今月の標語 2023年

2023年 「6月の標語」

Dance with wolves
ダンス・ウィズ・ウルブズ

――― マイケル・ブレイク

私が小学生だった昭和30年代、以下のような、アメリカで制作されたテレビ番組をやっていました。
『名犬リンチンチン、スーパーマン、名犬ラッシー、アニーよ銃をとれ、ローン・レンジャー、ローハイド、ララミー牧場、ボナンザ』etc.
やはり西部劇が多かったように思いますが、この中で登場するインディアン(ネイティブアメリカン)は、ほぼ悪者扱いで、アパッチ族などは、悪モノの代名詞のようでした。
騎兵隊は善で、インディアンは悪というのが大前提になっていましたから、子供心に、インディアンは残酷で、恐ろしい存在という風に記憶に沁みついておりました。
ですから、10年ほど前、『古代霊は語る―シルバーバーチの霊訓より』という本を初めて手に取った時、冒頭のページにインディアンの姿をしたシルバーバーチの心霊絵画が載っていたのですが、正直その時は、子供の頃からのイメージから、何故、高級霊がインディアンの姿なのか、ほとんどその意味がわかりませんでした。
今回、映画” Dance with wolves”を観て、ネイティブアメリカンの霊性の高さに接し、やっと深く心から納得できたように思います。
今にして思えば、元々、大陸には原住民がいて、そこへ外から侵略してきたのが白人なのですから、そのことは大前提として、忘れてはいけないと思います。

”Dance with wolves” 「物語の概要」
1863年秋、南北戦争の最中、北軍の中尉であったジョン・ダンバーは、戦中に軍功をあげ、見返りとして自由に勤務地を選ぶ権利を与えられ、サウスダコタ州のセッジウィック砦への赴任を直訴。見渡す限りの荒野と荒れ果てた「砦」で自給自足の生活を始めた。
開拓と食事、そして愛馬のシスコと「トゥー・ソックス(2つの靴下)」と名付けた狼と戯れる生活が続いているなかで、スー族のインディアン達との交流が生まれる。
ある夜、凄まじい物音で目を覚ましたダンバーが外に出てみるとそこにはバッファローの大群が群れを成して移動していた。バッファローはスー族にとって命の糧である。ダンバーは急いでスー族に報告。翌朝スー族と共に狩りに出た。神聖な儀式でもあるスー族の狩りに参加する中で、ダンバーは自分とはどんな存在であるかということに目覚めていく。
また、幼いころ、スー族と敵対するポーニー族に家族を殺され逃げ延びたところをスー族に拾われ育てられた白人女性ともお互いに愛する間柄になり、許しを得て結婚することになる。
やがて冬が到来し、山籠りするために集落を移動する日が来た。しかし、ダンバーはスー族の足取りを白人に知られないよう、日々の出来事を克明に記録した日記を取りにひとりセッジウィック砦に戻った。ところが砦には既に、嘗て自らが所属した騎兵隊が大挙しており、インディアンの服装を身に纏っていたダンバーは捕虜となってしまう。騎兵隊はダンバーを反逆者として処刑を宣告する。
なかなか帰って来ないダンバーの身を案じたスー族の戦士たちがダンバーを捜索すると、彼を護送する馬車を発見。奇襲攻撃を仕掛け、ダンバーの命は救われた。
しかし、インディアンの大量虐殺を目論む合衆国軍は目前まで迫っていた。これ以上仲間たちに迷惑をかけるわけにはいかないと感じたダンバーは、スー族たちに別れを告げ、愛する妻を伴って雪山の奥深くへと分け入っていった。
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この映画の監督、製作、主演を当時35歳(!!!)のケビン・コスナーが勤めています。ケビン・コスナーは1955年、カリフォルニア州リンウッドに生まれましたが、血縁としてはチェロキー族インディアン、ドイツ、アイルランドの混血とのことで、恐らく、彼自身の過去生か先祖の血が、この作品を手掛けたモチベーションになっているのは疑いのないことと、推察しています。

この映画は、先住民族であるインディアンを虐殺し、バッファローを絶滅寸前に追いやった白人中心主義のアメリカ社会に対して警鐘を鳴らすという点で、従来の西部劇とは大きく一線を画しています。
1990年11月に映画が公開されると、当時トップスターであったコスナーの初監督作品であるという話題性や、インディアン民族と同化した白人の視点から当時のアメリカ社会を批判するという斬新なストーリー、さらに壮大なスケールとダイナミック且つ繊細な演出が批評家・観衆双方の絶大な賞賛を獲得。第63回アカデミー賞と第48回ゴールデングローブ賞の作品賞と監督賞をダブル受賞しました。
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アメリカインディアンの霊性の高さについて、簡潔に表現されたブログがありましたので、ご紹介します。
https://www.spiritualfriends.work/entry/spiritual-truth/teaching-of-the-america-indian
アメリカインディアンといっても何百もの部族があります。今回お伝えする教訓は「動物記」で知られ、アメリカにおける自然保護活動の先駆者でもあるアーネスト・シートン(1860-1946)が「最高のアメリカインディアンの最高の教え」をモットーにナバホ族やスー族など九つの部族の教えを調査し、集約したものです。

