今月の標語 2016年

2016年 「12月の標語」

人生とは自分を見つけることではない
人生とは自分を創ることである

―――  バーナード・ショー

今年の7月に名言ハンターの大山くまおさんが『「がんばれ!」でがんばれない人のための“意外”な名言集』というご本を出版なさったようですが、その中から10の名言をピックアップして紹介しているサイトがありました。それぞれの言葉に深く共感しましたので、抜粋して掲載させて頂きます。

『「がんばれ」って言われてもがんばれないときにグッとくる10の言葉』の中から
TABI LABO 2016/11/14
http://tabi-labo.com/275816/surprising-witticism-01

「がんばれ。やればできる!」というのは、落ち込んだときによく聞く言葉です。
物事をポジティブに考える大切さはわかる…だけど、ありきたりな言葉を投げかけられても、イマイチ心に響かない人も多いはず。

ここでは、「仕事」に関する著名人の言葉を一部紹介します。
彼らの“意外”な名言がきっと、あなたの背中を押してくれますよ。

01.どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだから、いいじゃないですか。

『相対性理論』で知られる物理学者、アインシュタインの言葉です。仕事にミスはつきもの。アナタの上司だってミスはあるでしょうし、抜群の才能を持ったプロ野球選手だって失敗します。彼は「失敗オーライ!」とアバウトな精神論を語っているのではなく、「失敗の大小は自分ではなく、まわりが決める」と伝えているのです。自分で失敗のスケールを決めるなんて時間のムダです。

02.君がつまずいてしまったことに興味は無い。そこから立ち上がることに関心があるのだ。

奴隷解放の父として有名なアメリカ第16代大統領、エイブラハム・リンカーンの言葉です。こんなことを言ってくれる上司が近くにいたら、ミスなんて気にせず仕事に取り組めそうですよね。まぁ、なかなかいないのですが…。

03.目的と方向性がない場合、努力と勇気だけでは不十分である。

アメリカ第35代大統領のジョン・F・ケネディは、努力をする際の「方向性」の重要さを説いています。目的も方向性もなく努力をするのは、ゴールを決めないまま沖に向かって泳ぎはじめるようなものではないでしょうか。

04.幸福の秘訣とは「自分がやりたいことをする」のではなく「自分がやるべきことを好きになる」ことである。

「やりたいこと」を真っ向から否定しているのが、『ピーター・パン』で知られるイギリスの作家、ジェームス・マシュー・バリューです。「やりたいこと」は自分発信ですが、「やるべきこと」は、まわりとの関わり合いによって生まれるものかもしれません。

05.人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである。

アイルランドの劇作家であるバーナード・ショーの言葉です。「自分」の部分を「仕事」に置き換えても意味が通ると思います。やりたいことが既存の職業から見つからないなら、自分に合った仕事を作ってもいい。これからはそういう時代になるような気がします。

06.苦しみを恐れる者は、その恐怖だけですでに苦しんでいる。

フランスの哲学者、モンテーニュの『エセー』より。元はローマ帝国の学者・クインティリアヌスの言葉だそうです。失敗が怖くて踏み出せない人は、失敗そのものより失敗した後のことを勝手に想像して恐怖しています。そのうち、実体のない恐怖に支配されて、何もできない人間になりかねません。

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私としては、冒頭の標語にも取り上げましたバーナード・ショーの言葉に最も共感しました。NHKが英語教育用に制作した『リトルチャロ2』というDVDがあるのですが、今個人的にハマっていて運転中にいつも聞いています。(チャロかわいいですよ。ご存じない方は見てみて下さい。ちなみにチャロとキティちゃんはいつも車にも乗せています。)https://www.youtube.com/watch?v=eqKxrHlWtLY  

この中で全篇を通して語られ、繰り返し出てくる言葉が“The future is yours. Never give up.” です。「未来は君のもの、絶対にあきらめてはいけない」
未来というと遠い先のことのように思いがちですが、自分の今日の行いの結果が明日、明後日にあらわれてくるわけで、「人生とは自分を創ること」とは正真正銘の名言だと思います。

他にもいくつかショーの言葉を載せておきましょう。

*人間を賢くし人間を偉大にするものは、過去の経験ではなく未来に対する期待である。なぜならば、期待をもつ人間は何歳になっても勉強するからである。

*世間で頭角を現す人物は、自分の望む環境を自ら探し求める人物であり、もしそれが見つからない時は自分で創り出す人物である。

*人間が賢いかどうかは、その経験のいかんによるものではない。その経験をいかに生かすかによるのである。

*あらゆる歴史は、天国と地獄の両極端の間にある世界の振動の記録にすぎない。一期間というのは、その振り子のひと降りにすぎないのに、各時代の人々は、世界がつねに動いているので進歩しているのだと思っている。

*人生における真の喜びは、偉大だと思える目的のために生きることである。

*私は人生を人生そのままに愛する。私にとって人生は、はかなく消え去る蝋燭の火ではなく、燃えさかるたいまつである。私は今、このたいまつを手にしている。この火を次の世代に手渡す前に、精一杯明るく燃やそうと思う。

ジョージ・バーナード・ショー(1856年7月26日〜1950年11月2日)はアイルランド出身の文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリストで1925年にノーベル文学賞を受賞しています。
彼は、とてもストイックなベジタリアンだったそうです。
94歳までとても健康で、死因は骨折した時に受けた手術によるものだったようです。

残念ながら、彼の著作は未だ読んだことがないのですが、以下のエピソードは私が若い頃から有名でしたのでこれだけは知っていました。最後にご紹介します。

ある時、イサドラ・ダンカンはショーに結婚を申し込み、こう言った。
「あなたの頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたらどんなにすばらしい事でしょう」
しかしショーはこう答えて拒絶した。
「私の肉体とあなたの頭脳を持った子供が生まれたら大変ですよ」

   (o_o;)ガーン 

2016年 「11月の標語」

自己をはこびて万法を修証するを迷とす
万法すゝみて自己を修証するはさとりなり

―――   道元禅師『現成公案』

坐禅を始めようとする動機は本当に様々です。常宿寺の坐禅会に参加を希望して来られる方には、初めにどうして坐禅をしたいのかと理由をお聞きすることにしていますが、たいていの方は、何かを苦にしていてその苦そのものをなくしたいか、苦にしている自分を変えたいという、どちらかがきっかけになっているように思います。

私自身も、30数年前、極端な自己否定地獄に陥っていた時に『1分坐れば1分の仏』という言葉に出あい、それに飛びついたことが坐禅を始めたきっかけになりました。
勿論、当初はむずかしい理論など知る由もなく、ただひたすら自宅で坐っていたのですが、その内に、本屋で手にした沢木老師の本にすっかりのめりこみ、ひそかに出家を志すようになりました。
坐禅を始めて10年近く経過したころ、駒澤大学の仏教学部に入学し、初めて道元禅師の『正法眼蔵』を詳しく勉強する機会を得た時は本当に衝撃でした。

初めに『現成公案』を学び、「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」の言葉を知った時にはなるほどと、思いました。一般的には、自分が努力して坐禅し、仏法を悟るという、それが禅、あるいは仏道修行だと思われているのですが、このような態度がはっきりと「迷いだ」と道元禅師はいわれております。つまり、「私が坐禅する」、「私が見性する」、「私が無我になる」、「私が仏になる」という「私」という主語が起点となっているような、つまり「モノサシの尺度そのものが私」という態度がすべて迷なのだ、とおっしゃっているのです。

 沢木老師の御本は、随分読んでおりましたので、これはすぐに理解できたつもりになりましたが、次の段「万法すゝみて自己を修証するはさとりなり」は、正直言ってまだこの頃には全く理解できませんでした。

 駒澤大学を卒業してからは、比較的早い時期に縁が熟し、こちらのお寺に入れて頂くことができました。以来、20年近くが経過し、坐禅も30年以上坐らせて頂けた最近になってやっと、「万法すゝみて自己を修証するはさとりなり」の段がおぼろげながら、教えて頂けたような気がしています。

 つまり、「悟りとは、宇宙いっぱいのものから教えて頂けるものである。しかも他との関連性において証明されるものであり、現実世界で生きていくうえで、日々の生活態度で証明されていくものである」とでも申しましょうか…

 この後の段で念を押して「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」とあり、「悟った人が真に悟ったときは自分が悟りを開いた人間だと自覚することはない」とお示しですから、つまり、悟ろう悟ろうと掛け求める心を持ったまま坐禅をしても、悟りなど自覚できるものではないので、「無駄」ということになります。

 しかしながら、凡夫の悲しい性で、なんか自分に手ごたえがないと、張り合いが亡くなって大抵の人は、やめていきますし、やめないでいつまでも悟り悟りとそればかりを目指していると、本人は気が付かなくとも「明らかに病人」という状態になってまいります。

 最近、「幸福とは自分を受け入れること 自分を全肯定できること 自分と仲よくなれること 外なるものに依存した生き方をしていたのでは、それは得られない」(『名言名句の辞典』)という中野孝次さんの言葉を知りましたが、このよう状態が「万法すゝみて自己を修証する」ということなのではという気がします。

 さらに『名言名句の辞典』で
「自分自身の本当の姿を知るものは自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。」という言葉も発見しました。
これは『ゲド戦記』の中の一文で、少し長く引用すると下記のようになります。

「ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだ。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはやその生を差し出すことはないだろう。」

この言葉については以下のような解説が付されています。

 『ゲド戦記』の主人公ゲドは、魔法を学ぶ少年だったが、禁止されていた術を使ったために死者の霊とともに「影」をもよびだしてしまう。ゲドはその影に脅かされつづけるが、最終的には自ら影と対峙することを選び、これを自分の一部として完全に受容することによって、それを克服する。
 「影」の正体は、はっきりは語られていないが、自分自身の中の闇の部分、自分自身で認めるのが難しい負の部分を象徴している。それを否定し、打ち勝とうともがいているうちは、打ち勝つこともなくすこともできない。長い葛藤を経て、ゲドが「影」に戦いを挑むことをやめて腕を広げて完全に受け入れたとき、はじめて影は消える。それによってゲドは「己を全きもの」とし、真の自由を得たのである。
【作者】ル・グウィン
【生没年】1929〜
【職業】アメリカの作家
【出典】『ゲド戦記 影との戦い』

坐禅中に悟ろう悟ろうともがいている姿が、自身の本当の姿を知る前のゲドと重なります。
さらには7月8月の標語にご登場頂いたYさんが、悟りを求めて、あっちのお寺、こっちの瞑想会、ウチのヨガ教室と、駆け回っている姿とも重なります。

 我々はこの地球上に生きていれば、様々な環境に置かれます。毎日の天気にしても、晴れの日も雨の日もあります。Yさんのお話を聞いていると、とにかく苦から逃れたい、つまり雨を嫌ってずっと晴れにしたい。悟りという、自分で想像した雲一つない常に快晴みたいな状況を求めている。雨や風、雪の日もなく、いつも快晴なんてものは現実にあるはずもないので、いつも欲求不満、怒りでいっぱい。結果的に自己肯定感など持てるはずもなく、ず〜っと死ぬまで、いや死んでからも、多分外に求め続けることになるのです。はたから見ると、地に足のつかない幽霊状態です。

