今月の標語 2015年
2015年 「12月の標語」
遍界不曾藏
(へんかいかつてかくさず)
――― 『景徳傳燈録』卷十五、石霜慶諸章
先日、お寺のヨーガにいらっしゃっているXさんから、突然、携帯にメールが入ってきました。相手から返信がある前に、お互いに言いたいことを書いているので、ちょっとかみ合っていないところがありますが、そのまま書いてみます。
X: ヨガでお世話になりますXです。一昨日から不調です。ヨガはやれますが呼吸法に集中できません。
私は無口で、学校や職場で嫌われてた経験が、頭から離れません。
私: 鬱々とした自分を何とかしたくて30年くらい前から坐禅やヨーガを始めました。誰一人助けてくれませんでしたし、誰にも期待しませんでした。本当のつらさは自分にしか分かりませんから、めげないアンタはえらい、と自分をほめ、肯定しました。
嫌われた経験が頭から離れないとの事ですが、Xさんはご自分の事は好きですか?
もし嫌いなら、他人が貴女を嫌いでも仕方ないですよね?もし好きなら他人がどう思おうと、気にしなければ良い…。私は暗い自分が何より嫌いだし、負けたくなかったので一人で工夫し、努力し続けました。要は自分がどうなりたいのかにかかっていると思います。
X:性格は努力で変えられるのですね。私は明るい性格よりは自分の意見を持てるようになりたい。ありがとうございました。
Xですが嫌われた経験が頭から離れないってことは、自分が嫌いなんだと思います。
でも私は慧光さんみたいに心が強くないから、努力し続けられるかわからない。そんなときはどんな本を読んだらよいでしょう。
私:自分を好きになりたい、肯定したい、向上したい、という気持ちがなければ、病気も改善の余地がないのでは…?
X:私のうつが長引くのもその気持ちがたりないからなんですね。更年期のせいにしてました。
私:本よりボランティアお勧めです。先日Zさんに手紙を書きました。読んでみて下さい。
この携帯メールのやり取りのあった数日前、同じくヨーガにいらしたZさんが、「私の親は、親より私が早く死ぬことを望んでいる」などといわれたので、Zさんに手紙を書いたのです。この手紙を印刷して翌日の、お経の途中、Xさんの家のポストに投函しました。
(前半省略)
先日の貴女の御話を伺っていて、「両親が自分達より私が早く死ぬことを望んでいる」とのことですが、文字通り捉えると、何か薄情なように聞こえますが、根っこにあるモノは、私が毎朝、ZさんもXさんも含め、皆様の幸せを祈っていることと少しも違わないように思います。
御両親は、順番から行けば、自分達が死んだら貴女が残される訳で、そのことが心配でたまらないのではないですか?
ヨーガや坐禅に来る方で、お悩みを抱えている方たちの話を聞いていると、結局の処、何か物事うまくいかないことを、病気のせい、周りのせい、環境のせい、家族のせい、にしている方が殆どであるように思います。
それでは、病気が治ってから何か始めますか? 家族が自分を愛し、理解してくれたら変われますか? 環境が変われば何とかなると思いますか?
恐らくこういう人たちは最後まで人のせいにして今の一生を終わるのだろなと想像しています。
自分を取り巻く他人が変わることを望む前に、自分が積極的に、他の為に働く、他を真剣に愛する、大事にすることから始めれば、きっと周りも本当に貴女を大事にするようになると思います。
宇宙万物の法則は、太陽に象徴される天地を創造するエネルギー(愛)が根本です。天照大御神は神話の話ではありません。このエネルギーは宇宙や地球を進歩向上させるために人間にも与えられているのです。
あなたは何のために生まれてきたのかを考えてみてください。
宇宙の一部である地球の人間社会の進歩向上のために生まれてきたのです。つまり人間社会や他の人の幸福に貢献することによって自分も喜びを感じることが大事なのです。
自分も天地創造の神の申し子である以上、それと同じものが自分の中にもあるのです(例えば1ミリであっても…)そのことに気付き、それを少しでも周りに放出して行こうと努力する事、これが生かされている意味の全てです。
常宿寺の坐禅会やヨーガ教室の目的は、自分と他を隔てている自分の殻を少しでも薄くして、自分の中の愛のエネルギーを外に放出しやすくすることです。
今、この世で生きる死ぬ、そんなレベルでなく、スピリット(霊)として向上し続けようとすること、これだけが生きて行く上で最も重要なことです。
だって死んだとて、まだまだ未熟な霊は何度でも修行する為に、永遠に同じ試練に合わされるからです。
具体的には、まず何も求めずに相手が喜ぶことをしようとする、 無償の行為としてのボランティア等をさせて頂くと、人の役に立ちたいと始めたことが、実は、自分の方が無限の何かを頂いているのだと気づかせてもらえます。見方を変えれば、タダで無尽蔵の事を教えて頂けるのですから、ボランティア程有難いものはありません。
人と丁寧に真剣に接する事に努めていくと、自分も丁寧に扱ってもらえる、そういう場面をどんどん経験していくことが、自分も癒され、周りも癒されることに繋がっていくと思います。生きがいというのはそういうところで生まれてくるものではないでしょうか?
自分が傷つくことを恐れ、自分の殻に閉じこもり、他と孤立したところにいつまでいても、全く問題の解決のならないことを分かって頂けるでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこで「今月の標語」です。
咫尺之間爲什麼不覩師顏。師曰。我道遍界不曾藏。
しせきのかん、なにとしてかしのかおのみえざる。しいわく、わがどうはへんかいかつてかくさず。
「こんなに先生の御顔が近くにあるのに、どうしてみえないのでしょう。」という問いに対して
「何物も包み隠してはいない。(全宇宙の)真実はいたるところに、ありのままの姿で顕現している。」と答えています。言い換えれば、お前にみえていないのは、 何かによって隠されているからではなく 自分が観ていないだけと、説かれているのです。
愛も、 自然の法則も、 宇宙の神秘も、神様は何も隠していないのです。まわりにある世界は何も隠されていない、私たちの周りには多くの事が展開しているにもかかわらず、自分の殻に閉じこもり、自分から目を閉ざしているだけなのだという、禅の祖師のお言葉です。
お寺では、坐禅の後、室中の間でお茶を頂きますが、そこには皆様に何時もお見せしたい資料がおいてあります。
その中に、坐禅の目的を分かって頂く為に私が書いた下手な絵があります。まず、大きな紙の左半分にダルマさんのような人型があり、その輪郭が、太さ2センチくらいの黒々とした線で描かれています。その右隣の上に、その黒の輪郭が随分薄くなって、波打ってグニャグニャになっています。その下には
黒の輪郭が無くなって、点線になり、見た目ははっきりしなくなる。しかも中身は霧状という、イメージです。
その説明に、まず、黒い太い線に囲まれている時は、人から何か好ましくないことを言われるとそのまま、反射的に相手にボンと跳ね返します(氷の状態)。グニャグニャは水の状態で少し柔らかくなりますから、何か言われても、真直ぐ反応することはありません。周りの殻が無くなって霧状になると、何かあってもスルーして、ただ通り抜けていくだけです。
黒い太い線は、言い換えれば、自分の目や心にかかっているフィルターとも言えるとも思います。いつまでもそのフィルターをしっかり持ち続けていては、ありのままに事象を受け止めることは出来ないでしょう。仏教用語で申せば、そのフィルターとは即ち、貪瞋痴(欲、怒り、愚かさ)です。
遍界不曾藏というのは、本質は全てが現れているのに、自分でしっかり殻を作って隠している、だからその殻を薄めて行けば、全てが見えてくる、しかも殻が無くなればそれだけ自由なのだ、そのような意味であると思うのです。
メールの中で「私は慧光さんみたいに心が強くないから」とありました。私はよくそう言われますが、自分でそのように思うことはありません。充分弱虫ですし、最近歳のせいでしょうか、ますます涙もろくなってきて困っています。ただ、殻が多少薄くなってきた部分、人より多少、自由なのかなと、その程度に思っています。
XさんもZさんも、もうヨーガに来始めて2年を超えるはずなのに、いつまでもその殻をきっちり持ち続け、相変わらずその中で格闘しているので、そのことを分かって頂きたいと痛切に思いました。
2015年 「11月の標語」
あなたがわたしに
勇気を与えてくれます
あなたがわたしに
自信を与えてくれます
大切なあなたが
わたしを大切に
思ってくれているという
ただそれだけで…
――― 澤田直美
先日、お葬式を勤めさせて頂いたご家族の方から、上記のような美しい詩が印刷された絵葉書を頂戴しました。この御家は元々檀家ではなかったのですが、お葬式から関わらせて頂きました。
お便りの文面に「…義父が亡くなり、慌ただしく過ぎてきましたが、ご住職のお導きにより、何とかここまでくることができました。ありがとうございます。義父のおかげでお会いすることができ感謝しています。どうぞこれからも私たちの心の支えになってください。よろしくお願いします」と書かれてありました。美しい詩とこのお言葉に接した時は、さすがに込み上げてくるものがありました。