「アメリカインディアンの不屈の魂」
 霊能者や霊的世界に目覚めた人の背後には、かつてアメリカインディアンとして地上人生を送った霊が人生を見守り、導いていることが多くあります。イギリス人霊能者エステル・ロバーツにはレッド・クラウド、グレイス・クックにはホワイトイーグル、モーリス・バーバネルにはシルバーバーチがいという霊的ガイド(spirit guide)がいました。
 アメリカインディアンは部族の中に霊覚者がいて、霊界側からメッセージを受け取ることで確かな霊的知識を代々受け継ぎ、人生の道しるべとしてきました。
 生活の中で、彼らはお互いを助け合うことを何よりも大切にしました。彼らの人生の成功の基準は「どれだけ仲間に対して役立つことをしてあげられたか」なのです。
 平和に心豊かな生活を送っていたアメリカインディアンでしたが、コロンブスによる大陸発見後、西洋人により多くの部族が度々大虐殺に合い、領地を奪われ、キリスト教に改宗を迫られるなど過酷な歴史に虐げられてきました。
 しかしいかなる武力や弾圧もアメリカインディアンの霊的な本質を止めることはできませんでした。豊かな霊性を携えた彼らは、地上社会への霊的知識普及の使命を帯び、一人でも多く人が霊的に覚醒し成長できるよう導いているのです。

次に、彼らが大切にしていた6つの霊的教訓をお伝えします。 
「アメリカインディアンの人生訓」
@感謝:死への恐怖があなたの心に住みこまないような生き方を心掛けなさい。今日も食べ物があり、生きる喜びを感じることができることに感謝しなさい。
A不滅の魂:この世を去った後どこにいくのかは誰にもわかりません。しかしいよいよ死期が訪れたら、これから次の生活の場へ進んでいくのだということを知っておくべきです。恐怖心を抱いたり、やり残したことを後悔してはいけません。与えられた限りの才能と制約の中で最善を尽くしたという自覚、そして死後の世界での境遇は地上での所業によって決まるという認識を持って腹をくくることです。天国には無数の界層(境涯)があり、死後の世界でたどりつくところは、各自の霊的成長度によって異なります。霊性の高さ(慈愛の深さ)に比例して、環境が大変美しくなります。心優しい人達が暮らすところに、邪悪な心を持った人は絶対に入り込めません。天国では霊的に向上するにつれて、それまでの界層をあとにしてより高い界層へと進みます。
B思いやり:自分の影響力の及ぶ範囲の人々に対してはいつも慈悲深い気持ちを忘れてはなりません。弱き者、病める者、老いた者の世話をすることこそ、上に立つ者の努めです。
C敬意:全ての人に敬意を抱きなさい。しかし、いかなる者にも卑屈にへり下ってはいけません。与えられるよりも与えることの方が名誉なことです。
霊的存在である私達の魂は「神性=神の性質」を帯びています。霊的存在であるからこそ、私達は無限の可能性を秘めています。限界を作らず自分をとことん信じることで、その可能性を最大限に引き出せます。
D神とは:神とは永遠の存在であり、形体を持たず、全知にして全能であり、言語で描写することのできない存在です。あらゆるものが神の中に存在し、神を通して活動します。我々の崇拝心と忠誠心は、その神に向けなければなりません。恵みは全て神より下されます。ゆえに敬虔なる気持ちで神を志向しなければなりません。神は本質的には非人格的存在です。
E罪:罪とは神の霊的法則を犯すことです。罪はそれ自らが罰をもたらします。
人が神を想う時、人間の姿に似せて想像しがちです。しかしアメリカインディアンの言葉は、霊的な真実を表しています。彼らが崇めている神(the Great Spirit)は、人間的属性をそなえた存在ではなく、全宇宙に愛として無限に顕現する存在です。それは全生命に活力を与える霊力であり、永遠不変の霊的法則として全生命体に常に働きかけています。
 霊的法則とは自分の行動が生み出した結果が、自動的に自分に返ってくるというものです。愛に基づく行為は自らの霊的成長となり、悪意に基づく行為は霊的後退(償い)となります。霊的法則は地上にいても天国にいても全ての人の人生に適応されていて、人生は完璧にバランスがとられるようになっています。

