今月の標語 2018年

2018年 「5月の標語」

呼吸の制御こそ
最強の戦士になるための
秘密兵器なのです

――― 「Navy SEALs」元司令官Mark Divine氏

先日、たまたまつけていたテレビで、『ガッテン!』が始まった時、冒頭から、「『呼吸数を減らす』ことで、様々な効果が期待できる」と、紹介しておりました。
私は、お寺のHPや、毎週行っているヨガ教室などでも、「吐く息を深く長くしましょう」と、長年、口を酸っぱくして言い続けてきておりました。
実際のヨガ教室でも、ひたすら「吸って、吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて…」ばかりを言い続けております。「吐く息を長くする」ということは、当然1分間の呼吸数は少なくなる訳で、「呼吸数を減らそう」という事と同じ趣旨だ、と思いましたので、最後まで番組を興味深く見てしまいました。

4月11日(水曜日)NHK番組の『ガッテン!』は「ある呼吸法をマスターすれば、ストレスを自分の意思でコントロール出来る」という主旨の放送でした。

始めから、水を差して申し訳ないのですが、番組では「最新の研究によれば『深くゆっくり呼吸すること』で脳の扁桃体が静まり、心拍数や交感神経の興奮、ストレスなどを抑えられる」…と言っていたのですが、このこと自体はかなり前から、分かっており、だからこそ、私も何年も前から、お寺で紹介しておりました。

ただ、放送の内容的には、コンパクトにまとまっておりましたので、ここでご紹介することで復習したいと思います。

アメリカの特殊部隊「Navy SEALs」の元司令官だった、Mark Divine氏(54歳)は「極限の状態でもっとも大切なのは”呼吸”の制御だ!」と言います。
特殊部隊と言えば、最も危険な任務を帯び、アメリカ軍の中でも、エリート中のエリートが集まる部隊です。場合によっては、死と隣り合わせの場面にも遭遇する方たちです。
なんと、彼らのトレーニングの中で、ひときわ重視されているのが、「普段の呼吸のコントロール法」だと言うのです。
Mark Divine元司令官は言いました。
「我々シールズ隊員は、極限のストレスの中でも、常に冷静沈着でなければなりません。」
「そのために、毎日呼吸をコントロールする様々なトレーニングを行っています。」
「呼吸の制御こそ、最強の戦士になるための秘密兵器なのです。」
(ちなみに放送では触れられませんでしたが、Mark Divine氏の実践していた呼吸法をご紹介しておきます。
「Box breathing」(Four-square breathing)という横隔膜を使った深い呼吸法で、心を静めてコントロールすることを目的としています。@肩の力を抜く。A鼻からゆっくりと深く息を吸い込む。お腹を膨らませ、4つ数えながら吸い込む。1,2,3,4。Bお腹を膨らませたまま息を止める。そのまま4つ数える。1,2,3,4。C口から息を吐き出す。お腹をへこませ、4つ数えながら全部吐き出す。1,2,3,4。Dすべて吐き終えた状態で4つ数える。1,2,3,4。Eここまでを1クールとして、これを4〜5回繰り返す。1呼吸を16秒かけて行い、これを図に表すと、ちょうど、4秒ずつの四角を描くことから、Boxというのか?と思います。)

「おお!」と感動していると、次は、忍者まで登場します。
甲賀流忍術にも、同じような極意があるそうで、第二十一代目当主、川上仁一さんが教えてくれました。
「息長」(おきなが)といって、呼吸回数を極限まで減らす技だそうです。ちなみに、彼自身が忍者の修行を、体のできていない幼少期に始めた時には呼吸法の鍛錬から始まったようです。
忍者と言えば、日本版元祖特殊部隊みたいなものですものね〜。

ここでまた、横道にそれて恐縮ですが、実は、日本には、古来より「息長(おきなが)の法」という神道式呼吸法があります。私は30年ほど前、様々な呼吸法を扱ったセミナーに参加したときに、少しだけ体験しました。
「古事記」「日本書紀」にも登場し、300余歳という驚くべき長寿を全うしたとされる武内宿禰(たけうちのすくね)も、仲哀(ちゅうあい)天皇の妃(神功皇后)が息長帯比売(おきながのたらしひめ)と呼ばれ、神憑(かみがか)りを行えたのも、実はこの「息長の法」を行っていたからだと一説には言われております。

申し上げたいことは、研究としては最新でも、坐禅やヨガを始めとして、数千年も前から、体験的にはその効用は証明され、実践されていたということなのです。

ここで、再び番組に戻りますと、次に紹介されるのは
『カギとなるのは、脳の中の「呼吸中枢」と「扁桃体」』という話題に移ります。

成人の普段の呼吸回数は、1分間平均15回です。
東京有明医療大学の高橋康輝准教授が1000人を超える男女を対象に調査・研究したところ「普段の呼吸を減らすことがとても重要なポイントになる――。」と分かりました。
実験参加者の方々によれば、呼吸が減ったとき以下のようなメリットがあったそうです。
•血圧低下
•冷え改善
•肩こり改善
•快眠
•ストレスが減った…特にストレス低下は多くの人に見られました。

呼吸数をコントロールし(1分間12回程度にする)その後で血圧を測定すると、通常時(呼吸をコントロールしない時)に比べて血圧はほぼ確実に下がることが解っています。

なぜ呼吸数を下げると血圧も下がるのか?…その原因は、脳の中心にある「呼吸中枢」と「扁桃体(へんとうたい)」にあります。
呼吸中枢の仕事は呼吸をコントロールすること。そして扁桃体は身の危険などのストレスを検知する役割があります。扁桃体は”身の危険”などのストレスを感じることによって心拍数を上げ、血流をアップさせたり、筋肉をよく動かして危険から身を守ろうとします。
呼吸中枢と扁桃体は互いにとても近くにあり、密接に影響し合って居ることが解っております。