この御言葉は、私が日々接しているすべての方々にそっくり私からお返ししたい言葉でもあります。
インターネットのお蔭でしょうか、最近は本当にお葬式を勤めさせて頂くことが多くなりました。
尼僧堂で修行しておりました時に、法式の授業があり、葬式の勤め方は一通り教えて頂きましたが、45歳まで主婦だった私の感覚からしますと、教えて頂いた通り、つまり約束通りにお葬式を勤めても、参列している方は何をやっているのかチンプンカンプンだろうなという想いを常々もっておりました。
そこで最近はお葬式を勤めるごとに参列者の方たちのために何か新しい工夫をすることにしております。もちろん具体的にすることは同じなのですが、決められたことをしながら、その儀式の意味を一つ一つ解説しながら行うことに致しました。さらに、お経の読み方も聞いた方が意味の分かるような読み方をするように気を付けます。
例えば、故人の成仏の為に、諸仏諸菩薩にお助け下さいとお願いする時、「十仏名」を読み上げるのですが、教えられたとおりですと「千百億化身釈迦牟尼仏は、せんぱいかしんしきゃあむうにふう」とよむのですが、これは「せんひゃくおくけしんしゃかむにぶつ」と、あるいは「十方三世一切諸仏じいほうさんしいいしいふう」は「じっぽうさんぜいっさいしょぶつ」とよみます。「大悲観世音菩薩だいひかんしいんぶうさあ」は「だいひかんぜおんぼさつ」です。このように読めば聞いている方は観音様だとわかります。
このような工夫は何よりも家族を亡くして動揺している方たちに、聞いているだけで癒しになるようにという願いをこめつつ、丁寧に接することによって、家族一人ひとりを大事に思っています…という私の想いをお伝えしたいという意図もあります。
幸い、このような試みを始めてから、例外なく、お葬式を終わった後に、「初めてお葬式の意味が分かりました。とても良い心温まるお式でした」と喜んで頂けるようになりました。
そういう体験を重ねている日々のなかで、上記のようなお礼の葉書を頂けたので、丁寧に大事に人と接していくという事の大切さを、改めて教えて頂けたように思っています。
あんまり感激したので、御葉書に書いてあったウェブのアドレスhttp://www.nohara-29.com/で検索し、この詩が、澤田直美さんという方の詩であることが分かりました。
澤田さんは、『うさぎとかめのふたりごと』という詩集も出版なさっておられて、早速取り寄せました。そこに載っていた、プロフィールをそのままご紹介いたします。
澤田直見(さわだなおみ)1970年兵庫県尼崎市生まれ 今は鳥取県に在住
好きなこと… 料理すること 写真を撮ること 言葉をつづること 絵を描くこと 人を迎えること
そのどれも暮らしの中のひとつとして大切にしていきたいと思っています。そしてそれが、時おり仕事にもなったりしています。
澤田さんの詩は全てにお人柄がにじみ出ていて、ほのぼのと温かくて素敵なのですが、私の心境とピッタリの詩がありますのでご紹介します。
「なんにも
できない わたしだけれど
それでも
こうして
ここにいます。
全てのものに許されて」
これなど、毎朝坐禅を始めさせて頂ける時、しみじみと坐禅を出来る幸せに浸りながら、全くこのような心境になります。
「どうにもならないことの
多い世の中ですので
せめて
どうにかできることは
やってみようと思うのです」
ご葬儀を通じて、様々なご家族とのお付き合いが生まれますが、本当に今は家族というものがバラバラで、とんでもない世の中になりつつあると痛感しています。せめて私に出来る範囲で、できることを誠心誠意やっていくしかないのかなと思う日々です。
最後に、澤田さんは坐禅の極意を絵葉書にして下さっています。
「大きく深呼吸 ゆっくり深呼吸
光りがそそぎ込むように
風通しがよくなるように
心の窓を開いておこう
笑顔の種が飛んでくるよ
あしたはきっとにこにこちゃんだよ」
澤田さんの世界に浸りたい方、詩集や、絵葉書にはまだまだ素敵な言葉が沢山載っています。
ウェブサイトのショップもありますので、こちらを通して、本、カレンダー、絵葉書など購入できます。http://nohara29.cart.fc2.com/
2015年 「10月の標語」
哲学をきわめることは
死ぬことを学ぶこと
――― モンテーニュ『エッセィ』「死の教科書」
先月に続き、またお寺の猫の御話になってしまい申し訳ありません。実は、6匹のうち、お寺に来てちょうど15年になる、高齢猫の花子が7月の初め頃から、ほぼ寝たきり状態になってしまいました。花子は6匹の内で一番性格が穏やかで、他の子にちょっかいを出されても反撃したのを見たことがありません。
獣医さんに診て頂いても「癲癇?脳腫瘍?かな?」位で、はっきりしたことは分からず、結局のところ、高齢なので、為す術もないようでした。一日は死んでしまったかと思う位、本当に体を硬直させて動かないのですが、次の日、猫達にご飯をやろうと、カチャカチャ器の音をさせて支度を始めると、檻の中でふらつきながらも身体を起し、ご飯を食べたいとねだります。高齢猫用のレトルト食を小さなスプーンで食べさせると、うまく食べられないので顔中ゴハンだらけになりますが、必死にかなりの量を食べます。それから熱いおしぼりで顔を拭いてやり、ブラッシングが大好きなので毛を梳いてやるとゴロゴロと喉を鳴らして気持ちよさそうにしています。食事がすむと崩れるように横になり、また食事の時間になるとおきる、排泄物は垂れ流しなので、した時には下に敷いてあるペットシートを取り換え、身体を拭いてやる、本当に正確にこのようなことのくり返しでした。
花子が倒れて間もないころは、虫の息でひたすら寝ている花子を見ていて、随分と色々なことを考えさせられました。食べられないのだから、点滴してもらうべきなのではないかとか、入院させるべきではないかとか…。でも、この考えは、何より病院の嫌いな花子にとっては不可能な選択肢でした。
また、花子の前にいた猫が、お寺の横の道で車にはねられて死んでしまったので、ウチの猫達はお寺に来てからは、絶対に一歩も外には出たことがないのですが、そもそもこんな生活をしていて猫達は幸せを感じてくれているだろうかとか、そこまで考えました。
さんざん悩んだ挙句、花子が食べたがれば食べさせる、水も飲みたがれば飲ませる、なるべく気持ちよく過ごせるようにしてやる、結論はそれだけでした。猫は自分の死期を悟るというようなことを聞いていたこともありましたので…。余分なことをして延命をすればそれは私のエゴであり、花子の望むようにしてやることが本当に彼女の寿命を全うし、(もし寿命が尽きるとしても)それが、彼女が一番楽に、穏やかに、苦しまずに最期を迎えられることになるのではないか…と思い、実行することにしました。
このように猫の介護を始めて間もなく三ケ月になろうとする9月20日(日)、NHK日曜スペシャルで「老衰死」を取り上げていました。このNHKスペシャルのウェブサイトの冒頭に出てくるのが今月の標語に掲げたモンテーニュの言葉です。モンテーニュがここまで死を探究した哲学者だったという事は,恥ずかしながら知りませんでした。
この度の番組で出演なさっている石飛幸三先生は平穏死、老衰死を推奨されている方です。
まず石飛 幸三(いしとび こうぞう)先生のご経歴をご紹介致しましょう。
特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医。
1935年広島県生まれ。(80歳)慶應義塾大学医学部卒業。1970年ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院で血管外科医として勤務。帰国後、1972年東京都済生会中央病院勤務、1993年
東京都済生会中央病院副院長を経て、2005年より現職。診療の傍ら、講演や執筆などを通して、老衰末期の看取りのあり方についての啓発に尽力していらっしゃいます。
今回初めて存じ上げたのですが、ご著書『「平穏死」という選択』を早速取り寄せて読んでみました。
石飛先生が最もおっしゃりたいことを、今回のNHK番組のHPの中で、先生からのメッセージとして端的に伝えていますので、全文をご紹介します。http://www.nhk.or.jp/special/rousui/
多くの人が自分の“最期”の迎え方を真剣に考える時代になりました。医療技術の発達によって、命を延ばす様々な延命治療が生まれ、そのことが逆に家族や本人を悩ませることになっているのではと感じています。私たちは人生の終末期をどのように迎えればいいのか迷い道に入ってしまったのかもしれません。
施設では、本人や家族との話し合いを続けながら、胃ろうなどの延命治療に頼るのではなく、自然の摂理を受け入れ、静かに最期を迎えてもらう取り組みを進めてきました。入居者の皆さんが亡くなられる前には、次第に食べる量が減って、眠って、眠って、最期は穏やかに息を引き取られます。私は老衰による安らかな最期を「平穏死」と呼んできました。
