今月の標語 2007年
2007年 「12月の標語」
如来は真理をもって誘いたもう
真理に来るものを嫉(ねた)むは誰であるか
――― 律蔵 大品 1、24、5−7
ブッダがラージャガハにきて伝道を始めてから、未だ間もない頃、マガダ国の良家の子弟があいついでブッダの元に行き、出家の行者となりました。それを見て、人々は不安を感じ、あるいは憤り「沙門ゴータマは、子をうばい、夫をうばい、良家を断絶しようとしている」つぶやき始めました。
その頃、ブッダとその弟子たちはラージャガハ郊外のヴェルワナ(竹林)に居ましたが、比丘たちが街で托鉢しようとすると、中には面と向かって、非難するものもありました。
「マガダの国の山の都(ラージャガハのこと)に、大いなる沙門があらわれた。
サンジャヤの徒を誘い入れて、次には、誰を誘わんとするか。」
托鉢に行って帰って来た弟子たちが、それらのことをブッダに報告しますと、ブッダはこのように教えて言いました。
「比丘たちよ、そのような非難の声はながくは続かない。七日もすぎれば消えるであろう。
もし、汝らを非難するものがあったならば、こう言って答えるがよい。
如来は真理をもって誘いたもう
真理に来るものを嫉(ねた)むは誰であるか」
ここには、真理によって立つものの自信と無妥協があります。
比丘たちは、街で托鉢して、非難するものがあると、教えられた通りに答えました。人々はやがて、ブッダが非法をもって誘引するものでないことを理解して、都の動揺は、間もなく静まり返りました。
2007年 「11月の標語」
もろもろのことは因ありて生ずる。
ブッダはその因を説きたもう。
もろもろのことの滅についても
またかくのごとく説きたもう。
――― 律蔵 大品 1、23
ブッダはガヤーシーサ(象頭山)を下ると、ラージャガハ(王舎城)に向かい、その郊外のスパティッタ(善住)という廟に入りました。ラージャガハでは、ブッダの噂が次第に高まり、マガダ国王ビンビサーラの耳にも入りました。彼は、ブッダの教えを聞くために廟を訪れ、その教えを聞いて深く感銘を受け、ブッダに帰依することを誓います。
王はそれから郊外のヴェールバナ(竹林)の地を、ブッダに献じましたが、これが仏教サンガの最初の精舎となりました。
その頃、ラージャガハにはサンジャヤと言う修行者があり、弟子250人を従えていましたが、その中に、サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)という二人がありました。
二人は互いに「もし先に不死の道を得た者は、必ずこれを教えよう」と約束しあっていました。
ある日、ブッダの弟子、アッサジ(阿説示)という者が、ラージャガハの街に入り、托鉢をしておりました。その態度が大変立派だったので、それを見ていたサーリプッタは強く心を動かされ「もし、この世の中に、本当の聖者という者があるならば、この人はその弟子の一人に違いないだろう。一つ、師匠は誰だか聞いてみよう」と思います。托鉢には作法があって、托鉢している間は話をしてはならないことになっていましたので、托鉢が終わるまでその後についていき、彼が帰途に着いたところで、問いました。
「あなたは、大変態度がご立派で顔色も輝いている。あなたは、いったい誰を師とする方か。何びとの教えを頂いているのか。」
彼が、ブッダの弟子であり、その教えを奉ずるものであると答えますと、重ねて
「では、あなたの師匠は、どのようなことを教えられるのか、それを聞かせて頂けないだろうか。」と問います。
彼は、まだブッダの弟子となって日が浅いので、教えを要領よく語ることは出来ないと断りますが、あきらめ切れないサーリプッタはさらにこう問いました。
「要領を尽くさずとも、その片鱗なりとも、ブッダの教えと言うものを聞かせて頂けないだろうか」
そこで彼は次のようにブッダの教えを語りました。
「もろもろのことは因ありて生ずる。ブッダはその因を説きたもう。
もろもろのことの滅についてもまたかくのごとく説きたもう。」
のちの仏弟子の中で、智慧第一といわれたほど聡明なサーリプッタでしたから、この偈のみによって、即座に、汚れなき真理を見る眼を得たといいます。
サーリプッタは直ちに親友のモッガラーナに事の次第を告げると、二人はブッダの弟子となることを秘かに決心しました。早速、師のサンジャヤに決意を打ち明けますが、彼はこれを強く阻止しました。しかし、二人は、250人の修行者と共に竹林園に向かいます。
