今月の標語 2006年

2006年 「12月の標語」

「わたくしは、幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、―――家屋の作者(つくりて)を探し求めて。
  あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。(法句経153)

家屋の作者よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は(自己を)形成するはたらきを離れ、妄執を滅ぼしつくした。 (ダンマパダ・154)

「起(た)てよ、坐れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。スッタニパータ・331」

「起てよ、坐れ。平安を得る為に、ひたすらに修行せよ。汝らが怠惰でありその力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。332」

「神々も人間も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。この執着を超えよ。わずかの時をも空しく過ごすことなかれ。時を空しく過ごした人は地獄に堕ちて悲しむからである。333」

「怠りは塵(ちり)垢(あか)である。怠りに従って塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。334」

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現在の日本では、概ね12月8日が、お釈迦様がお悟りを開かれた日、ということになっておりまして、各地の僧堂などで、1日から8日まで、臘八摂心を修行致します。
  禅家では、お悟りを開かれた時のお言葉を「我與大地有情同時成道」(傳光録・釈迦牟尼佛章)と致しますが、およそ、前述の法句経(ダンマパダ)で述べられるお悟りの言葉とは、全く趣旨が異なっております。

お釈迦様の滅年には諸説ありますが、上座部の暦によれば、今年は佛滅後2550年になります。
  仏滅後、約400年位の後、現実の人間存在のあり方に限りなく妥協し、修行方法を容易にした大乗仏教が現れました。
  そしてそれが中国へ渡りさらに4〜500年の歳月をかけ、老荘思想の影響を受け変質し、そこからさらに伝わってきたものが、日本の仏教です。
  現代は情報化社会のおかげで幸いにも、御釈迦様が説かれた始めた頃の教えにかなり近いとされる経文(スッタニパータ、ダンマパダとか)を容易に手に入れることが出来ますから、仏教の原点の教えがどのようなものであったのかを、知ることができます。

家とはもちろん、現実の建物のことではありません。「わたし」を実体化し強く執着する自我意識の象徴です。つまり、家を壊すとは、実体視された自我の殻を壊すということで、ブッダはこの時「わたし」という幻想から解放された、と宣言されているのです。

お釈迦様が説かれているのは、輪廻の歯車から脱け出す、解脱であり、その為に、よく整えし自己と、法を、拠り所として死ぬまで精進せよ、という教えです。
  心が自己を形成するはたらきを離れ、妄執を滅ぼしつくす、などということは、そう簡単に成就できるものではありません。
  また「只管打坐」と言っても、本当に只管に打坐が出来る人に巡り会えることはむずかしいでしょう。
  ひとたび、坐蒲に坐れば、あたかも、猿が木から木へ飛び移るように、雑念は次から次へと浮かび、又次の雑念を追いかけるという具合で、それに飽きると居眠りまでしてしまいます。
  むしろ只管に打座できる工夫をしないと、坐禅しても、ただ無駄な時間を浪費してしまうような気がしてなりません。
  今この末世の世の中を救えるのは、本当の教えに従い、本当の修行をしたいと、強く念じて、日々努力していくことしかないと信じています。

2006年 「11月の標語」

何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?――世間は常に燃え立っているのに――汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明をもとめないのか?(法句経・146)

見よ。粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。(法句経・147)

骨で城が作られ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。(法句経・150)

世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。(法句経・170)

この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天にいたる人は少ない。(法句経・174)

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今年はお釈迦様が入滅(般涅槃)されて2550年になる年です。お釈迦様は80年生きておられたと言われておりますので、毎月御紹介させて頂いているお釈迦様の教えは、今から3000年以上も前に説かれたことになりますが、読んで頂くと、今の世の中においても全く陳腐な言葉に聞こえないことに驚かれるのではないでしょうか。私は2年ほど前、女流作家で出家でもある或る方が、新聞に書かれたコラムに対し手紙を書いたことがあります。その方はあまりにもむごい死に方をされる人たちの多い現代の世相を批判し、「理不尽な死をみつめる」と題して書かれたのでしたが、それに対しおおむね以下のような要旨で手紙を書きました。

