今月の標語 2012年

2012年 「12月の標語」

もしも愚者が自らを愚かであると考えれば
すなわち賢者である
愚者でありながら
しかも自ら賢者だと思う者こそ
「愚者」だと言われる

――― 『法句経』第5章 愚かな人 63

「第5章 愚かな人」 より
60 眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。

61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。

62「私には子がある。私には財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

63 もしも愚者が自らを愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかも自ら賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。

64 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙(さじ)が汁の味を知ることができないように。

65 聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。――舌が汁の味をただちに知るように。

66 あさはかな愚人どもは、自已に対して仇敵に対するようにふるまう。悪い行ないをして、苦い果実をむすぶ。

72 愚かな者に想いが生じても、ついに彼には不利なことになってしまう。その想いはかれの好運(しあわせ)を滅ぼし、彼の頭を打ち砕く。

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 常宿寺には、最近まで5匹の猫達が居りました。皆生い立ちの不幸な猫ばかりです。12年前に来た「月子と花子」、6年前に来た「雪と空(クウ)」、5年前お寺の庭に捨てて行かれた「南無(ナム)」君です。
  梅雨時の頃、お寺の周囲で明らかに純粋種のアメリカンショートヘアと思われる猫を見かけるようになりました。しばらくして、4匹の子供まで連れて托鉢に来るようになり、境内の花の鉢をひっくり返したり、大騒動になってきましたので、親子全部を保護しようとしましたが、もうだいぶ大きくなりかけていた子供達は生まれつきのノラですのですばやく逃げ、捕まえられるようなヘマはしません。秋になって、子供たちが自立し、親だけがご飯をねだってすり寄ってきましたので、やっと保護し、獣医さんへ連れて行き、避妊手術と健康診断をして頂きました。
   結果は、幸いにも全くの健康体でしたので,寺内にいた5匹と同居生活をさせようと試みたのですが、彼女は恐らくペットショップで売られていたと思われますのに、ノラ生活をしながら、立派に子供を育て上げられるくらい生活力旺盛で気が強く、寺で過保護に育った5匹とうまくいく訳がありません。ゲージに閉じ込め、1日2回ほど、彼女だけを外に出して遊ばせてやる日々が今も続いています。
  ただそうした中、先住者の5匹の内4匹に対しては彼女もゲージの中からうなったり、威嚇したり、身構えるので、その4匹は遠巻きにしているのですが、オバアの「花子」だけは、平気で彼女のゲージのすぐ側の箱にでも入って寝ています。花子は絶対に他の子に喧嘩を仕掛けたり、怒っているのを見たことがない、誠に性格の穏やかな子なのです。花子から怒りのエネルギーを感じないので新入りのアメショの「阿弥(アミ)」も花子には威嚇したりしないのだなと、思われます。

    これを観ていてつくづく想ったことは、人間関係でも、似たようなことが起こりうるのでは…ということです。よく人間関係がうまくいかず、怒りのエネルギーをため込んでいる方がいます。傍から見るとその怒りや頑なさ、思い込みの強さがトラブルの原因になっているような感じもするのですが、そういう方は何事か起きたとしても得てして人のせいにする。口ではうまいことを言うのですが、内心では絶対に自身の非を認めようとしない。生まれてこの方、反省ということをしたことがないのでは、という風に見受けられる方もいます。
   人間関係がギクシャクするのは、どちらか一方だけに落ち度があるとは言えませんが、自身の怒りや嫉妬、猜疑心などが、相手に反映されて出てくる、その結果ますます悪感情が増幅する、というようなことはあると思います。
   また、非常に嫉妬深い人は、相手がそのようなことを思っていなくても自分が邪推するから、相手も同じような行動をとると思い込み、それによって墓穴を掘り、運命がますます暗転するのではないでしょうか。
   世の中はまだまだ捨てたものではなく、何事も他人のせいにする方もいるのですが、それと同じくらい何事にも自分に非があると反省する人も確かに居るのです。

   このような、反省できる人そうでない人といったような、人間の質の問題というのは、当然ながら老若男女で判断できることでもありません。年齢が上だからと言って必ずしも物事が分かっているということはなく、逆に若いからと言って(例えば子供でも)侮ってはならないのです。また男性の方が女性より優れているなどということも当然ありません。もし貴方の職場が、お茶出しは女にやらせておけばいい、なんていう雰囲気でしたら、そんな職場では大した仕事はできません。

   また、当ウェブサイト内でも、何度か取り上げておりますが、仏教では克服すべき最も基本的な煩悩を貪瞋痴といいます。即ち、欲、怒り、愚かさです。欲、怒りはそのものですからすぐお分かりになると思いますが、愚かさとは「真理についての無知」を言い、これが最も根本的な煩悩とされています。
仏教で説かれる「真理」とは、『縁起の法』ですから、お釈迦様がここでおっしゃっている「愚かな人」とは「物事の全てが因と縁によって成り立っているということがどうしても理解できない人」ということになります。

   当サイトの2ページに出てくる言葉も何度も取り上げました。即ち、「自分の思考が、自分の運命を決める。 ものごとを起こらせることもできるし、起こらせないように運命をつくることもできる 。自分に起こることはなんであれ 自分の身口意の行為の結果であり 他人のせいではない。 それゆえ 今、最大限に精進することによって 自分の不運(過去の行為の結果)を 乗り越えるべきである。 正しく精進することによって 成し遂げられないものは、この世にない。」

   ブッダが、「愚かな者に想いが生じても、ついに彼には不利なことになってしまう。その想いはかれの好運(しあわせ)を滅ぼし、彼の頭を打ち砕く。」とおっしゃっているのはこのことを指しているのです。

   『縁起の法』を説く真正仏教の立場では、理不尽即ち、自分は何も悪いことをしていないのにこんなにひどい目にあう、ということは絶対にありえないのです。だからこそ、最も大事なことは、自身の心をこそ言葉をこそ行いをこそ、清らかに保とうと努めていくこと、他者に対してはあくまで慈悲深く居ようと努めることで、これこそが仏道修行の最重要課題です。