 西洋人によるアメリカインディアン迫害は信仰の域にも及びました。子供たちは寄宿学校に全員強制入学させられ、各部族の言語使用は禁止の上、英語で聖書の暗記と祈祷を強制させられました。
西洋社会では、霊的無知の権力者と聖職者が結びついた結果、霊的法則の存在がかき消されて社会に正義が行き届かなくなり、永きに渡り十字軍や魔女狩りで知られるキリスト教による弾圧と暴虐の暗黒時代に突入し、アメリカインディアンもその犠牲となります。
 このことに霊界側で最も心を痛め涙したのは一方的に神の座にまつりあげられたイエスだと、シルバーバーチの霊訓などの三大霊訓は伝えています。イエスは目的において神と一つでしたが、決して神ではありません。彼は地上に降りてこられる魂の中でも最高レベルの偉大な霊でした。
 彼は当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、霊的知識を求める生活へ立ち戻らせ、アメリカインディアンが重要視していたのと全く同じ霊的法則の存在を教えました。人を救うのは特定の宗教への信仰ではなく、日常生活の中の自分の言動にしかないと説き、自ら率先して慈愛の言動を実践した模範的な人です。
 霊的法則から逃れたりごまかせる人は誰もいません。霊的知識は個人においても社会においても、平和をもたらすとても大切な鍵です。 
 霊的法則を熟知したイエスやアメリカインディアンが日常生活で実践したように、私達人間にとって永続性のある唯一の富は心の豊かさ、優しさです。周囲の人、自然、動物、自分を取り巻くすべてに善意で接するよう心がければ、それだけ霊的に成長し、死後も大変美しい境涯へ導かれ、心は幸福感に満ちあふれます。霊的成長こそ、地上人生の究極の目的です。

最後に、大陸に到達し、当地をインドと思い込み、原住民をインディアンと命名したコロンブスの言葉をご紹介します。
「この長い歴史を持つ地球上のどの宗教にもまして、アメリカインディアンの宗教は最高に純粋であり、創造主の概念は崇高を極める。司祭もいなければ偶像もなく生贄の儀式もなく、神(the Great Spirit)という目に見えざる大自然の支配力を崇拝し、信仰の中にそれを拝する。神とは大いなる霊であり、小さな霊である私達人間にも同質の霊性を賦与してくれている。」

2023年 「5月の標語」

月のたとえ

――― 『大般涅槃経』

『大般涅槃経』というお経の中に、「月のたとえ」と呼ばれる説話があります。このお経は、お釈迦様入滅前の最後の教えとされるお経で、お釈迦様の遺言とも言えるお経です。

「月は、沈んだり現れたりするものとして見られているけれど、本当は、月は常に空にあり続け、現れたり没したりするものではない。それと同じように、ブッダもまた、生まれたり亡くなったりするように見えるけれど、本来ブッダは生滅をするような存在ではない。ただ人々に生じたものは必ず滅すること教えるために、涅槃に入るのである。
そして月は満ちたり欠けたりするように見えるけれど、実は満ち欠けしているわけでなく、常に丸い形をしている。私(釈尊)も人として生まれ、成長し、そして真実に目覚めブッダとなり、今まさに涅槃に入ろうとしている様は、月が満ち欠けしているようである。しかし実はブッダは満ち欠けしているわけでなく、常にブッダとして在る。ただ人々が見るところによって、満ち欠けしているように見えるだけである。
また月は町や村、山や谷、井戸や池、などにも現れる。そして人が行くところどこにでも月を見ることができる。しかしどこで見える月も同じ月である。また人の見方によって、月の大小が異なる見え方をするけれども、月そのものの大きさは一様である。ブッダもそれと同じように、世間の人々の在り方に従って現れ、至る所にその姿を表わす。私(釈尊)もその一つに過ぎないけれど、ブッダそのものは、月のように常に在り続け、変わることがないものである。」
と、このような喩え話です。

出没と満ち欠けを繰り返すように見える月ですが、実は球体の月が常に宇宙に在り続けることにたとえて、釈尊は人として生まれ死にゆくけれど、ブッダという存在自体は不変・普遍のものであるということをお弟子に伝えておられるのでしょう。ここでいうブッダというのは、肉体などの形を伴わない、仏の本質、教えそのもの(仏法)として理解すると良いかもしれません。つまり、釈尊亡き後、月は消えてしまったように見えるかもしれないけれど、その本質たる教えはちゃんと在り続けているのだから、その教えを依り所にするようにという、たとえです。

1969年7月20日、米国宇宙飛行士、ニール・アームストロングとバズ・オルドリンが人類史上初めて、月面着陸に成功しました。
このニュースに接した時、ついに人類もここまで来たかと、驚きましたが、さらに、月から見た地球の映像がNASAから公開されたときに、青く美しい地球の映像が月のように欠けて見えたことに、言葉に表せないほどの感慨を覚えました。
お釈迦様の時代から2500年過ぎて、月の生々しい姿を、初めて、NASAの映像を通じて見ることができたということは、なんという幸運でしょう。

我々の住んでいる大地は球体であるという前提のもとで、クリストファー・コロンブスが西に向けて航海し、アメリカ大陸に到着したときに、その地をインド(当時は東アジア全体を指した)と誤解し、以降アメリカ先住民(の大半)をインディアンと呼ぶようになりました。
人間は長い長い期間を費やして、月や、地球が球体であり、宇宙空間に浮かんでいることを証明しようとし続けてきたのです。
ですから、私は、この月のたとえのお説法を読んだ時に、まず、お釈迦様と同じ時代に生きた人々が、月の事実を正確に把握していたことに、本当に驚きました。