2人の来るのを望見していたブッダは、比丘たちに言いました。
「見よ。あそこに二人の友が来る。彼らはやがてわが教えによって修行する者の中にあって、一双の上座となるであろう。」
これは、二人に対するブッダの予言でした。やがて彼らはブッダの元に到り、ブッダの足を拝し、「我ら願わくは、ブッダのみもとにおいて出家し、戒を受けんことを」と願います。
「来たれ比丘たちよ。法は善く説かれてある。来たって浄き修行をなし、苦の滅を得るがよい。」
これが彼らの受戒でした
2007年 「10月の標語」
比丘たちよ、すべては燃えている。
熾燃(しねん)として燃えさかっている。
そのことを、なんじらはまず知らねばならない。
――― 相応部経典 35、28 燃焼
当時、ウルヴェーラには、火神を祀り、呪術にすぐれたカッサパ(迦葉)という名前の三人の兄弟の行者が居りましたが、彼らが門弟共々、ブッダに帰依したことによって、ブッダは瞬く間に多くの弟子たちを得ました。その数は1000人ともいわれます。
それらの新しい比丘たちを随えて、ブッダはさらにマガダの国の都ラージャガハ(王舎城)に向かって遊行の旅に出発しましたが、その時、ブッダは彼らを率いてガヤーシーサ(象頭山)に登りました。
山上に立ったブッダは、新しい比丘たちを前にして、「燃焼」と名づけられる一場の説法をしました。
「比丘たちよ、すべては燃えている。熾燃(しねん)として燃えさかっている。そのことを、なんじらはまず知らねばならない。
比丘たちよ、一切が燃えるとは、いかなることであろうか。
比丘たちよ、眼は燃えているではないか。その対象にむかって燃えているではないか。人々の耳は燃えているではないか。人々の鼻も燃えているではないか。人々の舌も燃えているではないか。身体も燃えているではないか。心もまた燃えているではないか。すべて、その対象にむかって、熾燃として燃えているのだ。
比丘たちよ。それらは、何によって燃えているのか。それは貪欲(むさぼり)の火によって燃え、瞋恚(いかり)の火によって燃え、愚癡(おろかさ)の火によって燃え、生老病死の焔となって燃え、愁い・苦しみ・悩み・悶えの焔となって燃えるのである。
比丘たちよ、このように観ずるものは、よろしく、一切において厭いの心を生ぜねばならぬ。
眼において厭い、耳において厭い、鼻において厭い、舌において厭い、身において厭い、意においてもまた厭わねばならぬ。一切において厭いの心を生ずれば、すなわち貪りの心を離れる。
貪りの心を離れれば、すなわち解脱することを得るのである。」
「煩悩の炎」にやかれる凡夫のいとなみ。われわれは苦なる人生を免れる為には、まずこの「煩悩の炎」を消さねばならない、というブッダの説き方はそれまでにない画期的なものでした。
よくその炎を消しつくした時、そこに実現される究極の境地が「涅槃(ニルヴァーナ)」とよばれます。
このようにブッダが説かれた時、かの1000人の比丘たちは、たちまち、執着を離れ、解脱を得た、と経典にはあります。
ヨーロッパの仏教学者は、イエスの「山上の垂訓」に比して、この説法を、ブッダの「山上の説法」と呼んでおります。
2007年 「9月の標語」
来たれ比丘たちよ。
法はよく説かれた。
来たって、清き修行をなし、
苦の滅を得るがよい
――― 南伝 律蔵大品 一
バーラーナシーのミガダーヤ(鹿野苑)で最初の説法をしてから、ブッダはなお、しばらくそこにとどまっておられましたが、その間に、ブッダの教えを聞いて、出家して弟子となったものが、60人に及びました。
そして、ブッダは、彼らを四方に遣わし、この法を広めさせると共に、彼自身もまた、ふたたびウルヴェーラーに向かって、伝道の旅にのぼりました。
その途中で、ブッダがただ一人、森に入り、一樹の元で休んでおられた時のことでした。
その時、約30人の若者達が、妻を連れて、この森で遊んでおりましたが、この中の一人が、妻がなく、遊び女を妻の代わりに連れてきておりました。彼らが、我を忘れて遊び楽しんでいるうち、遊び女は、彼らの財物を取って逃げました。それと気が付き、驚いた彼らは、森中を探しまわりましたが、ブッダが樹の元に、坐しているのを見て、「こちらに女が一人逃げてこなかったでしょうか」と尋ねます。
その事情を聞いたブッダは彼らに、「若者達よ、君達は、逃げた女を探し求めることと、おのれ自身を探し求めることとどちらが大事だろうか」と問いました。