2012年 「11月の標語」

世間には四種類の人がいる
闇より闇におもむく者
闇より光におもむく者
光より闇におもむく者
光より光へとおもむく者である

――― 相応部経典 3、21  人

ある時、ブッダはいつものように祇園精舎にいらっしゃいました。コーサラ(拘薩羅)国の王パセーナディ(波斯匿)がブッダをお訪ねした時のこと、訪れてきた王に対して、つぎのように説かれました。
 「大王よ、世間には四種類の人がいる。四種類の人とは、どのような人であろうか。それは、闇より
闇におもむく者、闇より光におもむく者、光より闇におもむく者、および、光より光へとおもむく者である。
  では、大王よ、闇より闇におもむく者とは、どのような人であろうか。大王よ、ここに一人の人があって、卑しい家に生まれ、貪しい生活を営み、しかも、身に悪しき行ないをなし、語に悪しき行ないをなし、また意に悪しき行ないをなすならば、如何であろうか。彼は死して後は、悪しき処におもむくであろう。大王よ、闇より闇におもむく者というのは、このような人を例えて言うのである。
  また大王よ、闇より光におもむく者とは、いかなる人であろうか。大王よ、ここに一人の人があって、卑しい家に生まれ、貧しい生活を営んでいるが、しかも彼は身においても、語においても、意においても善き行いをなしたとすれば、如何であろうか。彼は、死して後には、善き処に生まれるであろう。大王よ、闇より光におもむく者というのは、このような人をいうのであって、また例えれば、彼は地上より馬の背にのり、あるいは馬の背より象の背にのり、あるいは象の背より高楼に昇るに等しいということができる。
また、大王よ、光より闇におもむく者とは、いかなる人であろうか。大王よ、ここに一人の人があって高貴なる家に生まれ、富かつ幸いなる生活を営みながら、しかも彼は、身において語において、また意においても悪しき行いをなしたならば、如何であろうか。彼は、死して後は、悪しき処にいかねばならぬ。大王よ、かかる人は高楼より、象の背に下り、象の背より馬の背に下り、地上より、地下の暗き処に下るに等しい。大王よ、光より闇におもむく者とは、このような人を例えて言うのである。
   さらにまた、大王よ、光より光におもむく者というは、いかなる人のことであろうか。大王よ、ここに一人の人があって、高貴なる家に生まれ、富みかつ幸いなる生活を営み、しかも彼は身にも、語にも、また意にも、善き行ないをなしたならば、如何であろうか、彼は、死して後は、また善き処に生を受けるであろう。大王よ、かかる人は、馬の背より馬の背にうつり、象の背より象の背にうつり、高楼より高楼にうつるに等しい。大王よ、光より光におもむく者というのは、このような人を例えて言うのである。」

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今月取り上げました説法については、それほど難解な部分はないと思います。即ち、世の中には、@悪い境遇に生まれ、さらに身体と口と心で悪い行いをした為に、死んで後にも悪い世界に行ってしまう者、A悪い境遇に生まれても、身体と口と心で善い行いをした為に、死んで後は善い世界に行く者、Bせっかく良い境遇に生まれても、身体と口と心で悪い行いをした為に、死んで後に悪い世界に行く者、C良い境遇に生まれ、さらに身体と口と心で善い行いをした為に、死んで後も善い世界に行く者,この4種類の人間がいると仰っているのです。

よく、仏教の言葉として「無記」ということをとりあげ、「人は死後存在するか否かという問題について、ブッダが何も語らなかった」とし、それを、さも、ブッダが死後の世界そのものを否定していたかのように、曲げて論じているような場合が少なからずあります。
ブッダの基本的な教説の経典群のなかにおいては、「苦を滅することによって、迷いの生を繰り返すことから抜け出す、それが即ち解脱である」という立場を貫かれ、随所に説かれております。
「迷いの生を繰り返す」とは即ち、今生で死んでも、それっきりどころではなく、何度でも繰り返し母胎に入って再生するというのです。この再生のメカニズムから抜け出したいのなら、再生の因となる煩悩を滅し尽くすしか方法はありません、という意味です。

「世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとづいて生起する。じつに愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。」『スッタニパータ 第3章大いなる章 728』
 

「大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って迷いの生存を続ける。」『ダンマパダ 第23章 象 325』

  そもそもブッダの教説を俟つまでもなく、人間存在のみならず、森羅万象すべての存在は「法則」に則っており、因と縁によって成り立っているということは、どなたにも否定できないことでしょう。
  それぞれの存在がそこにあるということは、どのような微小な存在でも、そこに至るまでの永々たる事象の仕組みの中で在り得たことです。その流れの中で起こった存在そのものが固体として消滅したときに(つまり現に目の前から消えた時に)そこでいきなりブッツリと流れが断絶してしまう、と考えることができるものでしょうか?
私たちの存在はそれぞれ、大きなおおきなメカニズムの中で、生じてきているものです。滅もまた大きなメカニズムの中で起きる出来事の一つです。
私たち一人一人の存在は、宇宙があり、銀河があり、太陽があり、地球があり、海があり、山があり…、という中の一事象なのです。海辺に立った時、寄せては返す波を見ることが出来ますが、私共が、吸って吐いてと繰り返す呼吸の成り立ちと、最もマクロに観た場合に根本的には同じ摂理です。
  
  ここで、私たちの生命を維持するために必要な太陽の存在を考えてみて下さい。あれだけの大きなエネルギーの塊が、突然爆発して無くなったとしたら……目の前から消えてしまったのですから、それっきり何一物も残らなく完全に終わり、と想像しますか?あれほどの生命を生み出す強大なエネルギーが跡形もなくなってしまう…?よほどビョーキでない限り、恐らく別の状態に変わったという風に観るのが自然だと思います。
また、目の前のコップ一杯ほどの水にしても、熱を加え沸騰して目の前から無くなってしまったとしても、蒸発して気化しただけであるということは、誰でも学んで知っていることです。

    私共の肉体も因と縁によって、様々な状態のエネルギーを頂いて生かされております。その人間の肉体の使用期限が切れて、とりあえず荼毘にされて灰になった段階で、全てがブチッとそこで断絶し、一切合切、何もなくなると考えることの方が不自然なことなのではないでしょうか。

 「7月の標語」に、「死んでから荼毘に付され、灰になっても、肉体を動くように司っているエネルギー(spirit)=「想い」は肉体が消滅してからも残りますので、いわゆる死後の世界は「想念のみの世界」ということになります。」と書きました。
  常に慈悲深く、人々の幸せを願って生きているような人々はそういう想いを持つ世界、欲深い人は欲だらけの世界、怒りばかりが勝つなら怒りの世界、という具合に…。
  つまり、「人間死んだらそれっきり」という想いで現在を生きている方は、死んで後は、そういう風に同じように思っている存在ばかりが居る世界に行くことになります。即ち、「それっきり」と自分が信じているような、あるいはそう信じたい、何も見えず、何も聞こえず、どこまで行っても無限に真っ暗で、何の動きもない世界、夢も見ることなく眠っているのと同じ状態です。
冒頭に戻りましょう。それを称して、ブッダは「闇」とおっしゃっているのです。「闇」とは「悪しき処」、悪しき想念が生み出した世界です。

  「死んだらそれっきり、おしまい」なんて思っている貴方、そんなことを考えていると、貴方が死んだら、本物の闇が待っていることになりますよ。死んでも闇で結構、と思っているのならいざ知らず、せめてお花畑くらいは見たいと思っているのでしたら、今日、たった今、この瞬間を、明るく安らかに過ごせるようにしていきましょう。

 「善い処に生まれかわるためにはどうしたらよいのでしょう?」
  ブッダがお説きになっているのは、身体と口と心で善い行いをする、ということですが、もっと具体的にどのように?という方は、このサイトを隅から隅まで、もう一度読んでみて下さい。貴方に合う方法がどこかで見つかるはずです。見つかったら、1日24時間の内、せめて5分でも、それを真剣に、休まず実践すること。自分の人生は、自分の想いで創り出していくもの。明るい未来、光り輝く世界は自身の精進努力で築いていくものです。貴方がより浄く、より明るくなり、輝きを増せば、貴方の周りも明るくなります。貴方の周りが明るくなれば、世の中も明るくなります。
そうなることを切実に祈りつつ、常宿寺では毎朝坐禅を修行しているのです。

2012年 「10月の標語」

怒りを捨てよ
慢心を除き去れ
いかなる束縛をも超越せよ
名称と形態とにこだわらず
無一物となった者は
苦悩に追われることがない

――― 法句経(ダンマパダ)第17章 怒り 221

トップページの言葉は、『法句経』17章の一番初めに取り上げられております。3行目の「束縛」とは、人を結びつける「煩悩」を、4行目の「名称と形態」とは、「現象界のすべて」を意味します。即ち、「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる煩悩も超越せよ。現象界のすべてについてこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。」ということになります。
そして、17章は「怒り」というテーマで以下のように続きます。