私たちは、酷い目にあったときなど、つい「この世には神も仏もない」と言って嘆いたりしますが、神羅万象すべてのことは、因と縁によって、動いているわけで、私たちの想いとは全く無関係に、在り続けているのです。こちらの想いで、勝手に消えたり現れたりするものではありません。
当然、御神仏もわれわれに都合よく、現れたり、消えたりしないことは自明の理です。
ですので、何かしら不運な出来事が続いて、御神仏の存在を疑いたくなったときは、今はそのような巡り会わせになっているということを冷静に受け止め、それ以上、事態を悪くしないように、努めるしかないと思います。
「神も仏もない」と思うことは、月がなくなってしまったと思うことと同じ、とお釈迦様はおっしゃっているのだと思います。

また、お釈迦様やイエス様は霊的に別格で、高級霊界にいらっしゃいますので、もう一度、この世に現れることは、予想しにくいですが、我々のような普通の人間は、それぞれの因果の法則よって、形を変えながら、生まれ変わり死に変わりしています。
身の回りの方で、先に逝かれた方も、永遠に消えてしまった訳ではなく、一時、我々の眼には見えなくなった状態になっているだけですから、又お月さまが現れるように、再会の時が廻って来る時を楽しみにしましょう。

そのように、理解が深まれば、御自分が一時、この世から消える順番が来た時に、慌てないで済むと思います。

2023年 「4月の標語」

お松大権現

――― https://nekogami.jp/

先月、「仏像を蹴り飛ばしSNSで炎上」した事件をご紹介しましたが、その後、3月1日に書類送検されたと、TNCテレビ西日本が報じておりました。
「礼拝所不敬」の疑いで書類送検されたのは、福岡県糸島市に住む17歳の男子高校生です。
SNSに男子高校生が石仏を蹴り倒す動画が投稿されていて、第三者から八女警察署に情報提供があったことや、動画を見た父親が「自分の息子がやっている」などと警察に連絡し、発覚しました。
お父様も、自分の息子がしでかしていることに気づいた時は、さぞ驚かれたと思いますが、よく警察にご連絡下さったことと思いました。
…とここで、少し爽やかな気持ちになっておりました時、同じ3月1日に埼玉県戸田市の中学校で先生が刃物で切り付けられる事件が起きました。そして、この事件を起こしたのが、やはり、同じ17歳の高校生と報じられ、どう表現してよいやら分からないほど、ショックを受け、暗澹たる気持ちになりました。
先生は何か所も切り付けられ,重傷を負いながら、生徒たちを守って下さって…
傷つける人間がいる一方で、このような仏様のような方もいる訳で、言葉もありません。
仏教では六道輪廻を説きますが、まさにこの世が六道輪廻の縮図のような様相を呈している…と実感しています。
この事件のちょっと前から、近隣で猫を傷つけ、放置する事件が起きていたようですが、この件も「自分がやった」と供述しているとのこと。
「人を殺してみたかった」と供述しているようですが、その前に、猫を殺して、バラバラにし…とか、まさに想像を絶する事態です。

子供の頃、母からこのような話を聞いたことがあります。母は関西地方の旧家の出で、昔から代々村長の家柄だったと自慢しておりましたが、当時は料理をするのにかまどがあり、猫が暖かいので、その中で寝ていたそうなのですが、女中さんがそれに気づかず、火を付けてしまい猫が死んでしまったとのこと。そのあと、女中さんは具合が悪くなり七転八倒したという話を、「猫は祟るから」という言葉と共に、何度も聞かされました。

そこで、本当に「猫は祟る」のかについて、検索してみました。
古来、化け猫騒動は各地にあり、肥前鍋島・久留米有馬などが特に有名ですが、徳島阿南市の「お松大権現」は御存じだったでしょうか?
江戸時代の前期の貞享年間、徳島藩加茂村(現・阿南市加茂町)の庄屋が不作で、ある村を救うために富豪に金を借り、すでに返済したにもかかわらず、富豪の策略で未返済の濡れ衣を着せられ、失意の内に病死しました。
借金の担保になっていた土地は富豪に取り上げられてしまい、庄屋の妻のお松は奉行所に訴え出たのですが、富豪に買収された奉行は不当な裁きを下します。お松がそれを不服として藩主に直訴した結果、直訴の罪により処刑されてしまいました。その後、お松の飼っていた三毛猫が化け猫となり、富豪や奉行らの家を滅ぼしたという伝説に由来するそうです。境内には全国的にも珍しいネコの狛犬もあるそうですので、一度訪れてみたいと思っています。
ところで、「犬は人に付き、猫は家に付く」という言葉をお聞きになったことはありますか?「犬は人間を守ってくれるけれど、猫はどちらかと言えば、人間との関係は淡泊で、番犬ならぬ番猫にはならない」なんて思っていませんか?

