今月の標語 2018年

  • 1月
  • 2月
  • 3月
  • 4月
  • 5月
  • 6月
  • 7月
  • 8月
  • 9月
  • 10月
  • 11月
  • 12月

2018年 「2月の標語」

長く息を吸っているときには
「私は長く息を吸っている」と
はっきり知り
長く息を吐いているときには
「私は長く息を吐いている」と
はっきり知る

――― 「安那般那念経」(Ānāpānasati sutta)

最近、私の大好きなNHKの番組、『サイエンスZERO』で「新・瞑(めい)想法 “マインドフルネス”で脳を改善!」をやっておりました。
マインドフルネス(mindfulness)とは、今この瞬間に、自分の心の中で起こっていることを注意深く観察し、感じ取り、気付きを深めていく心理的な作業のことです。
この過程においては、起きている現実をあるがままに受け入れること、何かしらの意図的な評価や判断をせず、ただ注意を払うことが重要であるとされます。

番組のタイトルが、新・瞑想法となっておりますが、確かに最近提唱され始めましたマインドフルネスとは、各宗教における瞑想法などから、宗教的な意味合いを取り除いたもの、という定義づけがなされておりまして、そういう意味では、新しいのですが、実はmindfulnessという用語は、パーリ語のサティ(sati)の翻訳であり 、原始仏教でその修行法として重視された「八正道」の内の、「正念」(sammā-sati)に当たります。そして、この「念」を深めることによって、何事にも惑わされない「定」(じょう)の状態に至るとされます。

原始仏教におけるブッダの修行法の中で、入息出息(呼吸)を観察することによって「定」に至ることが説かれているのが「安那般那念経」(出息入息に関する気づきの経)ですが、このお経についてR.ローゼンバーグ氏が『呼吸による癒し』(井上ウィマラ氏訳)を著され、2001年2月に日本でも出版されました。

今月の標語で取り上げましたのは、その中の一文です。
「長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。
短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練する。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。」

ここに、はっきりと、マインドフルネスの具体的な方法が示されております。
この『呼吸による癒し』を読んだ時には、本当に感激し、何度も何度も読み返し、付箋を貼り、傍線を引き、
その最も重要と思われるところを抜粋したりしましたので、以下にご紹介したいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「おまえが何物でもないことが、万物であることなのだ。」
いま生起していることから思考によって分離してしまっている時、命を殺している。という。
その行為に完全に一体になることができたなら、そこにある種の喜び、ある種の歓喜のあることが分る。私たちを対象と隔てているのは、もっぱら自意識。
私たちは物事を追いかけたり、物事から逃げ去ることに際限のないエネルギーを費やしている。
私たちは心の奴隷になってしまっている。私たちは心の内容に執着してしまって、自分自身そして他の人々に苦しみをもたらす行為へと駆り立てられる。ブッダの教えの目的は、私たちをこの執着から自由にすること、すなわちこの心の主人となること。
 そのためには「煩悩」とされる心の三側面を理解することが極めて重要。それらは貪欲、嫌悪、そして迷妄。(貪瞋癡、即ち貪り・怒り・無知)三つのうちで迷妄ないし無知が、最も主要な煩悩。私たちは物事をはっきりと見ることができないが故に、自らを幸せにしてくれることのないものを追いかけ、不快なものに殴りかかり、本当は私たちを害することなどないものから走り去ることに莫大な時間を費やしている。重要なのは、戦場のようになっている私たちの心を平和共存の場へと変えること。

瞑想が目指しているは、すべてのものがやってきた場所へと戻って行くこと。一切は静けさの中からやってきて静けさの中へと帰って行く。修行が進むにつれて、感受に気づきを向けると感受が消え去っていったのと同じ仕方で、怒りや恐れも消え去っていく。すると私たちは何か全く別なものへと開かれていく。広大で静まった、エネルギーと愛とに満ちた、私たちが必要とするあらゆる滋養分に満ちた何かに・・・。    
煩悩は強く智慧は弱い。
私たちにとっての最悪の敵も私たちの外側にいるのではない。最悪の敵もベストフレンドも自分の心の中にいる。この修行(心の再教育)が持つ最もラディカルな見地の一つは、問題は外部にあるとするのではなく、常に内部を見るということ。私たちは煩悩に心を奪われて自らの心を覗こうとはしない。
本当に難しいのはたった今、ここで起こっていることに注意を向けること。煩悩がそれをさせない。煩悩の呪縛を破る方法とは、振り返ってそれらを直視すること、ただ見つめること、これが第一歩。