222  走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人――彼をわれは《御者》とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(《御者》とよぶにはふさわしくない。)

223  怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。分かち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

224  真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。

225  生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地におもむく。そこに至れば、憂えることがない。

226  人がつねに目覚めていて、昼も夜も努め学び、ニルヴァーナ(涅槃)を得ようとめざしているならば、諸々の汚れは消え失せる。

227  アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、今に始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

228  ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

229  もしも心ある人が日に日に考察して「この人は賢明であり、行ないに欠点が無く、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

230  その人を誰が非難し得るだろうか? 彼はジャンプーナダ河から得られる黄金で造った金貨のようなものである。神々も彼を称讃する。梵天でさえも彼を称讃する。

231  身体がむらむらするのを、守り落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。

232  言葉がむらむらするのを、守り落ち着けよ。言葉について慎しんでおれ。語による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。

233  心がむらむらするのを、守り落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。

234  落ち着いて思慮ある人は身を慎み、言葉を慎み、心を慎む。このように彼らは実によく己れを守っている。

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今年の当ウェブサイト「今月の標語」では、3月と4月にも「怒り」をテーマに取り上げました。

私共は、各ご家庭にお伺いしたり、お寺での行事等でお参り頂いたりして、毎日多くの方々にお会いしますが、最近とみに個人的、あるいは、家庭的、社会的にトラブルを抱えている方が急増しているということ、その結果ご自身の中に、「怒り」のエネルギーを増幅させている方が非常に多いと感じます。
  

そうなるには、個人的のみならず社会的な要因も様々あるように思いますが、一つには、情報化社会の中で、欲望をかき立てられる機会も多くなり、かき立てられた欲が叶えられないところに「怒り」が生じるのでは…というような気がしております。
  

つまり、231〜233にお釈迦様が仰っているように、身体、言葉、心において、むらむらきてしまう機会が、以前にもまして多くなっているのでしょう。
  

私が、最も憂慮していることは、この「怒り」「むらむら」が原因で精神の安定を失っている方が、副作用が非常に心配な薬を服用し続けた挙句に、依存症に陥ったり、薬から離脱できなくなってしまい、身体が根本的にダメになってしまうケースが、ごく身近に見られるようになってきていることです。

  人間の肉体が維持されることにとって必要な根本的な欲とどのように付き合い、それに飲み込まれないように上手に制御していけることは、人間が存在するうえで、不可欠な能力であるように思います。

薬、酒、煙草などでそれらをごまかそうとすることは、最も安易な方法であり、その及ぼす害の方を考えると、一刻も早く、これらに依存しない心と身体を作り上げるべきであると思います。

「4月の標語」のなかに、「他人に対するものにせよ、自身に対するものにせよ、怒りはすべてを焼きつくす地獄の炎です。」と書きました。

その炎を消すにはどうしたらよいのか、まず、その炎を正確に知ること(正知)、火元は何なのか、どのくらいの強さなのか、等々、怒りを正確に把握すること。そしてそれが可能になれば、その根本にある欲も徐々にその姿を正確につかめてくるように思います。

その結果、次の段階で、223〜224節に述べられているように、「怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。分かち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。」
という事柄も、どの部分からでも少しずつでも実行に移すことが出来るようになるのではと思います。

そうなれば必然的に(死後には天の)神々のもとに至り得ると、お釈迦様は約束して下さっておられるのです。

現代社会に満ち満ちている怒りをこのまま野放しにしておくと、近い将来どのような恐ろしいことになるのか、座視できない心持の今日この頃です。

2012年 「9月の標語」

我というものはない
また、我が物というものもない
我というものがないと知ったならば
我が物というものもないと知るであろう

――― 南伝 相応部教典 22,55 優陀那

ある時、ブッダが祇園精舎にいらっしゃった時のことです。
ブッダのお説法は、誰かの問いにお答えになって始まるのが普通の型になっておりますが、この時、ブッダには誰も問うものがなかったのですが、ご自分から説かれ始め、このように仰いました。
「我というものはない。また、我が物というものもない。我というものがないと知ったならば、我が物というものもないと知るであろう。
もしこのように理解することが出来れば、よく煩悩を断つことが出来るであろう。」

ブッダがこのように仰っているのを、一人の比丘が聞いて、問うて言いました。
「世尊よ、ただいま仰せられた言葉の意味は、どのようなことで御座いましょうか。」
「比丘よ、ここに一人の人があるとするがよい。彼はいまだ覚者(悟った者)を見ず、覚者の法を知らず、覚者の法に順わず、あるいはまた、いまだ善知識を見ず、善知識の法を知らず、善知識の法に順わず、したがって彼は、色(物象・もの)は我である。我は色を有す。我が中に色がある。色の中に我がある、と見るであろう。(注:善知識=仏道の教えを説き導いてくれる指導者)
  このように見るが故に、彼は、無常なるものを無常なりと、如実に知ることが出来ない。また、無我なるものを無我なりと、あるがままに知ることが出来ないのである。一切は因と縁によって起こるのであり、一切は因と縁によって消滅するものであることを、ありのままに知ることができないのである。
 

比丘よ、またここに一人の人があるとするがよい。彼はすでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、あるいはまた、善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって彼は、色(物象・もの)は我であるとも、我は色を有すとも、我が中に色ありとも、色の中に我ありとも、見ることはない。
  このように見るが故に、彼は、無常なるものを無常であると、如実に知り、苦なるものを苦であると、如実に知り、また、無我なるものを無我であると、あるがままに知ることができる。一切は因縁の結果であり、一切は因縁によって消滅するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
  このようにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべてが壊れる性質のものであるが故に、彼は、我というものはない。また、我が物というものもない。我というものがないと知るので、我が物というものもないと知るのである。

比丘がもし、このようによく理解することを出来たならば、われらを欲界に結びつける五種の煩悩を、よく断つことができると言うのである。」
(注:色受想行識=五蘊即ち肉体、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用)

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今年は、常宿寺としては、珍しくご葬儀が多い年ですが、8月もお盆前に1軒、お盆明けに2軒と続きました。
そして、亡くなり方として、お若い方の癌や、事故などで、急に逝かれるということが多いようです。
御知らせを頂いた時にあまり突然で本当に驚いてしまうのですが、このような時、ご家族はもちろんですが、何より御本人が一番当惑なさるであろうし、最も気にかかることはご本人が、自分が死んだことが、はっきりと自覚できているのだろうかということです。
今まで自分の体と思っていたものが、肉体を存続させていた条件が整わなくなり、その因縁が解けるのと同時に死亡を宣告され、冷たくなり、放っておけば、腐敗が始まるのです。
僧侶の立場として、こういったことを努めてお話ししようと心がけているのですが、なかなか皆さんは、そういうことを考えることさえ、なるべく避けて通ろう、あるいはその時になれば何とかなると高を括っているようにもみえます。
ただ、ここまで癌患者が増え、あるいは事故による突然の死ということが増えてまいりますと、常日頃から、ブッダがこのお説法でお説きになっていらっしゃるように、生命や体も本当は自分のものではない、永久に存続するものではないということをよく観察し、考えておく必要を痛感します。
自身の煩悩をよく観ていくと、欲界における存在そのものの本質(=無常)が理解できてきますし、そのように努力することによって、日常生活の様々な場面においてとるべき態度が自ずと分かってきます。無為に時を無駄にすることもないように思います。例えば、あまり想像したくないことではありますが、体が不自由になって全く動けなくなったといったような場合でも、身体を観察することによって、その成り立ちを知ることが出来るのです。
そして、そのように努力することによって、究極的には、突然肉体の存在が遮断されたとしてもそんなに慌てることはなくなってくるのではないでしょうか。
この春頃から、急に多忙になり、お寺のウェブサイトにアップする時間がないのですが、常宿寺では、3月から隔週の土曜日に、ヨーガ教室を始めました。ヨーガの目的も、身体を如実に観察する、ただこの一点にあります。ヨーガも仏道修行も目的とするところは全く同じなのです。

