、すぐに習慣的な考え方に戻ってしまうので、潜在意識に刻み込まれた習慣的な考え方そのものを変えていくアプローチが必要で、そのために前向きな言葉を繰り返し自分に言い続けることが有効なのだそうです。
とりあえず暗い気持ちから少しは抜け出せた私は、坐禅やヨーガなどを始めました。そして、毎日毎日、行じている内「何かトラブルが起きてどれだけ大変な状況になっても、これは必ず良くなるためのきっかけなのだ」と無条件に信じることが出来るようになっていきました。
さらに、「近い将来に物事がうまくいくイメージを持ち、それが実現するというポジティブな考えを常に持ち続ける」ことが非常に大切で、実際にイメージした通りになっていくことを体得出来るようになっていきました。そして良いイメージを持ち続けてきたことが、次々と現実のものになっていきました。
また、私は今でも、毎朝洗面とかで鏡を見るときは、必ず自分自身ににっこりほほ笑みかけ「頑張ってるね」と心の中で言ってあげることにしています。
口の両端を下げて暗い顔をしていると、気持ちも落ち込みます。気持ちが暗い時ほど、意識してにっこりすると、口の両端が上がり、気持ちも明るくなります。これは効果絶大です(^^)
今これを読んで頂いたアナタ!もし今鬱々とした気分でいましたら、ぜひ、鏡のなかのご自分に向って、肯定的な言葉を掛けてあげて下さい。周りが何と言おうと、ご自分が、ご自分の一番のサポーターになってあげて下さい。自分を肯定し、好きになってあげて下さい。
自分の心を、積極的に明るく保とうとする努力が、アナタの人生を、結果的に明るく幸せにしていくのです。将来に不安、心配、恐れを持つという姿勢は『百害あって一利なし』です。
自分に対して慈悲の心を以て対することが出来るようになってくれば、必ず、周りに対して慈悲の心が芽生えてきます。周りに対して慈悲の心が芽生えてくると、この全ての宇宙存在を生み出し、それをつかさどっている『縁起の法』の本当の姿が見えてくると思います。『縁起の法』の根本が慈悲であり、愛心であることが…
2013年 「10月の標語」
悩める人々のあいだにあって
悩み無く
大いに楽しく生きよう
悩める人々のあいだにあって
悩み無く暮そう
――― 『法句経』 第15章 楽しみ 198
199 貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、貪らないで暮そう。
200 われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。
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つい先日、私が修行の為、安居しておりました尼僧堂の先輩と、あることがきっかけで、1、2回手紙のやり取りがありました。
まず先輩のほうから「私は修行しない坊主です」とありましたので、「坊主が修行しなかったら、ただの人ではないですか?」「Mさんは何を求めて出家なさったのですか。私は坐禅したくて、出家させて頂きましたので、今は出家の目的が達成できているのでとても幸せです。」と書きました。
それに対して、先輩から「何かを期待しては修行ではないと思う。坐禅も楽しみになったら行ではないです。」と返事が返ってきました。
私は、この返事を読んだ時、なるほど、Mさんは、修行とは何も期待してはいけないもの。楽しくてもいけないもの、と思っているので、修行が出来ないのだなと、思いました。当たり前の話ですが、楽しいことは誰でもやりたいと思いますよね。Mさんは尼僧堂での修行中、きっと坐禅の時間が苦痛でたまらなかったことでしょう。だからお寺で一人の生活が始まった時、坐禅をするなど、思いもよらないのだと思います。
Mさんは何の為に出家したのかという問いには答えて下さらなかったのですが、元来出家とは、俗を離れ、修行に専念する為にすることです。
僧侶にお布施して下さる方は、お布施することによって修行僧の命を支えることから功徳を頂けるので有難いのです。お布施を受ける方が修行していなかったら、姿は出家でも詐欺みたいなものだと思っています。僧侶は単なる「お経誦み屋」であってはならないのです。
僧侶は、「施無畏」(恐れ無きを施す)「抜苦与楽」(苦しみを抜いて福楽を与えること)の菩薩の誓願を持ち続けてこそ、修行を継続させて頂けるように思います。このことは、30年坐禅を続けてこられた私が、やっと最近気づかせて頂いたことです。
坐禅を始めたころは、生きているのが苦しくて苦しくて、その状態を何とかしたいという一念で続けてきたのですが、私みたいに愚鈍な者でも、ここまで続けさせて頂けたということに、しみじみと「何と有難いことだろう」という気持ちが実感でき、これは「仏道を通じて世の中のお役に立っていきなさい」というご神仏の思し召しなのだと受け止めさせて頂いております。
よく「悟りを求めるのは欲だ」、とかいう方もいるのですが、それについては当ウェブサイトの「悟りとは」のページでも触れました。自分の方から運べばそれは欲になりますが、自分の中の、否、自分そのものが、御働きの全てのアラワレであると気づかせて頂けたとき、この上ない幸せを感じることが出来るのだと思います。
また、Mさんは、道元様の「只管打坐」「無所得無所悟」を坐禅もしない立場で、老師方のご提唱を中途半端に聞き、頭に残っている言葉のみで、脳味噌の中で概念化するので、こういう結果になるのだと思います。
さらに「坐禅は安楽の法門」とも言います。この安楽は、当然、世間でいう楽しみ、温泉につかったり、御馳走を食べたり、映画を見たり、という意味ではもちろんありません。
とにかく、毎日、毎日、ひたすら坐らせて頂けること、坐禅の御縁を頂けている事、その状態そのものが安楽であり、幸せなのです。わたしがMさんに言った幸せとはそういう意味なのですが、坐禅をしないMさんには、体験がないのですから、分かるはずもありません。
最近ネット上で、とても良いものを発見しました。ちょっと長いですが引用します。
『Yahoo知恵袋』でのやりとりです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1035475445
(質問者)坐禅して10年以上になります。 無所得無所悟とは頭でわかっても、このごろこれでいいのかという、不安がつきません。 坐禅は安楽の法門といいますが、この安楽とはどういうことですか?
( ベストアンサーに選ばれた回答) 回答者:kahusehu さん
威儀即仏法の道元禅にあって、なぜ行住坐臥の生活でとりわけ坐禅坐禅と特別扱いするのか…
そう悩んでいた時のことでした。
一日中たくあんにする大根を包丁で切り続け、半日かけて山のような布団をぜんぶ片付けたと思ったら
またすぐにぜんぶ敷いて一日が終わり…
(俺、なにやってんだろ…)と疑問を持つことは少なくありません。
でも、それがお山の中での分業ですから、どんなに単純で些細な仕事であっても誰かがやらないとお山全体が止まってしまう。それは社会でも一緒。…と、悟った風になってみたら大間違いでした。
そんな単純な話じゃなく、大根を切った包丁を洗った水が川に流れれば その水に含まれた大根の汁成分を食べて生きる生命があり、そこから成り立つ世界があります。
風呂で落とした垢にもその後、なるようになって、そこから生まれる原因と結果があります。
自分が今ここでこうして生きているのにも原因がありますし、こうして質問者さまと出会った縁もあります。
自分以外の全てが自分を成り立たせているし、同時に自分の存在が無ければ今後の世界は成り立たない。
そんな因縁、頭で追いかけて分かるモンじゃぁありません。
トイレで出したアレが今どこで何になってるかなんて知ったこっちゃありません。ただ言えるのは、みんなご縁でつながってるということだけです。
そこで坐禅って、因縁そのものへの埋没なのかな…と思うことがあります。だから山林に在るべくして在る岩に例えて兀坐だし、 坐禅は本来の面目にかえる…ということなのかなと。。。
自分みたいな余分なモノを一切合切投げ出して、生命そのもの、世界そのものに立ち返る坐禅。
そこには自分が無いのに、目まぐるしく動いて止まらない、生きるという主体があります。
明日も同じことを言える自信はありませんが、お祖師さまはそこに安楽を見たのではないかなと…
ともすれば、お釈迦さまに「生きるってのはそもそも苦じゃないのでは???