欲望は苦しみであるときっぱりと明らかになった時、その人の修行が始まる。
「いかなる状況においても何事にも愛着を持つな。」喜びは修行に完全に没入することができたときに生じてくる。心を解放するひとつの手立ては、より持続的に呼吸と共に在ろうとすること。
「心を解き放ちながら息を吸おう。心を解き放ちながら息を吐こう。」と訓練する。一見幸せに至るように見えても実際にはそうでない道(蓄積し、何かを成し遂げ、ひとかどの者になることなど)からは遠ざかるようになる。

最後に挙げるのは最も深刻な領域で、物事に対して「私」とか「私のもの」として執着すること。
智慧は言葉ではない。見ることが智慧。何が起こっていても目を開いていること・・・最悪の不安や絶望であっても、はっきりと見つめて直面するなら、すべてのものと取り組むことができる
無常ということは事実であり、苦しみは事実であり、病気や死、戦争、自然災害、それらすべてが事実。しかしそれらに対して心がどのように反応するかが鍵となる。それによって痛みと苦悩の違いがでてくる。いかなる状況においても何物をも私だとか私のものとして執着してはならない。
この言葉を聞いたならば、ブッダの教えのすべてを聞いたことになる。その言葉を実践するならば、ブッダの教えを実践したことになる。
我々は一日中生まれては死につづけている連続にすぎない。プロセスにすぎない。自分が「不在」になるその強さと長さにしたがって、それは悟りの経験になり得る。
私たちは自分の考えることを自分の物語として深く執着している。誰もが自分の物語を持っていて、それを語るのが大好き。他に誰もいなければ、一日中自分自身にその物語を語っている。それらは極めて機械的で反復的。私たちは同じ古い会話を何回も繰り返し、起こり得ない新しい会話をこしらえ続けている。 にもかかわらず私たちは自分の思考に巨大なプライドを持ち、実質的に私たちはそれらの思考の奴隷になっている。
深く洞察すること、自分自身を深く見ること。その見ることによって苦しみが終わる。それがブッダの教えの全体的な目的。何かをするのをやめ、何かになろうとするのをやめ、ただ静かに坐って自分のままでいる。無執着の修行は遠い未来にあるのではない。それはこの瞬間にある。どんな瞬間にでも私たちは自分が何かに執着して苦しんでいるのを見る。それを充分に深く見るならば、固執が落ちて、私たちは解放される。

ステップの究極的な源泉は呼吸。私たちは自然から横取りしていたものを、自然に返すのだ。この心、これらの感受、この身体、そして呼吸そのものは私たちに所属してはいない。
坐るときの態度は、ひとつの総合的な受容性と開放性。計算ずくめの心を休めて、何物にも自分の方から手を伸ばそうとせず、人生がやって来るのに任せる。選択なしの自覚が成就された状態とは、ただ坐っている(只管打坐)こと、すべての支えや方法や方向やテクニックを手放すこと、自覚しながらただそこにいること。