2012年 「8月の標語」

このかりそめの身に等しい苦しみは存在しない
安らぎにまさる楽しみは存在しない
飢えは最大の病いであり
形成せられた存在(=わが身)は
最もひどい苦しみである

――― 『法句経』 第15章 楽しみ 202,203

今月も、6,7月に続き、『法句経』からご紹介いたします。この第15章はブッダが「楽しみ」ということをテーマに説かれていらっしゃいます。
普通の社会で「楽しみ」と申しますと、映画やテレビ、お芝居を見たり、音楽を聴きに行ったり、御馳走を食べに行ったりといった、煩悩を満足させる事柄が思い出されますが、そのような意味でこの項を御読みになっても全く理解はできません。

197 怨みをいだいている人々の間にあって怨むこと無く、我らは大いに楽 しく生きよう。
怨みをもっている人々の間にあって怨むこと無く、我らは暮していこう。
198 悩める人々の間にあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める 人々の間にあって、悩み無く暮そう。
199 貪っている人々の間にあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。
貪っている人々の間にあって、貪らないで暮そう。
200 我らは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。
201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥(ふ)す。勝敗をすてて、安らぎに帰した人は、安らかに臥す。
202 愛欲に等しい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪に等しい不運は存在しない。
このかりそめの身に等しい苦しみは存在しない。安らぎにまさる楽しみは存在しない。
203 飢えは最大の病いであり、形成せられた存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナ(涅槃)という最上の楽しみがある。
204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。
205 孤独(ひとりい)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過も無くなる、――真理の味をあじわいながら。
206 諸々の聖者に会うのは善いことである。彼らと共に住むのは常に楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心は常に楽しいであろう。
207 愚人と共に歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、常につらいことである。――仇敵と共に住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい。――親族に出会うように。
208 よく気をつけていて、明らかな知慧あり、学ぶところ多く、忍耐強く、戒めを守る、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。――月が諸々の星の進む道にしたがうように

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以上の「楽しみ」の項を読まれて、一文でもしみじみと共感できるお言葉がありましたでしょうか?
「このかりそめの身に等しい苦しみは存在しない」
念のため申しあげますが、このかりそめの身とは、私共が生まれてこの方これ以上大切で確実なものはないと思い込んでいる私共の肉体存在そのものです。それをブッダはかりそめと仰っているのです。かりそめとは、一時の、その場限りの、儚い、偶然の、というほどの意味ですが、肉体を伴った人間の存在をかりそめということは、逆に、かりそめでない状態があるということであり、それを「安らぎ」(=涅槃)と表現なさっています。

例えば、御馳走を食べたり、ブランドの洋服で着飾ったりというようなことで、煩悩を満足させた結果、一瞬は満足、癒されたとか思ってもそれはかりそめであって、本当の安らぎではないということでもあります。

203に説かれるニルヴァーナ(涅槃)とは、中村元博士の注釈によれば、「最高の理想の境地であり、仏道修行の最後の目的である。そこでは人間の煩悩や穢れがすべて消滅している。(岩波文庫『真理のことば』P.77)とあります。

200 我らは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。
 ほとんどの場合、人間が生きて行くうえで、お金、土地、家、車といった財産を持つことが、当たり前のように良いこととされ、これらのものを少しでも増やそう、増えたものを維持していこうというのが社会の常識になっていますが、それをブッダは、これらを一物も持たないことが楽しく生きるこというのです。こうなってくると、とても頭で想像しただけで理解できる世界ではありませんが、少なくとも、苦から真剣に抜け出したい、そのために修行したいと思っているほどの方ならば、難問ではあっても絶対に避けて通れない必須の課題です。

さらに肉体を持ってこの世に生まれてきて、煩悩や穢れと共に存在していること自体が苦しいことなのだ、これらが消滅した時が本当の安らぎ、涅槃なのだという訳ですから、仮に生き乍ら煩悩や穢れを少しでも減らしていくことが可能なら、肉体的な死というものはむしろ恐怖を持って迎えるものではない、それどころか、祝福されるに値する事態である、ということになるのではないでしょうか。6月の標語でご紹介した極楽も同次元のテーマです。
比較してお読み頂ければ、幸いです。(*^人^*)

2012年 「7月の標語」

ものごとは心にもとづき 
心を主とし
心によってつくり出される
もしも汚れた心で話したり
行なったりするならば
苦しみはその人につき従う
車をひく(牛)の足跡に
車輪がついて行くように

――― 法句経 第1章 1、ひと組ずつ

トップページにご紹介したのは、『真理のことば』として名高い『法句経』の第1章1のお言葉です。
第1章は「ひと組ずつ」というタイトルで対句になっており、以下のように続きます。

2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。―― 影がそのからだから離れないように。
3、「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。
4、「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
5、実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

この文章は、岩波文庫版『真理のことば』(中村元訳)から引用しましたが、その訳注の中で、中村先生は、「心」と訳したmano(=Skrt.manas)という語は、古来日本に伝えられた伝統的教学では「意」と訳すのが決まりであったと述べておられます。
つまり、このブッダのお説法を分かり易く申せば、物事は自身の心の中で意図したことに基づき、そこから作り出される。だから汚れた、欲や怒りに満ちた心で話をしたり、物事を行えば、そう思ったように物事は悪い方向へ進み、結果的に苦しみがついてまわる、ということをブッダはおっしゃっているのです。
さらに2、について申せば、清らかな慈悲に満ちた心で話をしたり、物事を行えば、結果はよい方向へ進み、幸福や安楽がついてくるということなのでしょう。

当ウェブサイトの2ページ目に掲載致しました文章をここに改めて取り上げ比較してみますと、どちらも結局同じことを説いているということがお分かりになると思います。即ち
「自分の思考が、自分の運命を決める。 ものごとを起こらせることもできるし、起こらせないように運命をつくることもできる。 自分に起こることはなんであれ、 自分の身口意の行為の結果であり 他人のせいではない。 それゆえ 今、最大限に精進することによって、自分の不運(過去の行為の結果)を 乗り越えるべきである。 正しく精進することによって 成し遂げられないものは、この世にない。 (スリダンマナンダ大僧正)
 