生が苦なんじゃなくて、余分なものがあるから苦なのでは???」と、揚げ足をとっちゃったのかも…とすら思えてきます。
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なんだかんだ言っても不安になれば全心全霊で不安になり、迷えば心の底から迷えば良いのかなと思います。心があるから不安になれるのだし、ご縁があるから迷えるのですから。
良薬は口に苦しと言いますが、それは舌と脳みそにとって苦いだけであって身体には甘露なわけですし。。。
偉そうなことを申し上げ、失礼致しましたm(_ _)m 100%私見ですので決して信じすぎないで下さい。 明日、同じことを言ってる自信はありません。
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すごいです!この回答者さん、「悟っていらっしゃる」と感じました。特に、「お釈迦様の揚げ足を取っちゃった」の下りは、非常に意味が深いですね。今、一生懸命勉強している、初期仏教から大乗仏教へ移行していく歴史の流れ、なぜ大乗仏教経典が書かれたのかという、仏教発展の必然性に通じるものを感じます。(これについては、テーマが異なりますので、機会を改めます。)
ちなみにこれとは全然別のお話ですが、最近、他宗のお寺の住職の人がご自分のことを「浄土真宗と仏教を知り尽くしている」と寺報で書いていることに出くわし、驚き呆れてしまいました。「知り尽くしている」などとは、他人がそう評価することであって、自分が言うことがどれだけ恥ずかしいことか分かっていない(汗)
「 悟り」も同じこと。自分に、自分で言ってしまったらオシマイ。最終解脱者を気取っていたオウムの麻原彰晃と変わりません。
「無所得無所悟」と言っても道元様は「楽に生きる」「幸せに生きる」ことを禁じた訳ではないでしょう。というか、私たちが生かして頂いているハタラキ「全機」に気が付きさえすれば本当の意味で「安らかに楽しく幸せに」に生きられるのではないでしょうか?
お寺の住職が生き生きと幸せに暮らしてこそ、お寺に御縁を求めてお参り頂ける方も増えると思います。住職自身が、生きることに青息吐息では、周りの方もお寺に足を運ぶ気になれないでしょう。それでは僧侶として、社会のお役に立っていけるか、甚だ心許ないと思います。その意味で、絶対に修行は不可欠であると思います。
2013年 「9月の標語」
たとひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも
そのなか一日の行持を行取せば
一生の百歳を行取するのみにあらず
百歳の他生をも度取すべきなり
――― 『正法眼蔵』「行持(上)」巻
常宿寺HPを2006年1月に立ち上げた当初、3月と6月にこの標語の欄に道元禅師の『正法眼蔵』から引用しましたが、それ以来7年ぶりの登場です。
私共はこの地では、毎月の月命日にお経に伺いますが、その時に『修証義』という『正法眼蔵』から編纂されたお経を誦むこともあります。「たとひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも〜」という段にかかると、常に私は、「煩悩の奴隷」ということを思います。
『正法眼蔵』「行持(上)」巻から少し長く引用しますと以下のようになります。
「しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生をも度取すべきなり。`この一日の身命は、たふとぶべき身命なり、たふとぶべき形骸なり。かるがゆえに、いけらんこと一日ならんは、諸仏の機を会せば、この一日を礦劫多生にもすぐれたるとするなり。このゆえに、いまだ決了せざらんときは、一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日は、をしむべき重宝なり。」
『正法眼蔵』は大変難解な文章ですから、現代語には置き換えるべきものではありませんが、理解に資する為に、私なりの解釈で概略を述べてみたいと思います。
前段からの文章を受けて、
「だから、一日を大切にしなければならない。空しい生き方で百歳生きたとしたら、それは後悔すべきであり、誠に口惜しく、悲しむべきことである。たとえ百年という歳月を肉体の五欲の奴隷となって、駆けずり回って虚しく生きていたとしても、そのなかの一日だけでも仏道を修行し、仏祖の行いを実践すれば、この百歳の生が価値のあるものとなるだけでなく、これから先の生も済度する(すくう)ことができるのである。だからこそ、仏道を行ずる一日の命は誠に尊い命であり、貴重な身体なのである。生きていたのがたった一日であっても、その時に諸仏の機(はたらき)と会うことが出来たならば無限の長い間、何回も生を重ねるよりも、優れたことなのである。だからはっきり見極めがつかない間は、一日も虚しく過ごしてはならない。この一日は何物にも代えがたい宝なのである。
先日、当HPで『お寺でヨガ』をアップしましたが、その中で「私共の身体や呼吸の中には、宇宙存在のメカニズムが全て表現されております。私たちが物質としての命を授かった時から休むことなく動き続ける心臓は、自分の意志で勝手に止めたり、また動かしたりすることは出来ません。太陽や地球の動きを止められないのと同じです。浜辺に行くと規則正しく寄せては返す波を見ることが出来ます。最もマクロ的に観た場合、私たちの「吸って吐いて」を繰り返す呼吸と同じメカニズムが働いています。」と述べましたが、これがまさに道元禅師のおっしゃる「諸仏の機」と同趣旨のことなのです。
さらに、「諸仏の機を会せば」と述べられてはいますが、私どもは常に「諸仏の機」に会っているのですが、気が付かないだけなのです。否、会っているどころか、私共が生かされていることそのものが「諸仏の機」なのです。また道元様は「森羅万象すべてのことに諸仏の機が何物とも相対せず常に働き現れている」ということを「全機」とおっしゃっています。
そしてこの「働き」に心の底から気づき、体感し、それと対立せず、生きることができるようになることを「悟り」というのだと思います。
話題を元へ戻します。先月の標語では「身体の本性=束縛」ということをとりあげましたが、だからこそ毎日の生活では「なすべきことがある」とお釈迦様も道元禅師もおっしゃっているのです。
「愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎにまさる楽しみは存在しない。」
(『法句経』第15章楽しみ202)
かりそめの身(khandha)とは「蘊」と漢訳され、我々の変化する生存の諸要素の集合、肉体を持った個人存在を指します。
同じ趣旨のことを、私共の師匠、沢木興道老師のお言葉を介しますと、以下のようになります。
「働くために食うか、食うために働くかこれが大事なことである。たいていの者は食うために働く。これでは人間一生口につかわれる。これはもう負け戦で、そんな人間はまことに困った弱虫の動物、口に全部使われるという動物なみの人間といわなければならぬ。われわれはなんらかの使命のために命をつなぐので、そのためにこそどうしても食べなければならんのである。」(『禅談』「食堂の宗教」148頁)
動物なみという言葉が出てきました。常宿寺には6匹の猫が居りますが、彼らは一歩もお寺の建物から外に出ることはないので、常に日常生活を共にしています。甘えたり、焼きもちを焼いたり、怒ったり、まるで恋人といるようなもので、それぞれとても可愛らしいのですが、彼らの行動を観ていると、まさに食欲と性欲、そして何とかして肉体を維持しなければ…という欲によって、生きているということがよく分かります。
ただ、動物の中には、怠け放題に生きている人間より、よほど優れた生き方をしているものも居り(例えば犬達)ますので、動物達にはちょっと気の毒かもしれませんが、老師のおっしゃりたいことは、ご理解頂けると思います。
2013年 「8月の標語」
なすべきことをなおざりにし
なすべからざることをなす
遊びたわむれ放逸な者には
煩悩が増大する
――― 『法句経』 第21章 さまざまなこと 292
常に身体(の本性)を思いつづけて、なすべからざることをなさず、なすべきことを常になして、心がけて、みずから気を付けている人々には、もろもろの汚れがなくなる。『法句経』 293
『法句経』292、293の句の趣旨は以下のようになります。
毎日の生活の中でするべきことをせず、してはいけないことをしている者、遊びほうけている怠け者は煩悩(欲、怒り、愚かさ)が増え続ける。それとは逆に、いつも身体の本性に心を止め、してはいけないことをせず、するべきことを常に行い、よく気を付けて生活している人々は、煩悩がなくなる。
私が毎月の標語を更新する時に、まず初めに参考にするのは、中村元博士の岩波文庫『真理のことば』(ダンマパダ)です。