実は、施設に来るまで、自然な最期がこんなに穏やかだとは知りませんでした。40年以上外科医として、徹底した治療を続けてきました。“死”を遠ざけていたのは、医師である私自身だったのです。
施設ではいつも「ご本人も家族も、みんなが平穏な気持ちで最期を迎えることが理想」と話しています。今回の番組が皆さんの大切な人の最期を考える一助となることを願っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
石飛先生は各地で講演もなさっていらっしゃり、その中でも特に印象深い下りがあります。
《胃ろう反対!》先進国の多くが胃ろうによる延命を止めた真意は?――石飛幸三氏講演会レポ
http://wakarukaigo.jp/archives/4811
「半世紀以上、血管外科医のトップランナーとして活躍してきた石飛先生は、その後、特別養護老人ホームの医師に就任。そこで見たものは、胃ろうにつながれた老人の姿でした。
「これまで自分が救ってきた命の結末がこれか」と愕然としたそうです。入所者が死にそうになると病院へ送り、さらにさまざまなチューブにつなぎ延命を図っている。自分の意志では死ぬこともできない高齢者の群れが、そこにはありました。
かつて外科医として「飛行機(命)は飛ばし続けなければいけない」という世界にいて、それが当たり前だった石飛先生が、特養で「食べなくなったら胃ろう、脱水したら無理やり補水」という現実を見て、「飛行機はいつか必ず着陸する。その時、燃料は積まないほうが軟着陸できる」と、絶妙の比喩で平穏死のすすめを説いたのです。
半世紀以上も「治して救う」外科医だった石飛先生が、「自分の生きがい、使命はどこにあるのか、この年になってやっとわかった」と語ります。それが「平穏死のすすめ」であり、いつかは生物体としての限界がくる人間が、本来たどるべき自然な死の姿なのかもしれないのです。
私が、花子に対してした事を、たまたま見た番組で提唱なさっていらしたので、ご紹介いたしました。
人間にしても、一緒に暮らしているパートナーの動物達にしても(私はペットという言葉が好きではありません)死に直面した時、食べられなくなった時にどういう態度をとるか、その時に自分の今まで生きてきた姿勢が試されると思います。そしてそれが最後には、自分が死に直面した時にも、試されるのだと思います。
私は、死ぬことは存在の状態が変わるだけだと確信しておりますし、まして、今までの医学がそのように捉えていたように「死ぬことは敗北だ」とも思っておりませんので、石飛先生の提唱なさることには完ぺきな信頼を持つことができます。
この番組が放送された20日(彼岸の入り)の夜、花子は私の腕の中で息を引き取りました。身体をお湯で拭いてやっていた最中、全く予想もしなかったくらい突然、呼吸が荒くなりました。今思うと恐らく数分間のことだったと思いますが、何度か強く吸おうとしていました。私は花子の名前を呼び続け、「有難う」と言い続けました。苦しそうな間は、これで良かったのか…、花子の為にやってやれることがもっとあったのではないか…との思いが胸をよぎりましたが、あれだけ硬直していた身体からすっと力が抜けた瞬間、私の左腕の上に在った彼女の頭がガックリ落ち、尻尾もぐったりして柔らかくなったので、「あ〜、これで花子も楽になった」と実感しました。
翌日「ノアの杜」という動物専門の葬儀社が、大変丁寧に荼毘にしてくれました。本当に心のこもった優しい仕事ぶりに、心が癒される思いでした。これも初めての経験でした。花子の遺骨は、常宿寺境内の動物専用の御墓「童地蔵」の中に納骨しました。 (-∧-)合掌
2015年 「9月の標語」
念ずれば花ひらく
――― 坂村真民
ちょうど今から一年ほど前の事です。お寺には、猫が6匹いるのですが、そのうちの黒猫「空(クウ)ちゃん」が、ある日、朝から少し元気がありませんでした。昼も夜もゴハンを食べません。以前から「猫は一寸体調がすぐれないと2,3日ゴハンを食べないことがよくある」と、獣医さんから伺っていましたので、翌日になっても朝からゴハンを食べなければ、その時病院に連れて行こうと、その晩は、いつものように、9時半頃寝ました。
私の部屋は、2階の東南の角にあり、そこから階段を下りて、台所、居間、10畳間の順に北に向かって縦に繋がっていて、そのさらに奥の一番離れた北の端がクウちゃんの居る部屋になります。しかも夜休むときは、檻に入れることになっており、たいてい決まった時間になると、彼らが時計を読めるのかと思うほど、猫達はそれぞれの檻に自分から入って行きます。
その晩もいつものように檻に入れて、2階に上がって休みました。私は、毎朝2時台には目が覚めるのですが、翌日、突然クウちゃんが夢の中に現れ、3回「フウァ〜フウァ〜フウァ〜」と必死に鳴いて助けを求めたのです。(猫がニャーと鳴くと思っていらっしゃる方、沢山飼ってみると、猫はニャ〜と鳴くものと思っているのは誤解だと判ります)びっくりして飛び起き、すぐに階段を駆け下り、クウちゃんのいる部屋に行ってみますと、檻の中で、パニックになり、吐いた跡があり、体を触っても冷たく感じられるほどでした。慌ててきれいにしてやり、タオルでくるんで撫でたり擦ったりして、しばらく一緒にいて様子をみておりました。1時間ほどで彼女も落ち着いたので、いつも通りに坐禅をして、朝食をとってから、獣医さんが開くのを待って連れて行きました。先生の御見立ては、唯一の男の子のナム君に首を噛まれてそれがストレスになっているのでは…とのことでした。私の気が付かないところでやられていたらしく、可愛そうなことをしてしまいました。治療をしてもらい、その時は是で落ち着きましたので胸を撫でおろして帰って参りました。
この時から度々、私の夢枕にやってきた時のクウちゃんの顔と鳴き声を思い出すのですが、このような体験は私にとっても生まれて初めての事でしたので、一体あれはなんだったのだろうと、考え込んでしまうことがあります。あの時のクウちゃんは本当につらくて必死に私の顔を思い浮かべ「助けて〜」と思ったに違いありません。恐らくその彼女の必死の一念が私の所に届いたのでしょう。
そのような時に、私は、「念ずれば花ひらく 苦しいとき母がいつも口にしていた」という坂村真民さんの詩を思い出します。
「このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった」
『蟻の思いも天に届く』という諺がありますが、蟻の思いでさえ天に届くのだから、猫の思いだったら2階位なら容易に届くはず…とも思います。
ただ、彼女のあの時の必死さを思い出した時、はたして今までの自分の人生を振り返ってみて、そこまで必死な一念を抱いたことがあっただろうかと、しみじみ反省しております。
言い方をかえれば、念ずればこそ花開くのであって、何事も一心に念じながら勤めることがなければ花ひらくこともあり得ないという意味でもあるのでしょうか。
お寺で行っている、坐禅、写経、ヨーガには、お陰様で、沢山の方が来て下さいますが、そこで、それぞれの方が、抱えきれないほどの悩みを訴えてこられることが多くあります。御話を伺っていても、暗澹たる思いになることもしばしばです。私自身が打ちひしがれて、祈ることしかできないと思い知らされることが多く、毎朝の坐禅を始める前に、そういった方々の御顔やお名前を一人一人思い浮かべながら「お幸せでありますように」と祈るのですが、最近はその時にまず、クウちゃんのあの時の表情や声を思い出すと、もっと真剣に祈れることに気が付きました。
明け方4時台のまだ皆様が起床される前にやっているので、それこそ皆様の枕辺に私が立てるようになると、この一念がパワーアップしたことになるのかもしれませんね…(^^)。貴方の夢枕に私が立ったら是非お知らせください。
そうなることを祈りつつ、毎朝勤めております。
2015年 「8月の標語」
所謂 醍醐味を調うるも
未だ必ずしも上と為さず
莆菜羹を調うるも
未だ必ずしも下と為さず
莆菜を捧げ 莆菜を択ぶの時
真心 誠心 浄潔心にして
醍醐味に準ずべし
――― 道元禅師『典座教訓』
大変残念なことに7月12日で、全12話が終了してしまったドラマ『天皇の料理番』はTBS(ここ東海地区ではCBC)テレビ60周年特別企画として、4月26日から放送が開始されました。
このドラマを見始めて、何より、本当に天皇陛下の料理番として58年間も厨司長(料理長)を勤められた秋山徳蔵と言う方の実体験に基づいたエピソードが沢山盛り込まれていたこと、配役陣が目を見張るほどの質の高い演技を見せて下さったこと(特に肺結核で亡くなる徳蔵の兄周太郎を演じた鈴木亮平さんは20キロも減量し、その登場シーンは鬼気迫るものがありました)また、徳蔵を演じる佐藤健さんが本当にみっちりと料理修行に打ち込み、手元の場面を一切吹き替えなしで、プロも唸るほど見事な包丁さばきを毎回披露していたことで、最後までぐいぐいとひきつけられるように見てしまいました。(特に、ジャガイモの皮をむくシーン、ゴボウのささがきのシーンなど、目が点になるほどスゴワザ!)