「ゲドは勝ちも負けもしなかった」しみじみと良い言葉だと思いますねえ。とかく勝ち組負け組に分けたがる今の世の中には一番必要な言葉ではないでしょうか。
「自分自身の本当の姿を知る」これがまさに「万法すゝみて自己を修証する」ことでありましょう。

私にはもうお手上げで、いつの日にか、Yさんが気づいてくれる日の来ることを祈ることしかできないのが、本当に残念です。(~_~;)

2016年 「10月の標語」

放下著
(ほうげじゃく)

――― 『五家正宗賛』 趙州和尚の章

「放下(ほうげ)」とは、投げ捨てる、放り出す、という意味です。「著(じゃく)」は命令の助辞(じょじ)で放下の意を強める為に用いるのだそうですから、「放下著」とは、強い意図をもって、「すべてを捨てよ!」と言っているのです。
最近は、世相もあり、お寺に縁を求めてやってくる方は、お悩みだらけです。そしてその重みに押しつぶされそうになって、精神にトラブルが生じ、精神科にお世話になっている方も少なくありません。

ある方は、数年前、仕事上でひどく悪質なクレーマーにあってしまい、精神的に追い込まれ仕事をやめざるを得ない状況になってしまいました。今、メンタルクリニックに通っています。
また、ウチの檀家の息子さんは、通学途中の電車の中で心無い言葉を投げつけられ、それがきっかけとなって登校拒否になり、もう一年以上も引きこもりが続いています。彼も、精神科の御世話になっています。
別のある方は、自分も息子もおかしくなり、二人で精神科にかかっています。
最近、お経に出かけた時、診察開始前のかなり小さなメンタルクリニックの前で、10人以上が並んで待っていたのを見た時には本当にびっくりしました。この不景気の世の中に、精神科ばかりが大盛況です。

そういう方たちの話をず〜っと聞いていてあることに気が付きました。それはほとんどの方が、だれか他人にひどいことを言われたとか、はめられたとか、他人から傷つけられたと訴えることです。初めのころはすごく気の毒に思ってお話を黙って聞いていたのですが、その内に内心(こんなことでやられたと被害ばかりを訴えるのってどうなの)と思うようになりました。むしろどうも目の前にいる彼らが撃たれ弱いのではないかという印象を持つようになりました。
訴えている内容は、確かに同情すべき点もあるかもしれませんが、人によってはかなり前のことを、自分の心の中に逆に大事にしまい込んでいる「持ってしまっている」印象を持ちます。逆にそんなに何年も前のことよくいつまで持ってる(!)と思うことさえあります。

恐らく彼らにヒドイことを言ったり、そういう仕打ちをした人はもうとっくにそんなことは忘れているであろうはずなのに、自分だけがしっかり心にため込んでいるのです。

自らの体験をお話ししますと、私の母親はかなり特異な人間でしたので、母と娘という関係で、甘えさせてもらえたという記憶が一度もありません。何かトラブルがあっても記憶をさかのぼれる限り小さい頃から自分で解決するしかなかったのです。私は対人関係で何かあってもそれを自分の中でどうしたら解決できるか自分なりに考え工夫しました。その結果身に着けたのが、何かあってもそのトラブルをいつまでも自分の中にため込まないように努力する、解消することです。例えば誰かに何か言われたとしても、言われたショックとか悔しさをいつまでも自分の心の中に持っていると、私を傷つけよう、泣かせようと思ってそれを言った相手の思うツボにはまるので、なるべく早くそれを忘れるよう努めました。私がいつまでもぐずぐず悩んでいたら相手の願い通りになって相手を喜ばせることになり、それが悔しいじゃあないですか。逆に相手を悔しがらせようと思ったら、自分は無傷でいること、その手に乗らないこと、へのカッパでいることでしょう?
ヒドイことを言われたのは1回なのに、それをいつまでも何度でも思い出して自分に聞かせているのは自分以外にはいないのです。

ここで、禅のお話しで結構有名な「二人の雲水の話 」をご紹介します。 

ある時、二人の僧侶が旅をしていた時、急流の川のほとりに辿り着きましたが、そこでひとりの若くて美しい(ここがミソです。(笑))女性が川を渡れなくて困っているところに遭遇しました。
女性に触れないという誓いを立てている僧侶にとって、どうすべきか難しい問題のはずです。
その時、何も言わずに年配のほうの僧侶が女性を背負い、川に入り、 向こう岸に到着すると、そっと彼女を降ろしました。そしてそのまま、何もなかったように旅を続けました。

若いほうの僧侶は、年配の僧侶がしたことが信じられませんでした。しばらくは無言のまま歩き続けました。何時間もたって、悶々と歩いていた若い僧侶が我慢ならなくなり、ついにこう訴えました。
「僧侶たるもの、女性に触れてはならないのに、 あの女性を背負って運ぶとは、一体何事でしょうか?あなたは戒を破ったのですよ。」と。

年配の僧侶は彼をみてこう答えました。
「兄弟よ、私は川を渡り、彼女を岸に降ろしたではないか。お前はなぜまだ彼女を背負っているのだ?」

このお話しの伝えたいことは、お分かりになりますよね。とっくに女性とは別れたのに、若い僧侶は未だに気持ちの上で女性を背負い続けています。

非常にシンプルなお話しですが、 今を生きていくということに関して重要なメッセージが含まれていると思います。読み物としてさらっと読んでしまうと、それだけですが、 私たちが、過去のことを忘れずにずっと背負い続けていると、この若い僧侶と同じことをしているのだと気づかされます。

今、私の部屋の壁に『永平寺 つもりちがい十ヵ条』というのれんが貼り付けてあります。

高いつもりで 低いのが 教養  
低いつもりで 高いのが 気位  
深いつもりで 浅いのが 知識
浅いつもりで 深いのが 欲望  
厚いつもりで 薄いのが 人情  
薄いつもりで 厚いのが 面皮
強いつもりで 弱いのが 根性  
弱いつもりで 強いのが 自我  
多いつもりで少ないのが 分別
少ないつもりで多いのが 無駄

これはあくまで自分への自戒を込めて、貼ってあるのです。人から傷つけられたと大騒ぎしているときに、自分だって「低い教養、高い気位、浅い知識、深い欲望、薄い人情、厚い面皮、弱い根性、強い自我、少ない分別、無駄使い」で人のことを散々傷付けてきたのではなかったか…。誰しもお互いさま、この中で一つも心当たりがないと言う方がいたら、それこそ精神科の御世話になった方がよいと思います。

自分の中のこういう面に一つ一つ気づき、少しずつでも捨てていこうと努め続けるなら、いつまでも被害者ばかりをやっていてはいけないと、気づくはずなのですがねぇ。

2016年 「9月の標語」

「禅は無心になることでしょ」
などと言いおる
無心なんて死ぬまでならんわい

――― 沢木興道老師

引き続き、坐禅について述べたいと思います。

このところ、坐禅を、このコーナーで続けて取り上げましたところ、以下のような文章があると、教えて下さった方がありました。

「座禅の目的はいわゆる宇宙の主体と人間の生命が一体化することです。そのためには無念夢想になることです。無念無想の状態とはひとくちにわかりやすく説明すればこうなるんだ。心が命の一切を考えないときが無念無想なんだ。我々の心は、とくに 煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いて回っている。心が生命の一切を考えないとき、もっとわかりやすくいうと、心が肉体を思わない、またさらに心が心を思わないときが無念無想なんです。ところがあなた方はのべつ体の事を考えているか、または心の動きに心を使っている。だから、あなた方は無念無想になるときなんてえものは、あるとしても一年に一度か二度ぐらいで断然少ない。
(中村天風 『盛大な人生』第六章 真人生の実現P398〜P401)

中村 天風(なかむら てんぷう)という方は、今でも天風会というものが存在し、著書もそれなりに売れているようです。財界人などで帰依した方もいらっしゃるようですから、一定の方には高評価を以って受け入れられているのでしょう。

公益財団法人 天風会 のサイトで中村天風について以下のように載せてありました。
http://www.tempukai.or.jp/#!18/c1vk1
明治9(1876)年生まれ。日露戦争の軍事探偵として満蒙で活躍。帰国後、当時不治の病であった肺結核を発病し、心身ともに弱くなったことから人生を深く考え、人生の真理を求めて欧米を遍歴する。
一流の哲学者、宗教家を訪ねるが望む答えを得られず、失意のなか帰国を決意。その帰路、奇遇にもヨガの聖者と出会いヒマラヤの麓で指導を受け、「自分は大宇宙の力と結びついている強い存在だ」という真理を悟ることで、病を克服し運命を切り拓く。帰国後は実業界で活躍するが、大正8年、病や煩悶や貧乏などに悩まされている人々を救おうと、自らの体験から“人間の命”の本来の在り方を研究、「心身統一法」を創見し講演活動を始める。この教えに感銘を受けた政財界など各界の有力者の支持を受け「天風会」を設立。その後50年にわたり教えを説く。(中略) 昭和43(1968)年、92歳で生涯を閉じる。

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天風会の修行法を調べてみますと、ブザーや鐘の音に集中して雑念を取る方法、とありますので瞑想の対象を自己の外に求めるいわゆるサマタ瞑想の一種かなとも思います。

この標語を定期的に読んで下さっている方は、坐禅を長年実践なさっている方もいらっしゃるでしょうから、上記の文を読まれて?と思われた方もいると思います。
つまりハッキリ言うなら、坐禅の目的は…と天風さんは書いていますが、天風さんは恐らく坐禅を長年修行したことはなかったのだろうと推測されます。少なくとも、この文章を読んだ時の私の第一印象はそうでした。

恐らく、この文章の存在を教えて下さった方は、こんなに明快に分かり易く坐禅について書いてあるのに常宿寺のHPの記事はなんでこんなに訳が分からないのだろうと…思ってのことと推察しますが、そもそも、坐禅を修行している人は、このような文章を書くことも、このようなことを言うこともありません。

禅の教えは、『教外別伝、不立文字』だとご紹介しました。意地悪で文字にしないと言っているのではなく、できない世界なのです。

禅の祖師達磨大師の逸話をもう一つご紹介します。

「心をもち来たれ、汝が為に安んぜん−達磨大師−」
(こころをもちきたれ、なんじがためにやすんぜん−だるまだいし−)

摩訶迦葉尊者から28代目の祖師が、達磨大師です。達磨大師まではインドの祖師ですから、西天の二十八祖と言います。
達磨大師は、南インド香至国の王子さまでしたが、仏法を正伝されて中国へ来られ、嵩山の少林寺で毎日坐禅をしておられました。達磨大師は第二十八祖ですが、中国(東土。また震旦とも言う)では初祖です。
そこへ来られたのが慧可(えか)大師です。 雪の降りしきる夜、立ちつくして入門を乞われます。明け方、雪は膝を過ぎるまで積もりましたが、達磨大師は許されません。慧可大師は遂に利刀を取って自分の臂を断って師の前に置かれ、ようやく許されました。