よく気を付けて生活する人とはどういうことなのでしょうか。中村先生は上記の文庫本訳注において、(気を付けている人)について、以下のように述べていらっしゃいます。
気を付けている人―― dhira.この語は漢訳にしたがって「賢者」と訳すのが通例である。しかし「賢者」を意味するパーリ語やサンスクリット語は極めて多く、諸語の間のニュアンスの差はよく分からない。(中略)例えばハイウェイで自動車を慎重に気を付けてドライブせよ、というときにdhiraという語を用いる。それを念頭におくと良く理解できる。(96頁) とあります。
当ウェブサイト内にアップした「非思量とは」のページに、私は以下のように記述しました。
「坐禅中の考え事は、対向車線を向こうから来る車だと捉えて、流れているままにしておきましょう。そちらに注意をとられると、脇見運転をしていることになり、ひどい場合事故につながります。
今している呼吸に注意を向ける(観つづける)というのは、脇見運転をしないように、気がそれないように、なおざりにせず(不放逸)、注意深く気をつけているということ。今やるべきことは、今この瞬間に起こっていることに気づくということなのです。」
3年前に書いたものですが、坐禅中の考え事の処理の仕方としては、毎日行じている者としてこれ以上適切な表現はないと思っておりますので、今回中村先生の文章の中に、同趣旨の言葉を発見できたことは大変うれしいことでした。
坐禅とは「無」になること、と誤ったイメージが広く行き渡っておりますが、実際に行ってみると、最も痛切に感じるのがこの考え事が浮かんでくることに対してどう対処すべきか、ということなのです。
私共の師匠、沢木興道老師も「禅は無心になることでしょ、などと言いおる。――無心なんて死ぬまでならんわい」とおっしゃっています。
私共が、肉体を持って生きている以上、考え事と言うのは、四六時中どんどん湧いています。ですから坐禅を始め、静かになりたい、ならねばならないと思うほど、なお考え事が湧いてきて、自分が如何に妄想の中に生きているか気が付くのです。
さあ、その時にどうするか、その考え事とまともに向き合ったり、追い続けてしまっては、坐禅にならないのですから、自分が今運転中と仮定して、湧いてくる考え事を、対向車線を走ってくる車とみなすのです。対向車線の車は、自分の意志とはお構いなしに向こうからやってくるのですから、それを止めようとしても無駄です。ただ、勝手に走ってきて、いつの間にかすれ違い、去っていく、それに気が付いている。車を運転する時には、皆さんは必ずそうなさっていると思います。考え事に対してとる態度はこれしかありません。
そして、それに引きずられず、坐禅中の体の状態、呼吸の状態を静かに観続ける、その努力をしている内に、いつの間にか対向車線の車の台数が減っていくのです。
このようなやり方が習慣になってくると、日常生活の中でも、どのように過ごすべきか、分かって参ります。私共は毎日しっかりと生きているつもりでも、行っている事とは別のことを考えながら何かをやっているということは普通にあることです。
毎日を具体的にどうすごしていくべきか。朝から晩まで、たとえば、服を着替え、顔を洗う、歯を磨くという風に、するべきことはほとんど決まっています。決まりきったことを惰性でいい加減に行っていながら、頭の中では他のことを妄想し続けていると、どうしても一つ一つの動作が、なおざりになっていきます。
お釈迦様はそれではいけませんよ、とおっしゃっているのです。垂れ流し状態の考え事を好き放題にしていると、煩悩はいよいよ膨らんでいくというのです。
そもそも、我々は、生命を存在させている媒体としての肉体を本能的に大事にしますが、物質としての肉体に逆に振り回され、それによって精神(spirit)が損なわれるマイナスの面があるということにあまり気付きません。
「身体の本性を思いつづけて」という言葉がありました。身体の本性とは、一言でいうならば「束縛」です。生きながらその束縛から放たれたいと志すなら、その実態を直観的に把握しようと努力する必要があります。
そしてある程度修行を積んで肉体の束縛から少しでも解き放たれた時、初めてそこにこそ本当の意味の「楽」があることを直感します。皆様は一般的には肉体を喜ばせることを「楽」と思っていますが、本当は肉体から解き放たれた時こそが「楽」なのです。その意味で「死」は肉体からの解放なのですから決して忌むべきものではありません。肉体からの解放は極めて楽しいことであり、よほど悪いことの限りでも尽くさない限り死は「極楽」なのです。
お釈迦様が「身体の本性に心を止め」というのは上記のことを意図しているのです。そしてこのことは残念ながら、実際に経験しなければ、わかりません。
肉体の束縛からわずかでも解放されることを最も早く実感できる方法は呼吸法です。吐く息を少しでもゆったりと長く出来るように心がけて毎日実践していると、その効果は身体の限界を超えて働いてくれるようになります。古来、ヨガの行者たちは、この境地をめざしてきたのです。
呼吸法の次に、肉体の束縛を解く実践法は、今するべきことをよく知り、それをきちんとやること。常に今していることに、意識を向けて注意深く行っていくのです。過去のことを繰り返し思い出しては落ち込んだり、未来のことを心配したりして不安な気持ちに陥ったりしていては、「今、ここ」にいることを困難にします。
私が実際に実行している方法として、例えば一日の内、歩く時だけは絶対に考え事をしない、と決めるのです。階段を昇り降りする時でも、一段ずつ足を運びながら右足左足が交互に出ていることを「右、左、右、左」と確認しながらゆっくり運びます。平面を移動する時も、右左と足の運びに気を付けて移動します。一日の内、数分でも絶対に考え事をせず行為に集中できる時間が持てますと、「考え事をしない」という努力がどういう結果になっていくのか、その効果が実感できてきます。
これは言葉では表現不可能な感覚ですので、ぜひ実行してみて経験なさることをお勧めします。
2013年 「7月の標語」
勝利からは怨みが起こる
敗れた人は苦しんで臥す
勝敗を捨てて安らぎに帰した人は
安らかに臥す
――― 『法句経』 第15章 楽しみ 201
このブッダのお言葉を読んだ時、私がまず思い浮かべたのは橋下徹大阪市長のことです。昨年12月の衆院選挙直前は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いと言ってもよいくらい、時代の寵児のような雰囲気を持っていた橋下さんでしたが、いわゆる従軍慰安婦問題をめぐる発言あたりから維新の会の支持率はますます低下しております。
大阪都構想、さらに将来的には道州制を推進しようという姿勢には、基本的には当初から共感を覚えておりました。私は東京で生まれ45年間暮らし(この間に2年間は英国ロンドンで暮らしましたが)それからここ愛知県一宮市に移って15年になります。こういう経緯を踏まえて、やはり実際に住んでみますと、その土地によって随分と事情も異なりますので、明治以降行われてきた東京一極集中の所謂中央集権体制というものは少しずつ無理が生じており、徐々に変えていく必要があるのではと考える一人ですので、彼の姿勢はある程度評価できると思っておりました。
しかしながら、彼が問題提起している事柄の是非はともかくとして、ニュース等で直に見ることのできる彼の記者会見での周りとのやり取りを見ておりますと、弁護士のやり方がそのままむき出しとなっており、自己の正当性を主張し、対論の相手を完膚なきまでやっつけるという態度で、これではその話術に相手が降参して黙ってしまったとしても、後味の悪いものが残るだけだという印象を常々持っておりました。
そもそも政治というものは、限られた利益即ち、パイをどのように公平に切り分けていくかという、利益の再分配が基本的な仕事ですから、「敵」を作ってはならない仕事です。と言いますか敵を作ると大変やりにくい仕事です。
お互いに歩み寄り、妥協し合い、譲る処は譲りながら落とし処を探していく、元来日本人が元々得意とした腹の探り合いなどをしながら、少しずつ歩み寄っていくというやり方の方が、うまくいく場合が多いのではないでしょうか。それを相手の言葉の端端にまで食いついて、絶対負けないという姿勢を取り続ければ、その時の問答では勝ったように見えても、結果得るものは何もありません。そこが弁護士と政治家の決定的違いだと思います。弁護士は依頼者の為だけに結果を出せばよいのですが、政治家はより多数の利益になることを考えて振る舞わねばならず、またその利益に与らなかった人たちをもフォローできるようでなければ本当の政治家ではないと思います。
英国にこのような諺があります。
「良き法律家は悪しき隣人」
A good lawyer is a bad neighbour.