「彼らは過去について嘆かず、未来の物事を渇望せず、何がやってこようとも(これが重要な一句です)自らを保っています。だから彼らは穏やかなのです」。
修行は坐ることだけではない。修行は、人生のいついかなる瞬間であろうと可能。修行は人生の一部ではない。修行は人生。そして人生は修行。
自分がしていることに対して穏やかな注意力を向け、そのしていること以外は何もしないこと。
していることから心がふらふら離れていったら、心を連れ戻すこと(離れたら離れた事をみつめる)
このステップを何万回、何億回と繰り返すこと。
沈黙への道には障害物がいっぱい。主要な障害物は無知。沈黙への旅の最初の部分は呼吸を意識する修行を通って進む。自分の心が流れ落ちている滝のようであること、うるさくていつも落下していることに気がつく。
完全に受容的な状態で、何物とも分離されていない存在感を持って坐っている。現れてくるもの全てに対して肯定も否定もしない。現れてくるものに対して友好的で、関心のある受容的な態度を取っているだけ。心はそんなふうにさまよい歩くことを許されたとき、ついには自分自身に飽き飽きしてくる。結局のところ、心は同じことを何回も繰り返し言っているだけ。心は全ての雑音にうんざりとして、落ち着いてくる。その時、沈黙という広大な世界の突破口に立っている。
 沈黙を獲得することは、寂しさに取り組む能力や死を受容する能力と係わりがある。特にエゴはそれらのことと密接に関わっている。私たちは独りになることを恐れ、死ぬことを恐れるために、思考を使って自分を取り巻くものを作り上げる。そしてその思考が沈黙に入っていく妨げとなる。
 私たちはこの状態にあこがれてばかりいられない。誰もが自由になることを学んでいる。それを実現する唯一の道は、自分がどのようにして奴隷になりさがっているかを見抜くことである。
(以上、R.ローゼンバーグ著『呼吸による癒し』抜粋ダイジェスト)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どの言葉も深く、示唆に富んでおりますが、特に
「無常ということは事実であり、苦しみは事実であり、病気や死、戦争、自然災害、それらすべてが事実。しかしそれらに対して心がどのように反応するかが鍵となる。それによって痛みと苦悩の違いがでてくる。いかなる状況においても何物をも私だとか私のものとして執着してはならない。」
この一文を読みますと、かの良寛様が文政十一年三条の大地震の際に、知人に宛てて書いた有名な手紙を思い出します。
 「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。(中略)しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」
 まさに、こういう境地こそが悟りというのでしょう。


もし、ここまでの文章を読んで、何を言っているかサッパリわからない、という方は、恐らく、坐禅なり他の修行を全く体験したことがないか、しているとしても、まだ初歩の段階である、ということだと思います。ある程度の年月をかけ、坐禅や瞑想をし、どうしょうもない自分と向き合わざるを得なかった人には、いちいち深く思い当ることばかりであるはずです。
 呼吸とは、貴方も、私も、世の中の全ての人が、この世に生を受けてから死ぬまで、一秒たりとも途切れることなく、命を維持するために必ずしている行為です。その呼吸を観察し、味わい、気付きを深めていくことによって、深く癒されていくのですから、呼吸をいい加減に行うことは、非常にもったいないことであると思います。
最近、はやり始めたマインドフルネスもここまで行けると良いのですが…。

2018年 「1月の標語」

怨みをもって怨みに報ゆれば
怨みは止まず
徳をもって怨みに報ゆれば
怨みはすなわち尽く

――― 『伝述一心戒文』伝教大師最澄

平成29年12月7日午後8時半ごろ、東京・江東区富岡の路上で、近くの富岡八幡宮の宮司の富岡長子さん(58)と運転手の33歳の男性が、車から降りた直後に刃物で切りつけられました。長子さんはまもなく死亡し、男性も腕などに大けがをしました。
また、長子さんの弟の富岡茂永容疑者(56)と妻の真里子容疑者(49)もすぐ近くで倒れていて、茂永容疑者が妻と一緒に長子さんと運転手に切りつけ、さらに妻を殺害して、自殺したと見られています。
関係者によりますと、富岡長子さんと弟の茂永容疑者は、長年にわたってトラブルになっており、最近「再び宮司になりたい」などと、富岡八幡宮の宮司の職をめぐって対立し、長子さんが警察署に相談していたとのことです。