以下は慧可大師と達磨大師との問答です。

(慧可)「私の心は寧らかではありません。どうか安んじてください」
(達磨)「では、心を持ってきなさい。安んじてあげよう」
(慧可)「心を求めましたが、得ることができません(心を求むるに不可得)」
(達磨)「私はお前の為に心を安んじ終わった」

慧可大師は安心を得ようとされました。「心というものを持ってくれば安んじよう」と達磨大師に言われて、その「心」は「得られない」ということに気付かれたのです。この「心」とは、「正法眼蔵涅槃妙心」の心です。

真実は広大無辺、私たちが手を着けることはできません。手を着けて、これが真実だと思ったら、それはもう真実とは別ものです。真実には手応えがありません。しかしその真実に私たちは事実として生かされているのです。ここに気付かれた慧可大師は、本当の安心を得られ、東土の二祖となられました。

(曹洞宗近畿管区教化センター 『禅のお話 ほとけに出逢う』
第2回 心をもち来たれ、汝が為に安んぜん−達磨大師−  より引用
http://www.soto-kinki.net/zenwa/hotoke02.php

以上の文章を読まれたアナタ、難しい、と感じられましたか?もしそう感じたなら、それはアナタに修行の実践がないからです。坐禅を続けていれば、この達磨大師のお話しの方が、よほど分かり易いと思います。

ただ、正直に申せば、この話は有名ですから、私も、坐禅を始めた頃この話を知りました。その時は、チンプンカンプンでした。坐禅を始めて、10年、20年、30年、それぞれに感じ方は違ってきました。恐らく、さらに続けて、私が、70代、80代になったときにはさらに捉え方も感じ方も違ってくることでしょう。見せて頂ける景色も違ってくることでしょう。

そもそも、毎日ひたすら坐禅を続けていれば、「座禅の目的はいわゆる宇宙の主体と人間の生命が一体化すること。そのためには無念夢想になること。無念無想の状態とは心が命の一切を考えないとき。…心が肉体を思わない、心が心を思わないときが無念無想なんです。」このような薄っぺらな言葉を吐くことはできなくなるはずです。
宇宙の主体ってなんですか?心とは?このように不可得のことを、小さくざっとまとめてしまうところに、逆に小ささが露呈してしまっているように思います。

天風さんの心身統一法を実践し、それなりの成果を上げていらっしゃる方もいらっしゃるでしょうから、彼の功績を揶揄するつもりはありませんが、少なくとも、坐禅について論ずるのは越権行為であるように思います。坐禅とはこんな薄っぺらなものではありません。

現代人は言い訳をして、修行の時間がないという。それなのに本だけ読んでわかった気になりたいのでしょう。そういう意味では、このような文章は非常に罪作りな部分もあるように思います。

江戸時代の禅僧、良寛が文政十一年三条の大地震の際に、知人に宛てて書いた有名な手紙があります。
 「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。(中略)しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」
天風さんに傾倒している方には恐らく受け入れがたい世界観であると思いますが、これこそが禅の神髄であるように思います。このような境地に私は限りなく憧れます。

2016年 「8月の標語」

「これでよい」という世界があるものでない
それなのに 
どこぞに「これでいい」という世界が
あるかと思うて それを求めて
ウロウロ歩きまわる

―――  沢木興道 老師

「「これでよい」という世界があるものでない。それなのに どこぞに「これでいい」という世界があるかと思うて、それを求めてウロウロ歩きまわる。―― ウロウロしたって仕様がないやないか。それじゃ泣き寝入りするか。そうじゃない。ウロウロしない世界にドッカと坐っておるこっちゃ。」

先月の標語で「よしあしを忘れるのが坐禅」ということをテーマに取り上げましたが、「わかりにくい…」というご感想もいただきましたので、懲りずに今一度取り上げました。

当HP「非思量」のところで「実は仏法について言葉で説明しようとすることは、「貼り紙をしないで下さい」という紙を壁に貼るのと同じ行為であるように思います。」と書きました。「文字では表現できない」と言いながら、私もこのように、文字で書いて一生懸命分かっていただこうとしているわけですから、このこと自体がかなり矛盾した行為であることは否めません。

ただ、お寺というところは、何かしら発信していかねばばらない使命みたいなものもありますので、お付き合い頂ければ幸いですm(__)m

どういう例えを使えば分かり易くなるかと、足りない頭をひねっておりましたが、例えば、先月とりあげましたYさんの場合、自分の坐禅に対するイメージを自分のモノサシで測って「この前の坐禅はすっごくうまくいったから10センチ、今日は全然ダメだったから3センチとかいう風に測っているように思うのです。

「仏法の精神は、「個人もちなし(無我)」ということである。」

いきなり申しては何ですが、お釈迦さまの根本の教えが「無我」ということが基本中の基本なので、『自我』を強めるようなことすべてが、そもそも間違いの始まりなのです。
無我と同じように説かれる基本の教えは「縁起の法」すなわち物事はすべて因と縁によって流転するということです。言い方を変えれば、「自分なんてものは実態もないし、しかもどんどん変化して行っているのですよ」
実態もないし変化し詰めの中で、モノサシになりうるものが果たしてあるのか、という問いかけが、冒頭の老師の言葉になるのです。

最近「アドラー心理学」というものが、ちょっとクローズアップされていて、『嫌われる勇気』という本が売れているようです。

結論的に言ってしまうと、「他者の評価を気にしている」あるいは「他者から認められたい」という承認欲求について説かれているのですが、「嫌われる」ことを怖れ、自分を押さえつけてしまうのは、明らかに不自由な生き方だとアルフレッド・アドラーは説いているようです。
承認欲求を否定するアドラーは「他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きること」「他者の承認を得ようとすることは、他者のモノサシに合わせて生きること」と喝破しております。

ここで坐禅に戻ります。

「ここは修養する所ではない。白紙になる所である。拾う所ではない。煩悩も菩提もすべて捨て去る所である。」

坐禅が精神修養だと思っているアナタ、それは大間違いだと分かって下さい。自分のモノサシ、他人のモノサシ、両方を捨てないと、坐禅にはならないのです。

「仏教的人生観がハッキリしてからでなければ真の坐禅修行にはならぬ。」

「群衆心理とはオカシナもんで、何もわからんなら黙っておりゃいいのに 何もわからんところにブラ下がってやりおる。――自己のないことおびただしい。これを浮世という。」

「周囲のノボセにノボセヌこと。雰囲気に酔わぬこと。――これこそ智慧である。
どの思想とどの組合にもひきこまれてはならぬ。――人間みたいな阿呆な奴を相手にせんこっちゃ。」

「人間という奴は 利口な顔しやがって万物の霊長ぐらいなこと言うて。――そのじつ自分ひとりの体をもてあまして スポーツ見物ぐらいでごまかして――。しかも自分一人じゃないなどと言い訳しやがって――。」

「修行とは今ここで自分が仏道ではどうしたらいいか――この工夫である。」

「仏法は学課ではない。「自分の身体をどうするか」である。――人間の身体は大変便利にできている。この便利な身体をいったい何につかっているか。… たいてい煩悩の奴隷につかっている。
この煩悩の奴隷でないつかい方をするのが仏法である。身心のおさめ方である。」

おそらく、なぜ「わからな〜い」になるかといえば、「「これでよい」という世界があるものでない」、というところではないでしょうか。世の中のことは、「これでよい」という世界があるという前提で動いているからです。だからこそ、本当の意味で(私も含めて)「自由に」生きている人はいません。
ここのところは、考えるのではなく、日常の生活を振り返って、味わってみて下さい。

これをしみじみと、「う〜ん」となるためには、ある程度の期間以上20年、30年〜と言う位「ただ坐る」という行為を続けないとおそらく無理だと思います。

ますますわからなくなっちゃいましたか (-_-;)


2016年 「7月の標語」

坐禅してよくなると思うておる
そうじゃない
「よしあしを忘れる」のが坐禅じゃ

――― 沢木興道 老師

最近、以前常宿寺の夜の坐禅会に来ていたYさんと、お寺のヨガ教室でお話をしておりました。
彼は、常宿寺の坐禅会が早朝だけになったので、来れなくなりました。以前から臨済宗の坐禅道場に通っていらっしゃるのですが、自宅でも坐禅を行じているとの事、その坐禅の時の様子を伺いますと、「なかなかうまくいかない」、ご自分の思い描くような理想の状態になれないというようなことでした。
 やはり、『無』と申しますか、なにも考え事が浮かんでこず、シーンとして、クリアになり、良い世界にどっぷりはまって、どこか自分がもっと高尚な存在になれるというようなことを想像しているように思いました。
彼との問答の中で、過去にチラッと片鱗を体験したように思える理想の坐禅の状態を「自分で」思い出し、もっとさらに進んだ境地を思い描き、それに向かって努力している姿が目に浮かんできましたので、つい「貴方は自分で自分をジャッジ(判定)しているのね」と申しました。
つまり、自分で思い描いている理想の状態になれれば喜び、そうでない場合はなかなか上手くいかないと落ち込む。自分で自分に評価をいちいち付けるわけです。

世の中一般的にも、坐禅をすると、無になるとか、静かになるとか、癒されるとか色々言っていますので坐禅というもののイメージが出来上がっていますから、彼がそういうところを理想とするのも無理はないのですが…

古来、達磨大師もおっしゃっていますように、禅は『不立文字』ですので、言葉で説明することが不可能であり、何か言ってしまったら外れるので『説似一物則不中』とも申します。

また、別の達磨大師の言葉に『不識』(ふしき)があります。
インドから中国へやってきた達磨大師に、梁の武帝が「私の前に立って居るそなたは誰ですか」と尋ねたとき、達磨様は「不識」と答えたのです。自分というものを知ることはできないというお答えです。我々は自分の目で自分の目を見ることはできません。そのように自分で自分を知ることは、本当は出来ないという教えなのです。

「不立文字」をネットで調べておりましたら、曹洞宗長泉寺御住職 矢口隆博老師が運営なさっているサイトに『禅の極意!! 不立文字の世界』という記事を発見しましたので、以下に引用させていただきました。http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/zengokui.htm

「禅の根本指導は「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん、じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)」の四つの言葉に示されます。その大意は、「法(真理)とは、万物は(宇宙の)法によって生かされておるところのものであるから、経典に説かれた言葉に真理があるのではなく、今、この自分が生かされているということ、生きている事実に無量の感謝が自覚できるように教示するものが経典である」というようなところでしょうか。しかしながら、先に申しましたように真理というものは、文字や言葉だけでは、どうにも伝えきれないものがあるのです。」