  心に思っていることが、形になっていくということは、身の回りをざっと見まわしてみるといくらでもその具体的な例をみることができます。例えば、初めは人々の間の通信手段というものは、のろしとか早馬といった方法しかなかったわけですが、それが、郵便、信号や電話、パソコン、携帯といった形になっていったのは、身近にいない方と連絡が取れたらいいなと思った人がいたからです。鳥のように空を飛びたいという思いが飛行機を作り出しました。月まで飛んで行ってどうなっているか見てみたいという願望が宇宙飛行を現実のものにしました。
  逆にマイナス思考で、周囲に対する不平不満、悪口等ばかりを言い、そのような想念で生きていると、どうなっていくのでしょう。運命が暗転していくであろうことは当然の成り行きです。
  病気になったり、家族を失ったり、財産を失ったり等々…ということは、確かに不安に思うことではありますが、それをことさら過大に心配し、暗い気持ちでいることが却って苦を増幅させるのです。同じ物事でもよい方に捉え、不満を言うより、何かまずいことが起きても、もっとひどいことにならなかったことを有難いと思う方が結果的に幸せを引っ張り込むことになります。
  朝に、1日良いことばかりでありますようにと祈るより、1日の終わりに、今日1日が無事に終わったことに感謝する、その方がずっと運命を好転させるのです。
  1日の終わりにするべきことが分かれば、人生の終盤、肉体の使用期限切れにあたっても、もうするべきことはお分かりでしょう。
  先月の標語に「仏教では、凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を 三界と言い、欲界・色界・無色界の三つを総称します。」と書きました。流転輪廻する基になるものは何なのか。人間が死んでも終わりではないとされているのですから、死んでから荼毘に付され、灰になっても何か別の状態になっていくというのです。その状態を表現する為に、もっとも一般的に使われている言葉は「霊」あるいは「魂」というものです。その実態については諸説紛々でありますが、少なくとも現在の我々の肉体を動くように司っているエネルギー(spirit)であることは間違いありません。肉体を操っている大元の「想い」=エネルギーは肉体が消滅してからも残りますので、いわゆる死後の世界は「想念のみの世界」ということになります。したがって欲や怒りに振り回され不平愚痴ばかりを言っているような想念の持ち主は、死後もそのような世界に必然的に移行していきますし、常に明るく、他者に対して慈悲の念を持ち続けていたような方は肉体が無くなってもあちらの次元ではそれに見合った階層に行かれることも間違いのないことのようです。

  仏教で三毒と言われる貪瞋痴も、生じるところは心です。今の自分を動かしている想念、思いが自分の運命を形作っていくのですから、心に思うことをコントロールしていくということが、仏道修行の最も基本であるということはお分かりいただけると思います。

2012年 「6月の標語」

すべて悪しきことをなさず
善いことを行ない
自己の心を浄めること
これが諸の仏の教えである

――― 『ダンマパダ(真理のことば)』 第14章 ブッダ 179〜196

トップページの出典の所にありましたように、今月は、『ダンマパダ(真理のことば)』第14章 ブッダの全文を掲載いたしました。(中村元訳、岩波文庫)

179 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人(なんぴと)も、かれの勝利には達し得ない。ブッダの境地はひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘(いざな)い得るであろうか?
180 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
181 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。
182 人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。
183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、―これが諸の仏の教えである。
184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナ(涅槃)は最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は(道の人)ではない。
185 罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。―これがもろもろのブッダの教えである。
186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。
187 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。
188 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。
189 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。
190,191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。―すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。
192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。
193 尊い人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。
194 もろもろのみ仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。
195,196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたはその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。

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この「ブッダの章」は、原初期の仏教の基本教説とされているものを、多く含んでおりますので、全文を掲載しました。
まず、183は特に「七仏通誡偈」として、古くより今日に至るまで禅門においても伝わっております。
現代では本当の仏教と禅とが遠くかけ離れてしまった感があり、血脈という形で、お釈迦様の教えを伝えてきていると主張すること自体無理があるような印象を持っておりますだけに、『ダンマパダ』にその原型があり、ほぼそのままの形で中国経由の禅宗に残っているのを初めて知った時には、感慨深いものがありました。
即ち、七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)とは、仏教において、ブッダ以前に存在したとされる6人の仏(毘婆尸仏 (びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ))とブッダ即ち、釈迦牟尼仏が同じ様に説かれた教えとされています。
禅宗においては、諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう) の偈の形で伝わっておりましたが、その意図するところは全く183に言われていることと同じです。
何気なく読むと、極めて当然のことが説かれているように、しかも実行可能のように思われるでしょうが、自己の日常生活の在り方を振り返ってみると、簡単なようでいて、なかなか難しいことであるように思います。また、お寺のお参りなどして、お賽銭をチャリ〜ンと投げ入れ、合掌して、何やらお願い事をすることは普通に見かける光景ですが、その拝まれている仏様の本当の教えはこういう所にあると、ご存知の方はどれほどいらっしゃるでしょうか。

さらに、190,191においては、四聖諦が説かれており、(詳しくは当サイト内「お釈迦様の教え」を参照)この説こそが仏説の根幹をなすものです。

次に、187にある、天上の快楽とは何を指すのでしょうか。
仏教では、凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を 三界と言い、欲界・色界・無色界の三つを総称します。ブッダが悟りを開いたということは、すなわち、この三界における輪廻から解脱してしまったことを意味します。
人間が死んで、肉体が無くなると、普通の場合は、まだまだ地上にいた時の欲をそのまま持っておりますので、そのような状態で行く場所ですから、天界でも、六欲天というのです。(よく巷で、○○さんは、天国へ旅立ちましたと言っておりますが、この場合の天国にあたります。或いは、人によっては極楽とお呼びになりたいでしょうが…、肉体を離れると、(地上で行っていたような)食事をとる必要もないし、眠ることもない、(これも地上で言う意味での)病気もない、この世に比べれば極めて楽な世界なので、極楽とも言うのです。187の意図するところは、悟りを開いたものは極楽に行っても、その程度では楽しくないよということです。さらに付け加えるなら、死んだらそれっきり〜、なんて勝手に決めつけていると、死んでから、荼毘にされ骨になっても死んだことさえ気が付かず、そこら辺をうろつくことになりますから、気をつけましょうね。)
色界とは、 欲界の2つの欲望(食欲、淫欲)は超越したけれども、物質的条件(色)にとらわれたものが住む処。 無色界は 欲望も物質的条件も超越したものが住む世界といわれています。

このようにこの章のわずか3か所について少し観ただけでも、どれだけでもキリがないとお分かりいただけると思います。ブッダの教えはその際限が見いだせないほど奥が深いものです。

2012年 「5月の標語」

河底の浅い小川の水は
音をたてて流れるが
大河の水は
音をたてないで静かに流れる

――― スッタニパータ 第3 大いなる章 11、ナーラカ

ブッダがこの世に人間として生を受けられた時、アシタ仙人が以下のような言葉で、嘆いたといわれております。
「この王子は最高の悟りに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、憐れむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いは広くひろまるでしょう。
  ところが、この世における私の余命はいくばくもありません。(この方が悟りを開かれる前に)中途で私は死んでしまうでしょう。私は類なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから私は、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」『スッタニパータ(693,694)』
  そして彼の甥ナーラカに、「もしお前がのちに『目覚めた人あり、悟りを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、その時そこへ行って彼の教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」と言い遺したと言います。(696)
  その後、長い時が過ぎ去り、ナーラカは〈すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう〉との噂を聞き、アシタ仙人の教えの通りになったと知り、出かけて行き、ブッダに出会って信仰の心を起こし、最上の聖者の境地をお尋ねしました。(698)
「私は出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っておりますが、聖者よ、最上の境地をお説き下さい。」(700)

これを御聞きになったブッダは、このように説かれました。

「聖者の境地は、行ないがたく、成就しがたいものである。さあ、それをそなたに説いてあげよう。心をしっかりと保ち、堅固にするがよい。(701)