保護猫5匹と暮らしている身として、断言できますが、実は、猫のスピリチュアなエネルギーはかなり強力です。猫は生まれつきエネルギーを感知できる能力を持っていて、オーラがとても強いので、ネガティブなエネルギーを簡単に追い払うことができるのです。
人間に悪影響を及ぼすエネルギーや霊は、目には見えませんが、いたるところに存在します。特にお寺は、助けを求める成仏していない人の魂が留まっていたりすることもあります。現に猫たちが、何もない空間をじっと見つめていることもたまにあります。
巷では、お経の本がネズミに荒らされるのを防ぐため猫を飼ったという説もあり、お寺に猫が付き物みたいなイメージは、このような理由があるのだと思いますが、霊的守護としての役割も担っていた面もあると信じています。
ウチの猫たちは、棄てていかれた保護猫ですが、常日頃、保護されているのは、私やお寺だと実感しています。

 そう思っていたところで、このようなネットの記事が目に留まりました。

「犬に襲われた男の子を助けた猫」
アメリカ、カリフォルニア州ベーカーズフィールからこんなニュースが届いた。今月13日(2014年5月)、自宅前で4歳の男の子、ジェレミーくんが自転車で遊んでいたところ、近所で飼われている犬が突如襲い掛かった。
犬はジェレミー君を噛んだあとそのままズルズルと引きずりまわそうとした。その時、勢いよく飛び込んできたのは、ジェレミー君の家で飼われている猫のタラ(メス)。タラは全身で犬にタックルすると、そのまま犬を追い立てた。その一部始終が監視カメラに撮影されていた。
タラは6歳の雌ネコで、2008年からジェレミー君の家で飼われている。この犬は近所で飼われている生後8カ月のチャウチャウとラブラドールの混血種。ジェレミーのお母さんはこの時植木に水をやっていて、叫び声を聞いて慌てて駆け付けたが、監視カメラを見るまでは何が起きているかわからなかったという。
隣人の話によると、車を出そうと玄関のゲートを開けた時に犬は逃走したという。ジェレミー君は軽度の自閉症があり、家には複数の監視カメラが設置されていた。
ジェレミー君は腕と腹部を怪我したが、もしタラが駆けつけてくれなかったらもっとひどいことになっていただろう。ジェレミー君は、事故後のインタビューで、「タラはボクのヒーローだ。」と答えたそうだ。

実際、この時の様子は、以下の動画で見ることができます。

https://karapaia.com/archives/52162674.html

 この動画を見て、泣きそうになりました。自分よりはるかに体も大きい、犬に立ち向かっていくなど、なんとしてもジェレミー君を守らねばという一心だったのでしょう。タラちゃんの霊格の高さにも感動です。

 ですので、猫が祟るとするなら、それはチャンと理由があってのことだとお判り頂けると思います。
冒頭に紹介した、17歳の高校生。自分が、猫たちにした行いは、必ず、人間の法律によって裁かれるよりも、もっと恐ろしい結果が、自分に返ってくることになると思います。
また、ウチの猫たちは、皆、お寺に捨てていかれた猫たちです。猫にかぎらず、生きているものを捨てるという行為は、虐待と同じで、犯罪です。この場合も、必ず報いはありますので、生きているものを遺棄するということは絶対にやめて頂きたいと、切にお願い致します。

2023年 「3月の標語」

かれらはつくった業の如何に従っておもむき
善と悪との報いを受けるであろう
悪い行いをした人々は地獄におもむき
善いことをした人々は天に生まれるであろう

――― ブッダ『感興のことば』第1章23,24

2月1日に配信されたニュースを見て、言葉を失いました。

「罰当たりな悪ふざけ 仏像を蹴り飛ばしSNSで炎上」
https://www.youtube.com/watch?v=_QHYYVZrYNs

暗闇の中で、若い男が仏像を何度も蹴り飛ばしています。
福岡県八女郡広川町にある十三の仏を祀った「十三佛」で起きた罰当たりな行為がSNSで拡散されました。
繁みを少し降り、ぽっかりと空いた穴の、暗闇の中に入っていくと空間があります。十三体の仏像が御祀りしてあり、その内の数体が蹴られたり倒されたりしました。
倒された仏像は既に元に戻されていますが、各地で清掃活動などを行っているYouTubeチャンネル「清掃系心霊配信《Danger Patrol》Keimaro」に1月、この動画が寄せられ、SNSで発信すると拡散し、非難の声が相次ぎました。
現地はネット上で“心霊スポット”として紹介され始めてから興味本位で訪れる人が増え、中には車を道に止めっぱなしにしたり、近くの住人の敷地に勝手に止めたりとマナー違反者も多いといいます。
また今回のようないたずらなどもあとを絶たないそうです。
付近の住民も、相当迷惑している様子で、警察も今回の行為を把握していて、器物損壊事件の可能性もあるとみて詳しい経緯を調べているそうです。