「今回のタイトル「理不尽な死を見つめる」などと書くことから、お釈迦様のごく初期に説かれたとされる原始仏典をきちんと学ばれた事が無いと言うことが容易に想像される。お釈迦様が説かれた最も基本の教えは、「(因)縁(生)起の法」であり、この世界のあらゆる存在と現象は、因(直接の原因)と縁(間接の原因あるいは条件)によって成り立っているということ。何事にも起こるにはそれなりの理由がある訳で「理不尽」ということはありえない。

次に、「人間は何のために生まれてきたかと、若い人たちによく訊かれる。私はその度、幸福になるために生まれた。云々と答えている。」と、書いてあったことについて、

諸法無我(あらゆる存在や現象には実体が無い)ということに本当に目覚め、これら全てに対する、執着、煩悩を断ち切り、涅槃に到達できた時に、人は輪廻から解脱する事が出来、そのような境地に到った人を、ブッダと呼ぶのであって、この世に生まれてきたということは、輪廻の一過程にすぎない。彼女の文章を読んでいると、煩悩だらけの我々の日常を、無反省にあまりにも美化しすぎていることを痛感する。

(中略)

今の世の中が麻のごとく乱れ、人心が荒廃していることは、何人も否定できない事実であるが、お釈迦様がとかれた『因果の法』で見れば、荒れた世の中は他人事ではありえない。自分達自身の心の反映と思うべきであり、我々人間自身が貪瞋癡に振り回され、それに対する何の反省も持たない生活を続けてきた為に、いよいよ、末世の状況が深刻なものになってきて居るのではなかろうか。彼女のコラムを読むと、戦争を起こしたり、人を傷つけたりする人たちのことを他人事として、自分の外の事として捉えているという印象を強く持つ。どろどろした自分自身の内面を深く見つめるならば自ずと答えは出てくる。

お釈迦様は、「よく整えし自己を拠り所とせよ。」と説かれたのであって、仏弟子であるならば、理不尽などと他人事のように嘆いていないで、率先して、よくこの道理を学び、お釈迦様が説かれた方法でよく自分自身を整え、自分を良くして行く事で世の中を良くしていくしか方法はないと思われる。

大変残念なことに、ご返事は頂けませんでしたが・・・・。

2006年 「10月の標語」

すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。(法句経・90)
財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらのいく路(=足跡)は知り難い。――― 空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。(法句経・92)

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常宿寺には、先の大戦中に近在の方々からご寄進頂いた、大変ご立派な尊像のお釈迦様、大迦葉様、阿南様と、十六羅漢様がいらっしゃいますが、今回の工事の際に、さらにご立派に御修復して戴き、この十月に羅漢様ご供養のお勤めを致します。

その因みに、羅漢様の由来を、ちょっとご説明いたしますと、「羅漢とは、阿羅漢の略称で、アラカンはサンスクリット語arhanの音写。漢訳は〈応供〉。尊敬・施しを受けるに値する聖者を意味する。原始仏教では修行者の到達しうる最高位を示す。又通俗語源解釈によって、煩悩の賊(ari)を殺し、また涅槃に入って迷いの世界(三界)に生まれないので〈殺賊〉あるいは〈不生〉ともいう。

釈尊の10の別称(十号)にも応供の名がみられるように、もとは仏の別称であったがのちに仏と区別されて、弟子に阿羅漢の称が当てられるようになった。

中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢と称し、また、第1回の仏典結集に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して尊崇することが盛んになった。

特に、禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈尊の正法が直伝されたことを重視するので、釈尊の高弟の厳しい修行の姿が理想化され、五百羅漢の図や石像を製作して、正法護持の祈願の対象とした。(岩波仏教辞典より抜粋)

今回の法要では、それぞれの尊像をあげて頂いた子孫の方たちにお膳をお供えして戴きますが、羅漢様ご修行の威神力が皆様をお守り、お助けくださいますようにと、祈らずにはいられません。

2006年 「9月の標語」

生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった業の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(天)に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう。

ひとびとは因縁があって善い領域におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域におもむくのである。ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。このように、このことは因縁にもとづいているのである。(『感興のことば=ウダーナヴァルガ』)