法律家として有能な人は、もし隣に住まわれたら迷惑で嫌な存在というような意味で、形式論を駆使するので、隣人や友人として交際しづらい、という意味で使われるようです。
他にも、弁護士に因んだ諺として、
Lawyers are men who hire out their words and anger.
弁護士とは言語と憤怒とを賃貸する人をいう。
Fools and obstinate men make lawyers rich.
馬鹿と剛情者が弁護土を富ます。
The more lawyers, the more processes.
弁護士多ければ訴訟多し。
等々。有能な弁護士に助けて頂いたという方も沢山いらっしゃるでしょうから、このくらいにしておきますが、これらは弁護士という仕事を、象徴的に捉えていると思います。
さて、橋下さんに戻りますと、この度の都議選に際しても、「今は選挙中ですから、敵は外にある。力を合わせて、とにかく参議院選、都議選を乗り越えていかないといけない。」と言った、というような記事を目にしました。いくら選挙と雖も、「敵」という捉え方は甚だ穏当ではありません。自分たちの支持者を「味方」、対立候補やその支持者たちを「敵」と捉えているのでしょうか。この言葉自体が、全く弁護士の態度そのもので、政治という物事の本質をわきまえていないので、こういう発言になるのだと思います。
共同通信世論調査によりますと、「日本維新の会」の支持率は2012年12月には16.5%だったのが、13年4月には5.8%にまで落ち込んだそうです。
この支持率の急落の背景には、彼の問題にした事柄に加えて、橋下さんの物事を進める手法とか態度そのものが、醒めた目で見始められた結果のような気がしてなりません。
冒頭のブッダのお言葉に戻りたいと思います。「勝利からは怨みが起こる」のです。橋下さんが、絶対に負けないことを目指し続ける限り、相手の中に残った負のエネルギーというものは、予想以上に膨らみ続け、その場の勝利者の橋下さんの首を、真綿でじわじわ締め付ける結果になっていくと思います。
そもそも戦いに勝つことが、幸福への道ではありません。戦いにおいては、真の意味で勝利者はいません。敗者には口惜しさが残り、怨みさえ持ち続けます。戦いに勝ち続けるということは、敵がどんどん増える結果になります。
徳川家康の言葉に「勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る 己を責めて 人を責むるな 及ばざるは 過ぎたるに 勝れり」との名言があります。さすがに徳川260年の土台を築いた方の言葉には重みがあります。この前段には以下の言葉があります。「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず 不自由を 常と思えば 不足なし 心に望みおこらば 困窮したる時を思い出すべし 堪忍は無事長久の基 怒りを敵と思え」
国の仕組みを変えようという大志に燃えていらっしゃるのはよく分かります。成功した先人の言葉に学ぶべきところは大きいと思います。
2013年 「6月の標語」
真実(まこと)ではないものを
真実であるとみなし
真実であるものを
真実ではないと見なす人々は
あやまった思いにとらわれて
ついに真実に達しない
――― 『法句経』 第1章 ひと組ずつ 11
上座仏教の長老が書かれた『法句経』の解説書の中に、以下のような説話が紹介されていました。
「経典にはこういう話があります。生まれつき目の見えない人がいました。ある男が、その人にとても醜い汚れたボロの服を差しだして、こう言いました。
「この服は世界でもっとも美しい服です。高価なもので、大切に使わなくてはいけません。生命をなくしても、この服だけはなくしてはいけませんよ。それくらい価値があるのです」
彼はその話を信じて、その服をいつも大切に着ていました。あるとき、彼の姿に哀れみを感じた医者に助けられ、彼の目は見えるようになりました。目が見えたら、自分が世界一美しいと思って着ていた服は、汚れた粗末なものだったということがわかりました。かれはなんの未練もなく、その服を脱ぎ捨てました。」
この説話が意図しているように、本当は価値があるものを価値がないと見たり、逆に価値がないものを価値があると信じたりすることは、我々の日常生活によくあることです。ここでは、彼が初めは眼が見えていなかったということですが、肉眼が見えていても、実際には見えていない、眼に入らない状態ということも、往々にしてあることです。
私共も、眼が不自由でなければ、普通はものが見えていると信じています。ところが本当に真実の姿が見えているかというと、随分怪しい部分もあるのです。それぞれが見えていると信じているものは、同じものでもそれぞれの眼や心のフィルターを通ることによって、見え方が全然違うということがあります。「真実」だと思い込んでいるものが「真実ではない」ということもあるのです。それほど「真実」の姿を捉えることは難しいと言えます。
この場合は着ている服ということですが、実は私どもの肉体についても同じことが言えると思います。例えば美しさの基準などは主観的なものですから、価値判断は相当分かれるところでしょうが、誰が見ても美しいと思われるような人でも、欲深さがや怒りが現れてしまっていて酷い顔に見える時もあれば、造形的には飛びつくほどの美人でなくても、性格の美しさ大らかさが隠しようもなく、それが美しさとなって滲み出ている方もいるものです。そういう人、皆さんの近くにもいらっしゃるでしょう?
自分の命、自分の心、自分のお金、自分の美貌…と信じて暮らしていても、はたして本当に純粋に自分のものというものが存在するでしょうか。自分で思い描いている「自分」。これほどアテにならないものもありません。
肉体を自分だと思っている人は多いと思いますが、それは即ち服を自分だと思うことと同じではないでしょうか。それが証拠に、肉体もいずれは使用に耐えなくなり、捨てなくてはならない時期が必ず来ます。普通の知能があれば、自分の命さえ、自分のものではない、自分の思い通りはならないということが分かります。止まってしまったら即死んでしまう心臓。それぞれが自分のものだと思っているでしょうが、これとて、自分の意志で止めたり動かしたりできるものではない以上、自分のものではありますまい。天地創造の大きなメカニズムの中から生じ、休むことなく動き続け、使命が終わればその動きが止む、あくまでも命の本質とは与えて頂いたもの、そう思えば、おろそかにできるものではないはずです。
心の問題になりますと、これがもっと複雑になって参ります。
最近身近にこういう例がありました。職場で「ひどい目に遭って」心の病が悪化し休職している方なのですが、彼にとっては苦手ないわゆる「合わない人間」が存在し、心の病をさらに悪化させるような職場環境であり、自分を被害者だと思っているようです。そのように私に訴える彼の表情はまさに甘ったれた幼児そのもののように見えました。
彼にとっては自分がヒドイ目にあっているというのが「真実」です。ところが、彼の話を聞いていると、まず出発点に、彼の心の中に非常な根深い欲が存在することが垣間見えてきます。そして次にそれが叶わないことへの怒りが生じているのです。さらに様々な要因がゴチャ混ぜになって異様な精神状態になっているのでした。
こういう人はどのようなトラブルでも必ず人のせいにします。具体的に自分を害している人のことを話すのですが、恐らくその人が彼の職場からいなくなったとしても、何か面白くない事態が起きれば、また別の人のせいにするでしょう。
心を病んでしまって精神科で薬をもらって飲まないととても生活できないというような場合でも、心の根っこの部分に尋常ならざるモノがあり、心の病の形で表れていることがあります。このようなケースは、どれだけ薬を服用しても逆に害ばかりで、自分の真実の姿に気が付かない限り、治るということが全く望めないように思います。
真実を把握できない煩悩を「無明」と言います。これが最も根深い、基本中の基であるところから根本煩悩と言われます。より真実に近い「自分」の姿に気が付くにはどうしたらよいか。それは日々、毎日の修行の中で身体と心の状態の関係を、客観的に捉えて行こう、観続けようという精進努力しかないように思います。