僧侶としての私の立場からみて、心霊スポットとなっているような場所で、このように無法な行為が行われるということ自体に、怖れを感じます。

この動画に対して、沢山のコメントが寄せられていましたが、その内のいくつかをご紹介したいと思います。

1,これは悪戯ではなく犯罪でしょ。大体が阿呆なので、犯罪の証拠も画像で残していますし、捕獲して厳罰を与え「罰当たり」とはこういうことだと教えてやらないと。
2,回転寿司の件もだけど、自分の好き勝手、自由にやりたくてこういうことすると、今度はどんどん規制が出来て自由がなくなるけど、自分で自分の首締めているの、わかってないんだなあ。
3,蹴った後に男の後ろに何かが見えたのは私だけかな?かなりお怒りの様子でしたが。
何も無いことをお祈りします。
4,この罰当たり青年に重い天罰を。今の世の中、飲食店にしても軽い気持ちでいたずらじゃ済まされない。日本人の心が無くなりつつある。

と、このように「罰当たり」という意見が多かったので、世の中まだ捨てたものではないと、少し救われた気も致しましたが、以下のように「地獄」に言及して居る方もいました。
5,六道の中で最も苦しい地獄界行き決定。
6,残念ながら彼は相応の報いを受ける事になるだろうね。仏身を損なう行為は五逆罪の一、助からない。
来世は無間地獄行き。業は懺悔しても消えることは無い。

これを読んで下さっているアナタ、「地獄」ってあると思いますか?

実は私、実際に地獄へ行きかけた方のお話を伺ったことがあるのです。
もう、20年以上も前のことですが、あるデイサービスの施設で傾聴ボランティアをさせて頂いた時のことです。
70代くらいにお見受けした男性ですが、脳梗塞で倒れられ、その施設を利用されていました。
不自由になられた御口で、私に話しかけて来られたのです。
それによりますと、脳梗塞の発作をおこして意識がなくなった時、一生懸命、川を泳いでいることに気がつきました。遠くに島がみえてきて、やっとのことでたどり着き、上陸しようとしたとき、赤鬼、青鬼などが現れて「まだ、お前はここに来るのは早い」と言われたそうです。頭を踏みつけられ、ズブズブと川の中に沈められ、「ワーッ」と叫んで、おぼれかけたときに、はっと、意識を取り戻したそうです。
その男性に「地獄って本当にあるのですか?」と聞かれましたので、「意識が戻って良かったですね」と申し上げました。
そして、「地獄行になるような心当たりがあるのですか?」とお聞きすると、静かにうなずかれたのでした。

この男性は、御自分の何が悪かったのか、その時はすでに気づいておられて、後悔を込めて事情をお話下さり、心から悔い改めていらっしゃったので、その後は本モノの地獄に行かなかったと信じております。

仏教では、生きとし生けるものは「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」を経めぐるという六道輪廻を説きます。このうちの地獄は「大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活」の7つの地獄が重層しているといいます。
もう一人、地獄のお話を聞かせて下さったのは、ウチの檀家の方でした。この方は、平成21年に亡くなられたのですが、毎月のお参りに伺っておりましたある時、「庵主様、実は先日、死後の世界を全て見せて頂くことができました。忘れてはいけないと思い、絵に描いてみました。」とおっしゃり、その絵を見せて頂くと、まさに極楽から地獄までの様子が描かれておりました。
地獄は、漆黒の世界。圧迫されるような闇。その中に、人間の首と思しきものが、ゴロゴロと描かれておりました。その暗闇たるや、いわゆる針の山や、血の池地獄よりも、ずっとずっと深く恐ろしいものでした。

赤鬼、青鬼などが相手をしてくれる地獄は、まだ、ましな方で、本物の奈落の底というのは、何もない、誰もいない、ジメジメとした真っ暗な世界で、自分の邪悪な心と向き合うしかない恐怖の世界です。
その中で、悶々とするうちに、自責の念に堪えかねて、
「本当にごめんなさい。どうかお助け下さい。お許し下さい。」と心からの叫びを発した時、天上から一筋の救いの光が降りてくるそうです。

昨今は、冒頭のような事件のみならず、連続強盗殺人事件のような、凶悪犯罪があまりにも多すぎる世の中になってしまいました。
実際、極楽より、地獄に行く人たちばかりが増加して、地獄の番人が大忙しのようです。
なんとかして、地球全体の霊的レベルをあげていかないと、ますます、酷い状態になっていくのではないかと心から危惧しております。

2023年 「2月の標語」

三種の文字

―――  パーリ増支部経典

「この世には三種の人がある。岩に刻んだ文字のような人と、砂に書いた文字のような人と、水に書いた文字のような人である。
  岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。
砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人をさす。
水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、他人の悪口や不快な言葉を聞いても、少しも心に跡を留めることもなく、温和な気の満ちている人のことをいう。」