人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。 存在の世界の彼の岸にいたり、未来の煩悩を離れ、過去の煩悩を離れ、また現在の煩悩を離れねばならぬ。意(こころ)を一切のところにおいて解脱せしむれば、なんじはふたたび生と死の苦しみを受くることがないであろう。(『法句経=ダンマパダ』)

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再び、お彼岸の時節がやってきました。仏教は根本の教えとして、輪廻を説いております。即ち、煩悩から離れることができず解脱できなければ、何度でも生と死の苦しみを受ける、という教えです。

1月の標語に、お釈迦様のお悟りの最初の言葉をご紹介しましたが、ここにも、「生をくり返すのは苦しいことだ」とありました。つまり、お釈迦様は、「生を受けること自体が、苦の始まりである。」と説いておられるのです。このことは、ちょっと理解に苦しまれる方もいらっしゃると思います。仏教の教えを「暗い」と捉える方が少なからず出てくる所以でもあります。
お釈迦様は、本当の涅槃に至らない限り、永遠に迷いの生を経巡ると説かれます。或る時、私の友人に、根本の教えを訊ねられ、何度でも生まれ変わるというのも教えのひとつと申しましたところ、「それなら安心した」と言われたのですが、この教えは、当然ながら、次も必ず人間に生まれるというものではありません。道元禅師様も「人身得ること難し」と説かれております。あるいは、塗炭の苦しみにあって、自殺する方がいますが、こういう方の次の生は、普通に考えても今の状況以上になることはないように思いますが如何でしょうか。自殺すれば今より楽になれると言う保証は、どこにもないのです。お釈迦様の教えに従うなら、今が苦しい方が、本当に楽になりたいという時は、教えに従って修行し、この輪廻のサイクルから脱け出すしか方法は無いと思うのですが・・・。 

2006年 「8月の標語」

「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」

――― (法句経:279)

言葉を慎み、心を落ち着けて慎み、身に悪を為してはならない。これらの3つの行いの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ちうるであろう。(281)

実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。心が統一されないならば豊かな智慧がほろびる。生ずることと滅びること、この2種の道を知って、豊かな智慧が生ずるように自己を整えよ。(282)

私たちの心は、眼・耳・鼻・舌・身体・意識を通して様々な情報が入ることによって、種々に動きます。例えば、色は目を、音は耳を、香りは鼻を通して伝わってきますが、その情報に触れた途端にそこに様々な価値判断を入れていきます。 ある音が耳から入るとき、それが自分の好きな音楽であれば、非常に心地よくなりますが、深夜に大音響を立てて走り回る集団が発する音だとすると、それを不快に感じる人のほうが多いと思います。そして「快」「不快」を感じた瞬間に、それによって度々眠りが妨げられたりすると、警察を呼ぼうとか、人によっては仕返しをしたいという風に、妄想がどんどんと膨らんできます。これが煩悩の働きです。

私達仏弟子はよく「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」と、「四弘誓願文」をお唱えします。この2番目に、「煩悩は無尽であるが、断ずることを誓います」とありますが、一口に断ずるといっても容易なことではありません。 お釈迦様の説かれた修行方法によれば、外からの情報を受けた時、そこに煩悩を生じさせない為には、「ただ音だけ。ただ色だけ。」と、観ていくのだそうです。そこに「私」を入れない。一切の事物に「私」を入れない。それが、煩悩の働きを断ち、明らかな智慧を生む、とお釈迦様は説かれます。この心を育てる修行方法を実践するのは、特別な場所や山の中でなければできないというものではありません。とかく、私たちの心は、ちょっとしたことで感動したり、些細なことで悲しくなったり、暗くなったりしてしまいます。常に外からの情報によって一喜一憂していることは、他人や外部に操られているのと同じことになるのではと思います。お釈迦様は「自分の心をよく観る」という心の訓練法を私たちに示して下さいました。このことを学び、困難でも実践し続けようという誓願を常に持ち続けたいと思う日々です。

2006年 「7月の標語」

自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。(法句経、160)

自ら悪をなすならば自ら汚れ、自ら悪をなさないならば自ら浄(きよ)まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない。(法句経、165)