 人里にあっては、罵られることもあり、敬礼されることもあろう。(いずれの場合も)つねに平等の態度をもって臨まねばならぬ。心が怒ることを慎み、まもらねばならぬ。(敬礼されても)冷静であって高ぶらずにふるまわねばならない。(702)

人里にあって(托鉢に歩いている時)、家々を荒々しく急いでガサツに廻ってはならない。話をしてはならない。食を求めようとして、策をかまえた言葉を語ってはならぬ。(711)
 
もし施しの食物を得たならば、それも可である。もし得なかったならば、それも可である。得ても得なくても、変わるところなく、平然として、彼は行かねばならぬ。(712)

ただ、鉢を手にして歩き回り、口を開くことが出来ない者のようにしなさい。施物が少なかったからといって軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。(713)

心が沈んでしまってはいけない。また、やたらに多くのことを考えてはいけない。なまぐさい臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。(717)

独り坐することと〈道の人〉に奉仕することとを学べ。聖者の道は、独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。(718)

そのことを、河底の深い河の水と浅い川の水にも言うことができる。河底の浅い小川の水は音をたてて流れるが、大河の水は音をたてないで静かに流れる。(720)

  欠けている足りない者は音をたてるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。」(721)

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4月は、常宿寺としては珍しく、新たに4軒ものご縁を頂きました。ご葬儀やご法事やら、様々ではありましたが、新たに御縁を頂きますと、きまってお尋ね頂くことは、お布施の額についてです。
私共のお寺は、代々お布施につきましては、どれだけお尋ねを頂きましても、「御施主様のよろしいように」とお答えをするのが、倣いになっており、私もそれは良き伝統として受け継いでおります。
そうは言ったとて「見当もつかない」と食い下がられることもしばしばですが、そもそもお布施の趣旨から申しまして、こちらからいくらと額を申し上げてしまったら、施しにはならないので…と申し上げることになっております。
と、このように文章に致しますと損得を超越したような印象を持たれるかもしれませんが、そこはまだまだ修行の未熟な凡夫ですから、実際にお布施を御受けしたときには、何も心が動かないという時は滅多になく、正直申しまして2種類の「!?」があるのです。「えっ、こんなに頂いてよいのかしら」という時と、当然その反対の時です。
そのような時には、このお釈迦様のお言葉を何度も思い起こし、「まだまだだなぁ」と落ち込むばかりです。

2012年 「4月の標語」

山が人を押しつぶすように
怒りは愚かな者を押しつぶす

――― 相応部経典 11,24 罪過

  それは、ブッダが、いつものように祇園精舎にいらっしゃった時のことです。
ある時、ふとしたことから、二人の比丘が喧嘩を始めました。聞いてみると、そのきっかけは、一人の比丘が、他の比丘に対して、何か悪いことをしたからだということでした。
  ところが、悪いことをした比丘が、それは悪かったということで、謝罪したのですが、他の比丘の方では、それをどうしても受けつけないので、喧嘩の始末がつかないことになってしまったのです。悪いことをした比丘は、平謝りに謝っているのに、他の比丘の方では、際限もなく、大声で罵り、罪を責めてやまないのです。そうなってくると、悪いことをした比丘のほうが、かえって、同情されることになってまいりました。
  それを見兼ねて、他の比丘たちが、とうとう、ブッダのところに、その顛末を報告しました。ブッダは、彼らを呼び寄せて、つぎのように諭しておっしゃいました。
「比丘たちよ、罪を犯して、罪を罪と認めない者はいけない。また、罪を謝しているのに、それを受けいれない者もいけない。その二つの者は、ともに愚かな者とされる。
比丘たちよ、それに反して、罪を犯して、罪を罪と認める者はよい。また、罪を謝するに、それを素直に受けいれる者はよい。その二つの者は、ともに賢き者とよばれる。」
その訓戒の言葉は、大変平凡であって、別にとりたてていうほどのことでもないと思われるかもしれませんが、その後に加えて、ブッダが彼らにお与えになった偈は、素晴らしいものでした。ブッダは、昔、帝釈天が、諸々の天神を戒めて、こんな教訓を説いたことがあるといって、次のような偈を示されました。
「怒りの地に行くことなかれ。
 友情が老い衰えることがあってはならない。
 そしられるべきでないものをそしってはならない。
 不和の言葉を口にしてはならない。
 山が人を押しつぶすように、
 怒りは愚かな者を押しつぶす。」

この最後の二句、「山が人を押しつぶすように、怒りは愚かな者を押しつぶす」とは、瞋恚の性質を物語る言葉です。仏教で悟りを開くために障害とされる貪瞋痴の内の、貪(即ち、欲ないしむさぼり)は、徐々に人を蝕む毒のような性質をもっているとされます。それに比して、瞋(怒り)はひとたびその炎に焼かれるとき、一挙にその人を台無しにしてしまうとおっしゃるのです。

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 先月に引き続き、今月も「怒り」を取り上げました。
今月のお釈迦様のお説法も、対人関係においての怒りを取り上げていらっしゃいますが、今回は、自分に対する怒りについて、少し述べたいと思います。
 ここはお寺ですから、たまに名前を名乗らず、切羽詰まった声でお悩みを聞いてもらいたいという電話が掛かってまいります。つい先日も、病気の為、体調も気分もすぐれず、極めて危ない状態の方からお電話を頂きました。
  実はこの方は、数か月前にもお電話を下さり、家族に内緒ごとをしている自分が苦しい、また、内緒ごとを持ったおかげで罰が当たり病気になったのではないか、云々…とおっしゃったのでした。
以上のようなお訴えは、このように文章にしてしまいますと、いかにも至極普通であって、彼女は非常に気の毒な…という状態だということはおわかり頂けると思います。
ただ、実際にお話ししておりますと、まず家族に内緒ごとを持った時点での彼女を考えてみますと、満たされない現時点での自分の立場、理解してもらえない家族に対する怒りなど、恐らくご自分でも気がついていないように思われる「周りに対する怒り」が非常に強く、その怒りによって、身も心も押し潰され、病いを得てしまっているような印象を受けたのでした。もし本当に今の家族に対して本当に申し訳ない、家族のために立ち直らなければと思うのであれば、もっとポジティブな生き方に変化していくように思えるからでもあります。
自分で自分を裁き、傷つけ悩みを深くしている、その底にあるのは自分に対する怒り、さらに面白くもない家族関係の中の怒り、満たされない怒り。病からくる体の痛みのみならず、恐らくは様々こうなった理由を無意識のうちに、よそへ求め、つまり一言で言ってしまうと、自分以外の「他人のせいにしている」。このような間は、彼女の中に「楽」というものは、例えば今生の肉体が無くなったとしても、決して生じてはこないでしょう。
自業自得の教えとは、過去自分が行った行為の結果が現在に現れるというものですが、これは、今、現に苦しみ悩んでいる人を裁くためのものでは勿論ありません。この教えを説く場合、往々にして恵まれない方々を差別するように使われた場合も過去にはありました。しかしそれは当然お釈迦様の本意ではなく、今日只今からの自己の行いを改善していけば未来は限りなく明るいものになるという、この上なく、慈悲に富んだ救済の教えであります。
恥ずかしい話、私自身の体験で申せば、まだまだ若かった時期、家族間の様々な苦悩の中でその原因が自分にあるのではと思うほど、地獄の苦しみにさいなまれておりました。そのような時、お釈迦様の自業自得の教えに接し、自身の努力で運命が改善していく道を示して頂いたことはまさに、文字通り『地獄で仏』だったのです。努力でこの苦しみから抜け出せると信じました。それは藁をもすがる思いでしたが、それ以後ひたすら修行に打ち込んだのでした。