「生きている事実に無量の感謝が自覚できる」という言葉がなかなか意味深い表現であるように思いますが、結局坐禅をしていて、その状態を「今日はうまくいった、今日はダメだった」と自分の良し悪しで判断しているうちは、果たしてどうなのでしょう?
毎日坐らせて頂け、その時の条件で色々起こりますが、ただ、坐禅が続けさせていただける、そのことだけで十分なはずです。

坐禅を行じているとき、はた目から見るとじっとして静かに見えますが、実は肉体そのものも刻一刻衰えており肉体の使用期限は迫ってきています。そもそも坐らせて頂いている場所そのものも、盤石で絶対動いていないと錯覚していますが、ひとたび宇宙空間に目を転ずれば、地球自体が時速およそ1700qで自転しながら、時速10万qで太陽の周りを公転しています。さらに太陽系自体もらせん状に回転しながら、時速86万4千kmで銀河系の中を公転しており、さらに銀河系そのものも時速216万kmで移動しているというのです。
 もうここまでくると想像をはるかに超えたレベルですが、つまり申し上げたいことは、宇宙に存在する万物の性質は常に「変化している」ということです。我々一人ひとりの存在も宇宙の大きさから比べれば、本当に極微の存在ではありますが、宇宙の本質そのものを体現していることは、間違いありません。
宇宙に存在する何物も、変化せず、全く動かず静かで…ということはありえません。ましてどんどん過ぎ去っていく過去の状態を再現しようとしても不可能です。つかむこともできないことがどうして再現出来るのでしょうか。

我々の存在がそのようなものである以上、良いも悪いも言いようがないのではないでしょうか。
そのことを、沢木老師は、「坐禅してよくなると思うておる。そうじゃない。「よしあしを忘れる」のが坐禅じゃ。」とおっしゃっているのです。

さらに、このように「変化する」という万物の本質に鑑みれば、「無我無心と言うても別にボーっと意識がなくなるということではない。無心とは必然に反抗せぬことである。つまり宇宙とのつづきに服従することだ。宇宙とのつづきで働くことである。」とおっしゃるのも理解できます。

だからこそ「仏法というものは不可得じゃ。ツカムものでなくハナツものじゃ。それをツカミながら地獄へ行くんじゃね。どうせツカンダッテ馬糞みたいなものをつかんでおるだけじゃ。ナンゾにするのが流転輪廻のモトである。」となるのです。
曰く言い難しの境地を何とか表現できないかと、老師が本当に苦心なさっていらっしゃるのがよく分かりますね。

沢木老師の言い回しは「下品である」と評判がよくない部分もあるのですが、Yさんがつかもうとしているものが馬糞でないことを祈るばかりです。

ただ最後に、Yさんの名誉のために、一言付け加えますが、実は、つかみたいと思って坐禅をしに来ているのはYさんだけではないのです。今まで、常宿寺坐禅会には、200人近い方が来ましたが、結果的にほとんどの方が修行の入り口にさえ立てなかったのが現実です。
本堂に入る時はもちろん履物を脱いでいただくわけですが、「ご自分の考えで坐禅をしているとそれは土足で上がってきているのと同じですから…」と坐禅希望の方にはまず初めにお話しするのですが、その意味を理解出来た方はほとんどいませんでした。それが本当に残念です。 (-_-;)

 




2016年 「6月の標語」

神よ わたしに
慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを
望ませてください
私たちは与えることで多くを受け、
許すことによって許され、
人のために命を捧げることによって
本当の命を頂くのですから

――― アッシジ  聖フランチェスコ

30年以上も前、生きることに思い悩み、坐禅を始めた時期に、たまたまテレビで放映されていた『ブラザーサン、シスタームーン』を観て深く心を動かされ、当時は映画のビデオを買って何度も観ましたが、今はDVDに買い替えました。私の心のよりどころの一つです。これはアッシジの聖フランチェスコの半生を取り上げたもので、その清らかさに心を打たれ、どうしたらこのように清らかになれるのかと憧れ、畑は違いますが、出家の動機の一つになったことは間違いありません。

聖フランチェスコをご存じない方のために、少しだけ紹介させてください。
アッシジの聖フランチェスコ San Francesco d’Assisi(1182〜1226)
1182年、アッシジの裕福な毛織物商人ピエトロ・ベルナルドーネとピカ婦人に長男が誕生する。
ピエトロはフランチェスコ(小さなフランス人)と命名。これはピエトロがフランス好きであったため、また、母のピカ婦人がアルルの女性であったことからともいわれている。
若者となったフランチェスコは、他人の世話を良くし、礼儀正しく親切で優しい人であったが、浪費家で見栄っ張りな散在家に成長する。陽気な性質で、盛り場で歌物語を歌ったり、町の人気者であった。
 19歳の時、十字軍に参戦するが、重病を患い、アッシジの街へ帰った。 

病が癒えた後のフランチェスコは様子が一変する。街外れの壊れかけたサン・ダミアーノ教会で、祭壇に掛けられた十字架像に祈っている時、この教会を再建せよとの天啓を受け、早速修理に取り掛かるが、それをピエトロに知られてしまう。ピエトロはフランチェスコを司教館に連れて行き裁判を求めるが、フランチェスコは公衆の面前で裸となり、全ての相続財産を放棄、父ピエトロに自ら着ていた衣服まで返し出家。
喜んで世を捨てたフランチェスコは、2年の間修道生活を営みながら、ハンセン病者の看護や幾つかの聖堂修理に従事していたが、再び天啓により、褐色の粗服と腰に荒縄を締め、素足となった。
これ以後、彼は息を引き取る(帰天の)日までキリストの騎士として、つぎはぎだらけの粗服を身に着け、厳しい貧しさに身をさらし続けた。
フランチェスコは情熱に溢れた初期のキリスト教徒たちの素朴な教えを理想とし、人々の中に入っては福音をわかりやすく語り、彼らの素直な信仰心を目覚めさせたのだった。
 彼の勤勉な信仰生活を見て、最初は嘲笑っていた人々も感嘆し、次第に尊敬の念をもって彼の言葉に耳傾けだした。
彼はイタリア中を歩き、親しみやすい教えは下層信徒を中心に急速に広がっていく。 清貧と愛を説くフランチェスコの素朴で慎ましやかな生活に感化され、次第に同志の者が彼の下に集まり出した。
1209年12人となった同志たちは、教皇インノチェンツォ(インノケンティウス)3世から教団と説教の許可を得るために、ローマへ赴いた。
「清貧・従順・貞潔」からなる極めて簡潔な3箇条からなる会則を携え、教皇との会見は三度行われた。
従来のカトリック概念とはかけ離れた教団と前代未聞の会則であったが、彼らは口頭認可を得、修道会「小さき兄弟会」(通称:フランシスコ会)が創立する。
ポルズィウンコラの小教会サンタマリア・デッリ・アンジェリを根拠地として福音を述べ伝え、1212年貴族の令嬢キアラ(ラテン名:クララ)の出家を援助指導し、貧しき貴婦人の集まり「クララ会」を創立。
キアラは以後、清貧のうちに施しによって暮らすというフランチェスコの理想を体現した。
 
フランチェスコには全ての被造物が兄弟・姉妹であり、平等であり上下の差はなかった。 盗賊も迫害者も全て愛すべき兄弟であって、敵は唯一、人の心に潜んだ悪であった。主イエズス・キリストを十字架に架けたのもこの悪であると。
また、彼の万物に対する慈愛も特別で、小鳥や鷹、魚、子羊、蝉、狼らにも説教をし、彼らもそれを聞いて従ったという。
晩年、眼病を患ったが、これは悪化する一方で、帰天までには完全に失明。
 神との深い交わりから、フランチェスコの説教は数多の人々を強く惹きつけ、改心を促していった。
1224年ラ・ヴェルナ山上、病の激しい苦痛の中にあってキリストとの親密な一致により魂の平安と喜びを得、その印刻である聖痕を受けた。
アッシジに戻り、サン・ダミアーノ教会にて神への感謝と賛美である「被造物の賛歌(太陽の讃歌)」をつくり、1226年ポルズィウンコラの小教会近くで、詩編142を歌いながら「姉妹なる死」を迎え帰天した。(44歳)
http://members3.jcom.home.ne.jp/assisi/about%20S.Francesco%20d'assisi.htm より抜粋して引用
 
最近、テレビを見ていて、意外な方からこの聖フランチェスコの言葉を聞き、びっくりしました。
その時取り上げられていた話題は舛添都知事についてでした。舛添要一氏は、高額な海外出張費、公用車でほぼ毎週湯河原の別荘へ通っていたことなどが4月中旬ころから取りざたざれはじめ、最近では、参議院議員時代に家族旅行の費用、飲食代などを不適切な処理をしていたことが週刊文春によって報じられたり、今や政治家としてのみならず人間性そのものまで問われかねない事態になっています。

高額すぎる海外出張費については、各マスコミが、様々な調査を行っておりますが、結果的には各自治体によって相当の開きがあることが判明しました。具体的な数字は省略しますが、このような調査の結果、鳥取県の平井知事が極めて質素なことが逆の意味で際立ち、各社がそのことで取材するようになりました。
私がたまたま見たテレビも、そのうちのひとつだったようです。

鳥取知事「ファーストクラス利用ゼロ」 海外出張ほとんど「1人旅」
TBS系(JNN) 5月12日(木)19時41分配信
 鳥取県の平井知事は、2007年の就任以来32回の海外出張をしているのですが、ファーストクラスの利用はゼロ、ほとんどが随行員をつけない「1人旅」だと、12日に行われた会見で明らかにしました。
 「やっぱり東京(都)のような大企業は違うなというのが、中小企業の鳥取県の感覚です」記者の質問にこう答えた鳥取県の平井知事。舛添都知事の海外出張費問題に人口最少県からの皮肉を込めた形となりました。
「納税者への説明責任という観点で、なるべく出張については簡素に効率的に行うようにしたいと考えていて、国内出張でもそうだが、基本的には1人で歩いている」
事前準備している職員と現地で合流する形を取っています。航空機のファーストクラスを利用したこともありません。舛添知事もできるはずと、「出張1人旅」をすすめました。

この番組中ではなかったのですが、別のところで、平井知事がポリシーを問われたときに挙げた言葉が上記のフランチェスコの言葉だったのです。平井さんが出張で、アッシジを訪れた時、フランチェスコのこの言葉と生き方を知り、それから姿勢が変わったとの事でした。特に、役人としてのキャリアのなかで、「人のために命を捧げる」という言葉が、最大の転換点になったそうです。