この言葉は、若者達の意表をつきました。我を忘れて遊び、我を忘れて女を探していた彼らは、そう問われて、ハッとしました。
「それは勿論、自分を探し出すほうが、大事なことです」と若者の一人が、そう答えた時、
ブッダは彼らにこう仰いました。
「若者達よ、では、皆、そこに坐るがよい。私が今、おのれ自身を探し出すことを教えて上げよう。」
若者達が皆そこに坐ると、ブッダはいつものように整然として、人生の正しい見方、人生の正しい生き方を説き始めました。彼らの心は未だ、白い布のようで、汚れに染まっていませんでしたので、たちまち、正しい法を理解し、真理への眼が生じました。彼らは、ブッダの教えの他に依るべきところはないと思い、ブッダの元で出家し、修行することを願い出ました。
そこでブッダは仰いました。
「来たれ比丘たちよ。法はよく説かれた。来たって、清き修行をなし、苦の滅を得るがよい。」
この逸話のなかでは、仏教が、内観即ち、自己探求の教えであることが、如実に表現され、説かれております。
2007年 「8月の標語」
比丘たちよ、わたしは一切のきずなを脱し、
なんじらも一切のきずなを脱した。
比丘たちよ、いまや、多くの人々の利益と幸福のために、
世間を憐(あわ)れみ、その利益と幸福のために、
諸国をめぐりあるくがよい。
――― 南伝 律蔵大品 一
ミガダーヤで、ブッダが初めて法を説き始めてからしばらくして後、ブッダの元で出家の比丘となり、悟りを開いた者がいつしか60人を超えていました。
その頃、比丘たちは諸方諸国から出家を希望する人を一緒に連れてきて、ブッダを拝して出家の許しを得ていました。そのために比丘も出家の希望者も共に疲れました。
ブッダはこのような状況を見て、次のように思われました。
「いま比丘たちは、諸方より出家の希望者をともない来たり、わたしに請うて戒を受けしめるが、そのために、比丘たちも、また出家希望の者も、疲労することが少なくない。わたしは当然、比丘たちが自ら出家をゆるし、戒を授けることを許可すべきである。」
やがてブッダは、比丘たちを集め、法を説いたのち、彼らに告げて言われました。
「比丘たちよ、わたしはいま、ひとり静かにいて、心に思った。なんじらは、諸方から出家希望者をつれ来たって、わたしに戒を授けさせる。そのためになんじらも疲れ、出家の希望者も疲れる。わたしはむしろ、なんじらに戒を授けることを許し、なんじらを諸国につかわしたい。
比丘たちよ、出家せしめ、戒を授けるには、かようにするがよい。
はじめにひげや髪をそり、袈裟衣をつけ、上衣を一方の肩にかけ、なんじらの足を礼し、うずくまって合掌し、かように唱えしめるがよい。
――仏に帰依したてまつる。法に帰依したてまつる。僧に帰依したてまつる。――二たび、三たび、かように唱えしめるがよい。
比丘たちよ、わたしは、この三帰依によって、出家せしめ受戒せしめることを許したい。」
ブッダは、比丘たちを、諸国につかわそうとなさって、続いて、説かれました。
「比丘たちよ、わたしは一切のきずなを脱し、なんじらも一切のきずなを脱した。比丘たちよ、いまや、多くの人々の利益と幸福のために、世間を憐れみ、その利益と幸福のために、諸国をめぐりあるくがよい。
一つ道を2人して行かぬがよい。比丘たちよ、初めも善く、中も善く、終りも善く、義理と表現との兼ね具わった法を説くがよい。すべて円満にして清浄なる修行を教えるがよい。
汚れの少ない生をうけていても、法を聞かざるが故に滅びゆく人々がある。彼らは、法を聞けば信じ受けるであろう。
比丘たちよ、わたしもまた、法を説き伝えるために、これよりウルヴェーラ(優留毘羅)のセナーニガーマ(将軍村)に行こうと思う。」
その時、一人の悪魔がブッダの前に現れて、次のように、ブッダに語りかけたといいます。
「なんじは、天界と人界との、悪魔のきずなにかかった。大いなる縛(いましめ)にとらわれた。沙門よ、なんじは未だに免れはせぬ。」
それに対して、ブッダはこのように答えられました。
「われは天界と人界との、悪魔のきずなより脱(のが)れた。悪魔よ、なんじは敗れたのである。」
それを聞いて悪魔は「ブッダはわたしを知っている。」と嘆いて、姿を消した、といいます。
2007年 「7月の標語」
比丘たちよ、これが苦の聖諦である。
いわく、生は苦である。老は苦である。死は苦である。
憎しむものに会うのも苦、愛するものに別れるのも苦、