三重大学大学院医学研究科の小森照久教授によれば、息の長い呼吸をすれば、不安や恐怖、怒りといったストレスを抑えられるとのこと。
扁桃体がストレスを感じると、血圧、心拍数、交感神経興奮、呼吸数などが急上昇します。
血圧、心拍数や交感神経興奮は意思の力でどうすることも出来ませんが、呼吸数だけは自分でコントロールすることが出来るのです。そこで息の長い呼吸を意識的に行って呼吸回数を抑えます。
するとそれが扁桃体に伝わり、やがて扁桃体が落ち着いて血圧や心拍数も一緒に下がってくれるそうです。

ニューヨークコロンビア大学のリチャード・ブラウン博士は9・11同時多発テロ事件で心に傷を負った人々のケアとして、呼吸回数を下げるグループ運動を始めました。
深呼吸によって呼吸回数を減らすことで精神安定剤よりも効果がある場合も見られたといいます。
博士は現在、薬で治療困難な「腸で起こる炎症」を、呼吸回数を減らすことで治そうという研究も行っています。
現段階では、約半年間の呼吸トレーニングで、腸の炎症を抑えることに成功したとの実験結果も出ているとのこと――。

それでは、具体的にどのようにすれば呼吸を減らすことが出来るのか、というところで東京有明医療大学の本間生夫(いくお)学長が登場なさいました。
実は、本間先生とは、ある時期とても近いご縁があり、先生の奥様とは、同じ職場で働いていたことがありました。
本間先生は呼吸器の専門家で、著書もおありですので、私は数年前に既読しておりまして、今回テレビで紹介されていた呼吸法は、実はお寺のヨガ教室で数年前から実践しているモノでした。

先生によりますと、肺の袋は自分で膨らんだり縮んだり出来ません。肺の袋を膨らませているのは、横隔膜や肋間筋という肋骨と肺の間にある筋肉が周りから動かしているのです。ですから、横隔膜や肋間筋をストレッチによって柔らかくして、肺をより大きく膨らまそうというのです。

(吸う筋肉のストレッチのやり方)
1.両手を胸の前に組み、輪を作る
2.輪を作ったまま両手を伸ばしながら息を吸う(背中と両手をできるだけ離す)
3.1日に何回か思い出したときに繰り返す(2〜3回でOK)

(吐く筋肉のストレッチのやり方)
1.両手を背中で組む
2.両手を斜め下へ伸ばしながら息を吐く
3.1日に何回か思い出したときに繰り返す(2〜3回でOK)

この二つの深呼吸トレーニングで自律神経や免疫系が高まると本間生夫学長はおっしゃいましたが、お寺のヨガでは、本間先生ご提案のストレッチを、他に4種類くらい毎回たっぷりと時間を掛けて行っています。

最後に、フリーダイビング世界大会で104メートルの深さまで潜水した記録(世界第2位)を持つ「HANAKO」さんも登場しましたが、肺活量は5200ml(平均的女性の2倍)、彼女の横隔膜は鍛え上げられしなやかに動くと言います。

結論的には、肺のストレッチによって、普段の呼吸回数が減少し、ストレスによる症状が改善する、とのことでした。

先日、坐禅中に久しぶりに自分の呼吸を測りましら、普通の呼気で一回15秒でしたから、1分間に3呼吸、意識的に行った場合は、呼気一回20秒ですので、1分間に2呼吸でした。
「Navy SEALs」が4呼吸でしたから、私は呼吸法に限って言えば「Navy SEALs」並みか、それ以上の呼吸法を30年以上実践していたことになり、それで、普通なら驚くような場面に遭遇しても、(本当に我ながら不思議なほど)動悸も起こらず、平気でいられるのかしらと思っています。
是非皆様もお試し下さい。

2018年 「4月の標語」

最近の諸君は 書くことが出来ない
書くことが出来ないのは考えないからで
考えないのは読まないからだ

――― 故北村公彦学習院大学教授

このところ、人々とのメールのやり取りの中で、こちらから、かなり丁寧に、文章を書いて送っても、本当に驚くほど短く、内容の浅い返信しか返ってこないことに、少なからず疑問を持ち始めておりました。これはもしかして、短い文章しか書くことが出来なくなっているのかしらと考え始めておりましたところ、衝撃的なニュースを目にしました。
 全国大学生活協同組合連合会の調査によると、大学生の5割超が一日の読書時間0分である、というのです。2/27(火) 5:22配信 時事通信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180227-00000010-jij-soci
結果を分析した浜島幸司同志社大准教授(学習支援)は「高校までに読書習慣が身に付いていない学生が増えている影響が大きい」としています。

 今から48年前、学習院大学法学部法律学科に入学し、一般教養科目の政治学を履修しました時、故北村君彦教授に教えて頂きました。何度か課題のレポートの提出がありましたが、その当時の学生の文章を評して先生が嘆かれておっしゃったのが、「最近の諸君は 書くことが出来ない。書くことが出来ないのは考えないからで、考えないのは読まないからだ。」という言葉でした。「なるほど、それはそうかもしれない」と、その時は深く納得しましたので、このお言葉は、心に刻まれ、折に触れ、先生がそうおっしゃった時の光景を昨日のことのように思い出します。
課題を与えられても、元々本を読み、考える習慣のない人は、恐らくろくに資料も当たらないまま、適当に感想的な文章を書くだけであり、読んだ方も、書き手の勉強不足がすぐ分かるのでしょう。

私は、出家を志してから、40代に駒澤大学仏教学部禅学科に入学しました。道元禅師の『正法眼蔵』の講義など沢山ありましたが、『正法眼蔵』は大変難解な文章です。例えば『現成公案』の巻を勉強する時には、まず、本文を、5、6行の間隔を空けながらノートに全文書き写します。駒澤大学の図書館には膨大な蔵書がありますので、『正法眼蔵』の各巻についても、それぞれ沢山の解釈本がありました。先生方の解説を、書き写した文章の横へ書き込んでいきました。一人の先生の御提唱を聞いたり、1,2冊本を読んだだけでは、その方の解釈だけになってしまいます。同じ教材に対しても、より多くの考えを比較することにより、各々の文章にそれだけ様々な解釈があることもわかり、理解が深まったように思います。20年以上経った今でも『正法眼蔵』について何か文章を書くときには、それがとても役に立っております。