―――

そもそも、お釈迦様が説くことによって始まった初期の仏教には、誰かに救ってもらおうとする他力的な部分は全くありませんでした。我々の周りに身近に存在する多くの宗教は、宇宙の根本原理とか、創造主としての神のような、具体的に捉えることの出来ない観念を信じるところから始まります。

お釈迦様がお生まれになった紀元前5世紀頃のインドにおいては、ブラフマンの信仰を根本的立場とするバラモン教が主流でした。バラモン教は、宇宙の究極的原理(梵・ブラフマン)や、個体の究極的原理(我・アートマン)の実在を認めておりましたが、ブッダは、こうした「我」の実在を認めること自体が、真理に対する無智から生じた煩悩に過ぎないと説かれたのです。そして、全てのものが実体としてないという[諸法無我]という事実に目覚める智慧[般若]を身につけることが、人間の理想のあり方[涅槃]であると説かれました。

ゴータマ・シッダルタがブッダとなられたというのは、この智慧を完成したことを意味します。

ブッダは、全ての存在の真実のあり方に対する無智の故に執着が生じ、そのことが原因で「苦」を招いているとし、この無智を「無明」と呼んで、是を根本煩悩としました。そして周囲の人々にも同様に智慧の完成を得さしめるために、自らの体験を語り始めました。 人間は、無明を滅し、無常、無我の道理に目覚めれば誰でもブッダになることができると説き始めたのが仏教の始まりです。それはまた、自己の内面に苦の原因を見出し、それを除去することによって、涅槃を実現しようとするものであり、常に自分自身のあり方を問題とし、主体的に自己の問題の解決を図ろうとするものなのです。

2006年 「6月の標語」

おおよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐もたがわざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず、おおよそ衆生の見仏聞法あるべからざるなり。

――― 正法眼蔵『深信因果』

「およそ、因果の道理とは、全く明々白々なことでかたよりがないものです。悪い行いをなすものは、苦しみの世界に落ち、善き行いをなすものは一切の迷いや苦から解き放たれます。この真実には毛先ほどの狂いもありません。もし、因果の道理がなく、真実でないのなら、諸仏がこの世に出現し、真理を示されることもなく、達磨大師が正しい仏教を伝えに中国にこられることもなく、それゆえに、私たちが仏性に目覚めたり、正伝の仏法に接する機縁もあるはずがないのです。」

この因果の法とは、また少しニュアンスは違いますが、釈尊の基本的教えに「縁起の法」があります。因縁生起という言葉を略して、縁起といい、この世の成り立ち方を、説く教えです。 因というのは、直接の原因(Cause)で、縁というのは間接の原因または与えられた条件(Condition)ということで、これら因と縁によって、この世界のあらゆる存在や現象が成り立っているという教えです。例えば、水=H2Oという存在も、非常な低温という条件下では氷となり、次第に温度が上昇するにつれ、その形を変えて行くというように・・・・。

人間の存在もこの意味において決して例外ではなく、道元禅師様が「生を易え身を易え」とお示しのようにいろいろな条件によってその身を変えていきます。

仏教には、全てのものの、第一原因としての創造主といった考え方がないのであらゆる事象が、縁起という考え方で説明されます。

また、この教えの基本に立って、仏教の大切な教えを、「三法印」と呼ぶこともあります。即ち、「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」です。

この世のあらゆる存在や現象において、永遠に不変のものは、何一つありません。それは、どのような存在や現象にも、固定的実体(=我)がないからです。したがって、それらに対する執着を超えたところにこそ、真の安らぎがあり、そのような境地(=涅槃)にはいられた方を、仏陀とよびます。

よく、人が亡くなると、「どうか成仏して下さい」という風に、お祈りしますが、本当の意味で成仏(=つまり仏に成る)とは、並大抵のことではないように思います。

2006年 「5月の標語」

もろもろの道のうちでは、<八つの部分よりなる正しい道=八正道>が最もすぐれている。
もろもろの真理のうちでは、<四つの句=四諦>が最もすぐれている。
もろもろの徳のうちでは離欲が最もすぐれている。
人々のうちでは<眼ある人=ブッダ>がもっともすぐれている。