2013年 「5月の標語」
賢者は 順次に少しずつ
そのつど みずからが
汚れを 除く
鍛冶職人が銀の汚れを除くように
――― 『法句経』 第18章 汚れ 239
常宿寺では、昨年3月から、月2回(第1、第3土曜日)ヨガ教室を始め、ちょうど1年になりました。1年経ったところで「ほとんど進歩がない、自分にはもう無理!」という理由で、お止めになった方がいらっしゃいました。坐禅でも同じこと、1年どころか、1,2回来ただけで、止める方が大多数です。なかには、1,2年位は続く方もいますが、どのくらい進歩するかという点では、実は1,2回も、1,2年もたいして変わらないのです。
考えてみて下さい。身体にしろ、心にしろ、50年、60年かけて(実は過去世からもっと長い間かけて積み上げてきたものではあるのですが)今の状態になったものを、たかだか1,2年で易々と変えられるものでしょうか。
私はその度に、皆様のアキラメの早さに驚くのですが、そもそも修行というものの本質を全然分かっていないので、こんなことになるのだと思うのです。修行というものは、一生どころか何度生まれ変わっても、どこに居ようと、この世でもあの世でもずーっと続けていくべきものです。それでも「ちょっと進んだかな」という位にまで成ることさえ難しいのです。
ブッダは、次のようにも説かれます。
(道に)思いをこらし、耐え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。
これは無上の幸せである。『法句経 23』
思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。『法句経 25』
人間には、恐らくどんな方にでも向上したい、清らかになりたいという気持ちがあるからこそ、修行を志すのだと思います。今、地上に存在するどのような宗教でも、多かれ少なかれ目指すべき境地を想定して誕生したものでしょう。ある場合には、大変残念なこと、恐ろしいことに、心を清らかにしようとして、極端な原理主義(理念的な原理や原則を重視し、近代的な世俗主義を邪教とみなすような信念や傾向のこと)にまで走ります。人殺しにまで発展してしまっている場合もあります。オウム真理教が誤って用いた「ポア」という言葉もこれに当たります。これは修行の本当の目的や方法を知らないことから起こることだと思います。
ブッダは「順次に少しずつ、そのつど、一刹那、一刹那、磨くのだ」と言われました。毎日、毎日とにかく続けていくのです。どれだけ考え事が浮かんできたり、集中できなかったり、怒りや欲にさいなまれても、つい眠くなってしまっても、とにかく忍耐力を以て、続けていると様々なことが観えてくるようになります。
私自身の経験で申しますと、30年ほど前に坐禅を始めたのは、自己否定地獄に陥ったことからでした。始めてから5年、10年の頃は、何も分からず続けていただけでしたが、毎日根気よく続けている内に、これほど愚鈍な私でも、身体や心のことが少しずつ観えてきて、物事の本質、存在の理由などが教えて頂けるようになってきました。何か表面的にはトラブルのように見える事態に遭遇しても、あまり落ち込むことが無くなってきました。与えられた試練の意味を肯定的に捉えられるようになっていきました。一例をあげれば、私は今生では女性として生を受け、そのことだけでも様々な試練が与えられますが、それも因と縁の結果ですので、与えられた条件の中で可能な限りの努力を続けていくしかありません。
人々との出会い、何かトラブルが起きた時など、折に触れて、怒りや悲しみが現れてきますが、観続ける訓練をしておりますと、感情のリセットが容易になってきました。そして25年を過ぎるあたりから、なるほど修行というのは、毎日、毎時、毎分、毎秒、その都度、コツコツと観続ける、気づいていく努力をしていくことしかないのだと教えて頂けたのでした。そしていつの間にか、自分自身に対しても怯えなくなっていたのです。それは即ち、全てを全面的に肯定することです。
怒るのも、悲しいのも、そうなる「瞬間」があります。舞い上がるほど嬉しかったり、嫉妬するときにも、その瞬間があります。24時間が瞬間の連続なわけですから、観ていく力が増せば増すほど、教えて頂ける事柄は増えていくのです。「瞬間」に気づいていくことがどれだけ大切かお分かりになるでしょう。
巷で、坐禅すると即「無」になるとか、誰がそんなウソを言い始めたのやら、とんでもないことが言われています。何も考えないでいる時間も大切なのですが、それは往々にして「ただボーっとしているだけ」になってしまっている方、寝てしまっている方など、結構いるのです。
坐禅しているつもり、考え事をしていないつもり、悟っているつもり、怒らなくなったつもり、欲が無くなったつもり、それはまだまだ認識不足、修行が未熟という証明以外の何物でもありません。意地悪を言うなら、今まで述べてきたことが、頭だけでなく身体でわかっていないと何年坐っていても、全く修行になっていない場合があるのです。澤木老師はこれを称して「狐がついている」とおっしゃいました。
修行とはやればやるほど奥が深く、「まだまだだ」と思い知ることだらけです。ある時には一瞬でも醍醐味を味わうこともあります。食事をしたり、旅行に行ったり、温泉に行ったりなんて言うことよりよほど大切なことになってきます。ワクワク、ハラハラ、ドキドキ、何物にも代えがたい楽しい時間になるのです。そうなると止めたいどころではありません。そうならないうちに止めてしまうということが、そもそも修行が始まってさえいなかったことの証明になっていることは、お分かりになって頂けると思います。
2013年 「4月の標語」
憎しみ合う者同士が
相手に対してとろうとする態度よりも
恐ろしいことを
邪に育った心は
自分に対して行う
――― 『法句経』第3章 心 42
33 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを真直ぐにする。――弓師が矢の弦を真直ぐにするように。
34 水の中の住居から引き出されて陸の上に投げすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。
35 心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
36 心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守りなさい。心を守ったならば、安楽をもたらす。
37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛からのがれるであろう。
38 心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、悟りの知慧は全うできない。
39 心が煩悩に汚されることなく、想いが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目覚めている人には、何も恐れることが無い。
40 この身体は水瓶のようにもろいものだと知って、この心を城廓のように(堅固に)安立して、知慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。――しかもそれに執著することなく。
42 敵同士、憎しみ合う者同士が(相手に対して)とろうとする態度よりも恐ろしいことを、邪に育った心は自分に対して行う。
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今月取り上げました標語と同趣旨のお言葉を、同じく『法句経』第5章 愚かな人 66 でも説かれています。
「あさはかな愚かな者たちは、自分白身に対して仇敵のように振舞う。悪い行いをして、苦い果実をむすぶ。」
これらのお言葉をお読みになって、その本当の意味を理解して頂くことが出来るでしょうか?