また、実際のお寺に入り、僧侶として、仕事をしていくうえで、駒澤大学で仏教の歴史や、教えの根本を学べたことがどれほど役に立っているかは、この場では言い表せないほど、大きいものです。
時代の変遷によって、宗教や寺院の役割は、少しずつ変遷してきております。仏教発祥の原点に立ち返り、ブッダの教えの根本を学びなおしてみますと、現代において仏教と思われ、信じられているものとあまりにも相違していることに驚きます。このサイトにも度々取り上げておりますように、ゴータマ・ブッダにとってはこの世は、苦に満ち溢れた世界であり、再び地球上に生まれ変わってくることだけは絶対に避けたいことでした。ですから、死んだといわれ、肉体から離れた魂にむかって、「可愛そうに」と、泣くのは、実は立場が逆であり、可愛そうなのは、この地球上に残され、まだまだ修行を続けねばならない我々の方なのです。
実際に、葬儀の会場でも、死んだとみなされた方がその場にいて、残された家族のことを心配している場面に、何度も遭遇しました。
このテーマは、今回とは離れてしまいますので、この位でやめておきますが、申し上げたいことは、我々が今まで、常識と思って信じてきたことでも疑ってかかり、学びなおし、研鑽を積むことによって、未来に向けて、在るべき姿を追い求め続けて行かねばなりません。お寺や僧侶の使命も、時代の流れと共に、劇的に変化して行くでしょう。その意味でも、より多くの本を読み、学んでいくことは必要不可欠のことだと申し上げたいのです。

再びメールの話に戻りますが、短い返信を読んでいると、そこからやり取りが膨らむはずもなく「え〜っ、この程度しか考えていないのかなぁ」と、とても寂しく感じてしまいます。あまり本を読んでいないのかな、様々なことに興味を持ったり、勉強していないのでは…という風に、どうしても捉えてしまいます。

最近は、メールでさえ長すぎると嫌われ、ツイッターやインスタグラムといった、短い文章や、画像そのものでやり取りをすることが風潮のようですが、結局それは、深く物事を考えたり、学んだりすることを避けるという傾向を助長するのではないかという危惧を覚えています。

身近に、テレビやパソコン、スマホといった、電源を入れさえすれば、瞬時に情報を提供してくれる媒体があると、それらに頼っていれば、楽なわけで、坐って、しっかりと本を広げ、時間を掛けて文章を読み取り、それについて考察するなどという作業は、ますます面倒くさくなってしまうのかも知れません。

かつてテレビというものが世の中に出始めた1950年代に評論家の大宅壮一氏が「一億総白痴化」と言い、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見て、ぼんやりと受動的に映し出される映像を眺め、流れてくる音声を聞くだけでいると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」と危惧しました。私も、今まさに、大宅壮一氏が抱いたのと同じような危惧を抱いております。

本を読むという行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、内容を理解するために自分の頭のなかでさまざまな想像や思考を凝らさねばなりません。
話は突然飛びますが、今「天才棋士」として注目されている、地元愛知県の誇り、藤井聡太六段の趣味も読書だそうです。そもそも読書をしたから頭脳が明晰になったのか、もともと頭脳が明晰だから読書を好むのか、難しいところでしょうが、インタビューを受けている時の、彼の語彙の豊富さは、読書によって培われたものであることは間違いないと思います。将棋については、全く何の知識もありませんが、先輩棋士たちによれば彼の能力は「バケモノ」級であるとの事、あまり嬉しい出来事のない、夢を見ることがなかなかできない昨今の世の中で、孫のような彼の活躍は私のようなオバアちゃんをもワクワクさせてくれるものですので、つい前のめりになってしまいますネ。(^-^;

そもそも、自分1人で経験できることや学べることは、自分のみの人生では限られていますが、読書によって沢山の人々の経験や知識を学ぶことができます。
私ども僧侶は、仕事柄、沢山のいわゆる死者、あるいは現在生きている人から派生してくる生霊とも接する訳ですが、私の経験する様々な現象も、スピリチュアルの本を読むことによって、解決する場合が多々あります。最近読んだ『死は終わりではない―やあ、ぼくはエリック。そうさ、死んだ人間だよ。』(My Life After Death)(きこ書房刊)は、死後の世界の様子を生々しく伝えており、非常に興味深いものでした。最近の事件では、私のパソコンにおかしなものが入り込み、一時パニックになりましたが、この本によって、およその見当が付きましたので、早速役に立ちましたが、この本についてはまた改めてお伝えしたいと思います。

 伊藤忠商事元社長で、元駐中国大使でもある丹羽宇一郎氏の新著『死ぬほど読書』がベストセラーになっているそうです。丹羽氏は自著について、以下のように紹介します。
「本を読む人にしか、わからないことがある…。もし、あなたがよりよく生きたいと望むなら、「世の中には知らないことが無数にある」と自覚することだ。すると知的好奇心が芽生え、人生は俄然、面白くなる。自分の無知に気づくには、本がうってつけだ。
ただし、読み方にはコツがある。「これは重要だ」と思った箇所は、線を引くなり付箋を貼るなりして、最後にノートに書き写す。ここまで実践して、はじめて本が自分の血肉となる。…」

私は、この紹介文をAmazonで読んだとき、お会いした事のない丹羽氏に非常に親近感を持ちました。読書する時には、私もこの方法を、自分でも実践しているからです。
今迄、この標語でご紹介してきた文章は、覚えとして、別のノートに書き写しておいたものが結構ありました。

 ここまで、読んで頂いたアナタ。それでも、「難しい文章を読むのは苦手!」と思っているのなら、それは「難しいことを考えるのは苦手」と言っているのと同じであり、物事を深く考える時間を持たない、安易な時間ばかり過ごし、脳ミソを甘やかしていると、脳ミソはどんどん退化してしまいますよ!!!