ただドラマとして面白く見せようという意図で、フィクションもかなり多く、本物の徳蔵さんに、ちょっと失礼ではないかと言うように感じる演出や筋立てもありましたが、全編を通じて何度も繰り返し「料理は真心」と言うフレーズが出てきまして、毎回しみじみとした気持ちに浸ることが出来ました。
ここで秋山徳蔵さんの御生涯をご紹介しましょう。(以下Wikipediaより)
1888年(明治21年)、福井県今立郡村国村において、裕福な料理屋の次男として生まれる。旧姓は高森。高森家は大地主で庄屋だった。幼少期には非常にやんちゃな性質だったという。10歳の時、学校友達が禅寺の小坊主になっているのを見て自分もなりたくてたまらなくなり、無理を言って寺に入れさせてもらったが、その禅寺でもいたずらは治まらず1年で追い出されたという。
秋山が自著『味』で記したところによれば、鯖江にあった陸軍の連隊を訪ねた際に、食堂でそれまでに嗅いだことのない香ばしい匂いに触れたことが、西洋料理との出会いであったという。実家の仕出し屋が三十六連隊の将校集会所の賄いをやっていた関係で集会所を訪ね、そのとき初めて口にした洋食・カツレツの味に衝撃を受け、西洋料理のコックになることを志した。高等小学校を卒業したのち、16歳で単身上京し、華族会館の見習いとして料理人としてのキャリアをスタートさせる。そこで3年間働いたほか、駐日ブラジル公使館、築地精養軒で働いた。精養軒では、フランスのオテル・リッツ・パリでオーギュスト・エスコフィエに師事した第4代料理長・西尾益吉の下で学び、西尾に倣ってフランス行きを決心し、仕事のあとに料理原書を持ってフランス語の個人レッスンに通った。
1909年(明治42年)から、本格的な西洋料理修行のため私費でフランスに渡航する。料理人修行のための渡欧は、同時代では稀なことであった。ベルリンのホテル・アドロンの調理場を経て、パリの日本大使館の紹介により、オテル・マジェスティックの厨房に入り2年間修行、苦労の末に料理の腕を認められるようになった。その後、キャフェ・ド・パリに半年、オテル・リッツ・パリにおいてオーギュスト・エスコフィエの下で半年働いている。
1914(大正3)年、大正天皇即位の礼を控え、外国からの賓客に本格的なフランス料理を提供できる料理長として、パリの日本大使館の推薦により宮内省に招かれて帰国し、東京倶楽部料理部長を経て、新設された宮内省大膳寮の初代厨司長に任じられた。なお、同年7月、下宿先の一人娘、秋山俊子と結婚して秋山家へ入籍、秋山姓となる。1915年に行なわれた大正天皇の御大典で18か国の賓客を本格的なフランス料理でもてなす。このとき、支笏湖産のニホンザリガニ4,000個体を本州に運び、うち3000匹が御大典に使われ、残
りは御用邸のある日光に放流された。
1920年に宮内省の命により再び渡仏して研究を続け、1921年の皇太子裕仁親王の欧州訪問の際には一行に随行して各国主催の晩餐会の現場を見学し、その後アメリカに渡りニューヨークの有名レストランを歴訪視察して1922年に帰国した。
1923年(大正12年)、1600ページに及ぶ『仏蘭西料理全書』を刊行。『仏蘭西料理全書』は、1966年に新版が刊行されるなど、第二次世界大戦後に至るまで西洋料理を学ぶ者の「バイブル」とされた。このほか、一般向けに『味』などの書籍を刊行した。1971年(昭和46年)には、フランス料理アカデミー名誉会員、パリ調理士協会名誉会員、フランス主厨長協会会員になった。
皇室に対する忠誠心が厚い事で知られ、また、料理技術の向上の為には貪欲かつ謙虚に学ぶ姿勢も知られ、時には優れた技術を持つ世間的には格下とされる料理人にも頭をさげて学ぼうとする姿勢が見受けられたという。
1972年(昭和47年)、84歳で現役を引退。1973年(昭和48年)に勲三等瑞宝章を受章。翌年没した。1974年(昭和49年)、没後に従四位、ついで正四位に叙された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「料理は、真心だ。技術は追いつかないこともある。素材は望み通りにいかないこともある。
けど真心だけは、てめえ次第で、いつでも最高のものを出すことが出来る。
これはドラマの中で徳蔵の師匠である華族会館の料理長・宇佐美鎌市の言葉です。
このセリフを聞いた時、道元様の冒頭の一節を思い起こしました。
「所謂 醍醐味を調うるも未だ必ずしも上と為さず。莆菜羹を調うるも未だ必ずしも下と為さず。
莆菜を捧げ 莆菜を択ぶの時 真心 誠心 浄潔心にして 醍醐味に準ずべし」
禅宗の修行道場には典座と言う役職があります。大勢の修行僧に食事を提供するのがその役割です。
食事の支度と言う仕事は、普通は低く見られがちですが、道元様は仏道修行に於いて如何に重要な仕事であるのか、どのようにすべきか、微に入り細に入り、ご教示くださいます。
「どのような高級食材で御馳走を作る時でも、菜っ葉汁を作る時でも、その扱い方に差をつけてはならない。菜っ葉を調理する時でも、真心、誠実な心、清らかな心で御馳走を作る時と同じようにしなさい」
「ものを食うのは 口や舌ではなく魂が食うのだ。口や舌はごまかせても魂はごまかせない。
真心がこもった食べ物は だから何とも言えぬ味がある。」
これは秋山徳蔵さんご自身の言葉です。
58年料理番として陛下にお仕えし、職を辞する時、拝謁した時、陛下から
「長い間ご苦労だったね。身体を大切にするように。あなたが私の身を労ってくれたのと同じように。料理は真心だね。秋山主厨長…」
このお言葉を頂き、御前を退いた秋山徳蔵は号泣しました。
やはり何事も極めた方の言葉には共通することがあるものだと改めて実感しました。
ああドラマが終わってしまって私も(_ _;)。。。クウゥ。。。
2015年 「7月の標語」
仏法を修行し
仏法を道得せんは
たとひ七歳の女流なりとも
すなはち四衆の導師なり
――― 道元禅師『礼拝得髄』
選挙権を行使できる年齢を「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が6月17日午前、参院本会議で、全会一致で可決、成立しました。国政選挙では来年夏の参院選(2016年7月25日任期満了)から、18、19歳も投票できるようになる見通しです。
公職選挙法の改正は1945年に行われて以来、70年ぶりの事となります。
それでは70年前の改正とはどのようなものであったのでしょうか。この時に選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上と、それぞれ引き下げられましたが、何よりもっとも注目すべきは、女性にも初めて参政権が認められた点でした。
私は、恐らく私立中学受験の為、歴史の勉強の中で、このことを記憶したのは、今から50年以上も前の事でした。その当時は、ただ知識として覚えただけなので、何の感慨も抱かなかったのですが、今思い返してみると、その当時は、女性にも選挙権が認められてわずか20年足らずの時期であったわけで、どのような時代に自分が生を受けたのか改めて今思い返してみると、男女の不平等が制度として見直され始めてから、まだまだ日が浅いのだと、今回改めて痛感した次第です。
平塚雷鳥、与謝野晶子、津田梅子、山川菊栄など、錚々たる方たちも選挙権を持たなかったなどという事を思うと、そういう状態が如何に理不尽なものであったのか…。
更に、身近な例で恐縮ですが、私の母は、医学専門学校を卒業し、医者となり、私が物心ついた昭和30年代には我が家は相当な年収のある病院を経営しておりましたが、同じような立場にある女性でも、戦前は女性であるという理由だけで選挙権がなかったのだということを思いますと、いまさらながら男女の不平等が実感を以て迫って参ります。
ただ、こうした事態が日本独自のものであったのかと「女性参政権」を、Wikipediaを調べてみますと、必ずしも日本が、女性の権利を認めることに遅すぎたという事はないようです。
世界に先駆け、一番初めに女性参政権を認めたのは、1893年 英領ニュージーランド(被選挙権は1919年から)次に1902年 オーストラリア、以下1906年 ロシア帝国領フィンランド(初めて女性に被選挙権が認められる)ノルウェー、 デンマーク、アイスランドと寒い国が続きます。1917年 ソビエト連邦はさすがに共産主義国家ですね。それを追いかけるように米国で認められたのが1920年で・・・1945年日本と同時期、つまり世界大戦後に認められたのが、ハンガリー、イタリア、そして意外にも自由平等の国のはずフランスです。
中東の諸国など、宗教の関係でしょうか、現代にいたるまで、女性の参政権はおろか教育を受ける権利まで制限されている国や地域が未だに存在します。このような世界の趨勢を観ているだけで、クラクラッと来てしまいます。
さてさて選挙権についてみただけでもこの有様ですから、私はいつも、『修証義』を御読みする時、冒頭に掲げました、「たとひ七歳の女流なりともすなはち四衆の導師なり」の段に参りますと、わが宗門道元禅師様は、何とリベラルな方だったのだろうと感動に近い想いを抱きます。
「いまも住持および半座の職むなしからんときは比丘尼の得法せらんを請ずべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なんの要かあらん。為衆の主人、かならず明眼によるべし。しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは、かたくなにして、世俗にもわらひぬべきことおほし。いはんや仏法には、いふにたらず。又女人および師姑等の、伝法の師僧を拝不肯ならんと擬するもありぬべし。これはしることなく、学せざるゆゑに、畜生にはちかく、仏祖にはとほきなり。(中略)