求めて得ざるのも苦。
総じていえば、この人生のあり方は苦である。
――― 中部経典 26 聖求経
ブッダは大覚成就の後、これをまず、誰の為に説くべきか、お考えになりました。
出家して最初に師とした、アーラーラ仙人とウッダカ仙人をまず思い浮かべましたが、彼らはすでにこの世を去った後でしたので、次に、ブッダが苦行を修していた時、何かと助けてくれた5人の比丘を思い起こし、バーラーナシーのミガダーヤ(鹿野苑)に赴かれました。
ミガダーヤに到着したブッダは、必ずしも好意をもって迎えられたわけではありませんでした。「見よ、かしこにくるのは沙門ゴータマだ。彼は精進苦行を捨て、奢侈に堕した者である。彼には礼を為すまい。起って迎えまい。衣鉢をとってやるまい。」と。
彼らの気持ちとは裏腹に、ブッダが着くと彼らは、起って迎え、衣鉢も受け取ります。しかし、ブッダが悟り得たことを説こうとしても、彼らは、苦行を捨てたブッダを堕落した者と思っていましたので、ブッダが優れた智見を得たなどとは考えられませんでした。
問答を再三繰り返した後、ブッダは言います。
「比丘たちよ、それでは、汝らは、これまでに、私の顔色が今のように輝いているのを見たことがあるか」この言葉に5人の比丘は、なるほどと、漸くブッダの説法を聞きたいという心が起こり、ここに最初のブッダの説法が始められることになりました。(これを後に初転法輪といいます。)
ブッダはまず初めに以下のように説かれました。
「比丘たちよ、出家した者が近づいてはならぬ、二つの極端な立場がある。
その一つは快楽に偏る立場である。おのれの欲望を律することが出来ないで、欲望のなすがままになることは、下劣である。
もう一つは禁欲に偏る立場である。肉体とそこから起る欲望を憎むことは無益である。身を苦しめても死を超えることは出来ない。聖者の技ではない。
私は、その二つを捨てて、中道を悟った。これが、真実の眼を開き、智慧を生じ、悟りと自由をうる道である。」
ブッダは、この、中道の実践項目として、八つの正しい道、「八正道」をあげます。
正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、がそれでした。
次にブッダは、このような実践の立場を取る所以を、4つの段階に分けた考え方で説明します。
これがいわゆる「四諦説法」で、最初の説法の中心的内容となっております。
「諦」とは、真理、物事の道理を明らかにすると言う意味を持つ、仏教用語です。
「四諦説法」の第一番は真実相の提示で、「苦諦」といいます。
「比丘たちよ、これが苦の聖諦である。いわく、生は苦である。老は苦である。死は苦である。憎しむものに会うのも苦、愛するものに別れるのも苦、求めて得ざるのも苦。総じていえば、この人生のあり方は苦である。」これはブッダの出家の課題であった「苦」そのものであります。
第二にその「苦」の生ずる条件を、「集諦(じったい)」と称します。苦の原因についての把握であり、その内容は、「渇愛があるが故に、苦なる人生がある」ということになります。
次に第三の段階として、その解決の方策であり、それは「渇愛がなければ、苦なる人生はない」と語られます。これが「滅諦」といわれ、第4にそれを実現すべき実践項目として、「八正道」があげられ、これを、「道諦」といいます。
5人の比丘たちは、代わる代わる行乞に行き、ブッダの元で、幾日もこの教えを吟味し研究してついに真理に対する眼が開いたといいます。
このとき、仏教が、現実として、この地上において成立したのです。
2007年 「6月の標語」
「老死(苦)は縁生である。
条件あって生ぜるものである。
だから、条件をなくすることによって、
老死もまたなくすることができるものなのである。」
――― 相応部経典、12,20、縁
さて、ブッダの教えの内容の根幹を成す、縁起の法とは、如何なるものでしょうか。
ブッダがサーヴァッティ(舎衛城)の郊外のジェータ(祇陀)林の精舎に居た時のことでした。
「比丘たちよ、今日は《縁起》ということと、《縁生》と言うことについて説明したいと思う。それをよく聞いて、考えてみるがよろしい。
比丘たちよ、まず縁起とはなんであろうか。たとえば、生があるから老死あるという。このことは、私(ブッダ)が居ようと、居まいと定まっていることである。存在の法則として定まり、確立していることである。その内容は、相依性なのである。それを、私は悟った。悟って今、汝らに教え示し、説明して、〈汝らも見よ〉というのである。」