2018年 「3月の標語」

思い描いた演技ができますように
そして、私の演技がきっかけで
皆さんに幸せがおとずれますように

――― 羽生結弦

平昌オリンピックと言えば、今年が明けたとたん、北朝鮮が突如参加を表明し、すっかり乗っ取られた形で、一時は平壌オリンピックとまで揶揄されましたが、実際に競技が始まると、連日のアスリートたちの熱き戦いで大いに沸き、17日に羽生結弦選手、宇野昌磨選手が金メダル銀メダルを取り、翌18日にはスピードスケートの小平奈緒選手が500メートルで金メダルを獲得したころには、国内の盛り上がりも最高潮に達しました。
ご存知のように、羽生選手は、すでに前回のソチオリンピックでも金メダルを獲得し、連覇がかかっておりましたが、昨年11月に右足首を痛め、回復ぶりが懸念されての出場でした。
羽生選手が2015年12月13日バルセロナで開催された「フィギュアスケートグランプリファイナル」において、世界最高の330,43点をたたき出した時には、その完璧な演技にすっかり魅了され、2016年「2月の標語」にも、彼がプログラムで取り上げた、今回と同じ『陰陽師』について触れました。
彼のその時の完璧な演技はYouTubeで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=3BoVFhJmvEU

彼が今回纏っていた衣装は、平安時代の日常着である「狩衣」をモチーフにし、グランプリファイナルの時より、さらにバージョンアップし、本当に美しいものでしたが、安倍晴明公の紋「五芒星」まで金糸で背中に施し、なんとこれらは全て羽生選手自身がデザインなど細かく指示して作られているとのこと、彼にはデザイナーの才能もあるのかと、日本人としての心をわしづかみにされます。
https://ameblo.jp/minminmin-vync/entry-12324345307.html

彼がフリーで滑った「SEIMEI」は、映画『陰陽師』で使われた楽曲で、この演目を完成させるために、羽生選手は『陰陽師』に主演した野村萬斎氏からアドバイスを頂いたそうです。
この映画と羽生選手の演技を見事に組み合わされた美しい映像がYou Tubeでもアップされていて、羽生選手がどのようなイメージで演技を構成したかったのか分かりますので、ぜひこちらもご覧ください。(^!^)
https://www.youtube.com/watch?v=Vb0HthLg1gA

『陰陽師』で野村氏が演じた陰陽師・安倍晴明公は、清明神社のサイトによりますと、孝元帝(こうげんてい)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の御後胤で、幼い頃から非常に多くの道に秀で、特に、天文暦学の道を深く極められ、神道を思いのままに操る霊術をも身に付けられておられたようです。
成人されてからは、天文陰陽博士として活躍。天体を移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当てられ、朝廷を始め多くの人々の信望を寄せられたと伝えられているそうです。
晴明神社は、寛弘4(1007)年。晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、その御霊を鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に創建されました。

羽生選手は今回のオリンピック出場に先立ち、昨年、この清明神社を参拝し、その折、絵馬に以下のように書いたそうです。
「思い描いた演技ができますように、そして、私の演技がきっかけで、皆さんに幸せがおとずれますように」
私は、このことをニュースで見た時、思わず涙ぐんでしまいました。オリンピックと言えば、だれもがメダルを期待され、勝つことを目標にする訳ですが、彼の演技から受ける印象が本当に爽やかで美しいのは、こういう志が滲み出ているからなのか、とも思いました。晴明公の御霊も、彼の心延えの美しさに感じ入り、彼の願いをお聞き届け頂いたのだと想像いたします。

羽生選手に限らず、今回はアスリートたちのエピソードに感激する場面が多くみられました。
スピードスケート女子500mは、バンクーバー五輪、ソチ五輪でこの種目を連覇し、韓国で“女帝”と呼ばれている世界記録保持者の李相花(イ・サンファ)が、五輪3連覇の偉業を達成するか、あるいは、'16年10月からW杯と世界選手権で無敗を誇る小平奈緒が強さを証明するのか注目されました。
結果は、36秒94という五輪新記録で小平奈緒選手が金メダルを獲得しました。

 小平は'10年バンクーバー五輪で12位、'14年ソチ五輪で5位。その2大会で頂点に立った李を抑えての、悲願の金メダル。自然と涙があふれた。
「涙で周りが何も見えないくらいうれしかった。500mに対しては自信があるという強い気持ちで滑った。全てが報われた気持ちです」
日の丸を肩に掛け、歓喜に浸りながらウイニングランをしていた小平が足を止めたのは、太極旗を手にしながら泣きじゃくる李の姿を見つけたときだった。小平は李のそばにそっと近づいた。そして抱きしめた。
「チャレッソ(韓国語で『よくやった』の意味)」好敵手であり、良き友人である李をねぎらった。
「サンファ、たくさんの重圧の中でよくやったね。私はまだリスペクトしているよ」
李も小平に「ナオこそ『チャレッソ』よ」と返した。

31歳の小平と28歳の李の出会いは、今から12年以上前だ。
世界の舞台で先に頭角を現わしたのは小平より3歳下の李。早熟の李は15歳だった2004-2005シーズンからW杯に出場し、'06年トリノ五輪には16歳の若さで出場した。
2006-2007シーズンからW杯に参戦した小平は李について「年下だけど尊敬する選手」と語るなど、すぐに仲良くなった。それから10年あまりの月日がたった。
2人はそれぞれの道で鍛えながら世界の頂点を競う実力を備えていき、平昌五輪の舞台でしのぎを削り合った。その結果が、小平が金、李が銀というものだった。