他人に対するものにせよ、自身に対するものにせよ、怒りはすべてを焼きつくす地獄の炎です。

どうしたら、その怒りの炎を消すことが出来るのでしょう。お釈迦様の御答えは、まず、その炎を正確に知ることが出来れば(正知)、それは小さくなります、ということです。消防士の方も、火事を消そうとする場合、火元はどこか、どのくらい燃え広がっているか、火事の原因になっているものは何か、消火活動にあたるために、そのようなことを把握しようと努めるでしょう。怒り即ち心の中の火事を消そうという場合も同じことが言えるでしょう。
怒りを正確に把握できましたら、その次に、自分であれ他人であれ、怒りを覚えた対象に対して、心の底から1秒でよいですから「幸せになりますように」と真剣に祈って下さい。貴方が本当に幸せになる道はこの二つしかないのです。

地獄のような怒りや苦しみの中にある時、自殺しても、楽になれる保証などどこにもないのです。

このように申し上げたい私の意図を彼女が理解して頂けたかどうか、祈ることしかできない自身を歯がゆく思いながら電話を置いたのでした。

2012年 「3月の標語」

雑言と悪語とを語って
愚かな者は勝ったと言う
されど まことの勝利は
堪忍を知る人のものである

――― 相応部経典 7,3  阿修羅王

ある時、ブッダが、ラージャガハ(王舎城)にある竹林の中の栗鼠養餌所にいらっしゃった時のことです。
その頃、阿修羅とよばれる婆羅門の一人の弟子が、ブッダに帰依し、ブッダのもとで出家をしました。かの婆羅門は、そのことを知って、怒り狂い、ブッダの処へ行き、激しい悪語でもって、ブッダを罵り、誹謗しましたが、ブッダはただ黙っていらっしゃるだけでした。
そこで、かの婆羅門は、ブッダに申しました。
 「沙門よ、なんじは負けたのだ。沙門よ、わたしは勝ったのだ。」
するとブッダは、偈文をもって、このように答えておっしゃいました。
「雑言と悪語とを語って、
愚かな者は勝ったと言う。
されど、まことの勝利は、
堪忍を知る人のものである。
怒るものに怒りかえすは、
悪しきことと知るがよい。
怒るものに怒りかえさぬ者は、
二つの勝利を得るのである。
他人の怒れるを知って、
正念におのれを静める人は、
よくおのれに勝つとともに、
また他人に勝つのである。」
このように説かれた、その婆羅門は、心中深く気づくところがあり、ブッダに帰依し、ブッダのもとにおいて出家し、ひとり静かな処に住んで、怠けず、熱心に精勤して、ついに出家の目的を達し、阿羅漢の一人となることが出来たそうです。

また、ブッダは、別の機会に以下のような、偈文も説かれていらっしゃいます。

怒りは不義をまねき、
怒りは心をおどらせる。
この内より起こる恐れを人は覚(さと)らない。
怒れる者は義を知らず、
怒れる者は法を見ない、
瞋恚(いかり)が人をのみつくして、
されど、よく瞋恚を抑えて、
怒るべきに怒らざる者には、
枝より落つる多羅の果(み)のごとく、
やがて瞋恚は捨離せらるるであろう。
(南伝 如是語経 3,4,9)

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柔道とか相撲といったような競技であれば、あらかじめ定められたルールによって試合が行われますから、いずれが勝者か敗者か歴然と判るのですが、このように誰かが誰かを一方的に罵ったりというような事柄を、様々な価値基準の存在する人間関係の中で優劣を述べるのは甚だ難しいことです。

「戦場において100万人に打ち勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、最上の勝利者である」法句経(103)
これは、常宿寺ウェブサイトを立ち上げた2006年に第1回目の「今月の標語」に取り上げたお言葉です。

この世の中で生きている以上、どなたでも、できれば、どのような状況でも「負けた」という状況には陥りたくないと思うのが普通だと思います。あるいは、「勝った!」と思いたい…。

ですから、悪口雑言によって、人に怒りをぶつけられれば、たいていの場合は負けじと、言い返すか、それができない場合などは、「殺してやる」とか「死ね」とか相手を呪詛する言葉を、内心で繰り返し言い続けるということになるのかもしれません。或いはそこまで行かなくても相手のことを思い出しただけで、口惜しさや怒りでいっぱいになる、といったことになりがちです。

戦場において100万人に勝てる者と言えば、相当な勇者でなくてはならないでしょうが、それよりもなお自己の煩悩に打ち克つことの方がさらに困難なこと…、このお釈迦様のお説法に解かれる御主旨は、表向きの勝った、負けたより、その根底にある怒りが問題だと仰っているように思われます。

仏道修行の目的は、欲と怒りと愚かさを滅し尽くすこと、それが根本的に苦をなくすことであると説かれてありますので、本当の勝利者とは、「耐え忍ぶことが出来る人、自身の欲を抑えることが出来る人、怒りをぶつけられても怒りかえさぬ人、自身の愚かさを正確に知ることが出来る人」ということになるでしょう。

言い方を変えれば、本当の強さとは,忍耐力を以て、自己の欲と怒りと愚かさをよく認識し、それを無くしていこうと努力するところに生まれてくるのだと、仰っていると思います。

さらにくどい言い方になりますが、仏教は、当サイトの2ページ目に取り上げてありますように、因果の法が根本教理ですので、どのような苦に直面しても、自身の以後の行いによってそれを克服していくしかないという立場ですので、自分を改善していくしか解決方法はないとも仰っているのです。

2012年 「2月の標語」

執着しているものを
これはいけないぞと観ていると
愛着の念が滅してくる
愛が滅すると 取が滅する
取が滅すると 有が滅する
有が滅すると 生が滅する
生が滅すると
老死・愁・悲・苦・憂・悩もまた滅する
これが全ての苦の集積の滅する理由となるのです

――― 相応部経典 12,55  大樹

  ある時、ブッダがいつものように祇園精舎にいらっしゃった時、比丘たちにこのように説かれました。
「比丘たちよ、己が執着しているものを、じっと味わいながら観ていると、ますます愛着の気持ちがましてくるものです。そしてその(渇)愛によって取(執着)が起こり、取によって有(存在)があるのです。有によって生がおこり、生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生じます。これが、すべての苦の集積の生ずる理由です。
  比丘たちよ、たとえば、ここに大樹があると、その根は地中にのびて拡がり、さまざまの地味や水分を吸収します。根が深く広く張るほど、その大樹は、ますます大きく高く育ち、長い間、樹木としての寿命を得るでしょう。
 比丘たちよ、それと同じように、執着しているものを、じっと味わいながら観ていると、しだいに渇愛の念がましてきます。その愛によって執着が起き、そこに有(存在の種)が生じ、有によって再生があり、生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が何度も生じるのです。
  ですから、比丘たちよ、己が執着しているものを、「これはいけないぞ」と観ていると、その人には、愛着の念が滅してくるのです。愛着が滅すると、取が滅します。取が滅すると、有が滅します。有が滅すると、生が滅します。生が滅すると、老死・愁・悲・苦・憂・悩もまた滅します。このようなことが、すべての苦の集積の滅する理由となるのです。
  比丘たちよ、たとえば、ここに大樹があったします。その時、人がいて、斧や籠をもってやってきて、その樹を根から伐りました。根から伐ると、今度はその周りに穴を掘りました。穴を掘ると、小さな根や髭根も根こそぎにしてしまいました。さらに彼は、その樹を伐って丸太とし、丸太を割って木片とし、木片をさらに割って粗朶(そだ)としました。また、その粗朶を風と陽とに乾し、それを火に焼いて灰とし、その灰を大風にとばし、あるいは、河の流れに流したとします。そうすれば、比丘たちよ、どのような大樹でも、根こそぎ伐られてしまったターラ(多羅)樹の株のように、無きに等しい、未来永劫生じないものとなるでしょう。
  比丘たちよ、それと同じ様に、執着しているものを「これはいけないぞ」と観ていると、その人には、愛着の念が滅してきます。愛が滅すると、取が滅し、取が滅すると、有が滅します。有が滅すると、生が滅し、生が滅すると、老死・愁・悲・苦・憂・悩もまた滅するのです。このようなことが、すべての苦の集積の滅する理由となるのです。」

