今月の標語 2018年

2018年 「12月の標語」

この鉄道は日本国民の叡智
と努力によって完成された

――― 東海道新幹線記念碑

皆さ〜ん、東京駅、東海道新幹線18・19番ホームの真下、ホーム中ほどの階段を降りたところにある新幹線記念碑をご存知でしょうか?http://blog.livedoor.jp/granyamaki/archives/33507392.html

東海道新幹線 NEW TOKAIDO LINE
この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された
Product of the wisdom and effort of the Japanese people
東京・新大阪間   515km
起工 1959年 4月20日
営業開始 1964年 10月1日

今年の8月4日、「日本の新幹線の「安全」を作ったのは、零戦開発の大功労者だった」という記事が目に留まりました。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56783 現代ビジネスオンライン
(以下、抜粋して掲載)
 18年前(2000年)の8月4日、一人の元技術者が世を去った。松平精(ただし)さん、享年90。
昭和9(1934)年、東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業後、海軍航空廠に入廠。以来、一貫して飛行機の振動問題を研究、零戦の空中分解事故の原因究明などさまざまな難問に取り組んだ。

 戦後は鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)に入って鉄道車両の振動問題を研究。「夢の超特急」といわれた東海道新幹線の開発でも重要な役割を果たし、この分野における世界的先駆者として大きな実績を残した。

 昭和20(1945)年、日本の敗戦により太平洋戦争が終結し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命でいっさいの軍事活動が禁じられると、それまで陸海軍の研究機関や軍需産業に従事していた多くの技術者が一般産業分野に流れ込み、戦後日本の復興に大きく貢献した。
その技術移転の範囲はきわめて多岐にわたるが、「世界一優秀」と言われる鉄道技術の分野においても、技術者たちが、戦時中培った技術や理論を基礎に、重要な役割を果たしている。松平さんも、その一人だった。

 松平さんは、明治43(1910)年、東京・浅草で生まれた。生家は、もとは徳川家と同族の、三河の松平家の一つで、七代英親が正保2(1645)年、豊後国木付(現在の大分県杵築市)に入封以来、代々杵築藩主をつとめた家である。十代藩主親貴のとき明治維新を迎え、版籍奉還ののち子爵に列せられ、東京に移り住んだ。その後、親貴が早世すると嫡子親信が家督を相続したが、この人が松平さんの父である。

「兄が子爵を継ぎましたが、私は三男だったので、自由気ままな身分でしたよ」と、松平さんは言う。
学習院高等科から東京帝国大学工学部船舶工学科に進学。

卒業する少し前、昭和9(1934)年1月頃、海軍が飛行機を国産化するため、横須賀海軍航空隊(横空)の隣に大規模な航空技術研究機関、航空廠を設立。「技手(ぎて)」(判任官)を経て昭和13(1938)年には技師(高等官。松平さんは終戦時、軍人の中佐に相当する高等官四等)となっている。その間、陸軍に徴兵され、昭和10年から11年にかけ、在営10ヵ月、再入営2ヵ月の幹部候補生として東京・立川の飛行連隊に入営した。

 昭和11(1936)年、兵役を終え、航空廠に復帰した松平さんは、当時、飛行機の高速化にともない問題化していながら専門の研究者がいなかった、飛行機の振動問題を手がけることを命じられた。機械振動については、まだ日本のどの大学でも研究されておらず、松平さんは、機械振動学を初歩から研究しつつ、自ら切り拓いていった。
 そのとき、たまたま出版されたばかりのProf. Den Hartogの”Mechanical Vibrations”(1st.ED. 1934)にめぐりあい、この名著のおかげで完全に振動学のとりこになる。

折しも、昭和11(1936)年から12(1937)年にかけ、飛行機の高速化が飛躍的に進むと、それまであまり表に出てこなかった振動問題が多発するようになっていた。
飛行機のさらなる高速化は、予想もできなかった大事故を誘発することになる。なかでも松平さんにとって大きな試練となったのは、零戦の試作機と、正式採用後の零戦二一型第135号機の空中分解事故だった。
こうした、事故の原因究明を乗り越え、 十二試艦戦はこの年(昭和15年)7月24日、海軍に制式採用され、零式艦上戦闘機(零戦)と名づけられる。

 そして9月13日、中国大陸重慶上空で、進藤三郎大尉の率いる13機の零戦が中華民国空軍のソ連製戦闘機約30機と空戦、1機も失うことなく27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)するという鮮烈なデビューを飾った。以後、零戦はまさに向かうところ敵なしの活躍を続け、そのニュースは松平さんたち空技廠の技術者の耳にも入ってきている。そして昭和20(1945)年8月15日、終戦。

「まあこれで難しい仕事からのがれられる、二度と事故調査に追われなくて済むな、と、正直なところホッとしました。戦争中は欧米の研究資料は入ってきませんが、われわれのやっていたことは世界に一歩先んじていたようです。戦争が終わって、米海軍が調査に来たとき、彼らはたいへん驚いていましたからね」

 海軍の解体で職を失った松平さんは、昭和20年の暮れ、運輸省鉄道技術研究所(昭和24年、国鉄に移管)に入り、こんどは鉄道の振動問題に取り組むことになった。

 駅裏から歩いて2〜3分ぐらい、森のなかに『鉄道技術研究所』と書かれた立札があって、2階建てのバラックが3棟ぐらい、あとはなにもない。バラックの裏は一面の芋畑で、青い菜っ葉服を着た職員がイモを掘っている。これはとんでもないところに来た、こんなところでなにができるんだろう、と思いました」
当時、鉄道における振動研究は手つかずと言っていい未開拓の分野で、松平さんはここで研究をスタートすることになる。

 昭和22(1947)年7月1日、山陽本線の光―下松(山口県)間で旅客列車が脱線転覆し、死者15名、負傷者72名を出す大事故が起きた。D51機関車が重連で客車を牽引して走行中、機関車がまず転覆し、続いて客車が脱線転覆して海中に転落したのだという。
松平さんはさっそく事故調査委員を命じられ、こんどは鉄道事故の調査に携わることになった。

「一般的に言うと、ごく低速ではもちろん車両は安定しているんですが、次第に速度を上げていくと、ある速度で突然、車体が大きく左右に振動します。そしてさらに増速するとその振動はいったん消え、もっと高速になると、こんどは車体はあまり振れずに、車輪が激しく左右に振動するようになります。この実験を多くの人に見せ、それからは蛇行動が正しく認識されるようになりました。」

 鉄道の「蛇行動」に関する松平さんの研究は、結果的に世界に先駆けたものとなった。昭和28(1953)年、松平さんは東京大学で工学博士号を取得、またヨーロッパの研修論文にも応募し入賞した。
 松平さんはまた、昭和20年代には自動車業界、特にサスペンション関係の研究開発にもその技術を提供し、国産初のダンパーを完成。自動車の乗り心地の改善に大きな貢献を果たしたとして、トヨタ自動車より表彰もされている。

 昭和31(1956)年5月、国鉄本社に島秀雄技師長を委員長とする「東海道幹線輸送増強調査会」が設置され、それをうけた十河信二国鉄総裁は、運輸大臣に対して「適切な配慮」を要請した。
東海道新幹線の構想自体は、すでに昭和13(1938)年、要請が出され、昭和15(1940)年には東京―下関間を9時間で走る「弾丸列車」に対する建設基準が定められていた。しかし、一部の用地買収と新丹那トンネルなどの着工は行われたものの、戦局の悪化にともない、昭和19(1944)年になってその計画は破棄されていたのである。

 13年のブランクを経て、新幹線のプロジェクトは装いを変えて本格的な研究が始まり、昭和34(1959)年4月、新幹線建設工事は運輸大臣の認可を受けた。
 松平さんは「高速車両の運動班」の班長として乗り心地、安全性の両面から高速車両の蛇行動の解決に力を注ぎ、のちに「0系」とよばれる新幹線用台車の設計に参画、その実用化に貢献した。世界に先駆けて常用速度210キロという高速を制した新幹線の高速運転は、松平さんの振動問題の研究なしにはあり得なかったと言っても過言ではない。
 昭和38(1963)年には量産車の設計、製造が開始され、本線上での試運転を経て、昭和39(1964)年10月1日、東海道新幹線(東京―新大阪間)は華々しく開業の日を迎えた。これは、10月10日の東京オリンピック開会式のわずか9日前のことだった。

「ただ、やるべきことをやってきたということです」と、淡々と語る松平さんだったが、その生涯の業績のもっとも大きな原動力となったのは零戦の空中分解事故、下川大尉の殉職という出来事であったことは間違いない。
「零戦での苦労は、実に20数年後になって、新幹線で報いられたといえるのである。」
 と、松平さんは後に手記に記している。

 新幹線は、開業以来54年、列車への飛び込みや車内での事件を別にすれば、車両が原因の人身事故を起こしていない。これは、松平さんをはじめとする基礎開発当時の研究が、いかに優れていたかを物語る、世界に誇れる事実だろう。(神立 尚紀)
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日本人はこのような鉄道を敗戦からわずか19年後に築き上げました。
戦に敗れて後、焦土と化した国を復興し、オリンピックを成功裏に導いたのは、戦争に敗れた方達であったのだという事。たった2行の記念碑の文章にどれほどの想いが込められていることか…
世界に誇れる新幹線の発祥の出発地点『鉄道技術研究所』が2階建てのバラックだったという所などは驚きを禁じえませんでした。

私の父も、職業軍人で終戦を迎え、公職追放を受けて、医科大学に入学しなおし、昭和39年10月10日開会された東京オリンピックの時にはトレーニングドクターとして携わっておりました。
父のおかげで、東京オリンピックは国立競技場での開会式を観覧することが出来ましたが、その時のくっきりと晴れ上がった青い空、その大空に自衛隊機ブルーインパルスによって見事に描かれた五つの輪の美しさ!言葉にできない高揚感を昨日のことのように、はっきりと思い出します。
あの時、松平さんがどのような想いでご覧になったことか。。。
大空に五輪を描くというミッションがどの位困難を極めたものだったか、その当時の実際の映像も含め、以下のサイトでご覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=U5ZniieSHQY

映画『永遠の0』を見ると、本当に、涙が止まりませんが、先の戦争で、国を守るために死んでいった方達が今の日本を見たら、「我々が守りたかったのは、こんな国ではない」と嘆くのでは…と、申し訳ない気持ちになります。
現代に生きる我々日本人は先人達が残してくれた努力の結晶と勤勉さに報いる生き方ができているのか、改めて自らに問う必要があると痛感します。

2018年 「11月の標語」

時代に合わない伝統に
縛られなくてもいい   

――― 藤井 青銅

このところ、毎月数件位は、墓移転、墓じまい、仏壇じまい、永代供養等のご相談を受けるようになりました。
第一に、核家族化、少子化に伴い墓や仏壇を継ぐべき後継者が不足してきていること、第二に、過疎地から都会への移住に伴い、故郷にある先祖代々の墓を移転したい、こうしたことが主な理由であるように思います。
皆様のご相談をお受けしていて、お墓や、仏壇を処分するについて、「先祖が引き継いできたものを自分の代で絶えるのは…、」と何某かの躊躇を感じる方が多いので、そのような時には、仏教や、供養の歴史などをお話しすることにしております。
皆様に、お墓についての歴史をご説明する必要性を痛感しておりましたところ、最近、以下のような大変簡潔にまとめた記事を発見しました。
このままご紹介した方が、読みやすいと思いますので、あえて全文を掲載させて頂きます。

筆者の藤井青銅さんは1955年生まれ、山口県出身。日本の放送作家、作家、作詞家。日本脚本家連盟所属。自身が主催する企画集団「オフィスDEM」代表。
23歳のとき、第1回「星新一ショートショートコンテスト」入賞。これを機に作家・脚本家・放送作家としての活動に入る。
メディアでの活動も多岐にわたり、著作に『日本人はなぜ破局への道をたどるのか 〜日本近現代史を支配する「78年周期法則」』、『1時間でパッとわかるなるほど現代世界史』、『「日本の伝統」の正体』、『幸せな裏方』などがあり、歴史に関する造詣が深い方です。

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「お墓の問題」に悩む人が勿体なさすぎる理由−時代に合わない伝統に縛られなくてもいい 
  藤井青銅  東洋経済オンライン 2018/08/25 7:40   
https://toyokeizai.net/articles/-/234531

(移りゆく「伝統」に縛られなくてもいい)
この夏、お盆で故郷に帰った方も多いだろう。現代では、生まれ育った場所とは別の土地で暮らす人が多い。しかし、先祖からのお墓は生まれ育った土地にある。そして、日本全国で高齢化が進んでいる。いま、故郷で暮らす親や親族が亡くなったあと、「先祖代々の墓をどうするのか?」という問題に直面するケースが増えている。

だがしかし、そのお墓は本当に先祖代々からなのか? いやそれどころか、われわれはいったいいつからお墓参りをしているのか?
実は現在、われわれが行っている「骨壺が埋まる石のお墓にお参りする」という伝統は、せいぜいさかのぼって100年そこそこ。「先祖代々の墓」といっても、その「代々」はそんなに古くないのだ。だいたい、庶民が「○○家」という名字を名乗るのは明治以降だし。

(フェイクニュースで広まった「お布施」や「戒名」)
インド生まれの仏教が中国、朝鮮半島を経由して日本に伝わってきたのは、6世紀中頃だ。
そこから一気に飛んで、江戸時代に入る。幕府はキリシタンを禁止。すると、島原の乱(1637年)前後から、寺請制度・檀家制度が整えられていく。これは要するに、各地域の寺が「この住民は我が寺の信者であり、キリシタンではない」と証明すること。証明してもらわなければ住民はキリシタンの疑いを持たれるわけで、生死にかかわる。なので、すべての人はどこかのお寺(檀那寺)の檀家にならざるをえない、という仕組みだ。

こうして寺は行政の末端として戸籍係の役割と、キリシタン監視の役割も兼ねた。その代わりに、葬式・法要の独占権を得た。

やがて元禄の頃(1700年頃)、『宗門檀那請合之掟(しゅうもんだんなうけあいのおきて)』という文書が現れる。内容は、住民に対し「葬式、法要などを檀那寺で行え」「寺の改築・新築費を負担しろ」「お布施を払え、戒名を付けろ」「檀那寺を変えるな」……などと、やたらお寺側に有利なことが並んでいる。それもそのはず、これは偽書なのであった。今でいう“フェイクニュース”だ。