全国の神社が加盟する神社本庁などによりますと、平成6年11月、茂永容疑者はそれまで宮司を務めていた父親に代わって宮司代行に就任し、翌年の平成7年3月から宮司を務めていました。
しかし、富岡八幡宮の関係者などによりますと茂永容疑者は素行不良・金銭トラブルなどで平成13年5月に宮司を退任し、父親が再び宮司に就任していました。
神社と付き合いの長い70代男性商店主は、茂永容疑者は「日本に5、6台しかない高級外車を乗り回し、高校時代の同級生たちと銀座のクラブで飲み歩いていた」と振り返っています。
2回の離婚歴もある茂永容疑者に対し、父親は当時、相続権剥奪を裁判所に請求しておりました。

富岡八幡宮の基本財産は約3億3500万円。1991年に佐川急便グループの佐川清会長(当時)が奉納した神輿(みこし)は純金やダイヤモンド、ルビーがあしらわれ、蔵も含めて総額10億円とも言われ、大変話題になりました。
そして、7年前の平成22年に富岡長子さんが父親のあとを継いで宮司代行に就任しました。富岡八幡宮の総代の代表でつくる役員会は、長子さんを宮司に任命するよう、神社本庁に複数回にわたって申し入れていましたが、神社本庁が協議した結果、おととし1月、長子さんが宮司になるために必要な研修を受けていなかったことなどを理由に、宮司への就任を認めなかったということです。
すると、今年6月になって、八幡宮側は神社本庁を離脱すると通知し、9月、長子さんが正式に宮司に就任したということです。警視庁によりますと、茂永容疑者は宮司を退任したあとの平成18年1月、「ことし中に決着をつける。積年の恨み。地獄へ送る」などと書いたハガキを長子さんに送り、脅迫したとして、逮捕されたこともありました。(出典:NHK Newsなど)

富岡八幡宮は江戸時代に創建された都内有数の神社で、現場は、東京メトロの門前仲町駅から300メートルほど東に行ったあたりで、実は、私は数十年前、縁あってこの地域に2年間ほど住んでいたことがありました。
富岡八幡宮の西には成田山東京別院深川不動堂もあり、この辺りは典型的な門前町です。

富岡八幡宮はお宮としての収入のほかに、このあたり一帯の土地を所有し、不動産収入もかなりの額に上ったようで、富岡家と一般庶民の経済感覚とは、桁が違うことは容易に理解できます。
だからこそ、その莫大な財産や、有名な神社の宮司という名誉をめぐって、骨肉の争いが起きたものと思われます。多くの人々の尊崇を受け、先祖代々受け継がれてきた神社の歴史と責任の重みを痛感していれば、このような凄惨な事件は起こるはずもなかったと思いますが、一族が神社を私物化した挙句の愚行でありましょう。

今月の標語は、伝教大師最澄上人の弟子である光定がまとめた最澄の回顧録「伝述一心戒文」中の御言葉です。
即ち、「怨みに対して報復で応じれば際限がなく、相手を怨むのではなく、徳をもって相手に接し、許すことができれば怨みはなくなる」ということです。

実は、このことは、お釈迦様が、最澄をさらにさかのぼること1000年以上前に、以下のように述べておられます。
「じつにこの世においては、怨みに対して怨みを返すならば、ついに怨みの鎮まることがない。怨みを捨ててこそ鎮まる。これは普遍的な真理である。」『ダンマパダ』5

さらに、お釈迦様と同時代に生きられた孔子も『論語』の中で、以下のように説かれます。
「或曰、以徳報怨、何如。子曰、何以報徳。以直報怨、以徳報徳」。(憲問第十四 378)
(あるひひといわく、徳をもって怨みに報いばいかん。子のたまわく、何を以ってか徳に報いん。直き(誠意)を以って怨みに報い、徳を以って徳に報いん。)と。
即ち、怨念に対しては誠意で対処せよと、孔子は説きます。

同じくイエス・キリストも、「右の頬を打つ者がいたら、左の頬も出しなさい!汝の敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい!報復してはいけない!!」と唱えました。人に殴られるほどの理不尽なことをされたら、カッとなって仕返ししてやりたい!と思う気持ちは誰にでもあると思いますが、やり返したら復讐の連鎖の罠にはまってしまうでしょう。

奇しくも お釈迦様、孔子、イエス・キリストという、世界の三大聖人がいずれも「怨念を受けても、それに対し、怨みで返してはならない。」とおっしゃっているということは、怨む心を何とかして克服しなければならない、と説いているのです。