――― 『法句経』273

「苦・集・滅・道」という四つの真理のことを四諦といい、最後の「道」の内容のお示しが「八正道」です。これは釈尊の、最も初期の、基本的な教えで、この世の中の真実の姿を説いているものです。 あえて簡略に申しますと、この世は”苦”しみに満ちている。なぜなら、その原因”集”があるからである。したがって、その原因を”滅”することが出来れば、その苦しみはなくなるが、その方法こそが、八正道である、というようなことになります。

八正道とは、「正見」「正思惟」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」という八つの実践道です。
「正見」とは、偏見を持たない正しい見解、物事をありのままに観ることです。
「正思惟」とは、正しく、論理的に考えることです。
「正語」とは、嘘をつかない、無駄話をしないこと、口で行う正しい行為です。
「正業」とは、殺生や、盗み、邪な行為を慎むこと、正しい行為です。
「正命」とは、正しい仕事です。正しい手段で、多くの命の為になる日常生活を送ることです。
「正精進」とは、正しい努力、心を清らかにすることに努めることです。
「正念」とは、しっかり気づくこと、過去を悔やまず、未来を憂えず、今をしっかり確認して生きることです。
「正定」とはいつでも落ち着いて、混乱しないで、安定していることです。

このような身口意による全ての行為を正すことによって、煩悩だらけの自己を浄化し、この世の苦しみをなくすことができ、正しい最高の悟りである、ブッダの境地に達することが出来る、ということになると思います。 2月の標語で、「よく整えし自己を拠り所とせよ」との教えをご紹介致しましたが、この八正道は、どのようにして整えていくかという方法を具体的に示して下さっています。 実際に実行しようと志しても、八つどころか一つさえ満足にできないのですが、それでも、少しでも努めようと志を持つこと、また実際に努力することは、無駄にはならないような気が致します。

2006年 「4月の標語」

「われわれは幻想の中に生きている。そして物事の見せかけの中に。現実というものが存在する。われわれがその現実である。おまえがこのことを理解するとき、おまえはおまえが何物でもないことがわかるだろう。そして何物でもないことが、おまえが万物であることなのだ。これがすべてである。

――― カル・リンポチェ」

この詩偈はラリー・ローゼンバーグ著『呼吸による癒し』(春秋社)の中で紹介されています。
(原題 BREATH by BREATH : The Liberating Practice of Insight Meditation)
この本は、4年ほど前に、(当時は曹洞宗に属していた)ある僧侶の方から教えて頂きました。 「出息入息に関する気づきの経」(アーナーパーナサティ・スートラ)に基づいて教えるという形を取って著されておりますが、お釈迦様の教えが凝縮されており、1行をもおろそかに出来ないと感じるほど非常に密度の濃い著書でしたので、生活の指針にするべく、ダイジェストを作りました。以後私の毎日の修行生活において最も示唆を与えてくれるものとなっていますので、少し長めですがご紹介したいと思います。

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・・・・いま生起していることから思考によって分離してしまっている時、命を殺している。という。その行為に完全に一体になることができたなら、そこにある種の喜び、ある種の歓喜のあることが分る。私たちを対象と隔てているのは、もっぱら自意識。私たちは物事を追いかけたり、物事から逃げ去ることに際限のないエネルギーを費やしている。私たちは心の奴隷になってしまっている。私たちは心の内容に執着してしまって、自分自身そして他の人々に苦しみをもたらす行為へと駆り立てられる。ブッダの教えの目的は、私たちをこの執着から自由にすること、すなわちこの心の主人となること。 そのためには「煩悩」とされる心の三側面を理解することが極めて重要。それらは貪欲、嫌悪、そして迷妄。(貪瞋癡、即ち貪り・怒り・無知)三つのうちで迷妄ないし無知が、最も主要な煩悩。私たちは物事をはっきりと見ることができないが故に、自らを幸せにしてくれることのないものを追いかけ、不快なものに殴りかかり、本当は私たちを害することなどないものから走り去ることに莫大な時間を費やしている。重要なのは、戦場のようになっている私たちの心を平和共存の場へと変えること。瞑想が目指しているは、すべてのものがやってきた場所へと戻って行くこと。一切は静けさの中からやってきて静けさの中へと帰って行く。修行が進むにつれて、感受に気づきを向けると感受が消え去っていったのと同じ仕方で、怒りや恐れも消え去っていく。すると私たちは何か全く別なものへと開かれていく。広大で静まった、エネルギーと愛とに満ちた、私たちが必要とするあらゆる滋養分に満ちた何かに・・。    煩悩は強く智慧は弱い。