恐らくよく分からないとおっしゃる方がほとんどであろうと思います。人は「自分を大事にしている」と信じていますし、誰よりも自分だけは守っていると思っているからです。
しかし、私が日常接する周りの方々や、お寺ということで何かとご相談に見える方々とお話しておりますと、大事にしているつもりでも、自分に対して仇敵に対するように扱っていらっしゃる方が結構いらっしゃいます。
一般社会常識に照らし合わせ、社会的地位、収入、世間体などで価値観を作り上げ、他人のみならず自分をも裁き、不満を募らせている方が何と多いことでしょう。
巷では、子供を授かった時など、顔を見るまでは「五体満足でいてさえくれれば…」と祈ります。ところがいざ生まれてみると、今度は「這えば立て、立てば歩め…」となります。五体満足に生まれてきただけで充分のはずなのに、そこから先がまた、欲に振り回され通しとなります。
子供自身も成長につれ欲も芽生えてきますし、親の欲とのセメギあいの中で争いが起こってくるのです。家庭のみならず、学校で、職場で、交友関係においても、常に競い合いが生じてきます。
こうした社会の仕組みの中で、果たしてどのくらいの方が本当に自己の在り様を正確に把握できているか、自己を敵に回さないでいるか、大いに疑問を感じているところです。
自分自身の欲や怒りから生じたハードルを越えられないと、さらに怒りが生じ、自身に対して攻撃を始めます。あるいは、自分の前に生じたハードルそれ自体に対してさえ気づいていない人もいます。例えば、怒りや欲で、真っ黒になっているのに、自分自身は欲がなく悟りすましていると固く信じている方も現にいるのです。当然これはうわべだけのことですから、いずれホコロビが生じてきます。
はたまた、子供ができないことの不満、伴侶が見つからない不満、不倫が成就できない不満、恋人がいないことの不満、子供の出来が悪い、姑が意地悪、嫁の出来が悪い、亭主の稼ぎが少ない等々、いちいち挙げて行けばキリがありません。そういうお話を聞くお相手をしておりますと、その不満によって生じた怒りがメラメラと燃え上がりその炎の強さで、身体も心もダメージを受けているのがよく見えるのですが、こちらはただただハラハラしながらお話を聞いているだけで終わってしまうことがほとんどです。
こうした不満や怒りを心に貯めていくと、たまったモノがいつしか身体を本当に攻撃し始めます。古来このような事態を「病は気から」と称してきました。
このような事態は、あたかも事故を起こした原子炉のようなものです。原子炉はよく管理しさえすれば、よいエネルギーとして活用できます。しかし、東電の原発事故のように原子炉から放射能が漏れだしたら、人間は平穏に暮らすことができません。心もよく制御することができなければ、自分自身に対して壊滅的な被害を与えるのです。
私達は、普段、自分のことは自分が一番よく知っていると思いがちですが、はたしてどうでしょう。自分の心、身体の状態、どの程度把握していらっしゃるでしょうか。自分の一挙手一投足をはっきり自覚して行える人はどれほどいらっしゃるでしょうか。ほとんどの行為は、恐らく習慣的に行っているか、惰性で、無意識のうちに行われているものです。
歩いている時にも、たいてい、なにか別のことを考えています。食事のときもそうです やっていることと、考えていることが、チグハグなのです。わかっているつもりで、わかっていません。一瞬でも真剣に自身の動作、身体の状態、心の動きを観察してみると、
お釈迦様がおっしゃるように、「心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。捉え難く、軽々とざわめく。極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この身体は水瓶のようにもろいもの。邪に育った心は、敵同士、憎しみ合う者同士がとろうとする態度よりも恐ろしいことを、自分に対して行う。」ということが徐々にわかってきます。
それでは、心を、事故を起こした原発のようにしないため、あるいは、事故を未然に防ぐにはどうしたらよいのでしょうか。
お釈迦さまが教えられたことは、「自分の心が、体が、どのように動いているのかをよく観察する」ということです。心というものは、眼耳鼻舌身といった五つの感覚器官を通して感受されたことに反応して、色々な変化を起こします。よく観察し続けると、様々なことに気づきが深まって、無尽蔵のことを教えて頂くことが出来ます。
ほとんどの問題は、「今、ここの自分自身」に気がつかないところに生じていますから「今、ここの自分自身」に気づくことが最も大切なことです。そのような努力が、自己を未然に防ぐことに繋がっていくのです。
さらに、次に重要なこと。私たちは一人一人が、犬や猫、あるいは、道端の雑草1本がそこにあるのと同じ理由、同じメカニズムで存在しています。 即ち、太陽があり、地球があり、大気があり、海があり…という、自然の摂理の一環の中で、生じた存在です。太陽も、地球もなくては生じてこなかった生命です。そのことを、自分自身の体、呼吸、心の動きなどを、毎日毎時毎分観察し続けますと、納得できて参ります。
自分自身の中にある太陽から頂いたものと同じエネルギーを感じることが出来ますと、それを大事に育んでいくことができるようになってきます。自己の中の暖かい太陽エネルギーに気付いていくとき、それに対して仇敵のように振る舞うことはできますまい。そのパワァーを心の中に育んでいこうと志すところに争いは起きません。
お天道様も、お月様も、誰にでも平等に、照らし続けて下さいます。それぞれの命が、その恩恵によって生かされているのですから、何かトラブルがあった時でも、そのことを良くかみしめてみれば、今までと違った解決策が与えて頂けるのではないでしょうか。☀
2013年 「3月の標語」
怨みをいだいている人々のあいだにあって
怨むことなく われらは大いに楽しく生きよう
怨みをもっている人々のあいだにあって
怨むことなく 安楽に暮らしていこう
――― 『法句経』 第15章 楽しみ 197
197 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むことなく、安楽に暮らしていこう。
201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
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今月は、『死刑』について考えてみたいと思います。
谷垣禎一法相は2月21日午前、3人の死刑を執行したと発表しました。執行されたのは、小林薫(44)=大阪拘置所 ▽加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)(62)=名古屋拘置所 ▽金川真大(まさひろ)(29)=東京拘置所=の各死刑囚。
昨年12月末の政権交代後で初めての執行ですが、谷垣法相は就任から2カ月弱で執行命令を出したことになります。
法務省刑事局によると、20日時点で未執行の死刑確定者は戦後最多の137人。今回の執行で134人となったそうです。
最近は、マスコミで報道される事件を見聞きしても、犯罪がより凶悪化し、簡単に人の命が奪われるケースが多いような印象を持っておりますが、平成になってから、23年には死刑確定者数最多の24人を数え、昭和の高度成長期が毎年一桁だったことに比較すると、世相がいかに荒れてきているかということが如実に現れていると思います。
我が国においては死刑確定が増加をたどってはおりますが、世界的に観てみれば第2次世界大戦後、死刑制度を廃止する国も増えてまいりました。
死刑を肯定される方のご意見として主な点を挙げてみますと、
@ 死刑がなかったら、凶悪な犯罪が増える。死刑があるから社会の秩序は保たれている。(犯罪の抑止力)
A被害者の気持ちを思えば、犯人を極刑にしなければならないのはあたり前だ。(報復感情)
@につきましては、我が国の歴史をふりかえってみて、昔から、所謂『死罪』といった形で行われてきてはいても、それによって犯罪が減少したという訳ではありませんし、死刑と犯罪の発生との関係はないと結論づけても間違いではないと思います。
Aにつきましては、よく「犯人を厳罰に処してほしい」と被害者の家族の方が言っている場面をみます。しかし、それは犯人を死刑にすることだけで解決できる問題ではないように思います。冒頭のお釈迦様のお言葉は、そのことをおっしゃっているのです。
「かたき討ち」などということが認められていた時代もありましたが、それは100年以上も昔の事、ここまで文明が発達してきた世の中においては在り得ないことです。でもこのAの理由を認めるということは、個人レベルの「かたき討ち」は認めないが国家が代わりに「かたき討ち」をしているということにもなります。個人に認めないことを国家的に認めるというのも、ちょっと筋の通らないおかしな話ではないでしょうか。
今回死刑を執行された3名のうち、2名についてみてみますと浮き彫りになってくることがあるように思います。
《小林薫死刑囚》
04年11月17日、下校中の女児を奈良県三郷町の自宅に連れ込み風呂場で水死させた。その後、同県平群町の造成地の側溝内に放置するなどした。06年10月に死刑確定。再審請求したが、最高裁が09年に棄却。
小林薫死刑囚(44)は、捜査段階から「この世からおさらばしたい」などと死刑を望む発言を続け、一審判決で主文言い渡しが後回しにされるとガッツポーズをした。「世の中変わらないから」と弁護人に告げて控訴を取り下げ、死刑が確定。知人や遺族に手紙で謝罪する一方で、社会への批判を繰り返した。
月刊誌「創」の編集長に出した手紙では、一審判決前、「少しでも心証を悪くしようと、ふてぶてしい態度を続けた」として、遺族に不愉快な思いをさせたことを謝罪した。一方で、「私のようにいじめから逃げ耐え、差別の目で見られる人間の気持ちは分からないだろう」と、社会に矛先を向けた。
一審判決後は、「納得できる内容ではない。『犯人憎し』で死刑を言い渡した」と批判。翌月に控訴を取り下げた際には、「やはり死をもって償うしかない。私の主張がすべて批判されるなら、控訴は無意味。今後起こるだろう犯罪は社会の責任だ」とした。
有山楓ちゃん=当時(7)=の命日前には、「人として最低の行為で、大切なお嬢さんの命を奪ってしまった」とした遺族への謝罪の手紙を弁護士に送付。遺族は受け取りを拒否した。法相宛てには、命日までの死刑執行を求める手紙も書いた。
《金川真大(まさひろ)死刑囚》
08年3月19日、茨城県土浦市の民家で、この家に住む無職男性(当時72歳)を包丁で刺殺。同23日、同市のJR荒川沖駅で男女8人に包丁などで切りつけ、男性会社員(当時27歳)を殺害し、7人に重軽傷を負わせた。控訴取り下げで、10年1月に死刑確定。
事件からおよそ1年後、FNNが送った質問の返事として、金川死刑囚の手紙が届いた。
手紙には、「失敗したなと思う。行為そのものではなく、1人しか殺せなかったことに」、「反省? はんせい? HANSEI? 何を? コレハ理解不能デス。この世の真実を悟った俺に、ハンセイなんてものは存在しないのです」などとつづられていた。
反省や謝罪の言葉はなく、動機について、金川死刑囚は「死刑になりたかったからやった」としている。
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この二人の心の有り様を想像しただけで、絶望と憤りと孤独を感じ取ることが出来ると同時に、深い悲しみを覚えます。何が二人をここまで駆り立ててしまったのでしょうか。
この二人に、望み通り死刑を執行して、この世の存在を抹殺しただけで、問題の解決になるとお考えになりますでしょうか?