平井さんは、一時、スターバックスコーヒーが日本全国で唯一進出していない県としてとりあげられた時(2015年7月ついにオープンしました)
「鳥取にはスタバはないけど、日本一のスナバがある」と巧みに県をPRしていらっしゃったことが報じられ、その時に何とユーモアのセンスが素敵な方だろうという印象を持ちました。ちなみにこの知事の発言を元に鳥取に「すなば珈琲」をオープンさせてしまった、鳥取の方達もなかなかのものですね(^^)
また、今回の舛添知事の贅沢三昧に対して「鳥取には、カニがあるけど、金はない」と、これまた自虐ネタを披露しました。
舛添氏の行状は論外ですが、同じ日本、同じ自治体の知事さん(しかも同じ東大出身)にもこんな方がいらっしゃると、ちょっと救われた気持ちになりますね。舛添氏は平井さんの爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいです。

2016年 「5月の標語」

貧乏な人とは
少ししかモノを持っていない人ではなく
無限の欲があり
いくらあっても満足しない人のことだ

――― ホセ・ムヒカ 前ウルグアイ大統領 リオ会議 スピーチより

2016年4月、日本のテレビ局(フジテレビ=中部地方では東海テレビ)に招待されてホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領がご夫妻で来日されました。4月8日、フジテレビの生放送特別番組『来日緊急スぺシャル 世界一貧しい大統領×宮根×池上彰で問う〜日本人は本当に幸せですか?』に京都から中継で生出演し、インタビュー等に答えられました。
私は、この方のお名前も存じ上げなかったのですが、このテレビをご覧になった参禅者の方が翌朝教えてくださいました。
この時の放送の録画がYou Tubeでアップされていましたので、ホセ・ムヒカ氏の名言の数々を聞くことができました。

ホセ・ムヒカ氏の略歴です。
「ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノ( 1935年5月20日生まれ、81歳 )は、ウルグアイの政治家。
2009年11月にウルグアイ大統領選挙に当選し、2010年3月1日より2015年2月末までウルグアイの第40代大統領を務めた。
ムヒカは給与の大部分を財団に寄付し、月1000ドル強で生活しておりその質素な暮らしから「世界で最も貧しい大統領」としても知られている。

ムヒカは1935年にウルグアイの首都モンテビデオの貧困家庭に生まれた。家畜の世話や花売りなどで家計を助けながらも、1960年代に入って極左都市ゲリラ組織ツパマロスに加入、ゲリラ活動に従事する。モンテビデオ大学卒業後、ツパマロスと治安組織の抗争の激化、労働組合や職人組合の政治経済への反発といった時代のもと数々の襲撃、誘拐にたずさわる中で、ムヒカは6発の銃弾を受け、4度の逮捕(そのうち2回は脱獄)を経験する。1972年に逮捕された際には、軍事政権が終わるまで13年近く収監されており、軍事政権側の人質として扱われていた。
ムヒカは出所後、ゲリラ仲間と左派政治団体を結成し1995年の下院議員選挙で初当選を果たす。2005年にウルグアイ東方共和国初の左派政権となる拡大戦線のタバレ・バスケス大統領の下で農牧水産相として初入閣。そして2009年度の大統領選挙戦で、元大統領である国民党のルイス・アルベルト・ラカジェ公認候補を決選投票で破り勝利した。

妻は元ツパマロスのルシア・トポランスキー上院議員で、愛読書はミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』。趣味は花の栽培である。ムヒカの個人資産は、フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)(クボタのトラクターと農地と自宅も所有している。)のみで、大統領公邸には住まずに、首都郊外の質素な住居に暮している。

ムヒカの愛車である1987年製フォルクスワーゲン・タイプ1(2014年現在の価値は2800ドル(約32万円))をアラブの富豪から100万ドル(約1億1600万円)で買い取る事を打診された際、地元のラジオ番組で「友人たちから貰った物だから、売れば友人たちを傷つけることになるでしょう」と、これを拒否する発言をした。

ブラジルで開催されたリオ会議(Rio+20)では、ムヒカは経済の拡大を目指すことの問題点を明確に演説した。この時のスピーチが話題を集め、ノーベル平和賞の候補にもなった。また、スピーチを子供向けに紹介した絵本「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」(汐文社)が、日本でも出版された。」
(Wikipediaより)

冒頭のムヒカ氏の言葉に接したとき、私はお釈迦さまのお言葉を思い出しました。

「知足の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処(しょ)すと雖も亦(また)こころにかなわず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧(まど)しし、知足の人は貧ししと雖も而も富めり」(佛垂般涅槃略説教誡経)

(足ることを知っている者は地べたに寝るような生活であっても幸せを感じている。足ることを知らない者は天にある宮殿のような所に住んでいても満足できない。足ることを知らない者はいくら裕福であっても心は貧しい。足ることを知っている者は、表面的には貧しく見えても、実は豊かなのだ)

ムヒカ氏を紹介する言葉が「世界で最も貧しい大統領」ですが、これはもちろん物を持たず、極端に質素な生活ぶりからそのように言われているだけで、ムヒカ氏の言葉を読むほど、彼の心の豊かさ、深さに本当に心を打たれます。

老若男女、国民の誰からも“ぺぺ”と呼ばれて慕われ、愛されてきたムヒカ前大統領。
今年、5年間の任期を終え、圧倒的な国民に惜しまれながらその座を退いた彼が、その後も世界中から注目されているといいます。
ムヒカ前大統領は、退任後、田舎の農場の小さな家に奥さんと愛犬「マニュエラ」とともに住んで、のんびり農業や養鶏をして質素に暮らしているそうですが、今年8月、ブラジル・リオデジャネイロの大学で1万人もの学生の前で講演した際には「ムヒカ!ムヒカ!」の熱狂的なコールが鳴り止まなかったそうです。
 
このムヒカ氏は今回の来日に際して、自宅でテレビ局のインタビューに応じました。

その中では、ムヒカ氏と日本との関わり、日本人へのメッセージも込められています。氏のお話の中には、日本人に対する洞察と理解が随所に感じられますが、まず、冒頭からそのいきさつが述べられていて、見るものをぐいぐい引き込んでいく力があることを感じます。
なんと「世界一貧しい大統領」の、清貧の原点は日本人だったようなのです。

「私は7歳の時に父を亡くしてね。当時、母は少ない父の年金すら15年ももらえず、苦しんでいた。
小さな畑を耕してね。そこで栽培していたもので生活していたんだ」
母ひとりの働きが家系を支える極貧生活のなか、貴重な収入減だったのが、幼いムヒカ氏も手伝ったという花の栽培でした。
「実は家の近所に10軒か15軒ぐらいの日本人家族がいてね。みんな花を栽培していたんだ。幼い私も育て方を教わり、家計を助けたよ。彼らはすごい働き者でね。昔ながらの日本人だった。農民の思考で狭い土地に多くのものを耕していたんだ」
幼いムヒカ少年の心に刻まれた、働き者で土に根ざした日本人のイメージ。
しかし、その後南米最強の極左都市ゲリラ「ツパマロス」に加入。10年以上の間、権力に戦いを挑み続けたのです。

「50年前の私たちは富を平等に分配することによって世界をより良くできると考えていたんだ。でも、今になって気付いたのは、人間の文化そのものを変えないと何も変わらないということだ」

「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、限りなく多くを必要とし、もっともっとと欲しがること。ハイパー消費社会を続けるためには、商品の寿命を縮めてできるだけ多く売らなければなりません。10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです。長持ちする電球は作ってはいけないのです。もっと働くため、もっと売るための使い捨て社会なのです。私たちは発展するために生まれてきたわけではありません。幸せになるために地球にやってきたのです」
つまり、発展ということが、そのまま人間の幸せには結び付かないというのがムヒカ氏の立場です。

インタビューの後半、ムヒカ氏は、私たちの日本について語っていらっしゃいます。

「日本人は魂を失った」
今年3月1日、自らの後任の新大統領就任式。新大統領にたすきを渡すセレモニー。しかし、ムヒカ氏の首にネクタイはありません。異常なほどのネクタイ嫌い。その訳を、彼は日本を例にこう語ったことがあるそうです。
「我々もイギリス紳士のような服装をしなければならない。それが世界中に強制されたものだからです。日本人ですら信用を得るために着物を放棄しなければならなかった。みんなネクタイを締めて変装しなければならなくなった」
彼にとってネクタイとは、欧米の価値観一色に塗りつぶされてしまった世界の象徴だったのです。そしてその彼の哲学の根底には、日本への尊敬の念と、私たちの歴史への深い理解があります。

「ペリー提督がまだ扉を閉ざしていたころの日本を訪れた時の話さ。当時の日本は『西洋人は泥棒』って思っていた時代だね。あながち間違いではなかったけど、賢い政策で対応したとは思うよ。西洋にある進んだ技術に対抗できないことを認め、彼らに勝る技術をつくろうと頑張ったんだ。 そしてそれを成し遂げてしまった…実際にね。でもそのとき日本人は魂を失った」

日本人が失った魂、それはいったい何のことでしょうか?

「人間は必要なものを得るために頑張らなきゃいけないときもある。けれど必要以上のモノはいらない。幸せな人生を送るには重荷を背負ってはならないと思うんだ。長旅を始めるときと同じさ。長い旅に出るときに、50kgのリュックを背負っていたら、たとえ、いろんなモノが入っていても歩くことはできない。よく分からないけど、100年前、150年前の日本人は私と同意見だったと思うよ。今の日本人は賛成じゃないかもしれないけどね。」
多くのモノを持たず、それ以上を望まなかったかつての日本人。たしかに「足るを知る」を美徳とした文化は、いつの間にか、すっかり捨て去られてしまったように感じます。

今の日本についてどうお考えでしょうか?(ディレクター)
「産業社会に振り回されていると思うよ。すごい進歩を遂げた国だとは思う。だけど本当に日本人が幸せなのかは疑問なんだ。西洋の悪いところをマネして、日本の性質を忘れてしまったんだと思う。日本文化の根源をね。幸せとは物を買うことと勘違いしているからだよ。幸せは人間のように命あるものか
らしかもらえないんだ。物は幸せにしてくれない。幸せにしてくれるのは生き物なんだ」

モノは人を幸せにはしてくれない。だからこそ、自分はこんな暮らしをしていると語ったムヒカ氏。

「私はシンプルなんだよ。無駄遣いしたりいろんな物を買い込むのが好きじゃないんだ。その方が時間が残ると思うから。もっと自由だからだよ。なぜ、自由か? あまり消費しないことで、大量に購入した物の支払いに追われ、必死に仕事をする必要がないからさ。根本的な問題は君が何かを買うとき、お金で買っているわけではないということさ。そのお金を得るために使った『時間』で買っているんだよ。
請求書やクレジットカードローンなどを支払うために働く必要があるのなら、それは自由ではないんだ」

幸せに暮らすため、自由でいるために、みんなが物を欲しがらない暮らし。しかし、この現代において、本当にそんなことが可能なのでしょうか?