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  この毎月の標語を読んで下さっている方から、読んだ時に文体がぎごちない印象をもたれるらしく、「パソコンの翻訳システムか何かを使っているのですか」と聞かれました。
  私が標語を準備する時に、まず初めに目を通しますのは増谷文雄先生が編纂なさった『阿含経典』です。直にお読みになった方はご存知でしょうが、一時代前の方ですので、その文体は戦後生まれの私でも相当古めかしい印象を持ちます。
  ここで取り上げる時にはこれでも、なるべく分かり易くしようと努めているのですが…。
  それと、もう一点分かりにくい印象をもたれる理由として、お釈迦様は何より悟りを開かれた方ですので、喜怒哀楽を卒業なさっていらっしゃる訳ですから、我々凡夫の感情に訴え、ハラハラドキドキワクワクするようなお話の仕方はなさらなかったであろうことは容易に想像できます。
  今月のテーマも、日々の修行において、目で見たり、口で味わったり、耳で聞いたりした、自分にとって好ましい、欲をかき立てられる対象を、「これはいけないぞ」と捉えなさいということなのですが、これは本来の仏道修行というものの目的が煩悩を滅することであるということがはっきりと自覚できている方、さらに煩悩が修行の妨げになるという内面の葛藤を味わったことのある方でないと、容易には理解できないと思われます。
  ほとんどの方が、生きているうえで、苦しむのはなるべく避けたいと思っていても、美味しい食事をしたり、心地よく感じる音楽を聴いたりすることはやめられないでしょう。なぜこのようなことをやめる必要があるのかさえ理解できないと思われます。
  ただ、愚直にお釈迦様の説かれた方法で、日々努めておりますと、例えば音楽なども、徐々にうるさく感じられてくるようになると思います。
もっと優しいテーマで、分かり易くした方がよいのかと悩む時もあるのですが、なるべくお釈迦様が説かれた説法に沿ったご紹介をしていくのが、仏弟子としての真摯な態度と信じております。
  さらにもう一言付け加えるなら、私自身も、坐禅を始めた二十有余年前、岩波文庫などで『スッタニパータ』などを読んでも、正直さっぱり理解できず、眠気を催したことを覚えております。以後、ほぼ休みなく毎日坐禅を続けている内、世の中にこのくらい慈悲に富んだ、有難く無上の教えはないと信じられようになり、皆様にもお伝えしたいと思うようになりました。
  ここまで読んで頂いたアナタ、難しいと感じられたら、それはまだまだ勉強も修行も足りないからだと思って下さい。m(_ _)m

2012年 「1月の標語」

目に見えるものでも 見えないものでも
遠くに住むものでも 近くに住むものでも
すでに生まれたものでも
これから生まれようと欲するものでも
一切の生きとし生けるものは 幸いであれ

――― スッタニパータ 147

それは、例によって、ブッダが、その弟子達とともに、サーヴァッティにいらっしゃった時のことです。その時、ブッダは、たいへん奇抜な例えによって慈悲の心を修すべきことを、弟子たちのために説かれました。
  「比丘たちよ、例えば、ここに、鍛えにきたえられたひと振りの刀があるとする。そこに、一人の者がやって来て、――いま、私が、この刀の刃を、飴のようにまげ、ねじりあわせて御覧にいれます――と言ったとするがよい。いったい、彼にそのようなことが、できるであろうか。」
 「大徳よ、そのようなことは、できるはずかありません。」
 「なぜだろう。」
 「大徳よ、そのように鍛えられた刀を、折り曲げたり、ねじりあわせたり、出来る訳がないではありませんか。そんなことをしていたら、怪我をして痛い目にあうばかりでしょう。」
 ブッダは、弟子達の、そのような答えをまって、慈悲の心のもつ徳を、次のように語られました。
「比丘たちよ、それと同じように、もし、汝らが、慈悲の心を修め、それを度々繰りかえして、すっかり身につけてしまったならば、それを土台として立ち、そこに安住することを得て、もはや、何ものをも恐れることがなくなるであろう。たとい鬼神が現れて、汝らの心をかき乱そうと思っても、決して思うようにすることは出来ないであろう。」(相応部経典 20、5、刃)

   慈悲の心をもつことを生やさしいものと思っている人々には、たいへん奇妙な例えに思えるにちがいありません。でも、よくよく考えてみますと、慈しみの心というものは、決して生やさしいものではありません。身内や家族間で慈しみの気持ちを持ち合うことは比較的容易のようですが、(つまり自分の身内、自分の家族、と自己と関連している間柄の場合)それと同等の慈しみと悲しみの心を、広く人間のうえに、さらに、生きとし生けるもののうえに拡げてゆくとき、(それが本物の慈悲というものになると思われますが)さまざまな煩悩がそれを妨げるでしょう。利己心や、貪りの心、怒りや悪意、嫉妬などです。党派心もそれを妨げ、せまい愛国心もそれを妨げます。それらの妨げるものを1つずつ焼きつくし、鍛えにきたえて、はじめてかぎりなき慈悲が成ります。そのことを思うとき、この譬喩の本当の意味に近づくことができるのでしょう。

『ブッダのことば』(スッタニパータ)第一蛇の章の中にも、慈しみに関して説かれている部分があります。

143、 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
 能力あり、直く、正しく、言葉優しく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。

144、 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(人の)家で貪ることがない。

145、 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

146、 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

147、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸いであれ。

148、何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
 悩まそうとして怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

149、あたかも、母が、己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)心を起こすべし。

150、また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく、怨みなく、敵意なき(慈しみを行うべし)。

151、立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりと保て。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

152、諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。  (岩波文庫:中村元訳)

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毎日の生活の中で、対人関係の中で様々なことが起きるものですが、色々な場面に遭遇した時、どのような場面でも誰に対しても穏やかな気持ちでいられているかと振り返ってみれば、それは相当に困難なことであると、誰しも思い当たるはずです。
私が、坐禅を修行したいと志した当時は自己否定地獄の真只中でしたが、そういう時は他人に対しても否定的な気持ちを持つことが多く、それがさらに自身を苦しめることになっていたのでした。
お釈迦様の「慈悲の瞑想」に巡り合ってからは、状況が困難であればあるほど、否定的に捉えてしまいがちな人に対して、真剣にその人が「お幸せでありますように」と祈るようになりました。こういった努力が結果的には私にとって一番実りのある修行になったような気がしています。

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