私たちにとっての最悪の敵も私たちの外側にいるのではない。最悪の敵もベストフレンドも自分の心の中にいる。この修行(心の再教育)が持つ最もラディカルな見地の一つは、問題は外部にあるとするのではなく、常に内部を見るということ。私たちは煩悩に心を奪われて自らの心を覗こうとはしない。本当に難しいのはたった今、ここで起こっていることに注意を向けること。煩悩がそれをさせない。煩悩の呪縛を破る方法とは、振り返ってそれらを直視すること、ただ見つめること、これが第一歩。

欲望は苦しみであるときっぱりと明らかになった時、その人の修行が始まる。「いかなる状況においても何事にも愛着を持つな。」喜びは修行に完全に没入することができたときに生じてくる。心を解放するひとつの手立ては、より持続的に呼吸と共に在ろうとすること。「心を解き放ちながら息を吸おう。心を解き放ちながら息を吐こう。」と訓練する。一見幸せに至るように見えても実際にはそうでない道(蓄積し、何かを成し遂げ、ひとかどの者になることなど)からは遠ざかるようになる。
最後に挙げるのは最も深刻な領域で、物事に対して「私」とか「私のもの」として執着すること。智慧は言葉ではない。見ることが智慧。何が起こっていても目を開いていること・・・最悪の不安や絶望であっても、はっきりと見つめて直面するなら、すべてのものと取り組むことができる無常ということは事実であり、苦しみは事実であり、病気や死、戦争、自然災害、それらすべてが事実。しかしそれらに対して心がどのように反応するかが鍵となる。それによって痛みと苦悩の違いがでてくる。

いかなる状況においても何物をも私だとか私のものとして執着してはならない。この言葉を聞いたならば、ブッダの教えのすべてを聞いたことになる。その言葉を実践するならば、ブッダの教えを実践したことになる。
我々は一日中生まれては死につづけている連続にすぎない。プロセスにすぎない。自分が「不在」になるその強さと長さにしたがって、それは悟りの経験になり得る。私たちは自分の考えることを自分の物語として深く執着している。誰もが自分の物語を持っていて、それを語るのが大好き。他に誰もいなければ、一日中自分自身にその物語を語っている。それらは極めて機械的で反復的。私たちは同じ古い会話を何回も繰り返し、起こり得ない新しい会話をこしらえ続けている。 にもかかわらず私たちは自分の思考に巨大なプライドを持ち、実質的に私たちはそれらの思考の奴隷になっている。
深く洞察すること、自分自身を深く見ること。その見ることによって苦しみが終わる。それがブッダの教えの全体的な目的。何かをするのをやめ、何かになろうとするのをやめ、ただ静かに坐って自分のままでいる。無執着の修行は遠い未来にあるのではない。それはこの瞬間にある。どんな瞬間にでも私たちは自分が何かに執着して苦しんでいるのを見る。それを充分に深く見るならば、固執が落ちて、私たちは解放される。

ステップの究極的な源泉は呼吸。私たちは自然から横取りしていたものを、自然に返すのだ。この心、これらの感受、この身体、そして呼吸そのものは私たちに所属してはいない。坐るときの態度は、ひとつの総合的な受容性と開放性。計算ずくめの心を休めて、何物にも自分の方から手を伸ばそうとせず、人生がやって来るのに任せる。選択なしの自覚が成就された状態とは、ただ坐っている(只管打坐)こと、すべての支えや方法や方向やテクニックを手放すこと、自覚しながらただそこにいること。
「彼らは過去について嘆かず、未来の物事を渇望せず、何がやってこようとも(これが重要な一句です)自らを保っています。だから彼らは穏やかなのです」。修行は坐ることだけではない。修行は、人生のいついかなる瞬間であろうと可能。修行は人生の一部ではない。修行は人生。そして人生は修行。