その世界は実現可能だと思いますか?(ディレクター)

「とても難しいね。君が日本を変えることはできない。でも自分の考え方を変えることはできるんだよ。世の中に惑わされずに自分をコントロールすることはできるんだ。分かってくれるかな? 君のように若い人は恋するための時間が必要なんだ。子どもができたら、子どもと過ごす時間が必要だし、友達がいたら友達と過ごす時間が必要なんだ。働いて、働いて、働いて、職場との往復を続けていたら、いつの間にか老人になって、唯一できたことは請求書を支払うこと。若さを奪われてはいけないよ。
ちょっとずつ使いなさい。そう、まるで素晴らしいものを味わうように、生きることにまっしぐらに」

自らの体で戦い、導き出した信念だからこそ、そこに引き込まれるような言葉が湧き出てきます。そんなムヒカ氏の現在の夢は、ウルグアイの子どもたちを育てること。自らの土地に農業学校を建てて、子どもたちに花の栽培などを教えることだそうです。
かつて日本人の先達がムヒカ少年に生きるすべを教えたように…

そこに学校をつくるのは一つの夢だったと思いますが、この先の夢・目標はありますでしょうか?(ディレクター)
「私がいなくなったときに、他の人の運命を変えるような若い子たちが残るように貢献したいんだよ。
本当のリーダーとは、多くの事柄を成し遂げる人ではなく、自分をはるかに越えるような人材を残す人だと思うから」

https://www.youtube.com/watch?v=ep-_W7UT9SI
http://blogs.yahoo.co.jp/moritakeue/13531353.html ブログTABIBITO 参照
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株価や円相場が「上がった、下がった」と一喜一憂している異常な世の中、資本主義ではもうどうにもならなくなってきており、何とかしなくては…と思っていらっしゃる方も多いと思います。
でも、ムヒカさんのおっしゃるように、世の中を一足飛びに変えることはできなくても、それぞれが自分をコントロールすることによって、少しでも変わっていけば、世の中も少しずつでも住みやすくなっていくのではないかと思います。

2016年 「4月の標語」

周囲のノボセにノボセヌこと
雰囲気に酔わぬこと
―― これこそ智慧である

―――  沢木興道『禅に聞け』

☆ 周囲のノボセにノボセヌこと。雰囲気に酔わぬこと。――これこそ智慧である。
どの思想とどの組合にもひきこまれてはならぬ。――人間みたいな阿呆な奴を相手にせんこっちゃ。

☆ 無明とはワカラヌということである。せめてワカラヌということがワカッテおればいいのだがワカラヌということがワカラズ――そしてみんなグループ呆けから割り出しているんじゃからお話しにならぬ。

この老師のお言葉をまざまざと思い出される出来事がつい最近おきました。
お寺では、この2月いっぱいで新聞を配達してもらうことをやめました。私は、こちらに来るまでの45年間ずっと朝日新聞を購読していました。ここに来たとき光文師は毎日新聞を取っていましたが、私が住職になってからは朝日新聞に変えてもらいました。もともと朝日が左翼系という認識は持っていましたが、それほど偏向しているとは思っていませんでした。ところが、いわゆる吉田証言に端を発した慰安婦問題記事ねつ造事件に際して、朝日新聞に対する根本的疑念がわき、やめたいと思い始めました。さらに追い打ちをかけるように、昨年国会で審議され可決された安全保障関連法案について取り上げられていた時期、もう見出しを見ただけで読む気が失せる程の扇動的な記事が続き、ついに契約を解除しました。

18年前に東京から移住してきて、ここら辺では、中日新聞を購読している家が非常に多いことも知っていましたので、朝日新聞と交代に、中日新聞を取ることにいたしました。当初は、今までと違い、地元の情報が多く載っているので喜びましたが、しばらく致しますと、中日も朝日に負けないぐらい偏向した記事にあふれていることにうんざりしてきました。
 お断りしますが、私は元来自民党支持者ではありません。しかしながら、最近ネットを通じて、様々な媒体を通してのニュースに接するようになると、新聞の記事というものがどれだけ会社によって違うか、はっきり言えば、事実に即して報道するというより、自分たちの主張したい立場から事実を曲げて報道する、あわよくば自分たちの主義主張の方へ引きずり込もうとする、新聞とは右にせよ左にせよ、そういうものなのだということを見せつけられるようになりました。

中日新聞もやめたいと思い始めていた矢先の2月23日、夕刊の一面コラム「紙つぶて」に以下のような文章が掲載されました。見出しは「「なめんな」の精神」となっていて筆者は上智大教授中野晃一となっていました。

「「怒りなんてものじゃなくて、肉体が震えるような「憤り」なんだよ」とは、安全保障関連法に反対する学者の会を引っ張ってきた佐藤学さんの言葉。「なめたらいかんぜよ」と国会で言い放ったのは、元最高裁判事の濱田邦夫さんでした。
 憤りは英語ではインディグネーション。尊厳(ディグニティ)を否定されたときに沸き起こる気持ちです。不当だ、バカにするな、なめんなよ、というのはただの怒りではありません。
 スペインで昨年、第三政党に躍進し注目を集めるポデモス。その源流は2011年、経済危機のなか政治腐敗や緊急財政に抗議し、マドリードの広場を占拠した「インディグナードス」運動。いうなれば「尊厳を奪われ、憤る者たち」でした。
 日本でも昨夏、国民から主権をさん奪した与党が違憲立法を強行したときSEALDs(シールズ)の若者たちが「国民なめんな」と国会前でコールを繰り返しました。侮辱された主権者たちの憤りです。立憲デモクラシーの会共同代表の樋口陽一さんは「若者たちの『なめんな』の精神が日本社会の知性を救う」と述べました。不当な侮辱をこうむったとき、憤りの声を上げるには、気概、勇気、「なめんな」の精神が必要なのです。
 若者、ママ、労働者、学者、法曹関係者、さまざまな市民の憤りが今、野党共闘を後押ししています。野党が気を吐く番です。」
 
読むことに嫌気がさしていたのですが、このコラムは見出しが特に過激でしたし、見たところ短かったので最後まで読みました。そして、この記事でついに中日新聞をやめることに決めた翌日、中日新聞社のサイトを通じて「ご意見のある方はこちらへ」というところへ以下のようなメールを送信しました。

中日新聞編集者様
私は、一宮にあるお寺の住職です。東京生まれ東京そだちで、長年朝日新聞を購読してきましたので、こちらに来てからも、朝日を購読していました。
ところが、最近のあまりにひどい偏向報道に堪忍袋の緒が切れて、数か月前に購読をやめ貴社に代えました。
代えてみて、地元の情報が今までより増えたことはよかったと思いましたが、偏向ぶりが朝日新聞と大差ないことに気が付き、愕然としました。
昨日の「紙つぶて」欄は特に酷かった。コラムニストが中野晃一氏ですが、こんな記事を一面にのせるからには、そちらもこの記事を許容しているものと思います。
例えば、「国民から主権をさん奪した与党」とありますが与党は選挙で多数を獲得したから政権を担っているのであって、無理やり政権を奪い取ったものではありません。
だから主権者とかなんとか偉そうに書いていますが一部の声をさも大多数の声であるかのように言い、逆に国民をなめている態度であると思います。
私は自民党支持者ではありませんが、新聞を見ていると、なぜもっと、中立的にふるまえないものかと、まさしく「怒りなんてものじゃなくて憤りを覚え」新聞に対する絶望感を覚えます。
佐藤栄作元総理が、「新聞は嫌いだ」といって退任会見の時、テレビカメラのみに向かって話していたことを懐かしく思い出しました。
私は、この記事と中日新聞にたいして、「なめんな」と思いました。それなので、せっかく購読を始めたのですが、来月から、やめます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

案の定、これに対してメールの返信はなかったですが、こういう抗議の声は中日新聞には届かないようです。

こんな記事を鵜呑みにしたら、安保法案に憤っていないものは、まるで知性がないみたいじゃあないですか。一応法学部出身の私ですから、法律論を持ち出せば、言いたいことは山ほどありますが、今は新聞の態度について論じているので、ここではやめておきます。
 
新聞のみならず、海外メディアなどの各通信社も含む記事をネットで比較して読んでいますと、各新聞社のそれぞれのグループの色があまりに鮮明過ぎて、これがまさに沢木老師のおっしゃる「グループ呆け」なのではと痛感します。
そして、それぞれのグループが自分たちのグループに一人でも多く引きずり込もうと必死です。あの手この手を駆使し、ひどい場合、上記の記事のように平気で嘘を書きます。

退任会見から新聞社を追い出した佐藤栄作氏は、旧制第五高等学校の出身で、その時に沢木老師の薫陶を受けた方です。老師が遷化された昭和40年12月、東京からわざわざ京都安泰寺に弔問に来られたということを光文師から伺っております。
こんなことを私がウダウダ書いていても、「何をいまさらと」泉下のお二人の高笑いが聞こえてきそうです。

新聞協会発表の新聞購読者数は下降の一途をたどっており、ネットの普及ばかりではなく、新聞のメディアとしての限界を国民が敏感に感じ取っているのではないかと推察します。

ちなみに、以下のような記事を発見しましたが、私が申し上げたいことがよくまとまって書かれてありましたので、長くなりますがご紹介したいと思います。
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赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』
http://blog.goo.ne.jp/akamine_2015/e/76b2b50d593999128bc5ce523d89c4ed
コラム(38):朝日新聞の発行部数はなぜ激減したのか
朝日新聞の内情に詳しい識者から新聞社の実売数について情報を頂きました。

朝日新聞 公称680万部 実売数190万部 (※2014年9月時点 公称 760万部 実売数 280万部)
読売新聞 公称914万部 実売数610万部 (※2014年9月時点 公称1000万部 実売数 600万部)
毎日新聞 公称327万部 実売数102万部

(朝日新聞は公称数も実売数も激減)
昨年(2014)の8月5日、朝日新聞は「従軍慰安婦捏造記事」を取り消しましたが、その1ヶ月後の9月に識者から「朝日新聞の購読者数が激減している」との情報が寄せられました。そのときの実売数は280万部でした。現在の発行部数は190万部です。わずか1年弱で90万部も減っています。これは決算数字にも表れています。
この実売数の激減に朝日新聞の中枢は頭を抱えているようですが、彼らには原因分析ができていません。

(公表された朝日新聞決算書(2014年4月から2015年3月)によると 新聞事業4033億2500万円(前年比−7.9%)、セグメント利益29億8300万円(前年比−54.7%)と大幅な業績悪化が生じた。)

(朝日新聞激減の真相)
部数減少の理由には、読者自身による判断で購読を止めたという特徴があります。
記事の傾向を見ると納得できます。
・安倍政権憎しだけの記事に読者が嫌気をさした。
・安保法制反対一色の記事に読者が疑問を持ち始めた。
・反米記事や、親中記事に読者が疑問を持ち始めた。
・大企業や成功者に対しあからさまな嫉妬の感情が記事に込められている。
・事実に反する嘘の記事を書く。
・故意に問題を歪曲した記事を書く。
・読者を意図的に一定方向に誘導する。
・読者を扇動する。
これらの諸要素が読者離れの原因になっています。