 リンク上での涙の抱擁から数十分が過ぎ、2人はメダリスト会見で壇上に並んでいた。会見ではリンクで見せた友情について相ついで質問が出た。
小平がピックアップした思い出は、'14年11月、韓国ソウルで行なわれたW杯での出来事だ。W杯参戦9年目にして女子500mで初優勝を飾った小平は、大会最終日の終了後すぐに、当時拠点としていたオランダに帰らなければならなかった。リンクから空港まで向かうタクシーを手配してくれたのは李相花だった。
「しかも、呼んでくれただけでなく、空港までのタクシー代も出してくれたんです」 小平はそう明かした。

 オランダ留学1年目の小平は、所属する相澤病院からのサポートは受けていたものの、オランダのプロチームに加わるためには相応の費用がかかっており、貯金を取り崩しながらの武者修行だった。
それを知ってか知らずか、李は心遣いを見せた。それも、自身のホームである韓国での大会で敗れた相手に対して。
 韓国チームのスタッフは自国が誇る「女帝」の敗北にぴりぴりムードを漂わせていたが、そんな状況でも李の友情は変わらなかった。

レースを終えた直後の小平は、低地リンクで目標としてきた初の36秒台をたたき出しながらも、ガッツポーズは控えめだった。
五輪記録に金メダルを確信して沸き立つスタンドに向かって、小平が人差し指を口に当てるポーズで、「静粛に」と無言で呼び掛けていたからだ。直後のレースで滑る最大のライバル、李相花へのさりげない気遣いだった。
想像を絶する重圧に打ち勝ち、会心の滑りで最速タイムをたたき出した。心の中の金色はいよいよ輝きを増し、抑え切れないほど高揚していたはずだ。そんな中で、彼女は地元の期待を一身に背負ってスタートラインに立つライバルのことをおもんばかったのだ。
「私が滑り終わった後にも2組のレースが残っていたので、まだ喜びを爆発させるべきではないと感じていました。
 サンファのレースは、自分のレースが終わっていたので、友達の気持ちで見ました。
そして、すべてのレースが終わって結果を見たとき、まわりの皆さんがすごく喜んでくれて……私は成し遂げたんだなと思いました」派手に感情を爆発させることはなかった。
新たな五輪女王の誕生劇は、そよ風のようだった。
(出典:https://www.oricon.co.jp/article/404295/ 他)

さらに、21日決勝がおこなわれた女子パシュート、個々人の成績では上回っているオランダ選手相手に、まさにチーム一丸となって勝利したシーンは、まさに『和をもって貴しとなす』という日本人の特長と底力を如何なく発揮し、ただただその美しさに感動してしまいました。

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まだまだ、枚挙にいとまがありませんが、メダリストたちが「勝った!」と実感した時、それは相手に、ライバルたちに勝ったというより、「自分自身に打ち勝った」という意味だと、言っていたのを何度も耳にしました。
あるときは、再起不能かとも思えるほどのケガを克服し、辛いトレーニングにも耐え、その時彼らは、ライバルの顔を思い浮かべるのではなく、己の限界に挑戦することだけを考えていたのでしょう。その結果のメダルであったのです。だからこそ、戦いが終わった後は、同じような想いをしながら、競い合ってきた仲間を、お互いにリスペクト出来るのだと思います。
20日小平選手に金メダルが授与されましたが、その後に受けたインタビューの中で「今、何がしたいですか?」と聞かれ「試合の映像をみていて、また課題が見つかったので、明日滑りたい」と話したときには(@_@;)
一般的な日本人なら、こんな大舞台の後なら、普通は温泉に行きたいとか、ゆっくり休みたい、という風になると思うのですが、あくまでも向上し続けることを目指しているアスリートならではの言葉ですね

また、結果を出した後、ほとんどのアスリートたちがそれまで自分を支えてきてくれた人たちに対する感謝を口にし、「とても自分一人ではこれまでこれなかった」というのを聞くとき、胸にこみ上げてくるものをおぼえます。
とかく嘘事だらけの世の中で、世界中のアスリートの皆さん、本物の感動と勇気を有り難う (*^▽^*)

2018年 「2月の標語」

長く息を吸っているときには
「私は長く息を吸っている」と
はっきり知り
長く息を吐いているときには
「私は長く息を吐いている」と
はっきり知る

――― 「安那般那念経」(Ānāpānasati sutta)

最近、私の大好きなNHKの番組、『サイエンスZERO』で「新・瞑(めい)想法 “マインドフルネス”で脳を改善!」をやっておりました。
マインドフルネス(mindfulness)とは、今この瞬間に、自分の心の中で起こっていることを注意深く観察し、感じ取り、気付きを深めていく心理的な作業のことです。
この過程においては、起きている現実をあるがままに受け入れること、何かしらの意図的な評価や判断をせず、ただ注意を払うことが重要であるとされます。

番組のタイトルが、新・瞑想法となっておりますが、確かに最近提唱され始めましたマインドフルネスとは、各宗教における瞑想法などから、宗教的な意味合いを取り除いたもの、という定義づけがなされておりまして、そういう意味では、新しいのですが、実はmindfulnessという用語は、パーリ語のサティ(sati)の翻訳であり 、原始仏教でその修行法として重視された「八正道」の内の、「正念」(sammā-sati)に当たります。そして、この「念」を深めることによって、何事にも惑わされない「定」(じょう)の状態に至るとされます。

原始仏教におけるブッダの修行法の中で、入息出息(呼吸)を観察することによって「定」に至ることが説かれているのが「安那般那念経」(出息入息に関する気づきの経)ですが、このお経についてR.ローゼンバーグ氏が『呼吸による癒し』(井上ウィマラ氏訳)を著され、2001年2月に日本でも出版されました。

今月の標語で取り上げましたのは、その中の一文です。
「長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。
短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練する。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。」