怨念は邪念の代表的なものですが、アメリカの心理学者スコット・ペックは、邪念の根源を@知的怠惰…無知・無明と、A病的なナルシシズム…病的な自己愛にあると云っているようです。
「邪悪な人とは、「誤った自己愛(ナルシシズム)から生まれた完璧な自己像を守るために、人をスケープゴートにする人」のことを指す。こうした誤ったナルシシズムを持ってしまった人は、自分を守るために全く無自覚に嘘をついたり人を非難したりする。しかし邪悪な人々が邪悪である所以は、あくまでもそうした行動をとるからではなく、無意識のうちに自分の欠点と向き合う苦痛から逃れ続けようとするところにある。」『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』(草思社文庫)
まさに今回の富岡家の人々にぴったりと当てはまりますね。

富岡茂永容疑者が、事件直前にA4判8枚につづった“遺書”の最後には、以下のように書かれていました。
「もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」

ここで、ほとんどの方が、富岡茂永容疑者が、本人が望んでいるように、本当に「怨霊となり永遠に祟り続ける」ということができるものか、心配なさると思います。
 私は、家々の御仏壇の前での読経を仕事としておりますが、よく仏壇に供物以外の様々なものをお供えしてあるお家があるので、意地悪を言うことがあります。「Aさん、もしあなたが今日死んだとします。お子さんが、宝くじをお供えし、チ〜ンとおリンを鳴らして、当たりますように…とお祈りされたとして、あなたそのくじを当てることできますか?」と聞きます。当然ながら、「できません」と100%の方が答えます。でも現実には、お仏壇に参るとき、多くの方が色んなお願いをするのです。何か人が死んであちらの世界に行っただけで万能になったような錯覚を持ってしまうのですが、現実にはそういうことは起きません。様々なことをお願いされてもご先祖様を当惑させるだけです。人は死んでも、その人の霊のレベルにあった状態になるだけだからです。
「お守りください」などと、仏壇の前でお願いするくらいなら、最強のガードマンを雇った方が、効き目はあると思いますよ。あるいは、希望校を受験して合格したいなら、それに見合った勉強をする以外に方法はないでしょう。

それと同じで、どれだけこの富岡茂永容疑者がそれを望んだとしても、怨霊となり永遠に祟り続けるなどということは、不可能なことなのです。自分の霊性のレベルにあった最下層即ち、地獄に行くだけのことです。あるいは可能性としては、この人たちは自分たちが死んだことも気が付かず、いつまでもお互いに傷つけあい、そこら辺でのたうち回っていることはあるかもしれませんね(~_~;)
我々は当然ながら、神々のレベルではないのですから、霊となって他に良い影響も悪い影響も及ぼしようがないのです。ただ、神々の対局として、悪魔的な低級霊がいることも事実です。低級霊は、主に、人々が沢山集まるような場所をうろつき、いたずらの機会を狙っています。私が、坐禅会やヨガ教室に人が沢山来ない方を好むのもそういう理由があります。
このような霊に対して私たちがとるべき態度は、自分が霊的に高まるように努力し、体力的にも、弱くならないよう努めて、低級霊に付きまとわれないようにすることでしょう。常に自身の霊格の向上にさえ努めていれば、低級霊など気にすることはないと思います。
三大聖人が説かれるように、人から怨念を受けたとして、それに取り合わず、怨念を自分が持たないようにすることしかないのです。


  • 1月
  • 2月
  • 3月
  • 4月
  • 5月
  • 6月
  • 7月
  • 8月
  • 9月
  • 10月
  • 11月
  • 12月
  1. ■今月の標語
  2. ■坐禅を科学する
  3. ■非思量
  4. ■悟りとは
  5. ■「元気のひけつ」
  6. ■「こころ澄まして…」
  7. ■坐禅会
  8. ■お寺でヨーガ
  9. ■写経会
  10. ■永代供養万霊塔
  11. ■お問合せ/地図
  12. ■常宿寺の歴史
  13. ■リンク