こでは、まず、ブッダの悟りの内容、すなわち縁起というのは、存在の法則であるということ、その内容は、相依性と言い得るとしています。相依性とは、別の表現では、関係性とか、原因結果(因果)の法則とも言うべきものです。それは、一切の存在のありようは関係の中に成り立っているということでもあります。それのみで単独で存在し、他の影響を全く受けず、常に変わらず同じである存在はありません。例えば、「水(H2O)」という存在が温度という条件によって、氷になったり水蒸気になったりするというようなことです。
ついで、ブッダは縁生と言うことについて、こう述べます。
「比丘たちよ、つぎに縁生とは、どういうことであろうか。たとえば老死(苦)は縁生である。条件があって生じたものである。だから、条件をなくすることによって、老死もまたなくすることができるものなのである」
ブッダの出家の課題は、わたしたちが必ず老いるものであり、必ず死ぬものであるという、苦でした。いずれは必ず死ぬという有限性に押し潰される人間存在を、救済する道は無いか、ということでした。その道を、ブッダは、縁起の法則を悟ることによって見出したのでした。
一切の存在は全て条件があって生起したもの、つまり、なにものかに「よりて起こる」のであるから、その条件をとりされば、それはもはや生じることはなく、初めから存在しないものとなるはずだからです。そして、老いること死ぬことも、その例外ではないとブッダは説きます。
老死の苦しみは「縁生」のものであり、「無常」のものである。それらは決して絶対なものではない。縁によって生じたのであるから、その縁となるものが無ければ生じる事はない。恒常不変のものでない以上、生老病死も克服できるのだ、と言う意味が含まれているのです。
なくすることができるもの、克服することができるもの、と言う意味で「滅尽の法」ともいわれ、他の経によると、ブッダはそこまで悟りえた時「滅なり、滅なり」と歓喜の声を上げたとも記されています。
しかしながら、この法はブッダ自身が説かれているように、甚だ微妙で難しく「智慧ある者にしてはじめて知りうるところ」でありました。これを一般の人々が実践するところまで結び付けていくにはどうしたらよいかと言うことを、ブッダは終生工夫し続けたのです。
今年からブッダのご生涯を辿りながら、ブッダの説かれた教法について学んでいくことを試みておりますので、この縁起の法については、終章まで、折に触れ、方法や表現を変えて学んで参りたいと思っております。
2007年 「5月の標語」
いま、われ、甘露の門をひらく。
耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。
梵天よ、われは思い惑うことありて、
この微妙の法を説かなかったのである。
――― 相応部経典 6,1 勧請
今月から、お釈迦様の教法の内容について、お話する予定でしたが、この教えを理解することが如何に困難か、と言うことの証しにもなると思いますので、梵天勧請の説話をご紹介したいと思います。
それは、ブッダが悟りを開かれてまだ間もない頃、なお、一樹のもとで、静座しておられた時、
ブッダの心に、ふと、迷いの心が起きます。
「今、私が悟ったものは、はなはだ微妙なことであり、賢者にしてはじめて理解できるような内容のものである。然るに、この世の中の人々は欲望にふけり、欲望を喜びとし、そればかりに夢中になっているのであるから、とても容易に理解することが出来ないであろう。もし、私が説いたとしても、人々は私の言うところを理解せず、私はただ疲労困憊するのみに終わるであろう」と。
「苦労してやっとさとりをえたものを、なぜまた人に説かねばならぬのか
むさぼりと怒りにやかれる人々には、この法をさとることは容易ではない」
このようにブッダ御自身が迷いの心を持たれるほど、真の仏の教えは、人々に容易に受け入れがたいものであることを示しております。
逡巡の末、ブッダは伝道説法の決意を固めますが、その経緯を、経典においては「梵天勧請」と言う説話を以って物語られております。
梵天というのは、古代インドにおける最高神の一つであって、梵天界という天界に住していると言います。その高いところにあって、法を説くことをためらうブッダの心中を知り、これはいけないと思い、「それでは、この世界は滅びてしまう」と憂え、ブッダに伝道説法を勧める為に、ブッダの前に姿を現し、ブッダを礼拝して言いました。