仏法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず。うやまふべからず。ただ賓主の礼のみなり。仏法を修行し、仏法を道得せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。」
「修行者を指導する立場には、年齢や男女の区別ではなく、法を得たであろう、法の道理が明らかにわかっている人を立てるべきである。それなのに、明眼を開く機会のなかった者は、男女の差別にとどまっており哀れなものである。尼僧の師を拝することもしようとしないのは、仏法を本当には知らないからであり、畜生に近い行いであり、仏祖にはほど遠いものである。
仏法の道理が未だに分かっていない者は、例えば百歳の老僧であっても、法を得た男女に及ぶべくもない。このような者を敬ってはいけない。仏道を修行し、道を得たものであれば、たとえそれが七歳の少女であっても、男女を問わず出家在家を問わず、人々を導く導き手であり、人々にとって慈しみ深い父親なのである。法華経にある八歳の龍女が成仏したという話にある通り、諸仏と同じように供養し敬うべきなのである。」
つまり道元様は「仏法を体得し、人々のために働き、清らかな世界を実現しようとする人であれば、姿かたち、男女、年齢に関わらず、そういう人から法を聞き、学ぶべきである」とおっしゃいます。
長くなりますので割愛しますが、この『礼拝得髄』の巻の後半では、女人禁制の所謂「結界」を設けて神仏の領域を神聖化することを、言葉を尽くして批判なさっていらっしゃいます。道元様がどれだけ女性差別を嫌ったかが如実に分かる部分です。
この『礼拝得髄』の巻が著されたのが仁治元年とありますから1240年であり、今を去る事、何と775年も前のことです。
未だにあらゆる差別の横行している現代社会を、泉下の道元様はさぞかしお嘆きの事と拝察いたします。
2015年 「6月の標語」
愚人おもはくは
利他をさきとせば
自が利はぶかれぬべしと
しかにはあらざるなり
利行は一法なり
あまねく自他を利するなり
――― 道元禅師『菩提薩埵四摂法』
今月は利他行の御話です。
利行といふは、貴賤の衆生におきて、利益の善巧をめぐらすなり。たとへば、遠近の前途をまぼりて、利他の方便をいとなむ。窮亀をあはれみ、病雀をやしなふべし。窮亀をみ、病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、ただひとへに利行にもよほさるるなり。
愚人おもはくは、利他をさきとせば、自が利はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。
「利行とは、身分立場の上下にかかわりなく誰にでも困っているものを助ける手立てを働かせることです。たとえば、遠い将来と近い将来の行く先をよく見つめて、自分よりも他を利益するように励むのです。
むかし晋の孔愉が籠の中のいじめられている亀を哀れんで放してやったことや、後漢の楊宝が傷ついた雀を養い助けたという故事に学びなさい。彼等は、捕らわれた亀や傷ついた雀を見た時に、報いや感謝を求めずに、ただひとえに助けねばと言う心の痛みに突き動かされたのです。
愚かな人は、「他の人を助けたり、他の利益を優先すれば、自分が損をする」と思うかもしれませんが、そうではありません。他を利する行いは真実世界の法、損得を超えた働きであり、利行によって広く平等に同時に自も他も救われていくのです。
先月、常宿寺のある住吉1丁目の町内から町内会を抜ける家がありました。皆様の御話を伺ってみますと、最近は転居して来たとしても初めから町内会に入らないという事もあるようで、それはあくまでも自由なのでしょうが、抜けるという理由を聞いて考えさせられてしまいました。町内会に入っていれば当然、色々な町内の仕事が順番に回って参りますが、その時間がもったいないということらしいのです。町内の清掃などの時に、自分がいくらの時給で働いていると思っているんだと周りに言ったとか…そういいながら自分の稼ぎの多寡を誇示しているつもりなのでしょうが、一銭にもならない仕事(いわゆるタダ働き)をする位なら、その分アルバイトでもした方がまし、と思う方も中には居られるかもしれませんね。
自己の利益より、他を優先する行いの最も代表的なものはボランティアだと思います。
Wikipediaによりますと、ボランティアvolunteer の語源は志願兵であり(反語がdraft―徴集兵)、歴史的には騎士団や十字軍などの宗教的意味を持つ団体にまで遡り、十字軍の際には「神の意思(voluntas)に従うひと」を意味したそうです。
さらにその語源は英語のwillの語源ともなったラテン語のVolo(ウォロ)で、意思や志願を意味しますので、ボランタリー(voluntary)とは自発的であるさまのことだそうです。
ボランティア活動の原則として挙げられる要素は一般的に、自発性、無償性、利他性、先駆性の4つです。つまり人から指示される前に「〜せねば」と言う想いに突き動かされて報酬などの見返りを全く望まず行う行為です。
元来日本人にとってボランティアと言う言葉はあまりなじみがなく、広く世間的に知られるようになったのは1995年の阪神・淡路大震災の時のことであり、全国から大勢のボランティアが被災地に駆けつけたことから、「ボランティア元年」とも呼ばれました。
でも、このような言葉になじみが薄いからと言って、日本において、自発的で無償の利他性に富んだ行いが皆無だったかと言えば、それはむしろ逆でしたでしょう。古くは稲作に始まり、集団で行動することの多かった日本人は、己の事より、むしろ他者や自己の属する集団を優先する徳性の方が高かったのではないでしょうか。また、自分の主義主張を強調した挙句村八分になることを恐れ、むしろ積極的に、利他的に振る舞うのが今までの日本人のDNAでもあるように思います。
あるいは、五人組・自治会・消防団など地縁・血縁によって強固に結びついた相互扶助の慣習が元来あったため、あえてボランティア等の社会的仕組みが必要なかったという面もあるのかもしれません。
ですから、町内の話に戻りますが、昔から南木と言う部落だったこの地域において、先祖代々暮らしていた地域の人々と絶縁するというのが如何にも異様に映るのです。町内のために働く時間より、自己の利益を優先させたいと思うのであれば、心の貧しい、まさに愚か者だと言わざるを得ません。
そもそも本当のお金持ちは自分の時給を誇るようなことは絶対にありません。お金持ちは時給など計算する必要もありません。むしろ世の中から頂いたものを世の中にお返ししようと積極的に寄付などを行っているではありませんか。私の母校学習院では大変裕福な御家が多かったですが、私が女子高等科在学中、ブリジストンの石橋氏が母校の敷地内に室内プール設備棟を丸ごとご寄附頂いた時の恩恵に浴し、それからは水泳の授業等も行われ、本当のお金持ちのなさることに驚嘆したことを思い出します。
ここで、話はいきなり変わりますが、最近は、本当に不景気なのでしょう。お葬式、法事等の仏事を通して、経済的に余裕のない方から助けを求められることが非常に多くなって参りました。
その時必ずお尋ねを受けるのはお布施についてですが、当ウェブサイトの各ページをご覧頂けばお分かりになると思いますが、ウチのお寺は全てお志つまり御施主さんのお気持ち次第ということにしております。何故ならば、金額をこちらから提示するという事が、お布施という本来の趣旨に反する事、つまり布施とは施す側から施される側に差し出すから功徳があるのであって、施される側から手を出すものではないと信じているからです。
明治時代の廃仏毀釈は、当時の時代の変化のうねり、雰囲気に飲まれてしまった部分もあるのでしょうが、江戸時代にあまりにも幕府の政策の一環として保護され特権階級化してしまい、その結果堕落腐敗しきってしまっていた仏教界に対する反感、憎しみもそれを煽ることになりました。
これから世話になるお寺を探していた時に、初めからあまりにも多額のお布施を要求されてコワイと言ってウチに来た人(要求とは語弊があるかもしれませんが一般人にそのように受け止められることがそもそも問題)、あるいは菩提寺から要求されたお金が払えず寺の方から縁を切られてしまった人、余裕がなくて葬式が上げられず荼毘に付した後で供養してもらいたい、これからお世話になりたいと言ってくる人等々、毎年一人や二人ではないことをみていると、人々の寺に対する印象はますます悪化し、廃仏毀釈の亡霊がそろそろ現代にも甦ってくるのではないかと憂えます。
と、私ごときがこんなところで呟かなくても、淘汰されつつあるお寺は増えておりますし、また、ウチの様な貧乏なお寺でも生き延びて行けるのはそういうコワイお寺のお蔭でもあるのですが… (^^;
2015年 「5月の標語」
菩提心をおこすというは
おのれいまだわたらざるさきに
一切衆生をわたさんと
発願しいとむなり
――― 道元禅師『正法眼蔵』「発菩提心」
菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。
「自己の悟りを求めるとともに世の人びとを救済しようという菩提心を起こすということは、自分が悟りを得て救われる前に、すべての生きとし生けるものを救おうという誓願を立て実践するということです。外見がみすぼらしくみえるような人でも、この自未得度先度他の志を立てて行動する人ならば、すでにその人は、すべての衆生にとって、信頼すべきすぐれた指導者なのです。」
先月の標語で北九州市にある東八幡キリスト教会の牧師奥田知志(ともし)さんをご紹介いたしました。
その後さらに奥田さんのご著書『もう、ひとりにさせない』(いのちのことば社)を取り寄せ、読ませて頂きました。
その中で最も強く心に刻まれた節をご紹介します。(28頁)