(読者は賢明な選択をしている)
最近の読者は、新聞だけではなく他からも情報をたくさん得ているので記事の比較が容易になっています。とくにインターネットの普及により、情報は瞬時に入手できます。新聞社が情報を独占し、それを読者が鵜呑みにする時代ではなくなっているのです。
情報の上に胡坐をかいて恣意的に報道した慰安婦捏造記事が、インターネット情報の前に敗北した事実を謙虚に受け止めるべきです。

また、読者の中には安倍政権の政治姿勢に対して一定の評価をしている人がたくさんいるにも関わらず朝日新聞は批判ばかりしています。悪口だけの記事に読者は嫌気をさしています。読者は日本が明るい方向に進むことを期待しているのに、暗いことばかりの記事を書いているのでは、誰も読みたいとは思いません。

さらに、読者は朝日新聞社と一緒に憎しみの感情で体制批判をし続けることに疲れてしまったようです。継続して憎しみや腹立ちの心を持ち続けることに自己嫌悪を感じているのです。

安倍政権打倒が自己実現では新聞社としての役割を終えてしまいそうです。未来に向かって新聞社として生きる道を選択するのなら、これまでとは違う報道姿勢を模索する必要があります。
朝日新聞社は今が最大の分岐点であるように思います。
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以上の朝日新聞に対する分析はそっくり中日新聞にも当てはまると思います。実際、最近の中日新聞が左傾化し過ぎているとの声を、ネットでもちらほら見ることもできます。
https://www.youtube.com/watch?v=g_rW0VvQ4hM

ここで、右とか左とか言い出すと、私もグループ呆けに陥る危険が出てきますが、私が申し上げたいのは、何でも反対というネガティブな態度には決して明るい未来はないということです。
私は、愛知県、特に一宮市が大好きです。私の愛してやまない第二の故郷、愛知県で一番読まれている中日新聞がこのありさまでは、本当に悲しくなります。

新聞社の皆さん、昭和21年7月23日、日本新聞協会の創立に当たって制定された新聞倫理綱領を読んで下さいね。
サイレントマジョリティーを「なめたらいかんぜよ」

2016年 「3月の標語」

願わくは 花の下にて春死なん
その如月の 望月のころ

――― 西行法師

 2月15日はお釈迦さまがお亡くなりになられた日(入滅)とされております。
 平安時代の歌人、西行法師が「願わくは 花(桜)の下にて春死なん その如月(2月)の 望月(満月)のころ」と詠んだのは、おそらくそのことを念頭に置き、自分もそれにあやかりたいという想いを持たれたものと推察されます。
 西行は建久元年(旧暦)2月16日(1190年3月23日)に亡くなったので、自ら歌に詠んだ願いを成就したとして、そのことが藤原定家や慈円らの感動と共感を呼び、当時名声を博したのだそうです。

 西行(さいぎょう―元永元年(1118年)生れ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。
勅撰集では『詞花集』、『千載集』、『新古今集』に計94首(入撰数第1位)入選。二十一代集に計265首が入撰。
 西行は、藤原秀郷の9世孫。家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。16歳ごろから徳大寺家に仕える。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。
 出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。
晩年は伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。(Wikipediaより抜粋引用)

 去る2月16日稲沢市祖父江の永張寺ご住職遠島満宗老師が突然遷化されました(世壽85歳)。お食事中に喉を詰まらせるという事故によると伺いましたが、あまりに突然のことでにわかには信じられず、一報に接したときは、呆然といたしました。
 ただ、亡骸に拝させて戴きました時は、本当に眠るがごとき安らかなご表情で、少しホッと致しました。
愛知専門尼僧堂の講師を長年にわたり勤められましたが、お若い頃から今でいう「イケメン」で、ひそかに「阿南様」と呼ばれていたと、光文師から伺っております。(阿南尊者はお釈迦さまのお弟子の中で、最も美男子だったことで知られています)

 本葬儀で弔辞を読まれた、愛知専門尼僧堂堂長青山俊董老師によりますと、1月には尼僧堂の講師を辞したいとのご意向を漏らされたようで、今から思えば、ご自分の死期を悟っていらした節もあります。お弟子さんにも、自分は死ねば、ご両親や友人や、先に逝かれた人たちと会うことができるとおっしゃっていらしたとか…
 ご葬儀の際に、周りの方々からこのように伺って、なるほどもうすでにあちらの世界に戻られるご準備ができていらしたのだなと、うれしく思いました。恐らく西行法師と同じような心境でいらしたことでしょう。私もまたいずれの日か遠島老師に再会させていただく日の来ることを楽しみに待ちたいと思います。
 私が安居中も、お講義を拝聴させて戴いておりましたが、意地の悪い質問をして、老師を度々困らせたことを思い出しておりました。正直に申しまして単調な尼僧堂生活の中で、私はそれを楽しみにしていた確信犯でした。
例えばある時のこと、「皆さん方大衆(だいしゅ=修行僧のこと)の坐禅と青山先生の坐禅は当然違います」とおっしゃったのです。今でこそ何をおっしゃりたかったかがわかるのですが、駒沢大学を出たてだった私はすかさず手を挙げ、「初心の辨道はすなはち本証の全体なり、と道元様はおっしゃっていますが…」と質問しますと、「今日は用事を思い出した」といって、突然帰ってしまわれたことがありました。

 送行(そうあん=卒業)してから、初めて教区の集まりに光文師と共に出席しました時、遠島老師とお会いして、同じ教区だったことを初めて知り、びっくり仰天! しまったと思った時には後の祭りでした。ほかの和尚様に私のことを「この人怖いんですよ」と笑いながら旧悪をバラされてしまった時は、冷汗をかきました(-U-;)
 あの温厚でお優しい老師様に、若気の至りでとんでもないことをしてしまったとつくづく反省し、老師様に今生のお別れをさせていただいた時に、心の中で、懺悔いたしました。m(_ _;)m

2016年 「2月の標語」

坐禅は習禅にはあらず
大安楽の法門なり
不染汚(ふぜんな)の修証なり

――― 道元禅師『正法眼蔵』「坐禅儀」

 常宿寺では、毎朝坐禅を行っております。当サイトでも、あちこちに書きましたが、私は、30年以上前、ウツの極みに陥り、主婦だった頃から、家の中で、一人で坐禅を始めました。今思えば普通のことなのですが、近くには坐禅をしているお寺もありませんでした。
元来、何かを始めると、休むことが出来なくなる性分が幸いしたかもしれませんが、以来よほどの事情がない限り、ほぼ休みなく続けております。

毎日の坐禅を始めてから、しばらくすると、出家を志すようになりました。さらに、仏教を本格的に学びたくて駒澤大学仏教学部禅学科にも入学いたしました。必修科目に坐禅Tと、Uがありましたが、一度も欠席したことはありませんでした。駒沢に通っていた時でも、朝起きてから坐禅はしておりましたので、それから学校へ行ってからも坐禅、更に昼休みも坐禅と言うような生活でした。主婦でしたから日中の時間は自由に使えましたから、接心も自分で決めて行っていました。

誰はばかることなく坐禅がしたいという気持ちが高じてきて、出家致しましたので、実際にお寺に入ってみて周りのお寺で坐禅をやっていないことにとても驚きました。禅宗のお寺なのですから普通は禅寺と呼称される訳ですから、禅寺と呼ばれていながら坐禅をしていないなど、主婦出身の私は想像もしていなかったのです。

 私が入寺した時の18年前の常宿寺は一か月に一度、夜に坐禅会を行っていました。建物が古く、大量のシロアリが天井から降り、西側が少し傾きかけていました。隙間風が吹き、砂埃は舞い込み、夏は暑く冬は極端に寒い本堂でした。そのような本堂で、毎朝私は一人で坐禅をしていましたが、それから数年たち、あれよあれと言う間に、本堂を建て直して頂き、私の部屋も含めた立派な庫裡も増築して頂くことが出来ました。本堂も、鉄骨の入った頑丈な作りで、冷暖房完備の誠に快適な建物にして頂きました。

せっかく皆様のお力添えを頂いて立派な本堂にして頂いたのだから、より多くの皆様のお役に立てる場所にしていかなくてはならないと肝に銘じ、月一回の写経会と、週一回の坐禅会を始めました。

元々、月一回だった坐禅会を週一回にしたのには訳があります。本堂改築前、坐禅会に来ていた方が私と先代住職の前で、「(自分は)坐禅をやっているから…」と言うことを言われたのです。私はその後メールで彼女に、貴女が月一回坐禅会に来ていることは認めるが、月一回では坐禅をやっているとは認めない、と申しました。
どこか月一回の坐禅会に通っている方でも、毎日、家とかで時間を惜しんで坐禅をなさっている方ならいざ知らず、当時の常宿寺の坐禅会に通ってきている方は、お寺に来た時だけ坐禅をするという坐禅マニアみたいな方たちばかりでした。
それで、せめて週一回くらいは最低限開かねばと思い、夜の坐禅会を始めたのですが、一時は大変盛況で、20人ほどの方たちが毎週来ていました。ところが、それで、2~3年推移するうちに、週一回でも、ウチに来た時しかつまり、一週間の内、せいぜい1時間くらいの坐禅にしかならないので、やはりほとんどの人が「趣味は坐禅」という坐禅マニアになっていきました。

朝は、朝で毎日やっておりましたので、ついに夜の坐禅は「やめた」と言ってしまいました。「これからは来れる人は毎朝本堂を開けていますから来て下さい」、ということにしてしまったのです。皆さん悲鳴を上げて、とてもそんな早朝には来られないという事で、結果的に全員の方が止めました。

そもそも坐禅は道元様も説かれていらっしゃるように、正しい形から入るわけですから、正しい形で坐れるようになるためには、月一回くらいではどうにもならないという事は分かりきったことだと思います。

ここで、話は少々それますが、昨年、12月13日バルセロナで開催された「フィギュアスケートグランプリファイナル」において、世界最高の330,43点をたたき出し、羽生結弦選手が圧勝したことはご記憶に新しいと思います。彼がフリーで滑った「SEIMEI」は、映画『陰陽師』で使われた楽曲で、この演目を完成させるために、羽生選手は『陰陽師』に主演した野村萬斎氏からアドバイスを頂いたそうです。

野村萬斎氏は和泉流野村万蔵の名跡を継ぐ狂言方の能楽師です。能楽の始まりは奈良時代ともいわれ、江戸時代は儀式の際の式楽として、武家の保護の下で伝承されてきたそうです。『陰陽師』で野村氏が演じる陰陽師・安倍晴明は、陰陽五行思想に基づき祭祀を司る者。野村萬斎氏は「自然のサイクルに通じ、行動を起こしたときに常人にはない力を放つのが陰陽師。そういうものを表現するときに、狂言師である僕の持つ独特な声の出し方や身体的技術が活かせるのではないか」と述べたとか…。和泉流野村万蔵の家に生まれ育った萬斎氏が、声の出し方、立ち居振る舞いなど、子供の頃から徹底的に厳しく仕込まれたことは想像に難くありません。