「世尊よ、法を説きたまえ。この世界には、その眼を塵に覆われることの少ない人々もある。彼らは
法を聞くことが出来れば、悟りうるであろう。」
そこで、ブッダは慈悲の心を思い起こしもう一度心眼を持って世の人々の様子を観察しました。
その時の、ブッダの心眼に映った人々の様を経典は、池の中の蓮の花に例えております。
「池の中には、青蓮、紅蓮、白蓮が花を連ねていた。そのあるものは、泥の水の中に沈んだままで花を開いていた。又、あるものは、やっと水面に浮かんで花を咲かせていた。又あるものは、ぐっと水面を抜き出でて美しい花を開き、泥中に生いながら、泥水の汚れに染まぬものもあった。それと同じように人間の世界もいろいろであって、そこには、なお、世間の塵に汚されないでいる人々も、けっしていないわけではなかった」
そのように、世の人々の様を観察して、ブッダはついに説法伝道の決意を固めていきます。
「今、われ、甘露の門をひらく。耳あるものは聞け。古き信を去れ。」
(註:甘露=amataの訳。それを飲めば不死を得るという神々の酒、もしくは不死の水。
仏教の教法をいう)
この法を説くことは、甘露の門を開くこと、即ち人間の至福に至る門を開くことにほかならない、と宣言されたのであります。
2007年 「4月の標語」
まこと熱意をこめて思惟する聖者に、
かの万法のあきらかとなれるとき、
かれの疑惑はことごとく消え去った。
縁起の法を知れるがゆえである。
――― 小部経典 自説経、1,1−3菩提品
苦行は無益なことであると知ったブッダは、村の娘スジャータから、乳粥の供養を受け、体力を回復されました。
それから、1本の大樹のもとに、付近の農家から貰い受けた柔らかい草を敷き、禅定に入られ「正覚を得るまでは2度とこの座を立つまい」と決心されました。
初期の仏弟子たちによって、口誦によって伝承された経文の中に、この間の様子が以下のように、述べられています。
「かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、ウルヴェーラのネーランジャラー(尼連禅)河のほとり、菩提樹のもとにあって、はじめて正覚を成じたもうた。そこで、世尊は、ひとたび結跏趺坐したまま、7日の間、解脱のたのしみを享けつつ坐しておられた。そして、7日を過ぎて後、世尊はその定坐より起ち、夜の初分(午後8時前後)のころ、つぎのように、順次に、縁起の法を思いめぐらした。
〈これがあれば、これがある。これが生ずれば、これが生ずる。すなわち無明に縁(よ)って行がある。行に縁って識がある。識に縁って名色がある。名色に縁って六入がある。六入に縁って触(そく)がある。触に縁って受がある。受に縁って愛がある。愛に縁って取がある。取に縁って有がある。有に縁って生がある。生に縁って老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある。この苦のおこりは、かくのごとくであると〉
そこで世尊は偈をとなえられた。
まこと熱意をこめて思惟する聖者に、
かの万法のあきらかとなれるとき、
かれの疑惑はことごとく消え去った。
縁起の法を知れるがゆえである。」
世尊は、次に夜の中分の頃、〈これがなければ、これがない。・・・・〉と、苦の集積の滅について思いめぐらし、
「まこと熱意をこめて思惟する聖者に、
かの万法のあきらかとなれるとき、
かれの疑惑はことごとく消え去った。
諸縁の滅尽をしれるがゆえなり。」
と、偈を唱えられ、次に、夜の後分にいたって、苦の集積の滅尽の成果を知り、高まる思いを偈に託して唱えられました。
「まこと熱意をこめて思惟する聖者に、
かの万法のあきらかとなれるとき、
あたかも天日の天地を照らすがごとく
悪魔の軍を破りてそそり立てり。」
世尊は、この時、万法(一切の存在)は明らかとなり、一切の疑惑が消滅したと宣言されたのでしたが、その内容については、来月以降、詳細に学んで行きたいと思っております。
2007年 「3月の標語」
「われは不死のために苦行を修して すべて利益なきことを知った。
それは陸にあげられた船の櫓(ろ)かじのように
全く利益をもたらすことがない。」
――― 相応部経典 4,1、苦行
出家したゴータマはまずアーラーラ仙人のもとで無所有処定(何ものにもとらわれず、