「牧師というものは、何かを悟った人ではないだろう。もちろん、すでに神を見いだしている人でもない(中略)。「神はどこにおられる。」それは私たち人生そのもの問いであり叫びなのだ。生きている限りこの問いを、問い続けなければならない。(中略)
私にとって牧師とは、この問いを問い続け、神を探し続ける仕事なのだと思っている。また所詮、そんな仕事なのだとあきらめてもいる。牧師だから神がわかるとか、見えているなどあり得ない。だから平穏でもない。そもそも世界が平穏ではないのに、牧師やキリスト者だけが平穏であること自体あり得ないことだ。「神不在と思われる絶望的な現実であるゆえに、神はいなければならない。」そう告白しつつ、私はきょうも探し回っているのだ。
私は、この節を読んだ時、真っ先に宮沢賢治の以下の言葉を思い出しました。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」宮澤賢治(出典『農民芸術概論綱要』)
今を去ること数十年前の若かりし頃、これを読んだ時「随分厳しい言葉だなあ」とあまり共感できませんでしたが、齢六十を超えて、この言葉を実感を以て、今味わうことが出来るようになったことは、私自身の多少の成長であるように思っています。
何度もあちこちで書いて参りましたように、坐禅を始めた当初は、鬱々とした状態から抜け出したいという切実な思いがありましたから、修行の目的はあくまでも自己の救済でした。御釈迦様の元の教え「原始仏教」の本も沢山読み、基本になるべく忠実に修行しようと心がけてもいました。
正直申しまして、大乗仏教については、かなり原始仏教からは変遷してきているという認識を初めからもっておりまして、批判的に見ていた部分もありました。
数年前までは、大乗非仏説にも親近感を持ち、テーラワーダ仏教(上座仏教)を広めようという方たちと、いくらかの交流を持っておりました。ただ、このような中で、彼らのあまりにも独善的な言行に辟易し、次第に違和感を持つようになり、又その修行方法にも疑問を持ち始めていた頃、中村元先生と三枝充悳先生が共著なさった『バウッダ[仏教]』(講談社学術文庫)を読みました。その中に「大乗仏教運動の推進力のひとつは「他者の発見」にある」(425頁)との言葉に接した時に、まさに目から鱗が落ちたのでした。
そして、それまで私が否定的に捉えていた大乗仏教はまさに、原始仏教の自己中心的、さらに一切は苦であるといった現世否定的な捉え方を修正する目的をもって、時の移り変わりの中で必然的に表れたのではないかと思うようになっていきました。
さらに、やはり同著の中に「もしも仏教史に大乗仏教が欠けていたならかなり内容の乏しいものになり、また、その広がりは、恐らく東南アジアの一隅に限られていたに違いない。そしてはたして、仏教が今日いわれるような世界宗教にまで達しえたかどうかすら、いささかの疑問を伴うであろう。」とまで書かれていたのを読んだ時、私の価値基準は百八十度転回したのでした。疑うことなく古典仏教研究の第一人者でいらっしゃる中村元先生がこのように書かれていたことにむしろ驚きを禁じ得ませんでした。
「悉有仏性」「自未得度先度他」「我与大地有情同時成道」というような概念は、原始仏教にはありません。ただ、オリジナルにないからと言ってそれが正しくないとは言えないのではないか…そもそも、何を以て正しい正しくないの判断をするのか…原始仏教から大乗仏教への流れは宗教としては発展、進歩なのではないか…このように私自身の中で、日々煩悶を繰り返していたからこそ、奥田さんに心臓を撃ち抜かれてしまったのだと思います。
当サイトの「悟りとは何か」のページは、私が最も原始仏教の影響を受けていたころに書いた記事で、これはオリジナルの仏教の観点からすれば徹頭徹尾正しいのですが、正しければ良いのかと迷った場合、今これを書き直すべきではないかと言う岐路に立っており、正直今悩んでいるところです。
今回、奥田さんたちの活動を目の当たり拝見して、まさに「自未得度先度他」の実物をつきつけられ、自分の事ばかりを中心にして修行などしても、本当に独りよがりになってしまうだけだと深く反省させられたのでした。
2015年 「4月の標語」
同事といふは 不違なり
自にも不違なり 他にも不違なり
――― 道元禅師『菩提薩埵四摂法』
「同事といふは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。(中略)同事をしるとき、自他一如なり。」
即ち「同事と言うのは、たがわないということ。自分と他人、と言うように区別や差別をしない。自と他は別々ではなく、一つである」(つまり自と他の絶対的平等)。
昨年3月と、先月の標語に引き続き、「同事」を取り上げます。
3月14日(土)のこと、何気なく新聞のテレビ欄を見ていた時、「心の時代〜困窮者と共に歩む牧師、抱えた傷みが絆の原点」というNHKEテレの予告が目に入りました。幸いにもすぐ始まるという時間だったので、午後1時からの再放送を見ることが出来ました。この番組で取り上げられていらしたのは、北九州市にある東八幡キリスト教会の牧師奥田知志(ともし)さん。全く寡聞にも、私はこの方のお名前と御顔をこの時初めて知ったのですが、そのお話なさることの深さに、ただただ吸い寄せられるように聞き入ってしまいました。
見終った後、あまりの衝撃に茫然としてしまいましたが、奥田さんからもっと学ばせて頂きたいと思い、amazonでご著書を検索して『「助けて」と言える国へ――人と社会をつなぐ』茂木健一郎さんとの対談(集英社新書)を取り寄せ、早速読みました。
また、奥田さんは2009年(平成21年)3月10日に放送されたNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』bP12にも出演なさっているので、ネットで検索し、動画サイトdailymotionで拝見しました。
ご著書にある略歴から奥田さんをご紹介しましょう。
1963年滋賀県大津市生まれ。日本バプテスト連盟・東八幡教会牧師。NPO法人「北九州ホームレス支援機構」理事長。関西学院大学神学部大学院修士課程修了。西南学院大学神学部専攻科卒業。九州大学大学院比較社会文化研究科単位取得退学。
以下は私が最も衝撃を受けた奥田さんの言葉です。
「何故ホームレスを支援しているのか」との問いに対して、奥田さんは以下のように答えます。
「関西学院大学一年のとき、神学部の先輩に連れられて大阪・釜ケ崎で、日雇いで働いている人を支援する活動に参加したのがきっかけです。
私は高度成長期のサラリーマン家庭に育ち、日本は平和で豊かでみんな頑張って働いていると思っていました。ところが、日雇い派遣労働者の現状を見て、人間が使い捨てにされているような日本は、本当に豊かで平和といえるのかとショックを受けました。
私はキリスト教徒なので「神様が本当にいらっしゃるのなら、なぜこんなことが起きるのか」と、今まで信じていたものが崩れていきました。
過酷な現実、そのうえ「神はいない」などと言われたら、この人たちはどうなるだろうと思ったからです。聖書には、「我らの神は隠れたる神である」と書いてあります。だったら、「神なんかいない」と感じている人たちといっしょに、一生かけて神さまを探そうと思ったのです。神さまとは、「希望」とか「いのち」と言い換えてもいいと思います。それは一生探しても見つからないかもしれませんが、支援活動を通して希望はある、と思うことは何回も経験しました。」http://www.cocolotus.com/item/1671
奥田さんが路上生活の方たちと接するようになって20年以上たちますが、貧困家庭は増え、世相はますます暗く、救いようがないほど暴力が横行している世の中になってしまいました。世界的にも「神も仏もあるものか」と言いたくなるような事件も続発し、酷い目に遭っている方達が確実に増えてきているのが現実だと思います。
そうした中で、この世の地獄を生きている人々に、もし私が「仏様は本当にいらっしゃるのですか」と訊ねられたとしたら、どのように答えることが出来るのか、どのように身をもって示すことが出来るのか、わが身の日常を振り返ってみた時、恥ずかしくなるくらい自分本位の私があります。
奥田さんは、ルター派の牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーにも影響を受け、著書の中で、ボンヘッファーが書いていたこととして以下のようなエピソードを紹介しています。
「もしある男が車を運転しながら町の中で人を次々にひき殺していったとしたら、私は牧師として何をなすべきか。ひき殺された者たちの葬儀をするのが牧師の仕事であろうか。いや、違う。私はすぐに運転席に飛び乗って、その男を運転席から引きずりおろすのが牧師の仕事だと思う。」
(Dietrich Bonhoeffer, 1906年2月4日〜1945年4月9日、第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。その後、暗殺計画は挫折。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐナチ党により、フロッセンビュルク強制収容所で刑死。Wikipediaより)
危険ドラッグを吸引した結果、車で人々をひき殺すということが度々と現実に起こっているなどという事を70年前のボンヘッファーは想像したでありましょうか。本当に恐ろしい世の中です。ただ、実際にその場に直面したら、恐らく警察や救急車を呼ぶのが普通の反応だと思います。彼がここで言いたいことは、悪に直面した時にどのようにそれに向き合うかという事であり、それを「私」と無縁の者の行為と言う態度をとるなら「私」もまた悪である。所詮、人間の行為である限りは、完全なる善など存在しない。悪と悪との選択なのだと・・・。
葬式法事等で日々の糧を得させて頂いているわが身のなんと耳の痛い事!