仏教ではどんな極悪人でも、立ち直る可能性があると説かれます。お釈迦さまの弟子には、かつて百(一説には千)人もの生命を奪おうとしたアングリマーラがいます。次々と人を役し、「あと一人を殺せば百人」というところで、お釈迦さまに出会った途端、自己の非に気が付き、お釈迦様のもとで出家して悟ることができました。
凶悪な犯罪を犯した者に対して私達は大きな怒りや憎しみを抱いて、厳しい処分は当然だと考えますが、よく考えてみれば、罪を犯したその者だけが悪いのではありません。
例えば、私達の周りにも、世の中に迷惑かけるばかりのような存在の人っていませんか?そういう人とはなるべくなら関わりたくはありませんよね。そういう「関わりたくない」という気持ちが、そういう人たちをより一層孤立させていく一因になっていくのでしょう。
すべての事象は、因と縁によって成り立っているわけですから、この世の社会の有り様も、こういった人々を生み出す一つの温床になっているわけで、その意味でこの社会に共に住む私達にも、その責任の一端があるように思います。恐らく犯罪を犯すその瞬間は、孤立無援、誰も彼らをしてその行為を思い止まらせることはできなかった。悪魔の声が、彼らをそそのかし、あおり、後押ししていたことでしょう。
昨年7月の標語に、以下の言葉を取り上げました。「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり、行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように」(『法句経』 第1章 1、ひと組ずつ)
物事は自身の心の中で意図したことに基づき、そこから作り出される。だから汚れた、欲や怒りに満ちた心で話をしたり、物事を行えば、そう思ったように物事は悪い方向へ進み、結果的に苦しみがついてまわる、ということをお釈迦様はおっしゃっています。
マイナス思考で、周囲に対する不平不満、悪口等ばかりを言い、そのような想念で生きていると、どんどん運命は暗転していきます。
更に述べましたように肉体を操っている根源の「想い」=エネルギーは肉体が消滅してからも残りますので、いわゆる死後の世界は「想念のみの世界」ということになります。したがって欲や怒りに振り回され不平愚痴ばかりを言っているような想念の持ち主は、死後もそのような怒りや怨念のエネルギーだけは持ち続けます。否、怒り、怨念そのものになってしまうのです。それを怨霊と申します。昔話の世界ではありません。
この両死刑囚の想念がそこに残っている状態というものは想像するだけで恐ろしいものがあります。彼らの憎しみのエネルギーは、未だ生きていて、同種の憎しみのエネルギーを蓄えている人の側からそれを吹き込み、悪魔のささやきとなって犯罪の後押しをするのです。そして、この犯罪の連鎖は、止まる処を知りません。
「死刑になりたかったから人を殺した」などと言っている人間の望みを叶えて上げることが、果たして妥当なことなのか…。御望みどおりにはしないで、終身隔離して、可能な限りの手立てを尽くして、矯正できるようにしていくことが最も世の中の為になるように思います。生きていさえすれば立ち直る可能性はあるのですから。
2013年 「2月の標語」
すべての者は暴力におびえ
すべての者は死をおそれる
己が身をひきくらべて 殺してはならぬ
殺さしめてはならぬ
生きとし生ける者は 幸せをもとめている
もしも暴力によって生きものを害するならば
その人は自分の幸せをもとめていても
死後には幸せが得られない
――― 『法句経』第10章 暴力 129、〜145
129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
130 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
131 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
132 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
134 こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
135 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。
136 しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。―― 火に焼きこがされた人のように。
145 水道をつくる人は水をみちびき、矢を作る人は矢を矯(た)め、大工は木材を矯め、慎み深い人々は自己をととのえる。
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大阪市立桜宮高校2年の男子生徒(17)が昨年12月23日、自殺しました。この生徒は強豪で知られる同校バスケットボール部で主将を務めており、顧問の男性教諭(47)から体罰を受けたと手紙に書き残していたそうです。
亡くなる前日、男子生徒は母親に「今日も30〜40発殴られた」と話し、遺体の顔面は腫れ、唇は切れていました。
大阪市教育委員会などの調査によると、この男子生徒は、昨年9月にバスケットボール部の主将となって以降、顧問の男性教諭からビンタなどを毎日のように受けていたそうです。
どのようなことが起こっていたのか真偽の程は分かりませんが、生徒が自ら命を絶ってしまったこと、その遺体には、明らかに肉体的ダメージを受けていた跡があったと言う事は事実であろうと思います。
この報に接してまず一番初めに違和感を持ったのは「体罰」という言葉そのものです。そもそも「罰」とは、「罪・悪事・過ちなどに対するこらしめ、しおき」ですから、この生徒に、体にそこまでダメージを受けねばならないほどの落ち度があったのかどうかということも問われるでしょう。そうでなければ、今回の事件は、体罰ではなく傷害事件ということになります。
体育会系のクラブの場合は特に、大会に優勝したりといった実績が要求されますから、「体で覚えさせる」といった指導方法が旧来より行われていたことは私も存じております。今回の事件について、様々な方のコメントなどを読んでいましても、自分も相当に殴られていたとかいう、自分の体験と照らし合わせての暴力容認も結構ありました。
私の亡父は、大正生まれ、陸軍士官学校を卒業し、終戦の時までは日本帝国軍人でしたから、バリバリの鍛え上げでした。私には姉と弟が居りましたが、父がカーッとなると、よくブン殴られた記憶があります。私は結構要領が良かったので、気配が「危ない!」と察知するのが早かったので、3人の中では一番殴られた回数は少なかったように思います。
父は大変に勤勉で真面目な人でしたから、「人のせいにするな」「これではいかんと思え」この二つを骨身にしみて教え込まれました。何かしたいというと、なんでもさせてもらえましたし、経済的にも恵まれておりましたので、衣食住全てにおいて普通以上の豊かな経験をさせて頂きました。大変な御恩を戴いて今日まで来させて頂けたのですが、それでも、今思い出しても、時たまカーッとなってブン殴る、ということは、あまり良い思い出ではありません。私共親子関係に必要なことであったのかと思い返してみても、やはり暴力を肯定的に捉える訳には参りません。それが果たして教育的効果があったのかどうかについても甚だ疑問です。むしろ「殴られた」記憶がなかったなら、私の父に対する尊敬と憧憬の念はもっともっと強いものになったであろうと思います。
この『法句経』においてお釈迦様が説いておられますように、身体にダメージを与えることは苦痛を与える訳ですから、心にも苦痛を与えることになり、決して良い結果にはなりません。
そもそも父が生まれ育った世界大戦前の世相と、私共が生まれ育った敗戦後の高度成長時代とでは時代背景が全く異なっております。さらに下って、今「若者」と呼ばれている世代は、平成生まれで、バブル崩壊後の不景気の波をもろにかぶって育ってきている子供達ですから、物の感じ方も価値観も全く想像もつかない世代になってきているようです。
そういう世代に、自分たちがやられてきたようなことを簡単にやってしまうと、それこそ今回のように取り返しのつかない事態に発展するように思います。