何ものをも求めなくなった状態)の禅定を学び、次にウッダカ仙人のもとで非想非々想処定(いわゆる無念無想の心境)を修しましたが、どちらも彼の求めていた境地ではなく、ゴータマはラージャガハ(王舎城)から少し離れたネーランジャラー(尼連禅)河畔のセーナー村近くの苦行林に入りました。
肉体的欲望を抑える修行や苦行は、程度や種類に差はあっても、現代でも多くの宗教の薦めるところですが、インドにおいては古代より現代に至るまで、多くの苦行者が存することによっても証明されるように、苦行に対する信仰は際立っているようです。
当時のインドにも苦行者の群れがあり、後にゴータマの最初の弟子となるコンダンニャを初めとする5人の出家者も、彼と共に苦行林に入りました。
その苦行は、「過去の沙門、バラモンがどんなに激しい苦行をした者があったとしても、私ほどに最極の苦行をなしえた者はいなかっただろうし、これから以後にもないと思う」と、ゴータマ自身が述べられたほど激しいものであったようで、全身の肉が干からびてなくなり、目がくぼみ、骨が浮き上がり、生ける屍のような有様でした。
「しかしこの烈しい苦行をもってしても、人法を超えたもっとも聖なる知見に到達することはできなかった。恐らくこの苦行の道は、さとりと涅槃に至る真実の道ではないのではないかと考えた」と6年もの苦行の末に、ゴータマは思い至ります。
ゴータマがブッダとなられた、即ち菩提樹下において悟りを開かれて間もなくの頃、なお、思索を重ねて居られた時
「やはり、あの苦行をやめてよかった。それでこそ この正覚にいたることができた」
と考えていると、すっと、悪魔が現れ、ブッダにささやきかけます。
「苦行を離れざればこそ 若い人々は浄められるのだ。なんじは浄めの道をさまよい離れて浄からずして浄しとおもう」と。
当時のインドの人々の苦行に対する傾倒が甚だしければこそ、ブッダが悟りを開かれた後も、苦行を放棄したことが気にかかったとしても、不思議なことではないでしょう。
ささやきかける悪魔に対して
「我は不死のために苦行を修して すべて利益なきことを知った。
それは陸にあげられた船の櫓かじのようにまったく利益をもたらすことがない。
われは戒と定と慧によって菩提の道をおさめきたって いま最高の清浄にいたりついた。
破壊者よ、なんじは敗れたのだ」とブッダが述べると、
「ブッダはわたくしを見破ったと、悪魔はうちしおれてその姿をけした」
と、仏典には結ばれています。
2007年 「2月の標語」
「もろもろの欲望のわざわいを見つくし、
欲望を離るるこそ安穏なりとするが故に、その道に精進せんと、われは思う。
諸欲にはあらず、精勤をこそ、わが心はよろこぶ。」
――― (小部経典、スッタニ・パータ(経集)3、1、出家経)
出家したゴータマ・ブッダは彼の生地カピラヴァッツから南下し、マガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)に入られた。
まだ悟りを開かれる前のブッダではあったが、托鉢なさるその相好が優れて麗しく、その姿を見たマガダ国の王ビンビサーラは、ブッダが修行中のパンダヴァの山の洞窟に赴き、仕官をすすめた。
「汝はいまだ年少にして若く、人生の第一期にある青年である。
栄えゆく青春の容色(かんばせ)を具し、しかも由緒あるクシャトリア(武士)であろう。
私は汝の欲する俸禄を与えよう。由緒ある汝は、かの象軍を先頭とする、
わが精鋭なる軍に参加するがよい。私は問う、汝の生まれを語れ。」
それに対しブッダは
「王よ、雪山(ヒマーラヤ)のふもとに、いにしえよりコーサラに属し、
財宝と勇気とをかね具えたる、端正なるひとつの部族がある。その部族は
《太陽の裔(すえ)》とよばれ、わが氏族はサーキャ(釈迦)と称する。
われはその家より出家したのであって、もろもろの欲望をのぞむがゆえではない。
もろもろの欲望のわざわいを見つくし、欲望を離るるこそ安穏なりとするが故に、その道に精進せんと、われは思う。
諸欲にはあらず、精勤をこそ、わが心はよろこぶ。」
と答えられたという。
これは、修行中のブッダの消息を物語り、彼の決意の程を示す、重要な説話である。
2007年 「1月の標語」
「わたしの生存のおごりはことごとく断たれてしまった。」
――― 増支部経典 3,38 柔軟
今年から、お釈迦様のご生涯に沿った形で、そのお説きになった仏教の根本の教えをご紹介して行きたいと思います。