自分がしていることに対して穏やかな注意力を向け、そのしていること以外は何もしないこと。していることから心がふらふら離れていったら、心を連れ戻すこと(離れたら離れた事をみつめる)このステップを何万回、何億回と繰り返すこと。沈黙への道には障害物がいっぱい。主要な障害物は無知。沈黙への旅の最初の部分は呼吸を意識する修行を通って進む。自分の心が流れ落ちている滝のようであること、うるさくていつも落下していることに気がつく。完全に受容的な状態で、何物とも分離されていない存在感を持って坐っている。現れてくるもの全てに対して肯定も否定もしない。現れてくるものに対して友好的で、関心のある受容的な態度を取っているだけ。心はそんなふうにさまよい歩くことを許されたとき、ついには自分自身に飽き飽きしてくる。結局のところ、心は同じことを何回も繰り返し言っているだけ。心は全ての雑音にうんざりとして、落ち着いてくる。その時、沈黙という広大な世界の突破口に立っている。

沈黙を獲得することは、寂しさに取り組む能力や死を受容する能力と係わりがある。特にエゴはそれらのことと密接に関わっている。私たちは独りになることを恐れ、死ぬことを恐れるために、思考を使って自分を取り巻くものを作り上げる。そしてその思考が沈黙に入っていく妨げとなる。 私たちはこの状態にあこがれてばかりいられない。誰もが自由になることを学んでいる。それを実現する唯一の道は、自分がどのようにして奴隷になりさがっているかを見抜くことである。

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1月の標語で、お釈迦様の悟りの初めてのお言葉を「自我からの解放」とご紹介しましたが、この著書はそのお言葉を、詳細に具体的に解説してくれているものであると思います。

2006年 「3月の標語」

「ただ生死すなわち涅槃とこころえて生死としていとうべきもなく 涅槃としてねがうべきもなし このときはじめて生死をはなるる分あり」 

人間の中には、彼の岸の涅槃にいたりつく者は、まことに少ない。此の岸の生死にある人々は、ただ岸に沿うて走るのみである
比丘よ、この身のなかに棲む邪念は、舟の中の水に似ておる。この水を汲み出せ。水を汲み出さば、なんじの舟は速やかに進むであろう。貪りと怒りとを断たば、なんじは速やかに彼の岸にいたるであろう。
存在の世界の彼の岸にいたり、未来の煩悩を離れ、過去の煩悩を離れ、また現在の煩悩を離れねばならぬ。意(こころ)を一切のところにおいて解脱せしむれば、なんじはふたたび生と死の苦しみを受くることがないであろう。

――― 正法眼蔵『生死』、 『法句経』

今月はお彼岸ですので、彼岸について述べられたものを取り上げました。

もともと、彼岸(かなたの岸)の語源は、サンスクリット語のパーラミターです。是を漢字にすると、波羅蜜多で、到彼岸を意味し、修行の目指す理想の境地へ渡ることを意味します。即ち煩悩真っ只中のこちらの岸から、修行によってそれを渡り切った向こう岸、輪廻から、脱け出した涅槃の境地のことです。

『生死』の巻は、後半に以下のように続きます。

「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて 仏のかたよりおこなわれて これにしたがいもてゆくとき ちからをもいれず こころをもついやさずして 生死をはなれ仏となる。たれの人か こころにとどこおるべき」

道元禅師様独特の非常に流麗な美文ですので、ちょっと読みますと、 それだけで、非常に心地よい世界にすぐにでも、渡れそうな錯覚に捉われますが、 実際のところ、こうした境涯にたどり着くのには、並外れた精進、努力、 志の強さがあってこそ、のように思います。

2006年 「2月の標語」

はなてばてにみてり 一多のきはならむや かたればくちにみつ縦横きはまりなし

――― 正法眼蔵『辨道話』

同じ趣旨の言葉が法句経のなかにもあります。

何も持たない我らは、大いに楽しく生きている。
アーバッサラ神(光り輝く神)のように、喜びを滋養として生きている。(200)