怒りは人間が普通に持つ感情であり、怒るべき事柄に対して怒るのは当たり前のことだと思われています。
ただ、その一方で、怒りの感情は心身共に少なからず悪影響を及ぼしますから、怒りをコントロール出来れば、それに越したことはありません。
この三種の文字の譬えでは、怒りに対して人間のモデルが3つ提示されています。
岩に刻んだ文字のような人とは、怒りが消えない人のこと、砂に書いた文字のような人とは、怒っても怒りが速やかに消える人、水に書いた文字のような人とは、そもそも怒ることのない人のことです。
2012年10月の標語で、
「怒りを捨てよ 慢心を除き去れ いかなる束縛をも超越せよ
名称と形態とにこだわらず 無一物となった者は 苦悩に追われることがない」
 (法句経(ダンマパダ)第17章 怒り 221)
というお釈迦様のお言葉をご紹介しましたが、仏教的には、これが「怒り」についての基本的立場です。

1970年代にアメリカで、怒りの感情と上手に付き合うための心理教育、心理トレーニングとしてアンガーマネジメントが生まれました。
怒らないことを目的とするのではなく、怒る必要のあることは上手に怒れる一方で、怒る必要のないことは怒らなくて済むようになることを目標としています。
アンガーマネジメントは、違いを受け入れ、人間関係を良くする心理トレーニングです。

アンガーマネジメントとは、直訳すると「怒りの管理方法」となります。当初は犯罪者のための矯正プログラムなどとして活用されていましたが、時代と共に一般化され、企業の研修などにも取り入れられるようになりました。

人は自分がこれまで大事にしてきた価値観や理想を裏切られたときに怒ります。不安や不満などのマイナスの感情や思いがガスのように溜まっていると、自分の中にあった「○○すべき」という理想や価値観が裏切られたときに、着火スイッチが入ります。そしてマイナスの感情が溜まっているほど、怒りの炎が大きく燃え上がってしまうのです。
「○○すべき」という強いこだわりと、マイナスの感情・状態の2つがそろうことで怒りは発生しますので、
逆に、どちらかを減らすだけでも、怒りを小さくすることができると言えると思います。

一方で、怒りにはもうひとつ、建設的な面があります。例えば、スポーツで負けたときに悔しさや自分に対する怒りをバネにして練習に励むように、怒りは人を動かすモチベーションとしても有効活用できるのです。
そのため、アンガーマネジメントでは「怒らない」状態を目指しません。怒るべき場面では上手に怒り、怒る必要のない場面では怒らなくて済むようにトレーニングをします。怒りを区別し、自分が主体的に感情を選択できるように、一種のスキルとしてアンガーマネジメントを身に付けるのです。

アンガーマネジメントが注目されるようになった背景に、価値観の多様化があるようです。
さまざまな価値観やライフスタイルを認め合う社会へと変わっていこうとする一方で、世のなかにはまだまだ、自分が信じてきた価値観以外のものを受け入れられない人が多くいます。そのような人たちが、自分と異なる価値観を持つ人と接する機会が増えたため、怒りを溜めこみやすくなってしまったのです。

アンガーマネジメントを身に付けて、怒りを管理できるようになると、怒るか怒らないか自分の責任で感情を選べるようになります。その結果、怒りによって出る衝動的な言動や行動を抑制でき、適切な問題解決やコミュニケーションにつなげられるようになりますし、ストレスも減少します。

以前、坐禅会で怒りをコントロールする方法として、ご提言をさせて頂いたことがありました。
怒っているという状態を表す表現として、「頭にくる」、「胸がむかむかする」、「腹が立つ」といった言葉がありますが、もし、御自分に怒りが芽生えているな、と気がついた時、「体のどこに「怒り」が来ているか、よく観察してみてください」とお話ししました。
実際に、試みた方がいらっしゃって、「観察しているうちに可笑しくなって笑ってしまった」という方もいらっしゃいました。ちなみに、私は「頭にくる」が一番多いです。(-_-;) 
アンガーマネジメントには、「怒りを静める「6秒ルール」」というものがあることを最近知りました。
「怒りの対処術に共通するのは、「怒りに反射しないこと」です。そのため、自分の怒りを感じたら、まず6秒待って怒りを静めましょう。」とありました。私のご提案がまさに合致していたようで、嬉しくなり、なつかしく思い出しておりました。

 また、私自身の場合、子供のころから、通知表などに長所として「正義感が強い」などと書かれていました。
そして、御明察の通り、正義感が強い、「〜あるべき、と思う」ということは、「怒り」が湧きやすいということでもあります。ですから勧善懲悪モノのテレビドラマなど大好きで、ワクワクしながら観ておりましたが、さすがに齢70も過ぎますと、世の中そんなに絵にかいたように、理想通りにはいかない、と遅ればせながら思い知りましたので、「怒り」の元になりそうな事柄を察知したら、可能な限りそこから逃げ出す、接しない、手放す、ということを心がけています。
「怒り」に対しては、そのような対処もあっても良いのでは…と人生の終わりに近づいた今、思い始めています。