また別の場所で灰谷健次郎の『太陽の子』の一節を引用しています。
「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや。人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろか」奥田さんは続けて「すごい言葉だ。灰谷から多くを学んだ。ただ別に「いい人」になる必要などない。「いい人」と言ってしまうのが灰谷の限界かもしれない。だが、灰谷は「人間は」と言いたかったのだと思う。灰谷は、人間とは何かを示している。」と述べています。
ここでいきなり私事を持ち出して恐縮ですが、実は2月27日午後に本堂前の階段で足を踏み外し、左足首を捻挫してしまいました。ちょっと言訳をしますと、2月に入ってから異常なほど忙しい日々が続き疲労困憊しておりました。ただ、日頃からヨーガの実践なども通して体も鍛えておりましたし、元々体が柔らかい方ですので、「怪我をしない」などという根拠のない自信みたいなものがあったのですが、もろくもその自信は打ち砕かれ、まさかここまでひどくなるとは思わないほど紫色に内出血し腫れあがりました。少なくとも一か月は安静第一とお医者様には釘を刺されたのですが、幸い骨折はしていませんでしたので、転倒した翌日は坐禅も写経会も行い、さらにその翌日の日曜日にはどうしても断れない檀務も入っておりましたので、足を固定されたまま仕事を続けました。
と、エラそうに申しましても、ゴトゴトと足を引きずりながら歩けばどなたでもすぐに気が付いて下さり、写経会の準備は、朝の坐禅会にみえた方達が準備のお手伝いをして下さり、後片付けは写経会の方達が皆さんであっという間にして下さいました。写経会が終わった後で、痛む足を引きずりながらも、私の心は皆様から頂いたお気持ちでポカポカと温まっておりました。
私は今まで、お寺の仕事も坐禅も写経もヨーガも、何とか皆様のお役に立ちたいと思って一生懸命やっていたつもりでした。まさに「自己をはこびて万法を修証して」いたのでした。今回の件で、実は今までここで育てて頂き、私の方が皆様から助けて頂いていたのだと心の底から痛感しました。
奥田さんのテレビ番組を二つ拝見し、たった1冊の本を読んだだけなのですが、こうした時期だったからかもしれませんが、今の私は心臓を撃ち抜かれた心持がしております。
著書の最後の方で奥田さんが書かれています。
「絆の傷は人を生かす傷である。致命傷にしてはならない。独りよがりの自虐的な傷でもない。国によって犠牲的精神が吹聴される時代の危険を認識しつつも、他者を生かし自分を生かすための傷が必要であることを確認したい。絆とは「傷つくという恵み」である。二十二年間の路上の支援で、多くの傷を受けた。正直、しんどかった。でも、自分のような者が生きていていいのだと、常に励まされてきた。」
この段を読んだ時、涙が後からこぼれてくるのを止めることが出来ませんでした。奥田さんの歩んできた人生に裏打ちされたずっしりと重く深い言葉に圧倒されます。
この私が、今まで、「同事」と言い、「自他不二」と言ったところで、まだまだ甘く理屈レベルだったことを思い知らされました。
人は、自身が傷つくことを恐れ、本当の絆を持つことを恐れます。でも、人は人の中で七転八倒して生きて行くからこそお互いに鍛えられ成長していけるのでしょう。逃げていては駄目なのです。海もどのような水でも嫌わず受け入れるので大きな海に成れるのです。これは私が自分自身に言って聞かせる言葉です。
色々な意味でショックが大きすぎて、未だに混乱しており、誠に申し訳ないことにうまくお伝えできないのですが、もう少し、気づきを深めて次回ご報告できればと考えておりますm(__)m
2015年 「3月の標語」
しるべし
海の水を辞せざるは同事なり
さらにしるべし
水の海を辞せざる徳も具足せるなり
――― 正法眼蔵『菩提薩埵四摂法』
2月11日付の産経新聞コラム「透明な歳月の光」で、作家の曽野綾子さんが、「労働力不足と移民」と題して日本の労働人口が減少している問題について触れ、移民を「適度な距離」を保ち受け入れを…という趣旨の事を述べられたことが、今話題になっているようです。
曽野さんは「(日本は)労働力の補充のためにも、労働移民を認めねばならないという立場に追い込まれている」と書き、移民政策について肯定的態度に立ちながら「居住を共にするということは至難の業」と以下のように続きます。
「もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。」
曽野さんは、南アフリカ(ヨハネスブルグ)でアパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が住み始め、大家族主義の彼らが一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例を出し、「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と締めくくっています。 (産経新聞 2015/02/11付 7面)
昨年3月の標語で差別について取り上げた私といたしましては、曽野さんがおっしゃりたいことは、痛いほどわかります。しかしロイターなどはこの件について報ずるのに「政府のブレーン、アパルトヘイトを賛美し、首相に恥をかかせる」などとかなり感情的な取り上げ方になっており、また他の海外メディアも相次ぎ報じ、南アフリカ駐日大使が「アパルトヘイトを許容し、美化した」と抗議をするなどして波紋が広がっております。
はたして道元様ならこの件についてどうコメントなさるでしょうか?
「同事といふは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。たとえば人間の如来は人間に同ぜるがごとし。人界に同ずるをもてしりぬ。同餘界なるべし。同事をしるとき、自他一如なり。(中略)」
(同事と言うのは、たがわないということ。自分と他人、と言うように区別や差別をしないということです。
たとえば、人間としての釈尊が、悟りにいながら人間と同化して共に居たようにです。餘界も同じことで、他の五道にもそれぞれ同事の仏があるのです。同事を知る時、自他は一如なのです。)
「たとへば、事といふは、儀なり、威なり、態なり。他をして自に同ぜしめてのちに、自をして他に同ぜしむる道理あるべし、自他は時に随うて無窮なり。(中略)
しるべし、海の水を辞せざるは同事なり。さらにしるべし、水の海を辞せざる徳も具足せるなり。このゆゑに、よく水あつまりて海となるなり、土かさなりて山となるなり。ひそかにしりぬ、海は海を辞せざるがゆゑに海をなし、おほきなることをなす。山は山を辞せざるがゆゑに山をなし、たかきことをなすなり。」
(たとえば、同事とは、威儀であり、態度のことで、まず形を同じくしていくことなのです。相手の気持ちを自分の方へ融和させて、その後慈悲と智慧を相手に同化させる配慮が理にかなったやり方でしょう。自他の関係は、時に応じて自由なのです。知ることです、海が水を拒まないのは同事なのです。水の方でも海と一体になるのを拒絶しないのです。
このために、よく水が集まって海という大きな状態になり、また土が重なって山となり高くなることができたのです。)
曽野さんは一連の批判に対してこれは「差別」ではなく「区別」だと反論なさっているようですが、確か曽野さんはキリスト教を信仰なさっています。
ここにマザーテレサの言葉があります。
「時折、嫌な思いを抱くことはきわめて自然なことです。嫌なことを、イエスの愛のために我慢することは、時にきわめて英雄的なことと考えられてよいのです。
何人かの聖人の生活の秘訣は、このじぶんの自然的傾向というものに、打ち克つことができたところにあります。
アッシジの聖フランシスコの場合もそうでした。ハンセン病のため、体がすっかり崩れてしまっている人に出会った時のこと、フランシスコは本能的に避けようとしました。しかしすぐに自分の嫌悪感に打ち克って、病者の崩れた顔に接吻したのです。そしてその結果は何だったのでしょう。大きな喜びに包まれました。自分がすっかり自由になったことを感じたのでした。病者はといえば、神を讃えながら立ち去ってゆきました。」
私は「差別」も「区別」も同じではないかという事をあえてここで申し上げたい。それぞれの心の中にある「とても一緒には住めない」という現実を肯定してしまっては、宗教は必要なくなります。
仏教もキリスト教も自他不二、自と他の区別をしないことを旨とし、あくまで慈悲や愛を持って接することを説くものです。自身の中にある差別にも区別にも打ち克つことが出来なければ、海のように大きく、山のように高くなることは出来ないでしょう。
想像を絶する殺し合いが続くこの世の中、それぞれが心の中の差別を少しでもなくして行こうと真剣に努力していかなければ、住みやすくなっては行かないと思います。
2015年 「2月の標語」
パンへの飢えがあるように
豊かな国にも
思いやりや愛情を求める
激しい飢えがあります
誰からも愛されず必要とされない
心の痛みです
与えて下さい
あなたの心が痛むほどに
――― マザー・テレサ
皆様がこの記事を読んで頂いている頃には、すっかり過去の事件になってしまっていることでしょうが、この原稿を書いている1月18日、スーパーでスナック菓子につまようじを入れる様子を実況した動画などがネットに投稿された事件で、警視庁は建造物侵入の疑いで指名手配していた東京都三鷹市の無職少年(19)を滋賀県内で逮捕しました。
この少年が問題の動画をYou Tubeに投稿したのは1月11日のことですが、警視庁が逮捕状を取ったのが15日。そのことを各マスコミが取り上げ、ますます注目されていくようになりました。
私もこの頃から事件を知り、この少年が「narukami 793」というアカウントで次々とアップしていた動画を、毎日関心をもって見続けておりました。どうやら愛知県に入って名鉄特急に乗って岐阜方面に向かっているらしいという事になった時には、随分近くに来たことに驚き、余計目が離せなくなりました。