今から約2600年前に、釈迦族の王子として、浄飯王を父とし、麻耶夫人を母としてお生まれになったのが、ゴータマ・シッダルタです。
シッダルタは、釈迦族の王家のただ一人の後継者として何不自由なく暮らしていましたが、まだ若い頃から、人生に対する多くの疑問を抱き、29歳の時に、王子の位も、妻子をも捨てて、出家なさいました。
後代の仏伝によれば、シッダルタの出家の理由として、いわゆる「四門出遊」の物語が有名ですが、 現在では最も彼の言説を忠実に伝えていると思われるパーリ五部経典によりますと、ご自身の述懐による出家の理由は以下のようになっております。
「比丘たちよ、いまだ出家せぬ頃のわたしは.苦というものを知らぬ、きわめて幸福な生活をしていた。比丘たちよ、わたしの父の邸には池があって、青蓮や、紅蓮や、白蓮が美しい花をさかせていた。わたしの部屋ではカーシ(迦尸)産の栴檀香が、いつも、こころよい香をただよわせていた。わたしの衣服は、上から下まで、これもまたカーシ産の布で作られていた。
比丘たちよ、わたしには三つの別邸があり、一つは冬によく、一つは夏に適し、一つは春のためであった。夏の四月の雨の間は、夏の別邸にいて、歌舞をもてかしずかれ、一歩も外に出ることがなかった。外に出る時には、塵や、露や、日ざしをさけるために、いつも白い傘蓋がかざされていた。また比丘たちよ、他の人々の家では、奴婢や寄食者には、糠食に塩粥をそえて与えるだろうところを、わたしの父の家では、奴婢にも寄食者にも、米と肉との食事が供せられていた。
比丘たちよ、わたしは、そのように富裕な家に生まれ、そのように幸福であったのに、わたしは思った。愚かなる者は、自ら老いる身でありながら、かつ未だ老いを免れることを知らないのに、他人の老いたるを見ては、おのれのことはうち忘れて、厭い嫌う。考えてみると、わたしもまた老いる身である。老いることを免れることはできない。それなのに、他の人の老い衰えたるを見て厭い嫌うというのは、わたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしはそのように考えたとき、あらゆる青春の誇りはことごとく断たれてしまった。
比丘たちよ、わたしはまた思った。愚かなる者は、自ら病む身であり、病いを免れることはできないのに、他人の病めるをみては、おのれを忘れて厭い嫌う。考えてみると、わたしもまた病まねばならぬ。病いを免れることはできない。それなのに、他の人の病めるをみて厭い嫌うというのは、わたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしは、そのように考えたとき、わたしの健康の誇リは、ことごとく断たれてしまった。
また比丘たちよ、わたしは思ったことである。愚かなる人々は、自ら死する身であり、死することを免れないのに、他の死せる者をみると、おのれを忘れて厭い嫌う。考えてみると、わたしもまた死ぬる身である。死ぬることを免れることはできぬ。それなのに、他の人の死せるをみて忌み嫌うということは、これはわたしにとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしはそのように思ったとき、わたしの生存のおごりはことごとく断たれてしまったのである。」
さらに又、中部経典 26 聖求経の中にも以下のように述べられています。
「比丘たちよ、わたしもまた、まだ悟らない以前には、みずから生・老・病・死・愁い・けがれの法のなかにありながら、そのわざわいなる所以を知らず、執着して、そこから出離しようとは思わなかった。
その時、ふと、わたしの心の中に、新しい考えが生じた。わたしはみずから生死の法のなかにある。病むものであり、老いるものであり、死するものであり、愁い多きものであり、けがれに充ちたるものである。それなのに、なぜわたしは、依然として、この生死の法に執着するのであろうかと。そして、わたしは、そのわざわいなる所以を知り、その執着すべからざることを知り、そこから出離したいと思うにいたった。
比丘たちよ、その時、わたしはまだ年若くして、漆黒の髪をいただき、幸福と血気とにみちて、人生の 春にあった。父母はわたしの出家をねがわなかった。わたしの出家の決意を知って、父母は慟哭した。
だがわたしは、ひげと髪を剃り落とし、袈裟衣をまとい、在家の生活をすてて、出家の修行者となった。」