現世利益に達する道と、涅槃に達する道と、全く相反する道がある。このことわりを知っている仏弟子達は、名誉を喜ばないほうがよい。

そして離欲の道を歩めばよい。(75)  正しい坐禅の状態に入る為には、まず坐禅の形を整えてから、腹中の息を大きく静かに全て吐き出すことからはじめます。これを欠氣一息(かんきいっそく)といいます。呼気の全てが吐き出されると、吸気が全身に満たされることを感じることが出来ます。

解き放つことで満たされます。
根本的に、仏教は「捨てること」執着からの解放を説く教えです。
ゴータマ・ブッダが悟りを開かれ、それを周囲の人々に説くことから始まった仏教の原点に立つ時、お仏像を拝めばお金が儲かるとか、病気が治るとかの類は、真の仏教でないことは自明の理です。また、***を信じなければ、地獄に堕ちると脅かすのも仏教ではないのと同じ理由で、***を信じれば、よい所へ行けると説くのも、また真の仏教ではありえないように思います。

今朝、私の車の助手席の窓が、粉々に壊され、ご挨拶状を10通余り入れてあった紙袋ごと盗られました。前回はCDを盗られました。被害状況を調べに来て下さった警察の方が、「警察官をやっていても、身の危険が余りに大きく、何が起きてもおかしくない状況だ」とおっしゃっていました。今の世の中が麻のごとく乱れ、人心が荒廃していることは、何人も否定できない事です。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか?

お釈迦様がとかれた『因果の法』で見れば、その原因は明らかです。荒れた世の中は他人事ではありません。自分達自身の心の反映であり、我々人間自身が貪瞋癡(むさぼり・いかり・おろかさ)に振り回され、それに対する何の反省も持たない生活を続けてきた為に、いよいよ、末世の状況が深刻なものになってきて居るような気がします。

どうしたらこういった状況を少しでも改善していけるのでしょう。お釈迦様は、「よく整えし自己を拠り所とせよ。」と説かれました。荒れた世相を他人事と思わず、率先して、よくこの道理を学び、お釈迦様が説かれた方法でよく自分自身を整え、自分を良くして行く事で世の中を良くしていくしか道はないのではないかという気が致します。

2006年 「1月の標語」

「戦場において100万人に打ち勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、最上の勝利者である。」(103)

「己にうち克って、常に落ち着いている人の勝利を破ることは、神もガンダル−ヴァも、悪魔も、梵天もできない。」(104,105)

「よいことをするためには、ためらってはならない。善をなすのに躊躇していたら、心は悪を楽しむことになる。」(116)

――― 法句経(ダンマパダ)より

今のままの自分を肯定するのか否か、人間としてどうあるべきか、はたまた、何を生きがいとして生きるのか、人それぞれです。

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい。」(大パリニッバーナ経)

これは、お釈迦様が涅槃に入られる前、最後に遺されたお言葉です。不放逸とは、パーリ語で「アッパマーダ」はその時その時に何をするかわかっている、ことだそうです。反対に「パマーダ」は、溺れること、過度に依存すること、心が酔っていて自分が何をしているかわからない状態、なのだそうです。ですから、今何をやるべきかをよくわかっていて、それをきちんとやることが、不放逸ということになります。不放逸であることで心は育っていきます。

今最後の言葉をご紹介しましたが、ゴータマ・ブッダが、悟りを開かれ、最初に発した言葉は2種類伝えられており、そのうちの一つが以下のようです。

「わたしは、家を作る者(の正体)を探し求めながら、はたすことなく、数多くの生(死)輪廻をめぐってきた。生(死)をくり返すのは苦しいことだ。
家を作る者よ。(ついに)おまえは見破られたのだ。おまえは、ふたたび家を作ることはないであろう。おまえの梁はすべて折られ、家の屋根は壊れてしまった。こころは(自己を)形成するはたらきを離れ、渇愛は滅ぼしつくされた。」(法句経・153−154}

家とはもちろん、現実の建物のことではありません。「わたし」を実体化し強く執着する自我意識の象徴であります。つまり、家を壊すとは、実体視された自我の殻を壊すということで、ブッダはこの時「わたし」という幻想から解放された、と宣言されているのです。

仏弟子として、事に当たってどうすべきか、わからなくなった時、仏教徒の原点に戻る努力を惜しんではならないと、常に自身に言い聞かせる日々です。

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