ここに、はっきりと、マインドフルネスの具体的な方法が示されております。
この『呼吸による癒し』を読んだ時には、本当に感激し、何度も何度も読み返し、付箋を貼り、傍線を引き、
その最も重要と思われるところを抜粋したりしましたので、以下にご紹介したいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「おまえが何物でもないことが、万物であることなのだ。」
いま生起していることから思考によって分離してしまっている時、命を殺している。という。
その行為に完全に一体になることができたなら、そこにある種の喜び、ある種の歓喜のあることが分る。私たちを対象と隔てているのは、もっぱら自意識。
私たちは物事を追いかけたり、物事から逃げ去ることに際限のないエネルギーを費やしている。
私たちは心の奴隷になってしまっている。私たちは心の内容に執着してしまって、自分自身そして他の人々に苦しみをもたらす行為へと駆り立てられる。ブッダの教えの目的は、私たちをこの執着から自由にすること、すなわちこの心の主人となること。
 そのためには「煩悩」とされる心の三側面を理解することが極めて重要。それらは貪欲、嫌悪、そして迷妄。(貪瞋癡、即ち貪り・怒り・無知)三つのうちで迷妄ないし無知が、最も主要な煩悩。私たちは物事をはっきりと見ることができないが故に、自らを幸せにしてくれることのないものを追いかけ、不快なものに殴りかかり、本当は私たちを害することなどないものから走り去ることに莫大な時間を費やしている。重要なのは、戦場のようになっている私たちの心を平和共存の場へと変えること。

瞑想が目指しているは、すべてのものがやってきた場所へと戻って行くこと。一切は静けさの中からやってきて静けさの中へと帰って行く。修行が進むにつれて、感受に気づきを向けると感受が消え去っていったのと同じ仕方で、怒りや恐れも消え去っていく。すると私たちは何か全く別なものへと開かれていく。広大で静まった、エネルギーと愛とに満ちた、私たちが必要とするあらゆる滋養分に満ちた何かに・・・。    
煩悩は強く智慧は弱い。
私たちにとっての最悪の敵も私たちの外側にいるのではない。最悪の敵もベストフレンドも自分の心の中にいる。この修行(心の再教育)が持つ最もラディカルな見地の一つは、問題は外部にあるとするのではなく、常に内部を見るということ。私たちは煩悩に心を奪われて自らの心を覗こうとはしない。
本当に難しいのはたった今、ここで起こっていることに注意を向けること。煩悩がそれをさせない。煩悩の呪縛を破る方法とは、振り返ってそれらを直視すること、ただ見つめること、これが第一歩。

欲望は苦しみであるときっぱりと明らかになった時、その人の修行が始まる。
「いかなる状況においても何事にも愛着を持つな。」喜びは修行に完全に没入することができたときに生じてくる。心を解放するひとつの手立ては、より持続的に呼吸と共に在ろうとすること。
「心を解き放ちながら息を吸おう。心を解き放ちながら息を吐こう。」と訓練する。一見幸せに至るように見えても実際にはそうでない道(蓄積し、何かを成し遂げ、ひとかどの者になることなど)からは遠ざかるようになる。

最後に挙げるのは最も深刻な領域で、物事に対して「私」とか「私のもの」として執着すること。
智慧は言葉ではない。見ることが智慧。何が起こっていても目を開いていること・・・最悪の不安や絶望であっても、はっきりと見つめて直面するなら、すべてのものと取り組むことができる
無常ということは事実であり、苦しみは事実であり、病気や死、戦争、自然災害、それらすべてが事実。しかしそれらに対して心がどのように反応するかが鍵となる。それによって痛みと苦悩の違いがでてくる。いかなる状況においても何物をも私だとか私のものとして執着してはならない。
この言葉を聞いたならば、ブッダの教えのすべてを聞いたことになる。その言葉を実践するならば、ブッダの教えを実践したことになる。
我々は一日中生まれては死につづけている連続にすぎない。プロセスにすぎない。自分が「不在」になるその強さと長さにしたがって、それは悟りの経験になり得る。
私たちは自分の考えることを自分の物語として深く執着している。誰もが自分の物語を持っていて、それを語るのが大好き。他に誰もいなければ、一日中自分自身にその物語を語っている。それらは極めて機械的で反復的。私たちは同じ古い会話を何回も繰り返し、起こり得ない新しい会話をこしらえ続けている。 にもかかわらず私たちは自分の思考に巨大なプライドを持ち、実質的に私たちはそれらの思考の奴隷になっている。
深く洞察すること、自分自身を深く見ること。その見ることによって苦しみが終わる。それがブッダの教えの全体的な目的。何かをするのをやめ、何かになろうとするのをやめ、ただ静かに坐って自分のままでいる。無執着の修行は遠い未来にあるのではない。それはこの瞬間にある。どんな瞬間にでも私たちは自分が何かに執着して苦しんでいるのを見る。それを充分に深く見るならば、固執が落ちて、私たちは解放される。

ステップの究極的な源泉は呼吸。私たちは自然から横取りしていたものを、自然に返すのだ。この心、これらの感受、この身体、そして呼吸そのものは私たちに所属してはいない。
坐るときの態度は、ひとつの総合的な受容性と開放性。計算ずくめの心を休めて、何物にも自分の方から手を伸ばそうとせず、人生がやって来るのに任せる。選択なしの自覚が成就された状態とは、ただ坐っている(只管打坐)こと、すべての支えや方法や方向やテクニックを手放すこと、自覚しながらただそこにいること。