しかも、いかにも家康が決めたことのように寺に張り出され、寺子屋の習字手本にも使われたというから、これまた今でいう印象操作や、洗脳教育みたいなものだ。
こうして、寺は経営が安定した。俗に「葬式仏教」とよばれるものは、ここに始まる。つまり、一般庶民がお寺のお坊さんと葬儀・法要を行い、家の中の仏壇にご先祖の位牌が並ぶ光景(位牌を使わない宗派もある)は、300年くらいの歴史しかないのだ。

ちなみに、元々の仏教で、死後の戒名はない。位牌のルーツは儒教から来ている。というか、そもそも祖霊信仰・祖先崇拝が仏教にはない。中国の儒教と、日本土着の原始神道的な民俗信仰とが融合したのだ。その結果、われわれは、(仏につながったとされる)ご先祖様を拝んでいる。

(「お墓参り」の歴史は200年しかない)
では、お墓はいつからあるのか?
実は、「養老律令」(757年)の喪葬令(そうそうりょう)で、庶民は墓を持ってはいけないとされた。なので、ずっと時代が下っても、普通の人々は決められた地域に穴を掘って埋め、上に土饅頭を作る。もちろん土葬だ。いわば、これが墓だった。目印として石を置いたり、木を植えたりはする。やがて遺体が腐敗して土饅頭は陥没し、その存在はわからなくなる。文字どおり、土に還るというわけだ。

しかしそれではご先祖を拝もうにも、どこを拝めばいいのかわからない。そこでやがて、埋めたのとは別の便利な場所に、石塔を作って拝むようになった(民俗学では、これを「埋め墓」と「参り墓」の両墓制と呼んでいる)。
「参り墓」を拝んだところで、それはしょせん石材だ。しかし、遠くにある「埋め墓」につながる入口だと考えればいい。

とはいえ、石塔を建てられるのは上流階級の話。一般庶民が墓を建てるようになるのは、江戸時代のことだ。各地の墓地で墓碑を調査したところ、「文化・文政・天保(19世紀初期)」の頃から、一般庶民の墓が増え始める、という。
天保2年(1831年)には、『墓石制限令』というものが出ている。これは「百姓・町人の戒名の院号・居士禁止」や「墓石の高さ四尺まで」などと決めたもの。ということは、それ以前にそういう墓が出て来たということだろう。そして、この規則を守るなら庶民も墓を建てていいということだ。
 つまり、庶民がお墓を建て、お墓参りをする風習は200年くらいの歴史しかない。

明治になって、寺請制度がなくなる。すると葬式仏教だけが残った。そこへ、明治政府の「家制度」が始まる。すると「先祖代々の墓」なるものが現れ、ここで「一緒の墓に入る」とか、「墓を継ぐ」とか「代々の墓を守る」という意識が生まれてくるのだ。

さらに、土地不足と公衆衛生の観点から火葬が推奨された。明治の思想家として有名な中江兆民は「人が死ねば墓地ばかりが増えて、宅地や耕地を侵食する。自分の場合は、火葬した骨と灰を海中に投棄してほしい」と書いている(兆民は無宗教の人だから、葬式も拒否。代わりに行われたのが日本初の「告別式」だ。あれは元々、宗教とは別のものとして始まった)。
しかしそれでも、全国の火葬率は明治半ばで30%、大正時代で40%。50%を越えたのは戦後の1950年代。火葬施設が整えられることで1980年代に90%を越え、現在はほぼ100%。日本は世界一の火葬大国なのだ。

(移りゆく「伝統」に縛られなくてもいい)
戦後、家制度はなくなる。生まれた土地から離れて暮らす人々も増える。「地元のお寺・お坊さん・お墓」と「人」との関係は、どんどん希薄になっていく。当然、檀家を前提にした寺の経営は苦しくなる。

そこで葬儀社が葬祭一式を取り仕切るようになった(葬儀社は、すでに明治時代、東京に誕生している)。もはやお寺のお坊さんは、セレモニーホールで葬儀社が仕切るイベントの中の、いち登場人物(重要ではあるが)にすぎない。いつの間にか社会的な儀式であったはずの「告別式」も宗教的儀式の中に取り込まれている。

人は必ず死ぬ。それは大昔から変わらない。だから、葬儀や墓に関する「伝統」も大昔から変わらないと思いきや、こんなに変わって来ているのだ。
となると、「先祖代々の墓」に「一緒に入る、入りたくない」で家族同士が争ったり、「継ぐ」とか「守る」で頭を悩ますことにも、あまり意味はないようにも思える。

信心・信仰というのは心の中のことだから、目に見えない。なので、さまざまな儀式を必要とする。ほとんどの人には意味のわからないお経とか、お焼香の回数とか、四十九日法要とか、一周忌、三回忌、七回忌……。お墓の魂入れ、墓じまいの魂抜き……など。一般の人にとって「宗教は儀式に宿る」。

その儀式が時代に合わなくなれば更新して、再設定すればいい。「伝統」とは、人が生きやすいために作った決め事の集積にすぎない。時代に合わなくなった伝統に縛られて生きている人々が悩まされるとしたら、きっと「代々のご先祖様」も喜ばないだろう。

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この地域の墓地もすぐ近所にありますが、土葬されているご遺体も一部にあり、戦後でも、その墓地内にご遺体を荼毘にする台があり、「そこで荼毘にすると、臭いが村まで流れてきて怖かった」という話も直に聞いたことがあるくらいですから、現在のように衛生的な環境の整った斎場で荼毘にするなどという事も数十年の歴史しかないことになります。
 寺院の僧侶としては、今までこのページを読んで頂いている方でしたら、お分かり頂けると思いますが、儀式的なことより、体から離れた霊がどういう状態でいるか、今、生きている人々が、霊になったらどうなるのか…という事の方が最重要であると思っております。
葬送に関しては、あまり神経質にならない方が、ご先祖様も安心して頂けるように思います。

2018年 「10月の標語」

散る桜 残る桜も 散る桜

―――  良寛

昨年夏、30歳の若さで急逝したK君のご葬儀を執り行いました。
このことは、このページでも何度か取り上げましたが、病で長く患っていたわけでもなく、事故でもなく、本当に突然、心臓が機能停止に陥ってしまったようで、そのような場合は、御遺体のお顔も美しく、眠っているようにしか見えませんので、周りの方は大変なショックで、身の置き所がない位の悲嘆にくれておられました。
K君のおばあちゃんなどは、数年前のおじいちゃんのお葬式の時には、涙一つ見せなかったのに、K君がおばあちゃん子だったこともあり、涙を何度も拭っておられました。もちろんこういう場合、K君は皆さんには見えないだけで、自分の為に悲しがっている家族に何とかして、「そんなに悲しまないで、自分はここにいるよ」と伝えたく、もどかしく思っているのですが、なかなか伝わりません。
そこで、私はK君の代わりに、K君が伝えたいと思っていることをお伝えして、おばあちゃんに「そんなに泣いたら、K君が逆に悲しんでいますよ。またすぐに会えますから」と言ったとたん、おばあちゃんはピタッと泣き止みました。私の言葉で、「えっ、すぐ会えるって、私が死ぬ時の事?」と気が付いたのでしょう。

葬儀の場におりますと、死ぬなどということは他人事だと思っていて、亡くなった人間に対してかわいそうと思い、泣いている人も、次は自分の番かもしれない、と思う人は、不思議と少ないような気がします。

今から、26年前、同い年の従姉妹が小学生と中学生の息子二人を残し、40歳で他界しました。癌で数年患った後でしたが、知らせを受けて駆け付けました。まだ納棺する前でしたが8月の暑い盛りの時でしたから、ドライアイスを大量に使ったせいでしょうか、死に装束に着替えさせようと、組んだ手をほどこうとしても、カチカチに固まってしまってほどけませんでした。
氷のような手の冷たさを、私は、26年たった今でも鮮明に思い出します。いずれ自分もこうなるのだとハッキリと自覚しました。そしてなぜか「こうしてはいられない」「何とかして生死の問題を解決したい」と、その時決意したように思います。
 それから数年たって、今度は舅が亡くなりました。ある時期同居しており、外掃除をしていた舅が近所の人との立ち話で、「一日でも長生きしてやろうと思って…」と言っているのが聞こえてきました。それからそんなに経たずに入院することになり、周りの看護師さんに向かって(お見舞いに来る人達は)「みんな頑張って、というけれど、何を頑張ればいいんだ」と叫んでいました。それを聞いていて、80歳も半ばになって、もうすぐ人生も終わろうという時に「こんな情けないことには、自分ならなりたくない」と、心の底から思いました。

当時から、坐禅やヨガは一日も休まず続けておりました。生死の問題を何とかしたいと思いつつ修行に励んでおりましたが、その念願が実を結ぶこととなり、従姉妹の死からわずか5年で出家させて頂くことができました。
それからさらに6年後に、今度は、老朽化した本堂を、きれいに建て直して頂き、住職になりました。今思い返せば、その時々は、必死で、夢中に過ごしてまいりましたが、5,6年度ごとのサイクルで私の人生はまるで回り舞台に乗っているように、グルグルと音を立てて回っていたように思います。

住職になってからは当然葬儀の場に立ち会うことが多くなっていきました。私がご遺体と対面し、読経させて頂く場合、心がけているのは、可能な場合は必ずご遺体に触れることです。それまでご縁のあった方なら、耳元で「今までお世話になりました」とお礼を申します。その時初めてお目にかかる方ですと「私が貴方のお葬式をお勤めさせて頂きます」と必ずご挨拶致します。そして亡くなった方からのメッセージを受け取った場合には、ご遺族に伝えるべきことは伝えるように努めております。
ある時の事、初めてお会いしたご家族でしたが、ご遺体に向かってご挨拶しましたら、亡くなった御父様が何とか起き上がって私にお礼を言おうとなさっているのが分かりました。心なしかお顔の表情も動いたように見えましたので、後ろにいた息子さんに「御父様、随分義理堅い方だったのですね。今、私にご挨拶なさろうとしていますよ」と申しましたら、息子さんは非常に驚いて、「本当に義理堅い父親でした」と…。(*_*;

最近、以下のような記事に遭遇しました。少し長くなりますが、私が申し上げたいことがそのまま書かれてありましたので、ご紹介いたします。

『88歳祖父の死に「おめでとう」と言う孫の真意』   9/16(日) 6:00配信   東洋経済オンライン
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180916-00235498-toyo-soci

人はいつか老いて死ぬ。その当たり前のことを私たちは家庭の日常から追い出し、親の老いによる病気や死を病院に任せきりにして、目をそむけてきた。結果、死はいつの間にか「冷たくて怖いもの」になり、親が実際に死ぬとどう受け止めればいいのかわからず、喪失感に長く苦しむ人もいる。
一方で悲しいけれど、老いた親に触れて、抱きしめて、思い出を共有して「温かい死」を迎える家族もいる。それを支えるのが「看取り士」だ。(略)

 介護福祉士である中屋敷妙子(当時58歳)は、病院から運ばれてきた父親の遺体を棺には入れず、母親のベッドに寝かせた。弔問に来る人にじかに触れてもらうためだ。彼女の三男、阿南(あなん)は当日のことを振り返った。
「顔中シワいっぱいなのが独特で、おじいちゃんらしい笑顔でした。入院していたときみたいに、スキンヘッドの頭もぐりぐり触りましたよ。通夜に来てくれた人たちもみんな、おじいちゃんの顔や頭を触ってくれて、『笑ってるよね』って笑顔で言ってくれましたし」
2016年10月に都内の自宅で行われた、大阪生まれの祖父・稔(享年88歳)の通夜のこと。阿南は、高校1年生だった。
弔問客たちの多くは稔の笑顔を見て「幸せそうやね」と話した。ある女性は冗談交じりに「じいじの話は面白かったけど、下ネタもあって、今ならセクハラやわ」と話すと、「ほんまや」と呼応する女性もいて、時おり小さな笑いが起きた。
当時15歳だった阿南にとっては、初めて身近で触れる死だった。だが、彼自身が漠然と抱いていた死の印象とは違っていたという。
「祖父は多くの人に触れてもらい、笑顔で声もかけてもらえて幸せだったと思います。『死は悲しくて怖いもの』というイメージがありましたけど、悲しいのはそうだけど、それだけじゃない。人生をまっとうしたという点では『お疲れ様』だし、人生の卒業式なら『おめでとう』だし……」

 200人以上を抱きしめて看取ってきた、社団法人日本看取り士会の柴田久美子会長(65歳)は、阿南の感想について何の不思議もないと話す。初めて身近で経験する肉親の死が、その人にとっての「標準」だからだ。
「結局、子どもにとっての死を『冷たくて怖いもの』にするのも、『温かくて幸せなもの』にするのもすべて大人なんです。大人が肉親の死を必要以上に怖がって遠ざけ、忙しさを口実に病院に任せきりだと、それを見た子どもたちは『死は冷たくて怖いもの』と思い込んでしまいます」(柴田会長)
この記事を読むあなたは、どちらだろうか。

「父は自宅近くの病院で早朝5時過ぎに逝ったのですが、私はその日泊まり勤務で、死に目にはあえませんでした。だけど、自宅に戻った父の遺体に触れると、言葉が自然と出てきたんですよ。『お疲れさま』とか、『ありがとう』とかね。それに肉親だったせいか、触れることで父が自分の内側にいるような感覚が芽生えました」(中屋敷)
肌の触れ合いを持つことは、看取り士の「幸せに看取るための4つの作法」の1つ。中屋敷は看取り士養成講座での学びがあって、弔問客にも父の遺体に触れてもらおうと考えたのだ。
父の遺体に触れていると、背中以外は次第に冷たくなっていったと、中屋敷は続けた。「それでも、まだ物体にはなっていないというか、部屋全体にまだ父の気配が残っている感じがありました。阿南も、『じいじ、まだ(ここに)おるよね』って話してましたし」
中屋敷は「父が自分の内側にいるような感覚」を手にしたことで、養成講座で学んだ、もう1つの教えも実感できたという。
「人間はいい心と魂、健康な体を持って生まれてくる。もし自分が死によって体を失っても、親から授かったいい心と魂は家族に引き継がれる。だから死は怖くない」。
特別なことではない。肉親の遺影にふと話しかけたり、生前の姿が思い浮かんだりするとき、人はとても素直な気持ちになっている自分に気づく。お盆の際に仏壇に手を合わせれば、亡き親に少しでも喜んでもらえる人生を送りたいという思いを新たにするだろう。どちらも自然なことだ。