黒田勇関西大教授(スポーツ社会学)が「体罰のような旧来の精神論に基づく指導法が、(スポーツが強い)強豪校でも残っているのが驚きだ。閉鎖的な空間で体罰が行われ、表面化しにくくなってしまったのだろう。合理的な指導法が分からないという焦りや自信のなさが体罰につながった可能性もあり、科学的なコーチ論による指導者養成の仕組みを充実させる必要がある」と指摘しておられるコメントを読みましたが、やはり指導する側も時代の流れに即したやり方に変えていかなければならない時期が来ていると思います。
また、最近の若者の気質の変化という点で、以下のような記事も発見しました。
流通科学大学 サービス産業学部教授 岩崎 久志先生は、「2009年度 中国・四国地区父母懇談会 愛媛会場 講演『大学生のコミュニケーションスタイル〜現代若者気質の一断面を探る〜』」において、
「現代の大学生像」として、「大学生協連が一昨年実施した全国的な調査結果から、現代の大学生像が浮かんできます。第一には、生活の重点は勉強第一であり、授業にはきちんと出席する。この点は本学とも共通しています。第二は“ほどほど”ということです。志を立ててどうこうという学生は少なく、そこそこ楽しく暮らせればよい。大事にするのは人間関係、という結果になっています。」と述べておられるのです。
最近の傾向として、現代の若者は欲が少なくなってきた、との記事は容易に見聞きすることが出来ます。いわゆる草食系というらしいのですが、世の中が、方向性を失っている時代の中で、自分だけが志を大きく持ってガンガン行こうという風にならないのは、当然と言えば当然のような気もします。さらには、結婚もしたくない、子供も欲しくないという人が増えてきてもいるようです。これが果たして問題かどうか、少子化を悪いことのように問題視し、政治家はその対策に頭を悩ませているようですが、「消費は美徳」といったような従来の社会システムの在り方そのものも、これからは根本的に問われてきている時代に移っていると思います。
諦めなのかもしれないけれど、若者のいわゆる「欲」が小さくなってきていることはあながち悪いことではないようにも思います。少なくとも宗教的立場から見るならば、それは霊性としては、確実に進歩であることは間違いありません。
2013年 「1月の標語」
昼も夜も 身体を
気づきをもって観ている仏弟子は
いつもよく冴えわたっている
昼も夜も 心を
気づきをもって観ることを
楽しんでいる仏弟子は
いつもよく冴えわたっている
――― 『法句経』第21章 さまざまなこと 299、 301
常宿寺では、当ウェブサイトで坐禅会のご案内をしておりますが、坐禅を希望しておみえになる方は、不思議なことに、時期的にピタッとその流れが止まる場合と、なんとなく続けてポツッ、ポツッという場合があります。今は、後の方ですが、坐禅したいと言ってもやむを得ないことながら、普段の仕事の都合に合わせてということですから、仕事が休みの日に、というご希望がほとんどです。
ただ、坐禅会のページにも書かせて頂きましたが、修行というものは、毎日継続すべきものです。本当は毎朝どころか毎日、朝から晩までそれを志して心がけていなければ、成就することはできません。仏道修行に限らず、何事も成就することを目的として行うことであれば、どのような事柄にでも当てはまるであろうことは、賛同して頂けると思います。
そもそも、月1回程度ではとても坐禅をやっておりますなどということはおこがましく、週1回坐ったとしても、朝40分位では「なんだ、何も変わらないじゃないか」ということで結局やめてしまうのです。私が参禅希望の方に、「月1回、週1回お寺に来て坐禅をした位では、坐禅をしていると認める訳にはいきません」と申し上げているのはその為です。
次に申し上げたいことは、多くの皆さんが間違ってしまうのは、坐禅とは「無になること」という、いい加減なイメージをもっているので、ちょっと坐ってみて、無になるどころか、足は痛いし、頭は考え事だらけ…、ということで、ほとんどが三日坊主どころか1回コッキリということになるのです。
そもそも、お釈迦様ご自身のお説法の中で、「無になる」というお言葉は、私は未だかつてお目にかかったことがありません。お釈迦様の修行法で最も力説なさっていることは、今月の表題にもありますように「気づきをもって観る」ということです。
それで、坐禅を希望してくる方には、お寺には週1回しか来ることができなくても、以下のことを、1日数分でもよいですから、必ず毎日実践して下さいとお願いします。
@ 可能な限り、朝起きた時から寝る前まで、自身の心の動きを観察して下さい。
A 同じく、自身の呼吸がどうなっているか、観察して下さい。
B 歩く必要がある時は、「右左、右左…」という具合に、(単なる掛け声にならないように注意しながら)歩いている足の運びだけに注意を向けて下さい。
この3点を実行する目的は、とにかく「考えないこと」でもあります。
当ウェブサイトの『非思量』のページで詳しくご説明させて頂きましたので、できれば御読み頂きたいのですが、皆様は、生まれてこの方、考えることは良いことだという風に教えられて生きてきましたので、なかなか「考えない」ということが、どれだけ人間として生きて行く質を向上させるかということを理解してもらえません。
私共は、生き物として生命をながらえる為に、肉体を持っており、その肉体を維持していくために本能が備わっております。体のメカニズムも、自分の大好きな御馳走を見た時には唾液がどんどん出てきますし、その御馳走が胃袋に入って行けば胃液が出てきて消化してくれます。これと同じように「湧いてくる考え」は脳の分泌物という程の捉え方をしてもそう間違ってはいないと思われます。朝から晩まで自身の脳味噌に浮かんでいることをよくよく観察してみると、将来的に役に立ちそうな「いい考え」などというものはほとんど出てこず、過去になってしまった出来事や、他人との会話を何度でも繰り返し思い出しているに過ぎない場合がほとんどです。
しかもご丁寧なことに、たまには良いことを思い出しても、ほとんどの場合は、あまり良くない方の事柄を思い出すことの方が多い様な気がします。
仏教的なものの捉え方からしますと、考え事とは煩悩によるブツブツとした感情の湧きあがり(ノイズつまり雑音のようなもの)なのです。自分の脳味噌に次々と浮かんでは消えていく物事を、垂れ流しにしないで、気づきをもって観察する努力を続けて行くと、日常生活において、気づきの機能がアップしてきます。
例えば、何かの事象に怒りを覚えた場合でも、「カーッ!」に振り回されるのでなく、「怒りの感情」という風に観ていくのです。そうすると欲や怒りなどは自分のものではなく、自己から分離されたものとして気づいていくようになります。
このような努力を続けていくと、認識作用に変化が生じ、日常湧き上がる欲望や感情を客観的に捉えられるようになっていきます。そして、全ての現象がただ過ぎ去っていくものという理解が起こることによって、徐々に執着が取れていきます。「苦」もそのままの状態で知ろうとすること、客観的に観ることによって、抜け落ちて行くのです。
具体例を、私自身の体験から述べさせていただきます。
私は、特に急な用事とかが入らない限り、毎朝4時頃から坐禅をしております。参禅の方は、今のところはどなたも来ない日もあったりしますが、数年前は、割合い大人数でやっておりました。
その時はたまたま、大人数で坐っていたのです。早朝でも、結構スピードを出して走り抜ける車や、人声、はたまた、ノラ猫ちゃん達が威嚇しあっているようなけたたましい声が聞こえることもあります。
ある時、結構耳に障る音が聞こえた瞬間、「ドキッ」とし、次に「イラッ」としました。
修行の方法としては、「音が聞こえても、耳が音を捉えただけにする」というのが正しいので、参禅者の方にもそのように申し上げているのですが、その時の私は「イラッ」を感じ取った時に「音を嫌っている自分」に気が付いたのです。やはり、道場の主催者でもありますから、なるべく静かな環境で皆様に座ってもらいたいし、坐禅中に聞こえるには「ふさわしくない音」もあります。
ところが、音を嫌っている自分に気が付いた直後から、不思議なことに音をただ音として捉えることができるようになっていました。
それまではやはりどこかで、「自分が責任者の(これがミソなのですが)坐禅道場」と言う意識が働いていたようにも思います。
冒頭のお釈迦様のお言葉は、このように、気づきを以て観ていくと、どんどんと覚醒していきますということなのだと思います。
そしてどんどん変化していく自身に気が付いていくと、毎日の坐禅が、旅行へいったり、御馳走を食べ歩いたりなどということよりも、もっとワクワク、ドキドキの楽しいことだと実感できてきます。
そうなってくると、坐っているだけでお金もかからないし「いいことだらけ」なんですがねぇ〜(*^!^*)