このような野村萬斎氏から羽生結弦選手は「SEIMEI」を演ずるにあたり以下のような助言を受けたそうです。
@誤作動しないくらい徹底的に型を身体に覚え込ませること
A同じ演目でもやるたびに新しい驚きを観客に与えるよう演じること
B型を効果的に見せるためには押すだけでなく引く演技も必要であること
C型にはすべて意味があり、その意味は自分で解釈するもの
D記憶に残るような演技をすれば結果はついてくる
E精神性が重要。場を支配するためには場を味方につける

私は、この記事(http://movie.smt.docomo.ne.jp/ 2015年12月10日 羽生結弦が300点超えした理由)をウェブで読んだ時、坐禅と共通するところが随分あるな、と思いました。決定的に違うのは、多くの生身の人間が見ているか、そうでないかの違いでしょう。
最も共通するのは、@の「徹底的に型を身体に覚え込ませること」だと思います。さらにEの精神性が重要と言う点。たとえ人が周りにいなくても、自身の精神状態によって、場の空気というモノはどんどん変わっていくという事も、坐禅によって如常に体験できることです。

それには、可能な限り多くの時間を費やして行わねば「為し得ない」という事は自明であると思います。たかだか週一回、ましてや月一回ではどうにもならないのです。

ところが、私がこのように力説しますと、「坐禅は習禅ではない」「不染汚の修証である」との声がすぐそこいら辺から聞こえて参ります。習禅とは智慧を得たり、悟りを得たいという目的の為に行う禅、染汚とは、自分の分別(物差し)で善し悪しを判断する心ですから、不染汚は拘らない、決めつけない心とでも申しましょうか、つまり、道元様のおっしゃりたい意図とはまったくはずれて、極めて浅い理解の元「坐禅についてあれこれ分析的にものをいうだけでアウト」と言う態度です。
今、心の中で、ちらっとでもそう思ったアナタ、是非とも、毎日、できれば最低でも、2~3時間、ひたすら(只管)坐ってみてください。そうでなければ、ここまで申し上げてきたことは理解不能です。

道元様が『正法眼蔵』を百巻(!)近くも著されたのは、疑いもなく、一人でも多くの方に坐禅をしてもらいたかったからに他なりません。

まれに、坐禅もまともにしていない方が、只管打坐はただ坐れ、なのだから、理屈を言うこと自体が違っているとかなんちゃって、欲望だらけの自己でも「あるがまま」肯定するのが、本当だとか言い出すのですが、(あるがままが大好きな方大勢います)それもこれも、坐禅を本当に真剣に行じたことの無い方の妄想であると思います。
「坐禅とは恣意的自己をほしいままにするものではない」のです。ちなみにこれは私が御尊敬申し上げ、法幢師でもある、泉岳寺ご住職小坂機融老師が、駒沢大学での講義の中でおっしゃったお言葉です。

さて話を元へ戻します。お寺でやっていることを、当ウェブサイトを通じて、掲示することに致しますと、お寺で、毎日坐禅をしていることが知れるようになっていきました。そういう時の反応は様々。ある方など、面と向かって「無理をしないようにね」と忠告までして下さる始末です。そう忠告して下さる方にとっては、よほど坐禅が大変なものなのでしょう。ご自分が無理をしなければ坐禅が出来ないので、私がよほど無理をしているように思われるようです。その方は本当に親切な方なので、本当に心配をして言って下さるのが分かるだけに、正直言って参りました。

常宿寺では、ヨーガ教室、写経会なども行っていますが、元々小さなお寺ですので十分なスペースがあるわけではありません。ヨーガも、写経も終わるとそれを片づけて、翌朝の坐禅の支度をします。その度毎に出したり入れたりをしなければならないのですが、全ての片づけを終えて、再び坐禅会を出来る状態に戻しますと、「これで明日坐禅ができる」とホッとして、嬉しくなります。

私にとって坐禅とはまさに『安楽の法門』であり、一日24時間の中で、最も自分らしくいられる時間であることは間違いありません。良いも悪いもすべてが現れてくるので、逆に、坐禅をするほど、世の中の事は何の役にも立たないという事が実感として、教えて頂けるのです。そしてあれこれ試みてもそれが無駄な抵抗であったと思い知らされると、そこに、アキラメにも似た妙な落ち着きが生じてくるのです。
そしてつくづくと、こんな殺気だった世の中で、こんな快適な環境でまだ誰も寝静まっている内から、ただ坐らせて貰えて、何と幸せな身分なのだろうと、実感するのです。しかもこんなベラボウなことを30年以上も続けさせて頂けた…。これが安楽でなくて何と言えばよろしいのでしょうか。

最後に澤木興道老師の語録から抜粋します。
「安楽といえば寝ころんでおること温泉につかっておることぐらいに思うておるがそうではない。
ヨロコビ、オチツキ、タノシミにみちたものが安楽である。――ゆきつく所にゆきついてはじめてオチツキもあり 真のヨロコビ、真のタノシミもあるのである。」

「真の出家とは絶対染汚することのない本当の自己を知ることである。宇宙いっぱいに生きる自己の生活を創造することである。」

「日本の仏教がなぜ値うちがないか。法財だけは日本に一番あるのだが「行」だけがないのだ。「行」がないところに仏法はない。仏法の因があっても修行の縁がなければ仏法に働きがない。」

『禅に聞け――澤木興道老師の言葉』より

2016年 「1月の標語」

貴様一人ぐらいどうでもええじゃないか 

――― 丘宗潭  田中忠雄著『沢木興道この古心の人』(上)


「沢本興道の配役は、西侍であった。西堂の侍者を西侍という。西堂は簡単にいえば、他の寺の長老がやって来て住持を助けて雲水の接化をする首位の人であって、今の場合は丘宗潭(おかそうたん)老師である。興道は西堂丘老師の侍者であった。侍者とは、師や長老に持して、その身辺一切のことに仕える役目である。
 丘老師の面前に一人で出ると、たいていの学人はすくみあがった、と興道は語った。恐ろしいほど辛辣な人で、顔一面にあばたがあるので、鬼瓦という渾名があった。高くて巨大な鼻に老眼鏡を乗せ、眼鏡越しにじろりと睨まれると、質問しようと用意しておいた言葉が出なかったという。師の眼玉は顔のずっと奥のところに引っ込んでいて、そこからの眼鏡越しのじろりに逢うと、ぞっとしてしまったそうである。
 興道和尚は、安養寺での結制のとき一生忘れ難い印象を受けたこととして、次のような話をされた。今、筆者は七十の坂を越した沢木老師の、筆者などの発起で作った東京西神田クラブの参禅会での講話によって、それをしるすことにする。
                       
――禅の学徒には、ときどき豪傑がいる。丘宗潭なんするものぞ、みんなが恐れて独参しないなら、俺が行ってくるから見ておれ。こうしたせりふを残して西堂さんへの独参を申し出た。私(興道)が取りついで、質問者を案内しておいて、自分は西侍の役目がら、隣りの部屋に坐った。質問者が老師を礼拝するや、師は奥深い目玉で眼鏡越しにじろりと見て、
 「なにか!」
と言う。この「なにか!」という腹の底から出る声にすご味があつて、ニの句がつけなくなりそうだ。けれども、そこはみずから豪傑を以て任ずる坊主だ。
 「一大事について質問いたします」
 「ふむ、それは誰の一大事か」
 このとき豪傑は、一瞬たじろったが、勇気をふるい起し、
「はい、私の一大事であります」
 さすがに豪傑だけのことはある。もし人生の一大事だの、人類の一大事だのと言ったら、よそごとをぬかすなと、どやしつけられるに決まっているのだ。「はい、私の一大事であります」と、精一ぱいの声でこう言った。質問に来て、逆に質問されているわい、と興道侍者は思った。すると、丘老師は、
 「なにい!貴様の一大事か。……貴様一人ぐらい、どうでもええじゃないか。う、ふ、ふ、ふ」
 その「う、ふ、ふ、ふ」のふくみ笑いは、実に無気味で腹の底に食い込むような響きがあった。質問者は、ここで堪え切れず、生きた心地もない様子で這うようにして逃げ帰った。隣室で問答の一部始終を聞いていた興道侍者は、老師の悪辣さに舌をまいて驚き入った。あまりに悪辣で、無慈悲に似ているとも思った。まるで悪魔が毒気を吹きかけているようではないか。
 ところが、そのとき三十五歳だった興道は、その後の長い間につらいことや悲しいことやがっかりすることがあると、そのたびに、あの鬼瓦の顔が現われて、「う、ふ、ふ、ふ」という妖しい声が聞こえるのであった。「なにい! 貴様のか。貴様一人ぐらい、どうでもええじゃないか」と。
すると、不思議なことに、生きてまっすぐに向こう向いて進む勇気が腹の底から湧いてきた。
 「そりゃあ、わしでも骨にこたえるようにつらいこともあったよ。そんなとき、まるで呪文のように、貴様一人ぐらい、どうでもええじゃないかという声が耳底に響いて、それが勇気の源泉になった。じっさい、大変だ、大変だというけれど、なあに、一つとして大したことなどありはせん。どうでもよいことに振り廻わされているだけのことじゃ」

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先月の標語のテーマは「自己の殻=我」を薄めていく、でした。

先日、久しぶりに、当ウェブサイトの「非思量」のページを読んで、愕然としました。確か6年くらい前に書いた原稿なのですが、「考えないこと」の重要性を説明しているのに、ここまでくどくど仏教の概念を用いて説明し、読んでいる方にフルに頭を使わせ、目いっぱい考えなければ理解できない文章を書いていることに、我ながら、つくづく矛盾していると痛感しました。削除しようかと悩みましたが、その時ふっと思い出したのが以前読んだ、この丘宗潭老師のエピソードです。

このようにおっしゃっている澤木老師ご本人も、晩年、取り巻きの一人が、老師の前で、訳知り顔に横から色々話しかけると「アホのくせにだまっとれ」と一喝されたそうです。

禅の特色は「不立文字」なのに、毎月くどくどと文字にしているわが身の至らなさを痛感する老師方のエピソードです。百万の言葉を頭の中であれこれひねくり回しているより、「我」を木っ端みじんに粉砕する胆力を養う方が、よほど有益なのでは…とも考えました。

このことを、毎日坐禅にみえるお二人に相談したところ、「「地図ばかり眺めていても、目的地に行けない」ことは確かにしても、地図がなくては目的地には行けませんので、やはり親切に説いて下さることも必要」と妙な慰め方をして頂き、削除することを思い止まりました。(-!-;

最後に澤木老師のもう一言
「身心脱落と言うたって ただ「おれが おれが」ということを捨てるだけじゃ」

  1. ■今月の標語
  2. ■坐禅を科学する
  3. ■非思量
  4. ■悟りとは
  5. ■「元気のひけつ」
  6. ■「こころ澄まして…」
  7. ■坐禅会
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