「彼らは過去について嘆かず、未来の物事を渇望せず、何がやってこようとも(これが重要な一句です)自らを保っています。だから彼らは穏やかなのです」。
修行は坐ることだけではない。修行は、人生のいついかなる瞬間であろうと可能。修行は人生の一部ではない。修行は人生。そして人生は修行。
自分がしていることに対して穏やかな注意力を向け、そのしていること以外は何もしないこと。
していることから心がふらふら離れていったら、心を連れ戻すこと(離れたら離れた事をみつめる)
このステップを何万回、何億回と繰り返すこと。
沈黙への道には障害物がいっぱい。主要な障害物は無知。沈黙への旅の最初の部分は呼吸を意識する修行を通って進む。自分の心が流れ落ちている滝のようであること、うるさくていつも落下していることに気がつく。
完全に受容的な状態で、何物とも分離されていない存在感を持って坐っている。現れてくるもの全てに対して肯定も否定もしない。現れてくるものに対して友好的で、関心のある受容的な態度を取っているだけ。心はそんなふうにさまよい歩くことを許されたとき、ついには自分自身に飽き飽きしてくる。結局のところ、心は同じことを何回も繰り返し言っているだけ。心は全ての雑音にうんざりとして、落ち着いてくる。その時、沈黙という広大な世界の突破口に立っている。
 沈黙を獲得することは、寂しさに取り組む能力や死を受容する能力と係わりがある。特にエゴはそれらのことと密接に関わっている。私たちは独りになることを恐れ、死ぬことを恐れるために、思考を使って自分を取り巻くものを作り上げる。そしてその思考が沈黙に入っていく妨げとなる。
 私たちはこの状態にあこがれてばかりいられない。誰もが自由になることを学んでいる。それを実現する唯一の道は、自分がどのようにして奴隷になりさがっているかを見抜くことである。
(以上、R.ローゼンバーグ著『呼吸による癒し』抜粋ダイジェスト)
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どの言葉も深く、示唆に富んでおりますが、特に
「無常ということは事実であり、苦しみは事実であり、病気や死、戦争、自然災害、それらすべてが事実。しかしそれらに対して心がどのように反応するかが鍵となる。それによって痛みと苦悩の違いがでてくる。いかなる状況においても何物をも私だとか私のものとして執着してはならない。」
この一文を読みますと、かの良寛様が文政十一年三条の大地震の際に、知人に宛てて書いた有名な手紙を思い出します。
 「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。(中略)しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」
 まさに、こういう境地こそが悟りというのでしょう。


もし、ここまでの文章を読んで、何を言っているかサッパリわからない、という方は、恐らく、坐禅なり他の修行を全く体験したことがないか、しているとしても、まだ初歩の段階である、ということだと思います。ある程度の年月をかけ、坐禅や瞑想をし、どうしょうもない自分と向き合わざるを得なかった人には、いちいち深く思い当ることばかりであるはずです。
 呼吸とは、貴方も、私も、世の中の全ての人が、この世に生を受けてから死ぬまで、一秒たりとも途切れることなく、命を維持するために必ずしている行為です。その呼吸を観察し、味わい、気付きを深めていくことによって、深く癒されていくのですから、呼吸をいい加減に行うことは、非常にもったいないことであると思います。
最近、はやり始めたマインドフルネスもここまで行けると良いのですが…。

2018年 「1月の標語」

怨みをもって怨みに報ゆれば
怨みは止まず
徳をもって怨みに報ゆれば
怨みはすなわち尽く

――― 『伝述一心戒文』伝教大師最澄

平成29年12月7日午後8時半ごろ、東京・江東区富岡の路上で、近くの富岡八幡宮の宮司の富岡長子さん(58)と運転手の33歳の男性が、車から降りた直後に刃物で切りつけられました。長子さんはまもなく死亡し、男性も腕などに大けがをしました。
また、長子さんの弟の富岡茂永容疑者(56)と妻の真里子容疑者(49)もすぐ近くで倒れていて、茂永容疑者が妻と一緒に長子さんと運転手に切りつけ、さらに妻を殺害して、自殺したと見られています。
関係者によりますと、富岡長子さんと弟の茂永容疑者は、長年にわたってトラブルになっており、最近「再び宮司になりたい」などと、富岡八幡宮の宮司の職をめぐって対立し、長子さんが警察署に相談していたとのことです。

全国の神社が加盟する神社本庁などによりますと、平成6年11月、茂永容疑者はそれまで宮司を務めていた父親に代わって宮司代行に就任し、翌年の平成7年3月から宮司を務めていました。
しかし、富岡八幡宮の関係者などによりますと茂永容疑者は素行不良・金銭トラブルなどで平成13年5月に宮司を退任し、父親が再び宮司に就任していました。
神社と付き合いの長い70代男性商店主は、茂永容疑者は「日本に5、6台しかない高級外車を乗り回し、高校時代の同級生たちと銀座のクラブで飲み歩いていた」と振り返っています。
2回の離婚歴もある茂永容疑者に対し、父親は当時、相続権剥奪を裁判所に請求しておりました。

富岡八幡宮の基本財産は約3億3500万円。1991年に佐川急便グループの佐川清会長(当時)が奉納した神輿(みこし)は純金やダイヤモンド、ルビーがあしらわれ、蔵も含めて総額10億円とも言われ、大変話題になりました。
そして、7年前の平成22年に富岡長子さんが父親のあとを継いで宮司代行に就任しました。富岡八幡宮の総代の代表でつくる役員会は、長子さんを宮司に任命するよう、神社本庁に複数回にわたって申し入れていましたが、神社本庁が協議した結果、おととし1月、長子さんが宮司になるために必要な研修を受けていなかったことなどを理由に、宮司への就任を認めなかったということです。
すると、今年6月になって、八幡宮側は神社本庁を離脱すると通知し、9月、長子さんが正式に宮司に就任したということです。警視庁によりますと、茂永容疑者は宮司を退任したあとの平成18年1月、「ことし中に決着をつける。積年の恨み。地獄へ送る」などと書いたハガキを長子さんに送り、脅迫したとして、逮捕されたこともありました。(出典:NHK Newsなど)

富岡八幡宮は江戸時代に創建された都内有数の神社で、現場は、東京メトロの門前仲町駅から300メートルほど東に行ったあたりで、実は、私は数十年前、縁あってこの地域に2年間ほど住んでいたことがありました。
富岡八幡宮の西には成田山東京別院深川不動堂もあり、この辺りは典型的な門前町です。