中屋敷は28歳のとき、2歳上の兄を腎臓がんで亡くしている。そのときと、今回の父の最期の印象はまったく違っていたという。
 「兄とはとても仲がよかったので、私が自宅と病院で合計1年間ほど付き添って看取りました。兄は最後に『ありがとう』と言ってくれましたが、私は『こちらこそ、ありがとう』とは返せませんでした。まだ30歳の兄の死を、認めたくない気持ちが強かったからです」
当時の中屋敷には、「死はつらいもの」という思いも強かった。兄が亡くなった際は、体の一部をもぎ取られたような痛みに襲われた。看病中は手や腕を何度もさすっていたが、遺体は神聖なものだと思っていて、亡くなった後は指一本触れられなかった。
以降30年近く兄のことを思い出す度に、中屋敷の心はちくちくと痛んだという。
「亡くなる前も後も、体に触れることで肯定的な言葉をかけられて、その人が自分の内側にいるという感覚が生まれ、喪失感が消えるんだと知っていれば、兄の死との向き合い方も全然違っていたんでしょうね」

父の稔に、重い肺気腫が見つかったのは他界する約5年前。約3年前には呼吸困難で倒れて救急搬送された。以降は在宅での酸素機器の利用を選択。長さ約10mのチューブをつけたままで暮らしていた。
「大阪生まれの父は、チューブにつながれた自分を『なんか鎖につながれた飼い犬みたいやな』って、自虐ネタにして笑いを取ってました」(中屋敷)
死の1年前、稔が何度か救急搬送されたのを機に、稔自身が入院生活を選択した。他界する半年前には、稔が敬愛していた絵画教室の先生が他界。その後、「夢枕に絵の師匠が出てきた」と何度か話すようになった。死期が近い前兆といわれる「お迎え」だ。
「すると、『絵を描くためにリハビリを頑張る』と話していた父が、私に突然ポロっと『絵を描くのは、今世はもう無理やな』と口にしたんです。私が『そしたら、また、私のとこに生まれてきたらエエやん』って返したら、『そやな、ほな、そうしようか』って、明るく笑ったんです」
大阪生まれの親子らしい、からっとしたやり取り。それは父と中屋敷それぞれの、「死の受け入れ」宣言だったのかもしれない。(略)

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さて、今月の標語ですが「散る桜 残る桜も散る桜」は良寛の辞世の句とされております。異説はありますが
そのように信じさせるに充分な句だと思います。
従姉妹を亡くした時の私でいうと、散る桜は従姉妹、残る桜は私ですが、それもいずれは散る訳で、この句の言わんとするところは「等しくやがては死を迎える運命を秘めている」という趣旨だと思います。

蜀山人(=しょくさんじん。大田南畝(おおたなんぽ)。幕府の役人でありながら洒落本を書き、狂歌師として超一流の作品を残した人物、満74歳で死去)は、死の宣告を受けた時、
「今までは 他人が死ぬと 思いしが 俺が死ぬとは こいつぁたまらん」と詠んだそうですが、一般的には普通こうなる方が正直なところだと思います。

さてさてアナタも私もいずれ散る桜なのですから、その時になって、「こいつぁたまらん」などと言わなくても済むように、それこそ「頑張りましょう」ネ。(-_-;)

2018年 「9月の標語」

おらあ 藤蔵っていって
六つの時に病気になって死んじまったんだ
葬式の日 棺桶に入れられて
山の墓地に運ばれたんだけど
棺桶をお墓の穴に入れた時
ドスンというすごい音がして
魂が抜けだしたんだよ

――― 『勝五郎再生記聞』平田篤胤

地下鉄サリン事件などで計29人の犠牲者を出した一連のオウム真理教事件をめぐり、死刑が確定していた元代表の麻原彰晃(本名・松本智津夫)死刑囚(63)らの死刑が7月6日、26日に執行されました。
教団に対する強制捜査から23年余りがたって、13人の死刑囚全員に刑が執行されました。

今回の死刑執行について、国際的な人権団体「アムネスティ・インターナショナル」は、日本時間の26日午前、非難する声明を出しました。
声明では、「13人の死刑を数週間のうちに執行するという、かつてない事態は、日本社会をなんら安全にするものではない。なぜ人々が危険な思想を持つカリスマ的な教祖にひきつけられていったのかを、死刑の執行によって明らかにできなくなった。日本は、すべての死刑執行を即時に中断し、死刑制度の廃止に向けた議論を始める時に来ている」としています。
また、欧州連合(EU)とその加盟各国、さらにアイスランド、ノルウェー、スイスの駐日大使は26日、いかなる状況でも死刑に反対すると訴える共同声明を発表した。声明は、オウム真理教事件が日本国民にとって「とりわけつらく、特殊な事件」だと強調し、テロ行為を非難する一方「死刑は残忍で冷酷であり、犯罪抑止効果がない」上、誤った捜査や裁判に基づいて執行されれば取り返しがつかないと指摘した。

古来、日本には敵討ち(かたきうち)あるいは仇討(あだうち)というものが肯定的に存在し、だからこそ、最近の内閣府世論調査においても、「死刑制度」容認80%超 否定派を大幅に上回る、という結果になるのだと思われます。 
https://www.sankei.com/affairs/news/150124/afr1501240022-n1.html
 それによると、「死刑もやむを得ない」と容認したのは80・3%。逆に「死刑は廃止すべきである」と否定したのは9・7%。
死刑容認の理由(複数回答)は「被害者や家族の気持ちがおさまらない」が53・4%で最も多く、次いで「凶悪犯罪は命をもって償うべきだ」(52・9%)、「生かしておくとまた同じような犯罪を犯す危険がある」(47・4%)の順。
調査は2014年11月、全国の成人3,000人に面接で実施し、60・9%が回答した。
 死刑制度容認派は3回目(昭和50年)の56・9%を底に増え続け、前回は過去最高の85・6%を記録。一方、否定派は5・7%だった。

ここで、僧侶としての私の考えを、お話させて頂きたいのですが、もちろん、死刑肯定、否定のどちらにも与するものではありません。
ただ、ネット等の声で大変気になることは、皆さんが「被害者や家族の気持ちがおさまらない」とか「凶悪犯罪は命をもって償うべきだ」あるいは「生かしておくとまた同じような犯罪を犯す危険がある」と当然のように言う背景に「死んだらそれっきり」とか、死ぬことは不幸なことだから犯罪者に対する最も有効な罰則は死刑と、当然のように疑わない論調が多いことです。
私は、僧侶ですから、もちろん「死んだらそれっきり」などとは思っておりません。そんなことを認めたら、葬儀や法事も不要という事になり、我々の出る幕はなくなってしまいますので…(-_-;)
何より、ヨガ等のページやこのサイトでも何度も申し上げておりますように、肉体を離れた世界の素晴らしさを体感しておりますだけに、死ぬことを結構楽しみにしておりますので、簡単に「殺してしまうことが良い」、という意見に賛成もできない立場でもあります。

このところ、1989年(平成元年)に公開された『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』、1990年に公開された続編『丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!』を映画館に観に行った当時のことを思い出しておりました。
と申しますのも、『大霊界2』では、まさに死刑になった男のその後の顛末が描かれていたからです。
オウムの死刑囚たちが、映画で描かれていた死刑執行の場面の通りになったとすると、13人の死刑囚は、死刑が執行され、彼らの霊が肉体から離れて、今頃どのような状態でそこら辺をうろついているのかと、心配すると、喜んでばかりはいられないと思うのです。
当然そのころは、出家もしていず、人々の死に直面する機会などない頃でしたが、その後出家し、20年以上が経過し、死者の霊と向き合う機会が増えた今、この映画に描かれていたことは、かなりの真実が含まれていたのだという事を実感しています。
興味のある方はYouTubeでいずれも見ることができますので、ぜひ御覧下さい。

実は、今回色々調べております内、1994年に『大霊界3』も制作されていたことを初めて知りました。
(こちらもYouTubeでご覧になれます)
この映画は平田篤胤が著した『勝五郎再生記聞』を元に制作されております。
勝五郎とは実在した人物です。(以下Wikipedia)

小谷田 勝五郎(こやた かつごろう、1814年(文化11年)―1869年(明治2年)12月4日)は幕末、明治時代の農家。平田篤胤の著書『勝五郎再生記聞』の題材となった人物として知られる。
武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)の農家、小谷田源蔵の息子として生まれる。
1822年(文政5年)のある夜、突然家族に「自分は、もとは程久保村(ほどくぼむら:現日野市程久保)の藤蔵という子どもで、6歳の時に疱瘡で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った。語った話が実際に程久保村で起こった話そのものであり、村に行かなければ分からない話を知っていたということでその当時大騒ぎとなり、話は江戸まで知れわたった。
翌1823年(文政6年)、4月、勝五郎の噂に関心を持った平田篤胤は勝五郎を自分の屋敷に招き、7月に聞き取った内容を『勝五郎再生記聞』という書物にまとめている。1825年(文政8年)には湯島天神の男坂下にあった平田が経営する国学塾「気吹舎」に入門、平田の門人となった。
その後は父源蔵の家業である農業、目籠仲買業を引き継ぎ中野村で暮らしたという。1869年(明治2年)、55歳で死去。
没後しばらく経過した1897年(明治30年)、小泉八雲も、随想集『仏の畠の落穂』に「勝五郎の転生」を著し、ロンドンとボストンで刊行した。

日野市郷土資料館のHPに「勝五郎生まれ変わり物語」としてさらに詳しく記されております。
http://umarekawari.org/
(1)文政5年11月、中野村に住む8歳の勝五郎(小谷田姓)が、兄と姉に、自分の前世は、程久保村の藤蔵(須崎姓)で、6歳の時に疱瘡(ほうそう---天然痘)で亡くなったと語りました。
(2)勝五郎の話は、やがて父や母の知るところとなり、12月、勝五郎は生まれ変わりの顛末を以下のように、父母に詳しく語ったのです。 藤蔵が死んだとき、魂が身体から抜けだして家に帰ったが、誰も気づかなかった。→白い髭に黒い着物を着たおじいさんに導かれ、あの世に行った。→三年たったから生まれ変わるのだと言われて中野村の柿の木のある家に連れて行かれた→竈の陰に隠れていると、父母が相談をしていた。それは、家計を助けるために母が江戸へ奉公に行くというものだった。→藤蔵の魂は母の胎内に入り、文化12年10月10日に勝五郎として生まれた。(柿の木は、あの世とこの世の境にある木だといわれている)
(3)勝五郎の生まれ変わりの話は、両親にとっては信じがたいものでしたが、母が江戸に奉公に行く相談をしていたという話は、両親以外の人は知らないことだったので、両親は勝五郎の語ることは本当かもしれないと思うようになりました。 程久保村のことを知っている人に聞いて見ると、藤蔵の家は実在し、疱瘡で亡くなった子どもがいることもわかりました。勝五郎の生まれ変わりのうわさが広まり、「ほどくぼ小僧」というあだ名がついて見物に来る人もいたので、勝五郎はとても嫌がりました。 文政6年1月20日、勝五郎とおばあさんは程久保村の藤蔵の家を訪ねることにしました。勝五郎は行ったことがないはずの程久保村の事をよく知っていて、祖母を藤蔵の家に案内しました。
(4)藤蔵の家では、母しづと義父の半四郎がいて、勝五郎が藤蔵によく似ているといって喜びました。勝五郎は、初めてきたはずの家の中の事もよく知っていて、向かいの「たばこや」(屋号)の木は以前はなかったなどといって、みんなを驚かせました。(藤蔵の屋敷は、今も同じ場所にあります) 藤蔵と勝五郎の家は、その後親類のように行き来するようになり、勝五郎は実父久兵衛の墓参りもしました。
(5)2月のある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)という大名(鳥取藩の支藩の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました。3月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつらせいざん)や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には、文政5年11月、藤蔵と同じ6歳で疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました。
(6)4月、中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は、4月19日に源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました。
(7)多門傳八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして、4月22日に、源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎(いぶきのや)へ来た勝五郎から直接話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは、4月22・23・25日の3日間でした。
(8)6月、篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて『勝五郎再生記聞(かつごろうさいせいきぶん)』をまとめ、7月22日からの上洛に持参、光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです。
(9)文政8年8月26日、勝五郎は気吹舎の門人になり、およそ1年ほど気吹舎にいたといわれていますが、その後の消息ははっきりしません。
(10)勝五郎は、中野村に帰ってきてからは、普通の人と変わらない生活をし、農業の傍ら家業である目籠の仲買を行ない、裕福な生活をしていたと伝えられています。明治2年(1869)12月4日、55歳で亡くなりました。
(11)明治30年に、小泉八雲が、随想集『仏の畠の落穂』のなかに、「勝五郎の転生」を書いたので、勝五郎の生まれ変わりは、海外の人にも認知される事例となりました。

勝五郎のお墓は、勝五郎が生まれた家の近くにありましたが、今は八王子の永林寺というお寺にあります。藤蔵のお墓は、日野の高幡不動尊にあり、どちらも、子孫の方が大切に守っているそうです。

実際、生まれ変わりのお話は、結構存在し、アメリカのイアン・スティーブンソン博士などは、子供の転生の実例の学術調査の研究で知られております。
ですから、「死んだらそれっきり」などと思っている方は、なるべくこのような本を読んでお勉強して頂きたいと思っております。
また、転生のみならず、死後の世界の仕組みは、誠に複雑で、現に肉体という鎖につながれ、限りある脳ミソの範囲で容易に想像できるようなことではないことを、ぜひとも分かって頂きたいと思います。
一例を申せば、自殺者は必ずしも地獄へ行くわけでもなさそうなことはエリック君からの通信からもわかります。
『死は終わりではない』エリック・メドフス(きこ書房刊)

私がいまのところ一番危惧しているのは麻原彰晃で、あのような気が小さいペテン師は、死んだことにも気が付かず、自由の身になったことを喜んで、地縛霊化して、体力や気力の衰えた、犯罪を犯しそうな人を見つけて、とりつき、さらに悪いことをしようとけしかける可能性があることです。
皆が死んだ、目の前から消えたと思っている宅間守や、宮崎勤などという極悪人がウロウロしていて、「なぜかしら、むしゃくしゃして人を殺したかった」などと、訳が分からないことを言って、暴れるような、似たような事件を起こすのです。
一般人には何も見えないし、もはやモンスター化した彼らを止めることはできません。