警察を「無能警察」と何度も呼んで挑発したり、「自分が神様以上の存在になったかも」と言ったかと思うと「チョー余裕」と甲高い声でプラットホームで叫ぶなど、おそらくメンタル的にはかなり危ない面があるのでしょうが、それでもなお、彼の言動を見ていた時、冒頭にあげたマザー・テレサの言葉をすぐに思い浮かべてしまったほど、居たたまれない想いがしました。You Tubeで自分の動画のアクセス数がトップになったと喜んでいた時など、本当に彼は日常的にほとんど誰からも関心をもってもらえない、何の為に生きているかも分からない、心が冷え冷えするような寂しい生活を送っていたのではないかと想像しました。
彼の動画に対するコメントは否定的なものが圧倒的に多く、逮捕された時は彼を揶揄するような言葉ばかりが並んでおりましたが、私はそれに同調する気にはなれませんでした。
彼の動画を数日間ずーっと閲覧していて、彼の孤独、かまってもらいたい気持ちがひしひしと伝わってきたからです。
少年院での生活の経験があるので、もう一度入れられることは避けたいと思っていたらしく、万引きはそのように見せかけていただけで、実際にはやっていなかったことがほぼ分かっているようで、そこら辺の事はしっかり計算して行動していたようです。「少年法の改正を訴える」とか言っていましたが、それもかなり矛盾していて、やはり、目立ちたい、世間に一瞬でもいいから自分の存在を認知してもらいたい、と言う飢餓感のみが感じられます。
もうずいぶん前になりますが、夜、用があって一宮駅の中央通路を歩いていると、地べたに座りこんだ若者達、いわゆるジベタリアン(死語になっていますか?)に遭遇したことがありましたが、彼らを見ていて妙な親近感を覚えました。坐禅を始めた頃の気持ちを思い出したからです。待っている家族がいる、もしくは家族との間が良好であれば、こんなところでへたり込むこともないのだろうにとも思いました。
坐禅を始めた当初の私は、八方塞がりで、孤独で、何をすることも出来ない、手も足も出ないただダルマのようになってへたりこんでいるような形が当時の自分にピッタリと言う状態でした。それ以外になす術が見つからないという点で、彼らと一緒だ、と思ったのです。駅の通路に座り込んでしまうことが出来なかった私は、帰り道の途中にある公園のブランコに座って、時を過ごしたこともありました。
そのような時期に、心に響いた言葉を覚書のノートに沢山書き連ねていました。そのノートの中に、冒頭の、マザー・テレサの言葉がありました。
「世界で一番 恐ろしい病気は、孤独です。必要とされないこと」
「わたしたち一人一人が、 自分の玄関の前を掃除するだけで、全世界はきれいになるでしょう。」
「導いてくれる人を待っていてはいけません。あなたが人々を導いていくのです。
あなたに出会った人がみな、 最高の気分になれるように、 親切と慈しみを込めてあなたの愛が表情や眼差し、 微笑み、言葉にあらわれるようにするのです。」
「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」
へたり込むように始めた坐禅も気が付いてみれば30年。まるで回り舞台が転換するように大きく変わった私の生活環境ですが、坐禅と言う行いが、それまでお寺とは何の縁もなかった私の運命を大きく左右したことは疑う余地もないことです。
ふと気が付けば与えられ続けてきて今日の私が存在する訳で、それに対してどのように御恩に報いられるか、心が痛むほど与えられるようになったのか?まだまだ出し惜しみしている自分に気づかされる日々ですが、それでもそうあり続けたいと祈りながらすごしております。
2015年 「1月の標語」
あのねぇ
財産 肩書き 地位 名誉 その他
自分についている誇り高き飾り物を
みんな落としてすっぱだかになってごらん
人間としての本当の自分がわかるから
――― 相田みつを
やはり、というか大変残念なことに、「STAP細胞の存在を証明できなかった」ということになってしまいました。
昨年4月、疑惑が取り沙汰され始めたばかりの頃、「今月の標語」で、この件を取り上げた時、私は以下のように書きました。
「こういった事態になってみて思うことは、大事な一世一代の論文に、ここまで盗用部分が多いということは、小保方氏の場合、不正行為は今回が初めてではないのではということです。「早稲田大学」「ハーバード大学」「理化学研究所」と言う華々しい履歴を見ただけで、一般的には研究成果にも箔を与えるのに十分で、私も含め素人は鵜呑みにしがちだと思います。
結果論ですが、そういう履歴を通過するたびに、その都度かなり危ういことをやってきたのに、なぜかそれぞれの機関でチェック機能が全く働いていなかったのでしょう。彼女の「うそ」がまだ些細なものであった頃から、不正は不正として指摘されるような周りの雰囲気があり、本人もこれではいけないと反省するような機会があれば、ここまで騒ぎが大きくならなかったのでは…と非常に残念に思います。」
小保方さんについては、精神科医の香山リカ氏が興味深い分析を行っています。
(http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/12/20/kiji/K20141220009490090.html)
「小保方氏の心理状況分析「“できた”と現実がすり替わった」
10カ月以上にわたり、日本中を騒がせた「STAP騒動」はいったい何だったのか。精神科医の香山リカさんは「小保方さんという一人の凄く個性的な方の“夢”と、iPS細胞に負けまいとする理研をとりまく“現実”の思惑が不幸な形で出合い、出来上がってしまった茶番だったのではないか」と指摘した。
また、小保方さん自身については「メディアを通じての彼女しか知りませんが、意図的にうそをついて世の中をだましたとは言い切れない」と分析。「人類を救いたい、人のためになることをしたいという理想を持っていて、夢を追い求めているうちに、近道として万能細胞と出合い、“やるしかない、やらねば”が、“できるはず”と確信となり、“できた”と現実とすり替わった」との心理的状況を指摘した。
さらに、会見などで使った「夢の若返り」「プリンセス細胞」「魂の限界」という一連の小保方さんの表現に注目。「表現力が豊かで、そこにある種の才能は感じる。吸引力もある方。もう少し傷が浅ければ、科学の面白さを伝えるとかエッセーを書くとか別の道もあったのでは。ただ、笹井さんの自殺など、一連の騒動をめぐる傷が大きすぎて(今後、メディアなどへの)露出は難しいのでは」とした。
「万能細胞と出合い」とありますが、今回のSTAP細胞の提唱者は小保方氏ではありません。米国に渡り、指導を受けることになったバカンティ教授が唱え出したものであり、その指導を受けつつ研究を続け、その後、早稲田大学においてコピペだらけの博士論文で学位を取得しております。
チャールズ・バカンティ教授は、1975年にはネブラスカ大学医学部を卒業。1994年にマサチューセッツ大学メディカル・スクール麻酔科教授に就任。耳の形を作ったバカンティマウスで有名になる。これは直接的には役に立たないが、その視覚的に強烈なインパクトは組織工学の宣伝にあたって大いに有効であった。2001年に胞子様細胞(spore-like cells)仮説を発表するが、同僚たちは同研究に極めて懐疑的であった。2002年からブリガム&ウィメンズ病院麻酔科部長(ボストン) 兼 再生医科学研究室長 兼 ハーバード・メディカル・スクール麻酔科ヴァン・ダム/コヴィーノ講座教授に就任。生体組織工学に関する多くの特許を持ち活発な学会活動を行いながらも、撤回されたSTAP論文以外にNature誌・Science誌・Cell誌といった一流誌の掲載実績がなく、学術面での評価は芳しくない。ハーバードの研究者からも、「奇抜な研究で研究資金を集める、変わり者研究者」と見られていた。
2014年にネイチャー誌に掲載されたSTAP研究では、特許出願の代表発明人になっている。バカンティは理化学研究所内で研究をあまりオープンにしないことを要求するとともに、特許出願を急がせた。また、同研究の論文に疑義が発覚し、理研の調査で不正が認定されながらも、筆頭著者の小保方晴子とともに論文撤回に反対。しかしSTAPの存在を主張し続けながらも、6月には論文撤回に同意する。(以上、Wikipediaより抜粋)
この履歴を見ても分かる通り、彼の専門分野は、麻酔科であり、博士号(Ph.D.)も取得していません。つまり彼は、基礎医学の研究者ではなくあくまでも臨床医なのです。また、「Nature誌・Science誌・Cell誌といった一流誌の掲載実績がなく」という事は、まともに研究者として認められる研究論文が書けていない、研究の実績がないこと意味しています。
巷間様々に言われている彼女のやってきたことを見ますと、初めに結論ありきで、後は都合のよいデータを見つけ出してきてコピペしているだけのようにも見えます。彼女を「バカンティエンジェル」と言っていたとか言われていたとか、はたまた笹井氏が小保方さんを「僕のシンデレラと呼んでいた」とか、科学とは無縁の話、あまりに程度の低い話もあり、首を捻りたくなるのは私ばかりではないでしょう。
ここで改めて思うことは、私たちが彼女の履歴に騙される前に、彼女自身も、「ハーバードのバカンティ教授」という背景に騙された部分もあったのではないかと推察します。
帰国して後の彼女は、幸か不幸か、若山照彦、笹井芳樹と言った、それまでの研究面で優れた実績をあげていた研究者と縁があり、理化学研究所に就職します。今度は、彼女の背景や、見た目、人間そのものに、彼らが騙されてしまいます。当初、「ネイチャー」誌に取り上げられなかった論文も、優秀な笹井氏が手を加えることにより、受理されます。ネイチャー側も恐らく、笹井芳樹氏が共著者でなかったら、アクセプトしなかっただろうと思います。
ざっと今回の事件を俯瞰しただけでも、如何にそれぞれの人々が、それぞれの組織を後ろ盾として行動していたかが分かります。人間というものは肩書とか背景とか今までの経歴とかで物事を判断してしまうモノだと痛感します。今から思えば、たまたま、不幸なめぐりあわせが重なってしまったように思えてなりません。
また、もし小保方さんが、さえない中年位の男の研究者だったら、もっともっと世間の風当たりは強かったのではと想像してしまいます。一部にみっともないほど持論を展開して小保方さんを擁護していた輩もいましたね。私などは折に触れ女性差別を強く感じるのですが、器量が良い場合には、女性であることが武器にもなるのだと…、(武器を持てない私の僻みでしょうか)妙な所で驚きを禁じ得ませんでした。
冒頭に掲げた、「財産 肩書き 地位 名誉」に「器量」も付け加えなくてはなりませんね。(^^;