富岡八幡宮はお宮としての収入のほかに、このあたり一帯の土地を所有し、不動産収入もかなりの額に上ったようで、富岡家と一般庶民の経済感覚とは、桁が違うことは容易に理解できます。
だからこそ、その莫大な財産や、有名な神社の宮司という名誉をめぐって、骨肉の争いが起きたものと思われます。多くの人々の尊崇を受け、先祖代々受け継がれてきた神社の歴史と責任の重みを痛感していれば、このような凄惨な事件は起こるはずもなかったと思いますが、一族が神社を私物化した挙句の愚行でありましょう。

今月の標語は、伝教大師最澄上人の弟子である光定がまとめた最澄の回顧録「伝述一心戒文」中の御言葉です。
即ち、「怨みに対して報復で応じれば際限がなく、相手を怨むのではなく、徳をもって相手に接し、許すことができれば怨みはなくなる」ということです。

実は、このことは、お釈迦様が、最澄をさらにさかのぼること1000年以上前に、以下のように述べておられます。
「じつにこの世においては、怨みに対して怨みを返すならば、ついに怨みの鎮まることがない。怨みを捨ててこそ鎮まる。これは普遍的な真理である。」『ダンマパダ』5

さらに、お釈迦様と同時代に生きられた孔子も『論語』の中で、以下のように説かれます。
「或曰、以徳報怨、何如。子曰、何以報徳。以直報怨、以徳報徳」。(憲問第十四 378)
(あるひひといわく、徳をもって怨みに報いばいかん。子のたまわく、何を以ってか徳に報いん。直き(誠意)を以って怨みに報い、徳を以って徳に報いん。)と。
即ち、怨念に対しては誠意で対処せよと、孔子は説きます。

同じくイエス・キリストも、「右の頬を打つ者がいたら、左の頬も出しなさい!汝の敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい!報復してはいけない!!」と唱えました。人に殴られるほどの理不尽なことをされたら、カッとなって仕返ししてやりたい!と思う気持ちは誰にでもあると思いますが、やり返したら復讐の連鎖の罠にはまってしまうでしょう。

奇しくも お釈迦様、孔子、イエス・キリストという、世界の三大聖人がいずれも「怨念を受けても、それに対し、怨みで返してはならない。」とおっしゃっているということは、怨む心を何とかして克服しなければならない、と説いているのです。

怨念は邪念の代表的なものですが、アメリカの心理学者スコット・ペックは、邪念の根源を@知的怠惰…無知・無明と、A病的なナルシシズム…病的な自己愛にあると云っているようです。
「邪悪な人とは、「誤った自己愛(ナルシシズム)から生まれた完璧な自己像を守るために、人をスケープゴートにする人」のことを指す。こうした誤ったナルシシズムを持ってしまった人は、自分を守るために全く無自覚に嘘をついたり人を非難したりする。しかし邪悪な人々が邪悪である所以は、あくまでもそうした行動をとるからではなく、無意識のうちに自分の欠点と向き合う苦痛から逃れ続けようとするところにある。」『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』(草思社文庫)
まさに今回の富岡家の人々にぴったりと当てはまりますね。

富岡茂永容疑者が、事件直前にA4判8枚につづった“遺書”の最後には、以下のように書かれていました。
「もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」

ここで、ほとんどの方が、富岡茂永容疑者が、本人が望んでいるように、本当に「怨霊となり永遠に祟り続ける」ということができるものか、心配なさると思います。
 私は、家々の御仏壇の前での読経を仕事としておりますが、よく仏壇に供物以外の様々なものをお供えしてあるお家があるので、意地悪を言うことがあります。「Aさん、もしあなたが今日死んだとします。お子さんが、宝くじをお供えし、チ〜ンとおリンを鳴らして、当たりますように…とお祈りされたとして、あなたそのくじを当てることできますか?」と聞きます。当然ながら、「できません」と100%の方が答えます。でも現実には、お仏壇に参るとき、多くの方が色んなお願いをするのです。何か人が死んであちらの世界に行っただけで万能になったような錯覚を持ってしまうのですが、現実にはそういうことは起きません。様々なことをお願いされてもご先祖様を当惑させるだけです。人は死んでも、その人の霊のレベルにあった状態になるだけだからです。
「お守りください」などと、仏壇の前でお願いするくらいなら、最強のガードマンを雇った方が、効き目はあると思いますよ。あるいは、希望校を受験して合格したいなら、それに見合った勉強をする以外に方法はないでしょう。

それと同じで、どれだけこの富岡茂永容疑者がそれを望んだとしても、怨霊となり永遠に祟り続けるなどということは、不可能なことなのです。自分の霊性のレベルにあった最下層即ち、地獄に行くだけのことです。あるいは可能性としては、この人たちは自分たちが死んだことも気が付かず、いつまでもお互いに傷つけあい、そこら辺でのたうち回っていることはあるかもしれませんね(~_~;)
我々は当然ながら、神々のレベルではないのですから、霊となって他に良い影響も悪い影響も及ぼしようがないのです。ただ、神々の対局として、悪魔的な低級霊がいることも事実です。低級霊は、主に、人々が沢山集まるような場所をうろつき、いたずらの機会を狙っています。私が、坐禅会やヨガ教室に人が沢山来ない方を好むのもそういう理由があります。
このような霊に対して私たちがとるべき態度は、自分が霊的に高まるように努力し、体力的にも、弱くならないよう努めて、低級霊に付きまとわれないようにすることでしょう。常に自身の霊格の向上にさえ努めていれば、低級霊など気にすることはないと思います。
三大聖人が説かれるように、人から怨念を受けたとして、それに取り合わず、怨念を自分が持たないようにすることしかないのです。


  1. ■今月の標語
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