僧侶的には、なるべく生きている間に、自分の犯した罪を悔い改め、霊的に成長できることが望ましいのではと思います。現にこの度死刑になった、元オウムの信者の中には心からの悔悟の念を持つに至った者もいたようです。彼らにとっては、毎日拘置所の中で、いつ死刑になるのかとビクビクしていたころに比べて、必ずしもさらに悪い世界に落ちているとは限らず、案外良い所に行っている可能性もあり、その意味で、死刑の賛成、反対にはどちらにも与しないと申し上げました。彼らの現在の居場所は神のみぞ知るでしょう。
死後の世界の仕組みは、我々人間が考えているほど単純ではないように思います(-_-;)


2018年 「8月の標語」

平成30年7月豪雨で
被災された皆様に
心からお見舞い申し上げます

――― 常宿寺

7月6日17時10分に長崎、福岡、佐賀の3県に大雨特別警報が発表され、続いて広島、岡山、鳥取、京都、兵庫と、続けて8府県に大雨特別警報が発表されました。さらに翌7日には岐阜県、8日には高知、愛媛の2県にも大雨特別警報が発表され、最終的に運用を開始して以来最多となる計11府県で大雨特別警報が発表されました。
この豪雨により、西日本を中心に多くの地域で河川の氾濫や浸水害、土砂災害が発生し、死者行方不明者が230人となる甚大な災害となりました。

復興を急ぐ人々を、その後襲っているのが猛暑です。
7月16日岐阜県揖斐川で最高気温39,3度を記録しました。一宮市は愛知県にありますが、地図で分かる通り岐阜市のすぐ南にあり、気温なども名古屋市より、岐阜市の予報に近い数値が出ます。
16日は、恐らく39度はあったと思いますが、18日にはここ一宮でも熱中症による死者もあり、以後、毎日38〜39度という異常高温がず〜っと続いているのです。これを書いている23日、ついに観測史上初の41,1度を熊谷で記録しました。
京都の夏を彩る祇園祭の行事の一つで、24日に行われる予定だった花傘巡行が、猛暑を理由に中止となりました。雨で中止になったことはあったそうですが、暑さで中止になるのは初めてだそうです。
さすがにここまでの暑さになりますと、身の危険を覚える程で、本物の異常気象と言わざるを得ません。
外の花の鉢など、今までは多くても朝晩水をやればよかったのですが、今夏は一日3回くらいやらないといつ駄目になるか分からない状況です。

今から5年前、2013年の夏にも、日本列島は、記録的な猛暑と度重なる大雨といった異常気象に見舞われました。たとえば、8月12日には、高知県の四万十市で最高気温が41.0℃を記録し、国内最高記録を更新しました。また、7月28日に山口と島根を襲った豪雨、8月9日に秋田と岩手を襲った豪雨では、気象庁が「これまでに経験したことの無いような大雨」として、最大限の警戒をよびかけました。

この異常気象ですが、気象庁による定義は、「三十年に一回起こる程度の珍しい気象」とされていますが、このところの感覚では、「これまでに経験したことの無いような…」という言葉を毎年のように聞いていると思いませんか?(-_-;)

近年の、極端な高温や大雨の頻度が長期的に増加する傾向の背景には、地球温暖化が関わっているとみられています。地球温暖化により、長期的な傾向としては地球の平均気温が上がっています。地域ごとの気温は不規則に変動しながらも、極端に暑くなる頻度が徐々に増えてきます。地球温暖化による長期的な気温の上昇にともなって、大気中の水蒸気が増えると、割増で雨が降る傾向になり、大雨の頻度が徐々に増えていきます。
将来的には、地球温暖化が進むと、今よりさらに真夏日、豪雨が増えることが計算結果から示唆されています。
http://www.cger.nies.go.jp/ja/news/2013/130911.html
(解説:異常気象と地球温暖化の関係について)参照

そして、このような気候変動は勿論わが国だけではありません。

7月16日のANNでは以下のようなNewsも報道されていました。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20180716-00000043-ann-int
 「WMO(世界気象機関)が各地で異常気象が観測されていると発表した。グリーンランドでは巨大な氷山が漂着し、住民が避難する事態となっている。
 グリーンランドの西部に位置するインナースート島。海沿いの小さな街に現れた巨大な氷山。高さはなんと100メートル。その巨大な塊が溶け出し、海に落下。しかし、本当の危険はこの後だ。押し寄せた波が住宅街を襲う。巨大な崩壊が起きた場合、津波を引き起こす可能性があるとして住民らは高台に避難している。これも温暖化の影響なのか。WMOによると、6月は地球規模で観測史上2番目に暑かったという。カナダのケベック州では激しい熱波により9日までに約70人の死者が出ている。山から噴き出す鉄砲水が住宅を襲う。中国では激しい豪雨により各地で川が氾濫。街は濁流にのみ込まれた。雲南省では水深が1.8メートルに達し、中学校の校庭は一面、川のように。地元メディアによると、雲南省では5月以降、断続的に大雨が続き、先月末の時点で89万人以上が被災したという。」

私は、こうした事態が進んでいくと、そう長くない将来に地球上が水没するのでは…という危惧を持ち始めましたが、このような時、ふと『ノアの方舟』のお話を思い出しました。

「神は地上に増えた人々の堕落を見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500〜600歳)に告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。
ノアは箱舟を完成させると、妻と、三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった。

40日のあと、ノアは鴉(カラス)を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。7日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。さらに7日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった。

ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。そこに祭壇を築いて、献げ物を神に捧げた。神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。神はその契約の証として、空に虹をかけた。」(『旧約聖書 創世記』より)

ノア一家以外の人類は、地球上から一度滅びましたが、神がノアに約束した通り、それ以来人間を滅ぼすことは今までは一度もありませんでした。つまり、我々は皆ノアの子孫、兄弟だというわけです。
(最近まで、アララト山に隣接する谷に発見された遺跡がノアの方舟ではないかと推察される証拠が続々と見つかり、方舟伝説は実話だったのではないかと言われ始めています。)

ただ、方舟の伝説では、「地上の全ての動物たちを絶滅させるようなことはしない」と神様が約束して下さっても、それは「神と共に歩んだ正しい人であったノア一家」に対してだったという事が大前提にあります。

私たちは「人類みな兄弟」と思って日々行動しているでしょうか?
最近、見ず知らずの人間を平気で殺害するというような凶悪事件が立て続けに起きました。
現代のように貪瞋痴(欲や怒り無智)、そこから生じる嘘や悪が蔓延する世の中になってくると、正しく生きられなくなっている我々に対して、神様がお約束を破られたとしても、文句を言える権利は私たちにはないように思います。

皆さんはなるべくなら地獄へは行きたくないと思っておられると思いますが、地獄にいる人って、そこが、住み心地が良い人、自分が地獄にいることに気が付かない人たちなんです。
この度の被災地でも、詐欺や泥棒が横行しているそうですが、これを悪魔と呼ぶ以外ありません。
あるいは、今回死刑になった、オウムの信者でも、当初は、あの教えが正しいと信じていたはずです。邪悪な人間をポアする我々こそが神々の使い、天使であると思っていたのでしょう。サリンを撒くことを正当化するなど正気の人間のすることではありません。

ただ、当然のようにオウム真理教を非難する人たちのなかでも、それと同じくらい間違ったことを信じ、全く聞く耳を持たない人が多いというのも、また他方ではあります。あるいは、肩が凝ったときに間に合わせに貼る湿布薬くらいの、間に合わせの宗教観しか持たない人々も多く存在します。
仏教についても、あまりに長い歴史の中で、変遷し過ぎて、全く仏教とは言えないものを「仏説」と信じている人達が多いのです。例えば、仏教の元の教え、歴史的背景からお話しても、そんなこと知りたくもない、興味もないという人が大半です。これは、僧侶として、日々、皆様に接している私が、骨の髄まで思い知らされていることです
大雑把に言ってしまうと、日本人にとっては神も仏も、それぞれの考えでゴマンと居るのです。地獄も極楽も同様です。

どうしてこういう風になるのかと常々不思議に思っておりましたところ、先日、NHKスペシャル大江戸 第3集「不屈の復興!!町人が闘った“大火の都”」を大変興味深く見ました。
江戸は、3年に一度の割合で巨大な火災「大火」に襲われる、世界最悪の火災の町だったそうです。この中で最も、感心したのは、延焼を防ぐために、なされたことが「町火消」による家屋の取り壊しでした。
東京にいた時、何度も出初式を見ていましたが、纏(まとい)の用途は知っておりましたが、鳶口の使い方は今回のNスペで初めて見せてもらい、知りました。
鳶口(とびぐち)とはトビの嘴(くちばし)のような形状の鉄製の穂先を長い柄の先に取り付けた道具のことですが、番組のなかで見せていたのが、延焼を防ぐため、火の向かいそうな方向にある家を、燃える前に鳶口に引っ掛けて、家ごと引き倒してしまうのです。「頭(かしら)、一思いにやっちまってくれ」とタンカを切っている人もいました。江戸の庶民の家は、火事の時にすぐ壊して、逃げだせるように、非常に簡単な造りになっていたそうです。

江戸に限らず、伝統的な日本家屋は、基本は木と紙ででき上がっており、地震や災害に見舞われても、すぐに復興できるようになっているのは、日本ならではの特長でしょう。

「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」と、江戸っ子の気前のよさ、金離れの良さを自慢にしていました。
「こちとら江戸っ子だい!宵越しの銭は持たねえや」…落語や時代劇でおなじみの台詞です。
いつ焼けるかわからないから財を積んでも仕方ないという意味で使われていたようですが、番組ではもう一つ、江戸の町は、武家、商人、庶民に限らず、相互扶助がうまく機能していたので、銭がなくても暮らしが成り立っていた、という事も紹介されていました。
木場には常に材木が浮かべてありましたので、焼かれても焼かれても、すぐに復興し、江戸時代の江戸は、当時のパリ、ロンドンをしのいで世界一の人口百万の大都市に成長していったのです。

何が起きても、あわてず騒がず、すぐに立ち直れるのが日本人の国民性でもあり、だからこそ、全ての面で、受動的で、何でも受け入れ、宗教にしても、あらゆる宗教を受け入れてきました。よく言えば忍耐強く寛容、悪く言えばいい加減という事でしょうか?
東日本大震災の時の被災者の方々のお行儀のよさが、外国メディアを驚嘆させたのも、記憶に新しい所です。

前述のような、聖書の世界では、一人の神との契約ですが、日本人の場合、いつでも、どこにでも八百万(やおよろず)の神々がいらっしゃるので、どこか楽天的な部分もあるのかしらと思っています。
まあ、私のようなものでも、御仏飯を頂いて生かして頂いているのは、ここ尾張の地が、仏国土であるおかげであり、色々言っても、日本人に生まれたことを誇りに思い、日本の国で生活できることを心の底から有難いと思っておりますので、万が一、その日本までもが沈没するようなことになったら、その時は、江戸っ子の潔さを見習って諦めるしかなさそうですね。(-_-;)

2018年 「7月の標語」

ガガーリンは笑顔がとてもいい
素晴らしい笑顔は
いつも心が安定している証拠

――― コロリョフ博士

1961年4月12日、ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(旧ソビエト連邦)はボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功しました。
乗員の最終選考に残ったのはガガーリンとチトフでしたが、選考スタッフは体重が2キロ軽いことを理由に乗員をチトフに決めようとしました。
しかし、責任者のコロリョフ博士は「だったら荷物を2キロ下ろせ。最初の乗員はガガーリンだ」と答え、その理由をこう述べました。
「ガガーリンは、笑顔がとてもいい」。 博士は「素晴らしい笑顔はいつも心が安定している証拠」だと考えたのです。もし、ガガーリンの笑顔が乏しかったとしたら、あの有名な「地球は青かった」という台詞は聞けなかったかもしれません。『人生はワンチャンス!』(文響社)より

ガガーリンが世界初の宇宙飛行士になれた要因の一つが彼の笑顔だったとは知りませんでしたが、当時のニュースの映像を通して見た、素敵でハンサムな笑顔は子供心にも焼き付いておりました。

先日、某金融機関の新入社員研修の一環として常宿寺で坐禅研修を行いました。今年はいつもの参加人数の半分ほどで、内心「良かった!」と思ったのですが、これが間違いの始まりでした。(-_-;)
坐禅の効用や、どのようにするかなどの解説を行い、具体的な呼吸法の練習なども交え、坐禅の実践が20分、最後にお茶を出して質疑応答、という段取りでほぼ2時間でした。
例年ですと、入社したばかりのフレッシュな若者たちと接しますと、こちらが元気をもらえるのですが、終わるころには、くたびれ果ててしまい、異様な疲れは、夜まで続きました。
そもそも、話の途中から、金魚が酸欠になった時のように、胸苦しさを覚えておりまして、参加者の内の女性数名でしたが、坐禅などやる気も興味もなく、会社の行事の一環で連れてこられたので仕方なく参加しているという事が、空気を通してジワジワと伝わってきました。
そもそも金融機関に採用になるくらいですから、容姿は当然私などより格段に良いには違いないのですが、発しているイヤイヤ感が半端なく伝わってくるのです。表情も当然、ぶすっとふてくされてい(るように見え)ました。
要するに、彼女たちはネガティブでマイナスとなる負のオーラで固まっていたのでした。
自分たちが気の進まない坐禅などやらされたから、マイナスのオーラになってしまったのかもしれませんが、それにしても、金融機関でこれから働くというのに、自分が気に入らない事や、気の進まない場所になると、マイナスの雰囲気になるというのは、決して好ましいことではないなと心配しました。

普段の生活の場面で、このような負のオーラの攻撃をまともに被ってしまった場合、どのようにすればよいのでしょう?
結論を初めに申せば、「笑う」しかありません(-_-;)

皮肉なことに、この時も、参加者にお話ししたことの一つは「口の端を下げない」という事でした。私は長年坐禅を行じ続けているうち、ある時期から、坐禅が深まってくると、口の端が自然に上がってくることに気が付きました。色々調べましたが、おそらく、これはアルカイクスマイルでないだろうか、と思いました。
アルカイクスマイルとは、仏像の表情で何とも言えない微笑のことを指すのですが、坐禅中に悟りを開いた仏様と同じ状態になっていくことに、当初は驚いたものです。