2023年 「1月の標語」

筏(いかだ)のたとえ

――― 中阿含経巻第54ー200「阿梨糟o」

ある時、仏陀はこのように法を説かれました。
「例えば、皆さん。ここに一人の旅人がいて、道を歩いているとしましょう。彼は大きな川のほとりに辿り着きました。そこから彼は川沿いを歩こうと考えましたが、川のこちら側は大変危険な道です。一方、川の向こう側は、見るからに歩きやすそうです。そこで彼は向こう岸に渡ろうと思ったのですが、川の流れは思った以上に急で、あたりを見回しても、橋はおろか、渡し船もありません。
しばらく考えた彼は、川岸に生えている草木を使い、筏を作って渡ることにしました。そして無事向こう岸に辿り着いたのです。そして、無事に川を渡った彼は思いました。
『この筏はなかなか役に立つな。ここに残していくのは惜しいくらいだ。よし!せっかくだから、この筏は肩に担いで、どこまでも大切に持っていくことにしよう!』
さて皆さん。これを聞いてどう思いますか?果たして、彼はそうすることで良かったのでしょうか?」

弟子たちは一斉に答えました。「そんなことありません!」

仏陀はそれを聞いて頷きました。「では、どうすれば良かったのでしょうか?
「師匠!筏は置いていくべきです!」と、弟子たちは答えました。

その声を聞いた仏陀は微笑みました。
「このように、私は筏に喩えられる法を説きます。それは、渡るためであって、捕らわれるためではありません。
このような法を理解したならば、あなたたちは、たとえ私の説いた法であろうとも、捨てるべき時には、捨て去るべきです。ましてや、非法ならば尚更の事。」
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筏のたとえ話で、筏を捨てるべきであるということは、納得できたとしても、最後に私の説いた法であろうと捨てるべき…と言われて、納得できる方は多くはないように思います。
禅の基本的な教えの中に「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。これは「言葉や文字に捕らわれてはいけない」という意味です。
「不立文字」は、禅宗の開祖として知られる達磨様(ボーディダルマ)の言葉として伝わっており、「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めです。
仏陀の教えを、達磨大師が別の表現を使って説明なさったものと言えます。すなわち、ここでは言葉や文字が筏に当たるというのです。

言葉では、自分の考えを100%表現することはできませんし、受け手の受け取り方で、大きくその意図が変わってしまうことがありますので、言葉や文字を使う側も受け取る側も充分な注意が必要であり、言葉の使い方は慎重に行うべきと説いています。

だからといって禅では、言葉や文字を使わないかというと、そうではありません。
「不立文字」という「文字」で書き表すところに、それが最も如実に表れている良い例だと思います。
上手く表現するのはなかなか難しいですが、「貼り紙禁止」という紙を、壁に貼るような自己矛盾を含んでいるという言い方もできると思います。
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平成17年(2005年)本堂を改築していただき、住職に就任してから17年が経ちました。翌年からお寺のウェブサイトを開設し、毎月この標語を更新して参りましたが、本当に文字にしてお伝えすることの難しさを痛感しております。このような中でも、続けることができたのは、ひとえに、読んで頂いている方たちがいらっしゃればこそと、心から感謝申し上げます。毎月必ず、御読み頂いた感想をお寄せ下さる方もいらっしゃり、大変励みになるだけでなく、ご指摘頂けることが、私自身の気づきや学びにつながりますので、本当に有難く、引き続きよろしくお願い申し上げます。

また、一方で、言葉とは全く別の喩ですが、最近、ご葬儀が続き、お仏壇やお墓について、新たにご相談を受ける機会が多くございました。ご高齢の方とお話ししていて気がついたことですが、同じ仏教でも宗派や、今までのやり方にこだわりの強い方がいらっしゃるのです。それより下の年代ですと、お墓や仏壇、戒名等にはあまりこだわりがなく、仏壇や位牌も購入しない、お墓も建立せず、初めからお寺の供養塔に納骨したいという方も増えてきました。ウチがいつもお世話になっている石材屋さんは、「最近は新たお墓の建立はほとんどなく、墓終いばかりです。」と嘆いていました。
この石材屋さんに建ててもらった境内にあります合祀の供養塔にそろそろ100体近くお入り頂いたことでも、お分かり頂けると思います。
今までのやり方に縛られている高齢者の方とお話ししていますと、宗派や仏壇が、前述の例えの「筏」になってしまっているのではないかと感じました。
お釈迦様が、皆さんが「ウチは本願寺だから。」「いや禅宗だから。」と言っているのをお聞きになったら
「それは一体なんのことですか?」と驚かれることでしょう。

仏事も時代の変遷に伴い、当然、ご供養の仕方も変わっていくわけですから、お寺としてはあらゆるケースに対応する必要に迫られてきております。ですので、ご高齢の方も、孫子の代に、従来の価値観を押し付けるのではなく、柔軟な態度で臨んで頂きたいと切に願っております。

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