別のところで、「鉛筆を横向きにして口に数秒間くわえる。次に鉛筆を縦向きにしてストローのように口にくわえる。横向きの時は笑顔に近くなり、縦向きの時にはしかめ面になる。心理学者ダニエル・カーネマン博士の著書によると、大学生に鉛筆をくわえたままマンガを読んでもらい、面白さを感じる度合いを評価してもらったところ、横向きでくわえた時は縦向きに加えた時よりも面白さを強く感じたという。」という記事を目にしました。要は、意図的に笑顔になると楽しくなる、というものです。また別の記事では、鉛筆を横にくわえて計算をさせた方が、縦にくわえてするより、計算の正確度が増したという研究結果を読んだこともありました。
文句を言うときのように、口先が尖がっているか、笑顔の時のように、口の端が上がっているかによって、脳に対して与える影響が大であるという研究結果が出ているようなのです。

これも自身の体験ですが、坐禅を始めた当初の、暗く落ち込んでいた時期に、私は鏡に向かって「めげないアンタはエライ」と常に微笑みかけていました。お陰様で、そのころから30余年を経過した今、とても充実した生活を送らせて頂いておりますが、それでも、たまには先日のような事件も起きるので、そのような時はやはり鏡に向かって、ニッコリ(^^)することにしています。
笑顔でいることを心掛けることで、気分も明るくなり、次第にポジティブな気持ちへと変化していきます。不愛想な表情でいることよりも、笑顔でいることのほうが周囲からも受け入れてもらえるように思います。

今、これを書いている6月15日、ロシアでサッカーW杯が開幕したとニュースで取り上げておりました。
今朝のNHK総合 【おはよう日本】で<世界のメディアザッピング>のコーナーで英国BBCが「W杯おもてなしでイメージアップ 」と報じておりました。
「サッカー・ワールドカップ直前にロシアの鉄道会社で行われたのは車掌向けのほほえみの勉強会。
キャンペーンで注目されているのはおばあちゃんコーラス隊。
ロシア組織委員会代表のコメント「ロシアの評判は思わしくないが、ワールドカップでイメージを回復できる」。
ロシア人は滅多に笑わないので、ほほえみで御客様をおもてなしし、世界中からくるサポーターに良い印象をもってもらいましょう、という勉強会のシーンでした。笑うことも練習しなくてはならないことに、逆におかしくなって、笑ってしまいました。

ロシア人があまり笑わないという事は知りませんでしたが、確かに陽気な印象はありませんでしたから、そのような人々の中にあって、ガガーリンさんの笑顔が特別に素晴らしかったのでしょうね。

ガガーリンさんのことが掲載されていた同じページに、以下のような言葉も載っておりました。
「笑顔は1ドルの元手もいらないが、百万ドルの価値を生み出す。」(デール・カーネギー)
「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ。」(エミール=オーギュスト・シャルティエ)
「笑ってあげなさい。笑いたくなくても笑うのよ。笑顔が人間に必要なの。」(マザーテレサ)

皆さ〜ん、暗く落ち込んだ気分の時こそ、笑顔で自分自身に微笑みかけて下さいね。((´∀`))

2018年 「6月の標語」

したい人 10000人
始める人 100人
続ける人 1人

――― 中谷彰宏

最近「したい人、10,000人。始める人、100人。続ける人、1人。」と言う言葉を知りました。
著作家で俳優の中谷彰宏さんのお言葉です。
中谷さんは大手広告代理店で活躍なさった後、独立し、「中谷塾」を主宰。執筆や講演活動を通して人々を勇気づける言葉を発信し続けていらっしゃいます。

常宿寺では、今まで、坐禅会、写経会、ヨガ教室など、様々な行事を行ってまいりましたが、それぞれについて、感覚的にこの言葉通りの印象を持っておりましたので、思わず深く頷き、笑ってしまいました。
坐禅やヨガも、問い合わせの電話を沢山頂戴しますが、実際にお寺に足を運び、通い始め、さらにそれを続けるとなると、篩(ふるい)にかけられたように、ドンドンとこぼれ落ちて行きます。

例えば7年前に始めたヨガは毎週行っておりますので、単純に掛けると364週、各回20人前後の参加者とすると、延べ人数でも数千人単位になると思いますが、当初から現在まで、続いているのは、私を除けばナントたった1名です。
坐禅も厳しい参加基準を設けるまでは、ほぼ毎週のように希望者から電話があり、受け入れても、ほとんど1,2回でやめていくので、相手をするだけ時間の無駄で、アホらしくなり、門前払いするようになりました。(-_-;)

私の机の前に「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。」と言うイチロー選手の言葉が貼ってあります。

イチロー選手の偉大さはここで申し上げるまでもないほどですが、何が彼をここまで押し上げてきたのかを探るため、彼の他の発言にも注目してみたいと思います。

*喜びを見つける
「そりゃ、僕だって勉強や野球の練習は嫌いですよ。誰だってそうじゃないですか。つらいし、大抵はつまらないことの繰り返し。でも、僕は子供のころから、目標を持って努力するのが好きなんです。だってその努力が結果として出るのは嬉しいじゃないですか」
「(打率ではなく)ヒットを一本増やしたいとポジティブに考えるんです。そう思っていれば打席に立つのが楽しみになりますよね」
「まず自分の好きなことを見つける。そうすれば、自分を磨けるし、先へ進める」
「世の中の常識を少しでも変えるっていうことは、人間としての生き甲斐でもありますから」

*反骨心をバネにする
「子供の頃から人に笑われてきたことを常に達成してきた自負はある。小学生の頃、毎日練習して近所の人から『あいつプロ野球選手にでもなるのか』と笑われた。悔しい思いもしたけどプロ野球選手になった。何年かやって日本で首位打者をとってアメリカに行く時も『首位打者になってみたい』と言って笑われた。でもそれも2回達成した。常に笑われてきた悔しい歴史が僕の中にはあるので、これからもそれをクリアしていきたいという思いはもちろんある」

*他人の評価に惑わされない
「自分のしたことに人が評価を下す、それは自由ですけれども、それによって自分が惑わされたくないのです」
「第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分が納得した生き方をしたい」
「成功とはとても曖昧なものです。他人が思う成功を追いかける必要はありません」

*自分軸を持つ
「人に勝つという価値観では野球をやっていない」
「首位打者のタイトルは気にしない。順位なんて相手次第で左右されるものだから。自分にとって大切なのは自分。だから1本1本重ねていくヒットの本数を、自分は大切にしている」
「何かを長期間、成し遂げるためには考えや行動を一貫させる必要がある」

*目標の持ち方
「ぼくが数字で満足することはあり得ません。なぜなら、数字が内容を反映しているとは限らないからです。目標を設定して、そこに到達すればそこで満足してしまって、先へ進む努力をしなくなるでしょう。毎打席、何かしら、学ぶべきこと改良すべきことがあります。満足は求めることの中にあるんです」
「人の数字を目標にしているときというのは自分の限界より遙か手前を目指している可能性がありますけど、自分の数字を目指すというのは、常に限界への挑戦ですから」
「高い目標を成し遂げたいと思うなら、常に近い目標を持ち、できればその次の目標も持っておくことです。それを省いて遠くに行こうとすれば、挫折感を味わうことになるでしょう。近くの目標を定めてこそギャップは少ないし、仮に届かなければ別のやり方でやろうと考えられる。高い所にいくには下から積み上げていかなければなりません」

*最高の高みに挑み続ける姿勢
「成績は出ているから今の自分でいいんだ、という評価を自分でしてしまっていたら、今の自分はない。」
「考える労力を惜しむと、 前に進むことを 止めてしまうことになります」
「最大の武器?それは、何かにトライしていこうとしている自分がいるということです」
「結果が出ないとき、どういう自分でいられるか。決してあきらめない姿勢が、何かを生み出すきっかけをつくる」
「4000安打には、僕の場合、8000回以上悔しい思いをしている。その悔しさと常に、向き合ってきた事実は誇れると思いますね」
「夢をつかむというのは一気にはできません。小さな事を積み重ねることで、いつの日か信じられないような力を出せるようになっていきます。本当の努力とは小さなことを積み重ねることです。」
「ぼくもみんなと同じような年の時には、汗水たらして泥にまみれて、みんなと同じように野球をしていたことを覚えておいてもらいたい。」

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さすがのイチロー選手ですね。このように一気に並べてしまってはいけないと思うほど、その一言一言の重みが違います。
彼は、求道者のようだと度々評されますが、彼の言葉の中には坐禅等の修行に通じる点が多いです。
私は、イチロー選手の言葉を読んで、坐禅やヨガを30年以上継続してきた私自身のモチベーションに通じるものを感じました。
坐禅という、基本的には一人で行じ、見た目は何の変化もないような地味な行いが、実は言葉では言い尽くせぬほど奥が深く、功徳は計り知れないと実感できるのは、30年以上継続して行ってきたことの賜物であるように思います。まさに、「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道」なのです。

そして彼の言葉をよくよく味わえば、なぜ、フツーの人々がせっかく始めた物事を続けることが出来ないのか、裏にはちゃんと答えが与えられていると思います。

まず大前提として、フツーの人は「とんでもないところへ行く」などという事も考えてもおりません。それどころか、そもそも「これからの人生において何を目標に、何を夢見て生きていくのか」というビジョンがない方がほとんどです。あえて、これは中高年の方に申し上げたい。
これから先、どういう風に生きたいか、そしてどういう風に死にたいかという考えもなしに、生きていること自体、私には不思議でなりません。
目的地も定めず、いきなり走り出す人を見れば、人々は怪訝に思うでしょう。いずれ全ての人は必ず死にます。それなのに、死ぬ時の事、あるいはその先の世界にどのようになるのか、このようなことを考えもしないで生きているという事は、私から見れば、目的地を定めず走っているのと同じであると思うのです。

ヨガは肉体の縛りから離れることを目標とするものです。肉体の縛りを離れるとは、生命体としての肉体を維持するための欲、食欲、睡眠欲、性欲といった根本の欲から徐々に離れていくことを意味します。私は現に一日一食、睡眠時間は平均4〜5時間ですが、これもできればなくて済めば有難いと念願しています。
「仙人は霞を食べて生きている」という伝説が伝わっています。できれば本物の仙人になりたいというのが私の夢です。(笑)
「ヨガは死ぬ練習」とヨガの時間に皆様にも度々申し上げていますが、これは冗談ではありません。現在の生活を明るく健康にしていく、と言う以外に、表現を変えれば、死後の世界の存在をも目標にするものです。
イチロー選手の「とんでもないところへ行く」とは野球の世界のことでしょうが、ヨガや、坐禅の「とんでもないところへ行く」とは、もちろん目に見えない世界のことであり、それは勿論可能だと信じます。

皆さんのお話を聞いていると、第一に、家庭環境(家族がいるから…と言い訳)、飽きっぽい、努力することが嫌い、そのくせ人から悪く言われるのはまっぴらゴメン、世間体ばかり気にする、他人の言っていることに左右される、毎日の継続的努力を怠るくせに、そういう人ほど、安易に結果を欲しがる、しかも挫折すると、周りを見渡し、自分だけではない、周りも皆同じと言い訳をする、等々。概ねこんな感じになります。

そもそも、子供に対して、「勉強しない、何事も長続きしない、夢がない、仕事しない、自立できていない、等々」不満を持っているかもしれませんが、それは他ならぬアナタのことでは?と言いたくなることもあります。自分に夢や希望がないのに、自分だって自立できていないのに、なぜ子供にだけそれを要求するのか、訳が分かりません。
少しでも多くの人が、精進する仲間として続いて行ってくれれば、もっと世の中の雰囲気も良くなるのにと、残念な気持ちでいっぱいです。

2018年 「5月の標語」

呼吸の制御こそ
最強の戦士になるための
秘密兵器なのです

――― 「Navy SEALs」元司令官Mark Divine氏

先日、たまたまつけていたテレビで、『ガッテン!』が始まった時、冒頭から、「『呼吸数を減らす』ことで、様々な効果が期待できる」と、紹介しておりました。
私は、お寺のHPや、毎週行っているヨガ教室などでも、「吐く息を深く長くしましょう」と、長年、口を酸っぱくして言い続けてきておりました。
実際のヨガ教室でも、ひたすら「吸って、吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて…」ばかりを言い続けております。「吐く息を長くする」ということは、当然1分間の呼吸数は少なくなる訳で、「呼吸数を減らそう」という事と同じ趣旨だ、と思いましたので、最後まで番組を興味深く見てしまいました。

4月11日(水曜日)NHK番組の『ガッテン!』は「ある呼吸法をマスターすれば、ストレスを自分の意思でコントロール出来る」という主旨の放送でした。

始めから、水を差して申し訳ないのですが、番組では「最新の研究によれば『深くゆっくり呼吸すること』で脳の扁桃体が静まり、心拍数や交感神経の興奮、ストレスなどを抑えられる」…と言っていたのですが、このこと自体はかなり前から、分かっており、だからこそ、私も何年も前から、お寺で紹介しておりました。

ただ、放送の内容的には、コンパクトにまとまっておりましたので、ここでご紹介することで復習したいと思います。

アメリカの特殊部隊「Navy SEALs」の元司令官だった、Mark Divine氏(54歳)は「極限の状態でもっとも大切なのは”呼吸”の制御だ!」と言います。
特殊部隊と言えば、最も危険な任務を帯び、アメリカ軍の中でも、エリート中のエリートが集まる部隊です。場合によっては、死と隣り合わせの場面にも遭遇する方たちです。
なんと、彼らのトレーニングの中で、ひときわ重視されているのが、「普段の呼吸のコントロール法」だと言うのです。
Mark Divine元司令官は言いました。
「我々シールズ隊員は、極限のストレスの中でも、常に冷静沈着でなければなりません。」
「そのために、毎日呼吸をコントロールする様々なトレーニングを行っています。」
「呼吸の制御こそ、最強の戦士になるための秘密兵器なのです。」
(ちなみに放送では触れられませんでしたが、Mark Divine氏の実践していた呼吸法をご紹介しておきます。
「Box breathing」(Four-square breathing)という横隔膜を使った深い呼吸法で、心を静めてコントロールすることを目的としています。@肩の力を抜く。A鼻からゆっくりと深く息を吸い込む。お腹を膨らませ、4つ数えながら吸い込む。1,2,3,4。Bお腹を膨らませたまま息を止める。そのまま4つ数える。1,2,3,4。C口から息を吐き出す。お腹をへこませ、4つ数えながら全部吐き出す。1,2,3,4。Dすべて吐き終えた状態で4つ数える。1,2,3,4。Eここまでを1クールとして、これを4〜5回繰り返す。1呼吸を16秒かけて行い、これを図に表すと、ちょうど、4秒ずつの四角を描くことから、Boxというのか?と思います。)

「おお!」と感動していると、次は、忍者まで登場します。
甲賀流忍術にも、同じような極意があるそうで、第二十一代目当主、川上仁一さんが教えてくれました。
「息長」(おきなが)といって、呼吸回数を極限まで減らす技だそうです。ちなみに、彼自身が忍者の修行を、体のできていない幼少期に始めた時には呼吸法の鍛錬から始まったようです。
忍者と言えば、日本版元祖特殊部隊みたいなものですものね〜。

ここでまた、横道にそれて恐縮ですが、実は、日本には、古来より「息長(おきなが)の法」という神道式呼吸法があります。私は30年ほど前、様々な呼吸法を扱ったセミナーに参加したときに、少しだけ体験しました。
「古事記」「日本書紀」にも登場し、300余歳という驚くべき長寿を全うしたとされる武内宿禰(たけうちのすくね)も、仲哀(ちゅうあい)天皇の妃(神功皇后)が息長帯比売(おきながのたらしひめ)と呼ばれ、神憑(かみがか)りを行えたのも、実はこの「息長の法」を行っていたからだと一説には言われております。

申し上げたいことは、研究としては最新でも、坐禅やヨガを始めとして、数千年も前から、体験的にはその効用は証明され、実践されていたということなのです。

ここで、再び番組に戻りますと、次に紹介されるのは
『カギとなるのは、脳の中の「呼吸中枢」と「扁桃体」』という話題に移ります。

成人の普段の呼吸回数は、1分間平均15回です。
東京有明医療大学の高橋康輝准教授が1000人を超える男女を対象に調査・研究したところ「普段の呼吸を減らすことがとても重要なポイントになる――。」と分かりました。
実験参加者の方々によれば、呼吸が減ったとき以下のようなメリットがあったそうです。
•血圧低下
•冷え改善
•肩こり改善
•快眠
•ストレスが減った…特にストレス低下は多くの人に見られました。

呼吸数をコントロールし(1分間12回程度にする)その後で血圧を測定すると、通常時(呼吸をコントロールしない時)に比べて血圧はほぼ確実に下がることが解っています。

なぜ呼吸数を下げると血圧も下がるのか?…その原因は、脳の中心にある「呼吸中枢」と「扁桃体(へんとうたい)」にあります。
呼吸中枢の仕事は呼吸をコントロールすること。そして扁桃体は身の危険などのストレスを検知する役割があります。扁桃体は”身の危険”などのストレスを感じることによって心拍数を上げ、血流をアップさせたり、筋肉をよく動かして危険から身を守ろうとします。
呼吸中枢と扁桃体は互いにとても近くにあり、密接に影響し合って居ることが解っております。

三重大学大学院医学研究科の小森照久教授によれば、息の長い呼吸をすれば、不安や恐怖、怒りといったストレスを抑えられるとのこと。
扁桃体がストレスを感じると、血圧、心拍数、交感神経興奮、呼吸数などが急上昇します。
血圧、心拍数や交感神経興奮は意思の力でどうすることも出来ませんが、呼吸数だけは自分でコントロールすることが出来るのです。そこで息の長い呼吸を意識的に行って呼吸回数を抑えます。
するとそれが扁桃体に伝わり、やがて扁桃体が落ち着いて血圧や心拍数も一緒に下がってくれるそうです。

ニューヨークコロンビア大学のリチャード・ブラウン博士は9・11同時多発テロ事件で心に傷を負った人々のケアとして、呼吸回数を下げるグループ運動を始めました。
深呼吸によって呼吸回数を減らすことで精神安定剤よりも効果がある場合も見られたといいます。
博士は現在、薬で治療困難な「腸で起こる炎症」を、呼吸回数を減らすことで治そうという研究も行っています。
現段階では、約半年間の呼吸トレーニングで、腸の炎症を抑えることに成功したとの実験結果も出ているとのこと――。

それでは、具体的にどのようにすれば呼吸を減らすことが出来るのか、というところで東京有明医療大学の本間生夫(いくお)学長が登場なさいました。
実は、本間先生とは、ある時期とても近いご縁があり、先生の奥様とは、同じ職場で働いていたことがありました。
本間先生は呼吸器の専門家で、著書もおありですので、私は数年前に既読しておりまして、今回テレビで紹介されていた呼吸法は、実はお寺のヨガ教室で数年前から実践しているモノでした。

先生によりますと、肺の袋は自分で膨らんだり縮んだり出来ません。肺の袋を膨らませているのは、横隔膜や肋間筋という肋骨と肺の間にある筋肉が周りから動かしているのです。ですから、横隔膜や肋間筋をストレッチによって柔らかくして、肺をより大きく膨らまそうというのです。

(吸う筋肉のストレッチのやり方)
1.両手を胸の前に組み、輪を作る
2.輪を作ったまま両手を伸ばしながら息を吸う(背中と両手をできるだけ離す)
3.1日に何回か思い出したときに繰り返す(2〜3回でOK)

(吐く筋肉のストレッチのやり方)
1.両手を背中で組む
2.両手を斜め下へ伸ばしながら息を吐く
3.1日に何回か思い出したときに繰り返す(2〜3回でOK)

この二つの深呼吸トレーニングで自律神経や免疫系が高まると本間生夫学長はおっしゃいましたが、お寺のヨガでは、本間先生ご提案のストレッチを、他に4種類くらい毎回たっぷりと時間を掛けて行っています。

最後に、フリーダイビング世界大会で104メートルの深さまで潜水した記録(世界第2位)を持つ「HANAKO」さんも登場しましたが、肺活量は5200ml(平均的女性の2倍)、彼女の横隔膜は鍛え上げられしなやかに動くと言います。

結論的には、肺のストレッチによって、普段の呼吸回数が減少し、ストレスによる症状が改善する、とのことでした。

先日、坐禅中に久しぶりに自分の呼吸を測りましら、普通の呼気で一回15秒でしたから、1分間に3呼吸、意識的に行った場合は、呼気一回20秒ですので、1分間に2呼吸でした。
「Navy SEALs」が4呼吸でしたから、私は呼吸法に限って言えば「Navy SEALs」並みか、それ以上の呼吸法を30年以上実践していたことになり、それで、普通なら驚くような場面に遭遇しても、(本当に我ながら不思議なほど)動悸も起こらず、平気でいられるのかしらと思っています。
是非皆様もお試し下さい。

2018年 「4月の標語」

最近の諸君は 書くことが出来ない
書くことが出来ないのは考えないからで
考えないのは読まないからだ

――― 故北村公彦学習院大学教授

このところ、人々とのメールのやり取りの中で、こちらから、かなり丁寧に、文章を書いて送っても、本当に驚くほど短く、内容の浅い返信しか返ってこないことに、少なからず疑問を持ち始めておりました。これはもしかして、短い文章しか書くことが出来なくなっているのかしらと考え始めておりましたところ、衝撃的なニュースを目にしました。
 全国大学生活協同組合連合会の調査によると、大学生の5割超が一日の読書時間0分である、というのです。2/27(火) 5:22配信 時事通信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180227-00000010-jij-soci
結果を分析した浜島幸司同志社大准教授(学習支援)は「高校までに読書習慣が身に付いていない学生が増えている影響が大きい」としています。

 今から48年前、学習院大学法学部法律学科に入学し、一般教養科目の政治学を履修しました時、故北村君彦教授に教えて頂きました。何度か課題のレポートの提出がありましたが、その当時の学生の文章を評して先生が嘆かれておっしゃったのが、「最近の諸君は 書くことが出来ない。書くことが出来ないのは考えないからで、考えないのは読まないからだ。」という言葉でした。「なるほど、それはそうかもしれない」と、その時は深く納得しましたので、このお言葉は、心に刻まれ、折に触れ、先生がそうおっしゃった時の光景を昨日のことのように思い出します。
課題を与えられても、元々本を読み、考える習慣のない人は、恐らくろくに資料も当たらないまま、適当に感想的な文章を書くだけであり、読んだ方も、書き手の勉強不足がすぐ分かるのでしょう。

私は、出家を志してから、40代に駒澤大学仏教学部禅学科に入学しました。道元禅師の『正法眼蔵』の講義など沢山ありましたが、『正法眼蔵』は大変難解な文章です。例えば『現成公案』の巻を勉強する時には、まず、本文を、5、6行の間隔を空けながらノートに全文書き写します。駒澤大学の図書館には膨大な蔵書がありますので、『正法眼蔵』の各巻についても、それぞれ沢山の解釈本がありました。先生方の解説を、書き写した文章の横へ書き込んでいきました。一人の先生の御提唱を聞いたり、1,2冊本を読んだだけでは、その方の解釈だけになってしまいます。同じ教材に対しても、より多くの考えを比較することにより、各々の文章にそれだけ様々な解釈があることもわかり、理解が深まったように思います。20年以上経った今でも『正法眼蔵』について何か文章を書くときには、それがとても役に立っております。

また、実際のお寺に入り、僧侶として、仕事をしていくうえで、駒澤大学で仏教の歴史や、教えの根本を学べたことがどれほど役に立っているかは、この場では言い表せないほど、大きいものです。
時代の変遷によって、宗教や寺院の役割は、少しずつ変遷してきております。仏教発祥の原点に立ち返り、ブッダの教えの根本を学びなおしてみますと、現代において仏教と思われ、信じられているものとあまりにも相違していることに驚きます。このサイトにも度々取り上げておりますように、ゴータマ・ブッダにとってはこの世は、苦に満ち溢れた世界であり、再び地球上に生まれ変わってくることだけは絶対に避けたいことでした。ですから、死んだといわれ、肉体から離れた魂にむかって、「可愛そうに」と、泣くのは、実は立場が逆であり、可愛そうなのは、この地球上に残され、まだまだ修行を続けねばならない我々の方なのです。
実際に、葬儀の会場でも、死んだとみなされた方がその場にいて、残された家族のことを心配している場面に、何度も遭遇しました。
このテーマは、今回とは離れてしまいますので、この位でやめておきますが、申し上げたいことは、我々が今まで、常識と思って信じてきたことでも疑ってかかり、学びなおし、研鑽を積むことによって、未来に向けて、在るべき姿を追い求め続けて行かねばなりません。お寺や僧侶の使命も、時代の流れと共に、劇的に変化して行くでしょう。その意味でも、より多くの本を読み、学んでいくことは必要不可欠のことだと申し上げたいのです。

再びメールの話に戻りますが、短い返信を読んでいると、そこからやり取りが膨らむはずもなく「え〜っ、この程度しか考えていないのかなぁ」と、とても寂しく感じてしまいます。あまり本を読んでいないのかな、様々なことに興味を持ったり、勉強していないのでは…という風に、どうしても捉えてしまいます。

最近は、メールでさえ長すぎると嫌われ、ツイッターやインスタグラムといった、短い文章や、画像そのものでやり取りをすることが風潮のようですが、結局それは、深く物事を考えたり、学んだりすることを避けるという傾向を助長するのではないかという危惧を覚えています。

身近に、テレビやパソコン、スマホといった、電源を入れさえすれば、瞬時に情報を提供してくれる媒体があると、それらに頼っていれば、楽なわけで、坐って、しっかりと本を広げ、時間を掛けて文章を読み取り、それについて考察するなどという作業は、ますます面倒くさくなってしまうのかも知れません。

かつてテレビというものが世の中に出始めた1950年代に評論家の大宅壮一氏が「一億総白痴化」と言い、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見て、ぼんやりと受動的に映し出される映像を眺め、流れてくる音声を聞くだけでいると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」と危惧しました。私も、今まさに、大宅壮一氏が抱いたのと同じような危惧を抱いております。

本を読むという行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、内容を理解するために自分の頭のなかでさまざまな想像や思考を凝らさねばなりません。
話は突然飛びますが、今「天才棋士」として注目されている、地元愛知県の誇り、藤井聡太六段の趣味も読書だそうです。そもそも読書をしたから頭脳が明晰になったのか、もともと頭脳が明晰だから読書を好むのか、難しいところでしょうが、インタビューを受けている時の、彼の語彙の豊富さは、読書によって培われたものであることは間違いないと思います。将棋については、全く何の知識もありませんが、先輩棋士たちによれば彼の能力は「バケモノ」級であるとの事、あまり嬉しい出来事のない、夢を見ることがなかなかできない昨今の世の中で、孫のような彼の活躍は私のようなオバアちゃんをもワクワクさせてくれるものですので、つい前のめりになってしまいますネ。(^-^;

そもそも、自分1人で経験できることや学べることは、自分のみの人生では限られていますが、読書によって沢山の人々の経験や知識を学ぶことができます。
私ども僧侶は、仕事柄、沢山のいわゆる死者、あるいは現在生きている人から派生してくる生霊とも接する訳ですが、私の経験する様々な現象も、スピリチュアルの本を読むことによって、解決する場合が多々あります。最近読んだ『死は終わりではない―やあ、ぼくはエリック。そうさ、死んだ人間だよ。』(My Life After Death)(きこ書房刊)は、死後の世界の様子を生々しく伝えており、非常に興味深いものでした。最近の事件では、私のパソコンにおかしなものが入り込み、一時パニックになりましたが、この本によって、およその見当が付きましたので、早速役に立ちましたが、この本についてはまた改めてお伝えしたいと思います。

 伊藤忠商事元社長で、元駐中国大使でもある丹羽宇一郎氏の新著『死ぬほど読書』がベストセラーになっているそうです。丹羽氏は自著について、以下のように紹介します。
「本を読む人にしか、わからないことがある…。もし、あなたがよりよく生きたいと望むなら、「世の中には知らないことが無数にある」と自覚することだ。すると知的好奇心が芽生え、人生は俄然、面白くなる。自分の無知に気づくには、本がうってつけだ。
ただし、読み方にはコツがある。「これは重要だ」と思った箇所は、線を引くなり付箋を貼るなりして、最後にノートに書き写す。ここまで実践して、はじめて本が自分の血肉となる。…」

私は、この紹介文をAmazonで読んだとき、お会いした事のない丹羽氏に非常に親近感を持ちました。読書する時には、私もこの方法を、自分でも実践しているからです。
今迄、この標語でご紹介してきた文章は、覚えとして、別のノートに書き写しておいたものが結構ありました。

 ここまで、読んで頂いたアナタ。それでも、「難しい文章を読むのは苦手!」と思っているのなら、それは「難しいことを考えるのは苦手」と言っているのと同じであり、物事を深く考える時間を持たない、安易な時間ばかり過ごし、脳ミソを甘やかしていると、脳ミソはどんどん退化してしまいますよ!!!

2018年 「3月の標語」

思い描いた演技ができますように
そして、私の演技がきっかけで
皆さんに幸せがおとずれますように

――― 羽生結弦

平昌オリンピックと言えば、今年が明けたとたん、北朝鮮が突如参加を表明し、すっかり乗っ取られた形で、一時は平壌オリンピックとまで揶揄されましたが、実際に競技が始まると、連日のアスリートたちの熱き戦いで大いに沸き、17日に羽生結弦選手、宇野昌磨選手が金メダル銀メダルを取り、翌18日にはスピードスケートの小平奈緒選手が500メートルで金メダルを獲得したころには、国内の盛り上がりも最高潮に達しました。
ご存知のように、羽生選手は、すでに前回のソチオリンピックでも金メダルを獲得し、連覇がかかっておりましたが、昨年11月に右足首を痛め、回復ぶりが懸念されての出場でした。
羽生選手が2015年12月13日バルセロナで開催された「フィギュアスケートグランプリファイナル」において、世界最高の330,43点をたたき出した時には、その完璧な演技にすっかり魅了され、2016年「2月の標語」にも、彼がプログラムで取り上げた、今回と同じ『陰陽師』について触れました。
彼のその時の完璧な演技はYouTubeで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=3BoVFhJmvEU

彼が今回纏っていた衣装は、平安時代の日常着である「狩衣」をモチーフにし、グランプリファイナルの時より、さらにバージョンアップし、本当に美しいものでしたが、安倍晴明公の紋「五芒星」まで金糸で背中に施し、なんとこれらは全て羽生選手自身がデザインなど細かく指示して作られているとのこと、彼にはデザイナーの才能もあるのかと、日本人としての心をわしづかみにされます。
https://ameblo.jp/minminmin-vync/entry-12324345307.html

彼がフリーで滑った「SEIMEI」は、映画『陰陽師』で使われた楽曲で、この演目を完成させるために、羽生選手は『陰陽師』に主演した野村萬斎氏からアドバイスを頂いたそうです。
この映画と羽生選手の演技を見事に組み合わされた美しい映像がYou Tubeでもアップされていて、羽生選手がどのようなイメージで演技を構成したかったのか分かりますので、ぜひこちらもご覧ください。(^!^)
https://www.youtube.com/watch?v=Vb0HthLg1gA

『陰陽師』で野村氏が演じた陰陽師・安倍晴明公は、清明神社のサイトによりますと、孝元帝(こうげんてい)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の御後胤で、幼い頃から非常に多くの道に秀で、特に、天文暦学の道を深く極められ、神道を思いのままに操る霊術をも身に付けられておられたようです。
成人されてからは、天文陰陽博士として活躍。天体を移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当てられ、朝廷を始め多くの人々の信望を寄せられたと伝えられているそうです。
晴明神社は、寛弘4(1007)年。晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、その御霊を鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に創建されました。

羽生選手は今回のオリンピック出場に先立ち、昨年、この清明神社を参拝し、その折、絵馬に以下のように書いたそうです。
「思い描いた演技ができますように、そして、私の演技がきっかけで、皆さんに幸せがおとずれますように」
私は、このことをニュースで見た時、思わず涙ぐんでしまいました。オリンピックと言えば、だれもがメダルを期待され、勝つことを目標にする訳ですが、彼の演技から受ける印象が本当に爽やかで美しいのは、こういう志が滲み出ているからなのか、とも思いました。晴明公の御霊も、彼の心延えの美しさに感じ入り、彼の願いをお聞き届け頂いたのだと想像いたします。

羽生選手に限らず、今回はアスリートたちのエピソードに感激する場面が多くみられました。
スピードスケート女子500mは、バンクーバー五輪、ソチ五輪でこの種目を連覇し、韓国で“女帝”と呼ばれている世界記録保持者の李相花(イ・サンファ)が、五輪3連覇の偉業を達成するか、あるいは、'16年10月からW杯と世界選手権で無敗を誇る小平奈緒が強さを証明するのか注目されました。
結果は、36秒94という五輪新記録で小平奈緒選手が金メダルを獲得しました。

 小平は'10年バンクーバー五輪で12位、'14年ソチ五輪で5位。その2大会で頂点に立った李を抑えての、悲願の金メダル。自然と涙があふれた。
「涙で周りが何も見えないくらいうれしかった。500mに対しては自信があるという強い気持ちで滑った。全てが報われた気持ちです」
日の丸を肩に掛け、歓喜に浸りながらウイニングランをしていた小平が足を止めたのは、太極旗を手にしながら泣きじゃくる李の姿を見つけたときだった。小平は李のそばにそっと近づいた。そして抱きしめた。
「チャレッソ(韓国語で『よくやった』の意味)」好敵手であり、良き友人である李をねぎらった。
「サンファ、たくさんの重圧の中でよくやったね。私はまだリスペクトしているよ」
李も小平に「ナオこそ『チャレッソ』よ」と返した。

31歳の小平と28歳の李の出会いは、今から12年以上前だ。
世界の舞台で先に頭角を現わしたのは小平より3歳下の李。早熟の李は15歳だった2004-2005シーズンからW杯に出場し、'06年トリノ五輪には16歳の若さで出場した。
2006-2007シーズンからW杯に参戦した小平は李について「年下だけど尊敬する選手」と語るなど、すぐに仲良くなった。それから10年あまりの月日がたった。
2人はそれぞれの道で鍛えながら世界の頂点を競う実力を備えていき、平昌五輪の舞台でしのぎを削り合った。その結果が、小平が金、李が銀というものだった。

 リンク上での涙の抱擁から数十分が過ぎ、2人はメダリスト会見で壇上に並んでいた。会見ではリンクで見せた友情について相ついで質問が出た。
小平がピックアップした思い出は、'14年11月、韓国ソウルで行なわれたW杯での出来事だ。W杯参戦9年目にして女子500mで初優勝を飾った小平は、大会最終日の終了後すぐに、当時拠点としていたオランダに帰らなければならなかった。リンクから空港まで向かうタクシーを手配してくれたのは李相花だった。
「しかも、呼んでくれただけでなく、空港までのタクシー代も出してくれたんです」 小平はそう明かした。

 オランダ留学1年目の小平は、所属する相澤病院からのサポートは受けていたものの、オランダのプロチームに加わるためには相応の費用がかかっており、貯金を取り崩しながらの武者修行だった。
それを知ってか知らずか、李は心遣いを見せた。それも、自身のホームである韓国での大会で敗れた相手に対して。
 韓国チームのスタッフは自国が誇る「女帝」の敗北にぴりぴりムードを漂わせていたが、そんな状況でも李の友情は変わらなかった。

レースを終えた直後の小平は、低地リンクで目標としてきた初の36秒台をたたき出しながらも、ガッツポーズは控えめだった。
五輪記録に金メダルを確信して沸き立つスタンドに向かって、小平が人差し指を口に当てるポーズで、「静粛に」と無言で呼び掛けていたからだ。直後のレースで滑る最大のライバル、李相花へのさりげない気遣いだった。
想像を絶する重圧に打ち勝ち、会心の滑りで最速タイムをたたき出した。心の中の金色はいよいよ輝きを増し、抑え切れないほど高揚していたはずだ。そんな中で、彼女は地元の期待を一身に背負ってスタートラインに立つライバルのことをおもんばかったのだ。
「私が滑り終わった後にも2組のレースが残っていたので、まだ喜びを爆発させるべきではないと感じていました。
 サンファのレースは、自分のレースが終わっていたので、友達の気持ちで見ました。
そして、すべてのレースが終わって結果を見たとき、まわりの皆さんがすごく喜んでくれて……私は成し遂げたんだなと思いました」派手に感情を爆発させることはなかった。
新たな五輪女王の誕生劇は、そよ風のようだった。
(出典:https://www.oricon.co.jp/article/404295/ 他)

さらに、21日決勝がおこなわれた女子パシュート、個々人の成績では上回っているオランダ選手相手に、まさにチーム一丸となって勝利したシーンは、まさに『和をもって貴しとなす』という日本人の特長と底力を如何なく発揮し、ただただその美しさに感動してしまいました。

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まだまだ、枚挙にいとまがありませんが、メダリストたちが「勝った!」と実感した時、それは相手に、ライバルたちに勝ったというより、「自分自身に打ち勝った」という意味だと、言っていたのを何度も耳にしました。
あるときは、再起不能かとも思えるほどのケガを克服し、辛いトレーニングにも耐え、その時彼らは、ライバルの顔を思い浮かべるのではなく、己の限界に挑戦することだけを考えていたのでしょう。その結果のメダルであったのです。だからこそ、戦いが終わった後は、同じような想いをしながら、競い合ってきた仲間を、お互いにリスペクト出来るのだと思います。
20日小平選手に金メダルが授与されましたが、その後に受けたインタビューの中で「今、何がしたいですか?」と聞かれ「試合の映像をみていて、また課題が見つかったので、明日滑りたい」と話したときには(@_@;)
一般的な日本人なら、こんな大舞台の後なら、普通は温泉に行きたいとか、ゆっくり休みたい、という風になると思うのですが、あくまでも向上し続けることを目指しているアスリートならではの言葉ですね

また、結果を出した後、ほとんどのアスリートたちがそれまで自分を支えてきてくれた人たちに対する感謝を口にし、「とても自分一人ではこれまでこれなかった」というのを聞くとき、胸にこみ上げてくるものをおぼえます。
とかく嘘事だらけの世の中で、世界中のアスリートの皆さん、本物の感動と勇気を有り難う (*^▽^*)

2018年 「2月の標語」

長く息を吸っているときには
「私は長く息を吸っている」と
はっきり知り
長く息を吐いているときには
「私は長く息を吐いている」と
はっきり知る

――― 「安那般那念経」(Ānāpānasati sutta)

最近、私の大好きなNHKの番組、『サイエンスZERO』で「新・瞑(めい)想法 “マインドフルネス”で脳を改善!」をやっておりました。
マインドフルネス(mindfulness)とは、今この瞬間に、自分の心の中で起こっていることを注意深く観察し、感じ取り、気付きを深めていく心理的な作業のことです。
この過程においては、起きている現実をあるがままに受け入れること、何かしらの意図的な評価や判断をせず、ただ注意を払うことが重要であるとされます。

番組のタイトルが、新・瞑想法となっておりますが、確かに最近提唱され始めましたマインドフルネスとは、各宗教における瞑想法などから、宗教的な意味合いを取り除いたもの、という定義づけがなされておりまして、そういう意味では、新しいのですが、実はmindfulnessという用語は、パーリ語のサティ(sati)の翻訳であり 、原始仏教でその修行法として重視された「八正道」の内の、「正念」(sammā-sati)に当たります。そして、この「念」を深めることによって、何事にも惑わされない「定」(じょう)の状態に至るとされます。

原始仏教におけるブッダの修行法の中で、入息出息(呼吸)を観察することによって「定」に至ることが説かれているのが「安那般那念経」(出息入息に関する気づきの経)ですが、このお経についてR.ローゼンバーグ氏が『呼吸による癒し』(井上ウィマラ氏訳)を著され、2001年2月に日本でも出版されました。

今月の標語で取り上げましたのは、その中の一文です。
「長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。
短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練する。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。」

ここに、はっきりと、マインドフルネスの具体的な方法が示されております。
この『呼吸による癒し』を読んだ時には、本当に感激し、何度も何度も読み返し、付箋を貼り、傍線を引き、
その最も重要と思われるところを抜粋したりしましたので、以下にご紹介したいと思います。
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「おまえが何物でもないことが、万物であることなのだ。」
いま生起していることから思考によって分離してしまっている時、命を殺している。という。
その行為に完全に一体になることができたなら、そこにある種の喜び、ある種の歓喜のあることが分る。私たちを対象と隔てているのは、もっぱら自意識。
私たちは物事を追いかけたり、物事から逃げ去ることに際限のないエネルギーを費やしている。
私たちは心の奴隷になってしまっている。私たちは心の内容に執着してしまって、自分自身そして他の人々に苦しみをもたらす行為へと駆り立てられる。ブッダの教えの目的は、私たちをこの執着から自由にすること、すなわちこの心の主人となること。
 そのためには「煩悩」とされる心の三側面を理解することが極めて重要。それらは貪欲、嫌悪、そして迷妄。(貪瞋癡、即ち貪り・怒り・無知)三つのうちで迷妄ないし無知が、最も主要な煩悩。私たちは物事をはっきりと見ることができないが故に、自らを幸せにしてくれることのないものを追いかけ、不快なものに殴りかかり、本当は私たちを害することなどないものから走り去ることに莫大な時間を費やしている。重要なのは、戦場のようになっている私たちの心を平和共存の場へと変えること。

瞑想が目指しているは、すべてのものがやってきた場所へと戻って行くこと。一切は静けさの中からやってきて静けさの中へと帰って行く。修行が進むにつれて、感受に気づきを向けると感受が消え去っていったのと同じ仕方で、怒りや恐れも消え去っていく。すると私たちは何か全く別なものへと開かれていく。広大で静まった、エネルギーと愛とに満ちた、私たちが必要とするあらゆる滋養分に満ちた何かに・・・。    
煩悩は強く智慧は弱い。
私たちにとっての最悪の敵も私たちの外側にいるのではない。最悪の敵もベストフレンドも自分の心の中にいる。この修行(心の再教育)が持つ最もラディカルな見地の一つは、問題は外部にあるとするのではなく、常に内部を見るということ。私たちは煩悩に心を奪われて自らの心を覗こうとはしない。
本当に難しいのはたった今、ここで起こっていることに注意を向けること。煩悩がそれをさせない。煩悩の呪縛を破る方法とは、振り返ってそれらを直視すること、ただ見つめること、これが第一歩。

欲望は苦しみであるときっぱりと明らかになった時、その人の修行が始まる。
「いかなる状況においても何事にも愛着を持つな。」喜びは修行に完全に没入することができたときに生じてくる。心を解放するひとつの手立ては、より持続的に呼吸と共に在ろうとすること。
「心を解き放ちながら息を吸おう。心を解き放ちながら息を吐こう。」と訓練する。一見幸せに至るように見えても実際にはそうでない道(蓄積し、何かを成し遂げ、ひとかどの者になることなど)からは遠ざかるようになる。

最後に挙げるのは最も深刻な領域で、物事に対して「私」とか「私のもの」として執着すること。
智慧は言葉ではない。見ることが智慧。何が起こっていても目を開いていること・・・最悪の不安や絶望であっても、はっきりと見つめて直面するなら、すべてのものと取り組むことができる
無常ということは事実であり、苦しみは事実であり、病気や死、戦争、自然災害、それらすべてが事実。しかしそれらに対して心がどのように反応するかが鍵となる。それによって痛みと苦悩の違いがでてくる。いかなる状況においても何物をも私だとか私のものとして執着してはならない。
この言葉を聞いたならば、ブッダの教えのすべてを聞いたことになる。その言葉を実践するならば、ブッダの教えを実践したことになる。
我々は一日中生まれては死につづけている連続にすぎない。プロセスにすぎない。自分が「不在」になるその強さと長さにしたがって、それは悟りの経験になり得る。
私たちは自分の考えることを自分の物語として深く執着している。誰もが自分の物語を持っていて、それを語るのが大好き。他に誰もいなければ、一日中自分自身にその物語を語っている。それらは極めて機械的で反復的。私たちは同じ古い会話を何回も繰り返し、起こり得ない新しい会話をこしらえ続けている。 にもかかわらず私たちは自分の思考に巨大なプライドを持ち、実質的に私たちはそれらの思考の奴隷になっている。
深く洞察すること、自分自身を深く見ること。その見ることによって苦しみが終わる。それがブッダの教えの全体的な目的。何かをするのをやめ、何かになろうとするのをやめ、ただ静かに坐って自分のままでいる。無執着の修行は遠い未来にあるのではない。それはこの瞬間にある。どんな瞬間にでも私たちは自分が何かに執着して苦しんでいるのを見る。それを充分に深く見るならば、固執が落ちて、私たちは解放される。

ステップの究極的な源泉は呼吸。私たちは自然から横取りしていたものを、自然に返すのだ。この心、これらの感受、この身体、そして呼吸そのものは私たちに所属してはいない。
坐るときの態度は、ひとつの総合的な受容性と開放性。計算ずくめの心を休めて、何物にも自分の方から手を伸ばそうとせず、人生がやって来るのに任せる。選択なしの自覚が成就された状態とは、ただ坐っている(只管打坐)こと、すべての支えや方法や方向やテクニックを手放すこと、自覚しながらただそこにいること。

「彼らは過去について嘆かず、未来の物事を渇望せず、何がやってこようとも(これが重要な一句です)自らを保っています。だから彼らは穏やかなのです」。
修行は坐ることだけではない。修行は、人生のいついかなる瞬間であろうと可能。修行は人生の一部ではない。修行は人生。そして人生は修行。
自分がしていることに対して穏やかな注意力を向け、そのしていること以外は何もしないこと。
していることから心がふらふら離れていったら、心を連れ戻すこと(離れたら離れた事をみつめる)
このステップを何万回、何億回と繰り返すこと。
沈黙への道には障害物がいっぱい。主要な障害物は無知。沈黙への旅の最初の部分は呼吸を意識する修行を通って進む。自分の心が流れ落ちている滝のようであること、うるさくていつも落下していることに気がつく。
完全に受容的な状態で、何物とも分離されていない存在感を持って坐っている。現れてくるもの全てに対して肯定も否定もしない。現れてくるものに対して友好的で、関心のある受容的な態度を取っているだけ。心はそんなふうにさまよい歩くことを許されたとき、ついには自分自身に飽き飽きしてくる。結局のところ、心は同じことを何回も繰り返し言っているだけ。心は全ての雑音にうんざりとして、落ち着いてくる。その時、沈黙という広大な世界の突破口に立っている。
 沈黙を獲得することは、寂しさに取り組む能力や死を受容する能力と係わりがある。特にエゴはそれらのことと密接に関わっている。私たちは独りになることを恐れ、死ぬことを恐れるために、思考を使って自分を取り巻くものを作り上げる。そしてその思考が沈黙に入っていく妨げとなる。
 私たちはこの状態にあこがれてばかりいられない。誰もが自由になることを学んでいる。それを実現する唯一の道は、自分がどのようにして奴隷になりさがっているかを見抜くことである。
(以上、R.ローゼンバーグ著『呼吸による癒し』抜粋ダイジェスト)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どの言葉も深く、示唆に富んでおりますが、特に
「無常ということは事実であり、苦しみは事実であり、病気や死、戦争、自然災害、それらすべてが事実。しかしそれらに対して心がどのように反応するかが鍵となる。それによって痛みと苦悩の違いがでてくる。いかなる状況においても何物をも私だとか私のものとして執着してはならない。」
この一文を読みますと、かの良寛様が文政十一年三条の大地震の際に、知人に宛てて書いた有名な手紙を思い出します。
 「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。(中略)しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」
 まさに、こういう境地こそが悟りというのでしょう。


もし、ここまでの文章を読んで、何を言っているかサッパリわからない、という方は、恐らく、坐禅なり他の修行を全く体験したことがないか、しているとしても、まだ初歩の段階である、ということだと思います。ある程度の年月をかけ、坐禅や瞑想をし、どうしょうもない自分と向き合わざるを得なかった人には、いちいち深く思い当ることばかりであるはずです。
 呼吸とは、貴方も、私も、世の中の全ての人が、この世に生を受けてから死ぬまで、一秒たりとも途切れることなく、命を維持するために必ずしている行為です。その呼吸を観察し、味わい、気付きを深めていくことによって、深く癒されていくのですから、呼吸をいい加減に行うことは、非常にもったいないことであると思います。
最近、はやり始めたマインドフルネスもここまで行けると良いのですが…。

2018年 「1月の標語」

怨みをもって怨みに報ゆれば
怨みは止まず
徳をもって怨みに報ゆれば
怨みはすなわち尽く

――― 『伝述一心戒文』伝教大師最澄

平成29年12月7日午後8時半ごろ、東京・江東区富岡の路上で、近くの富岡八幡宮の宮司の富岡長子さん(58)と運転手の33歳の男性が、車から降りた直後に刃物で切りつけられました。長子さんはまもなく死亡し、男性も腕などに大けがをしました。
また、長子さんの弟の富岡茂永容疑者(56)と妻の真里子容疑者(49)もすぐ近くで倒れていて、茂永容疑者が妻と一緒に長子さんと運転手に切りつけ、さらに妻を殺害して、自殺したと見られています。
関係者によりますと、富岡長子さんと弟の茂永容疑者は、長年にわたってトラブルになっており、最近「再び宮司になりたい」などと、富岡八幡宮の宮司の職をめぐって対立し、長子さんが警察署に相談していたとのことです。

全国の神社が加盟する神社本庁などによりますと、平成6年11月、茂永容疑者はそれまで宮司を務めていた父親に代わって宮司代行に就任し、翌年の平成7年3月から宮司を務めていました。
しかし、富岡八幡宮の関係者などによりますと茂永容疑者は素行不良・金銭トラブルなどで平成13年5月に宮司を退任し、父親が再び宮司に就任していました。
神社と付き合いの長い70代男性商店主は、茂永容疑者は「日本に5、6台しかない高級外車を乗り回し、高校時代の同級生たちと銀座のクラブで飲み歩いていた」と振り返っています。
2回の離婚歴もある茂永容疑者に対し、父親は当時、相続権剥奪を裁判所に請求しておりました。

富岡八幡宮の基本財産は約3億3500万円。1991年に佐川急便グループの佐川清会長(当時)が奉納した神輿(みこし)は純金やダイヤモンド、ルビーがあしらわれ、蔵も含めて総額10億円とも言われ、大変話題になりました。
そして、7年前の平成22年に富岡長子さんが父親のあとを継いで宮司代行に就任しました。富岡八幡宮の総代の代表でつくる役員会は、長子さんを宮司に任命するよう、神社本庁に複数回にわたって申し入れていましたが、神社本庁が協議した結果、おととし1月、長子さんが宮司になるために必要な研修を受けていなかったことなどを理由に、宮司への就任を認めなかったということです。
すると、今年6月になって、八幡宮側は神社本庁を離脱すると通知し、9月、長子さんが正式に宮司に就任したということです。警視庁によりますと、茂永容疑者は宮司を退任したあとの平成18年1月、「ことし中に決着をつける。積年の恨み。地獄へ送る」などと書いたハガキを長子さんに送り、脅迫したとして、逮捕されたこともありました。(出典:NHK Newsなど)

富岡八幡宮は江戸時代に創建された都内有数の神社で、現場は、東京メトロの門前仲町駅から300メートルほど東に行ったあたりで、実は、私は数十年前、縁あってこの地域に2年間ほど住んでいたことがありました。
富岡八幡宮の西には成田山東京別院深川不動堂もあり、この辺りは典型的な門前町です。

富岡八幡宮はお宮としての収入のほかに、このあたり一帯の土地を所有し、不動産収入もかなりの額に上ったようで、富岡家と一般庶民の経済感覚とは、桁が違うことは容易に理解できます。
だからこそ、その莫大な財産や、有名な神社の宮司という名誉をめぐって、骨肉の争いが起きたものと思われます。多くの人々の尊崇を受け、先祖代々受け継がれてきた神社の歴史と責任の重みを痛感していれば、このような凄惨な事件は起こるはずもなかったと思いますが、一族が神社を私物化した挙句の愚行でありましょう。

今月の標語は、伝教大師最澄上人の弟子である光定がまとめた最澄の回顧録「伝述一心戒文」中の御言葉です。
即ち、「怨みに対して報復で応じれば際限がなく、相手を怨むのではなく、徳をもって相手に接し、許すことができれば怨みはなくなる」ということです。

実は、このことは、お釈迦様が、最澄をさらにさかのぼること1000年以上前に、以下のように述べておられます。
「じつにこの世においては、怨みに対して怨みを返すならば、ついに怨みの鎮まることがない。怨みを捨ててこそ鎮まる。これは普遍的な真理である。」『ダンマパダ』5

さらに、お釈迦様と同時代に生きられた孔子も『論語』の中で、以下のように説かれます。
「或曰、以徳報怨、何如。子曰、何以報徳。以直報怨、以徳報徳」。(憲問第十四 378)
(あるひひといわく、徳をもって怨みに報いばいかん。子のたまわく、何を以ってか徳に報いん。直き(誠意)を以って怨みに報い、徳を以って徳に報いん。)と。
即ち、怨念に対しては誠意で対処せよと、孔子は説きます。

同じくイエス・キリストも、「右の頬を打つ者がいたら、左の頬も出しなさい!汝の敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい!報復してはいけない!!」と唱えました。人に殴られるほどの理不尽なことをされたら、カッとなって仕返ししてやりたい!と思う気持ちは誰にでもあると思いますが、やり返したら復讐の連鎖の罠にはまってしまうでしょう。

奇しくも お釈迦様、孔子、イエス・キリストという、世界の三大聖人がいずれも「怨念を受けても、それに対し、怨みで返してはならない。」とおっしゃっているということは、怨む心を何とかして克服しなければならない、と説いているのです。

怨念は邪念の代表的なものですが、アメリカの心理学者スコット・ペックは、邪念の根源を@知的怠惰…無知・無明と、A病的なナルシシズム…病的な自己愛にあると云っているようです。
「邪悪な人とは、「誤った自己愛(ナルシシズム)から生まれた完璧な自己像を守るために、人をスケープゴートにする人」のことを指す。こうした誤ったナルシシズムを持ってしまった人は、自分を守るために全く無自覚に嘘をついたり人を非難したりする。しかし邪悪な人々が邪悪である所以は、あくまでもそうした行動をとるからではなく、無意識のうちに自分の欠点と向き合う苦痛から逃れ続けようとするところにある。」『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』(草思社文庫)
まさに今回の富岡家の人々にぴったりと当てはまりますね。

富岡茂永容疑者が、事件直前にA4判8枚につづった“遺書”の最後には、以下のように書かれていました。
「もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」

ここで、ほとんどの方が、富岡茂永容疑者が、本人が望んでいるように、本当に「怨霊となり永遠に祟り続ける」ということができるものか、心配なさると思います。
 私は、家々の御仏壇の前での読経を仕事としておりますが、よく仏壇に供物以外の様々なものをお供えしてあるお家があるので、意地悪を言うことがあります。「Aさん、もしあなたが今日死んだとします。お子さんが、宝くじをお供えし、チ〜ンとおリンを鳴らして、当たりますように…とお祈りされたとして、あなたそのくじを当てることできますか?」と聞きます。当然ながら、「できません」と100%の方が答えます。でも現実には、お仏壇に参るとき、多くの方が色んなお願いをするのです。何か人が死んであちらの世界に行っただけで万能になったような錯覚を持ってしまうのですが、現実にはそういうことは起きません。様々なことをお願いされてもご先祖様を当惑させるだけです。人は死んでも、その人の霊のレベルにあった状態になるだけだからです。
「お守りください」などと、仏壇の前でお願いするくらいなら、最強のガードマンを雇った方が、効き目はあると思いますよ。あるいは、希望校を受験して合格したいなら、それに見合った勉強をする以外に方法はないでしょう。

それと同じで、どれだけこの富岡茂永容疑者がそれを望んだとしても、怨霊となり永遠に祟り続けるなどということは、不可能なことなのです。自分の霊性のレベルにあった最下層即ち、地獄に行くだけのことです。あるいは可能性としては、この人たちは自分たちが死んだことも気が付かず、いつまでもお互いに傷つけあい、そこら辺でのたうち回っていることはあるかもしれませんね(~_~;)
我々は当然ながら、神々のレベルではないのですから、霊となって他に良い影響も悪い影響も及ぼしようがないのです。ただ、神々の対局として、悪魔的な低級霊がいることも事実です。低級霊は、主に、人々が沢山集まるような場所をうろつき、いたずらの機会を狙っています。私が、坐禅会やヨガ教室に人が沢山来ない方を好むのもそういう理由があります。
このような霊に対して私たちがとるべき態度は、自分が霊的に高まるように努力し、体力的にも、弱くならないよう努めて、低級霊に付きまとわれないようにすることでしょう。常に自身の霊格の向上にさえ努めていれば、低級霊など気にすることはないと思います。
三大聖人が説かれるように、人から怨念を受けたとして、それに取り合わず、怨念を自分が持たないようにすることしかないのです。


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