今月の標語 2017年

2017年 「11月の標語」

阿耨多羅三藐三菩提
(あのくたらさんみゃくさんぼだい)

―――  『摩訶般若波羅蜜多心経』

『般若心経』は大変にポピュラーなお経ですので、どなたでも恐らく、お唱えなさったことがあると思います。

『摩訶般若波羅蜜多心経』(三蔵法師玄奘訳) 花山勝友訳
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm
観自在菩薩  (観音菩薩が、)
行深般若波羅蜜多時  (深遠な知恵を完成するための実践をされている時
照見五蘊皆空   (人間の心身を構成している五つの要素がいずれも
             本質的なものではないと見極めて、)
度一切苦厄  (すべての苦しみを取り除かれたのである。)
舎利子  (そして舎利子に向かい、次のように述べた。
             舎利子よ、)
色不異空  (形あるものは実体がないことと同じことであり)
空不異色  (実体がないからこそ一時的な形あるものとして
存在するものである。)
色即是空  (したがって、形あるものはそのままで
実体なきものであり、)
空即是色  (実体がないことがそのまま形あるものと
なっているのだ。)
受想行識  (残りの、心の四つの働きの場合も、)
亦復如是  (まったく同じことなのである。)
舎利子  (舎利子よ、)
是諸法空想  (この世の中のあらゆる存在や現象には、
             実体がない、という性質があるから、)
不生不滅  (もともと、生じたということもなく、
             滅したということもなく、)
不垢不浄  (よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく)
不増不減  (増えることもなく、減ることもないのである。)
是故空中無色  (したがって、実体がないということの中には、
             形あるものはなく、)
無受想行識  (感覚も念想も意志も知識もないし、)
無限耳鼻舌身意  (眼・耳・鼻・舌・身体・心といった
             感覚器官もないし、)
無色声香味触法  (形・音・香・味・触覚・心の対象、といった
             それぞれの器官に対する対象もないし、)
無限界乃至無意識界  (それらを受けとめる、眼識から意識までの
             あらゆる分野もないのである。)
無無明  (さらに、悟りに対する無知もないし、)
亦無無明尽  (無知がなくなることもない、)
乃至無老死  (ということからはじまって、ついには
             老と死もなく)
亦無老死尽  (老と死がなくなることもないことになる。)
無苦集滅道  (苦しみも、その原因も、それをなくすことも、
             そしてその方法もない。)
無知亦無得  (知ることもなければ、得ることもない。)
以無所得故  (かくて、得ることもないのだから、)
菩提薩垂  (悟りを求めている者は、)
依般若波羅蜜多  (知恵の完成に住する。)
故心無圭礙  (かくて心には何のさまたげもなく、)
無圭礙故無有恐怖  (さまたげがないから恐れがなく、)
遠離一切転倒夢想  (あらゆる誤った考え方から遠く離れているので)
究境涅槃  (永遠にしずかな境地に安住しているのである。)
三世諸仏  (過去・現在・未来にわたる”
             正しく目覚めたものたち”は)
依般若波羅蜜多故  (知恵を完成することによっているので、)
得阿耨多羅三藐三菩提  (この上なき悟りを得るのである。)
故知  (したがって次のように知るがよい。)
般若波羅蜜多  (知恵の完成こそが)
是大神呪  (偉大な真言であり、)
是大明呪  (悟りのための真言であり、)
是無上呪  (この上なき真言であり、)
是無等等呪  (比較するものがない真言なのである。)
能除一切苦  (これこそが、あらゆる苦しみを除き、)
真実不虚  (真実そのものであって虚妄ではないのであると)
故説般若波羅蜜多呪  (そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。)
即説呪曰  (すなわち次のような真言である。)
羯帝羯帝波羅羯帝 (往き往きて、彼岸に往き、)
波羅僧羯帝  (完全に彼岸に到達した者こそ、)
菩提  (悟りそのものである。)
僧莎訶  (めでたし。)
般若心経  (知恵の完成についてのもっとも肝要なものを
             説ける経典。)

このお経の中で、菩薩が求める最高の悟りを「阿耨多羅三藐三菩提」と言っております。
これは、サンスクリット語 anuttarasamyaksaṃ bodhiの音写したものであり、漢字そのものには意味はありません。仏教で目指す最高の理想的な完全な悟りのことで、無上正等覚などと訳されます。

一口に仏教と申しましても、お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)がお生まれになって、涅槃に入られた時代は紀元前500年前後のことですので、仏教には2500年の歴史があり、教えにしても時代の流れや背景によって諸説様々です。オウム真理教を笑えない位、新興宗教まがいのモノが、仏教という名のもとに唱えられ、その必然として、全く仏教とはかけ離れたものを、仏教だと信じている方たちがナント多いこと…(-_-;)
でもそれもこれも、我々僧侶を自称するものの怠慢でもあるかもしれません。

仏教が発生して間もない頃の初期仏教においての教えの基本中の基本は「四諦・八正道・縁起などの理法」でした。
長くなりますので、今ここでは、縁起についてのみ、解説したいと思いますが、
縁起(えんぎ、巴(=パーリ語の意) paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、「他との関係が縁となって生起するということ」です。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指します。

経典によれば、お釈迦様は縁起について、
「わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり」と述べ、
縁起は「この世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけである」というのです。

縁起を表現する有名な詩句として、
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」 — 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)と説かれます。
今、ここまで読まれて、「なるほど」と理解できた方、いらっしゃいますか?

恐らく、ほとんどの方が「?」となると思いますので、ご法事などで仏教の教えを理解して頂きたいと思い、私は「水」のお話しをよく致します。
私たちは、水は水素2個と、酸素1個が結合してできていると学校で習いました。それが、ある時は氷、ある時は水、そして蒸気という風に形を変えます。どうしてこのようなことが起きるかと申しますと、お分かりのように温度という条件によって、状態が変わる訳です。英語で申しますと、“CAUSE & CONDITION”です。
水素、酸素が因で、温度が条件、すなわち縁です。
水蒸気になって目に見えなくなったからと言って、完全になくなってしまいそれっきり、ということはありません。それが上空に行って冷やされれば雲になり、雨になったり雪になったりして、また地上に降り注ぎます。この繰り返しです。

人間という存在も、同じく因と縁によって成り立っております。仏教ではこれを五蘊という概念で説明します。
蘊(巴: khandha, カンダ) とは、「集まり」の意味で、五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものです。この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説きます。以下Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%98%8A
五蘊は次の5種である。 「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示す。人間の心身の機構を羅列的に挙げ、それによって人間の生存およびその環境の全てを表そうとしたものである。
色蘊(しきうん、巴: rūpa)―人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。(例:桜そのもの)
受蘊(じゅうん、巴: vedanā) ― 感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じること)
想蘊(そううん、巴: saññā) ― 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること)
行蘊(ぎょううん、巴: saṅkhāra) ― 意志作用(例:桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らすこと)
識蘊(しきうん、巴: viññāṇa) ― 認識作用(例:「桜」と認識すること)

CAUSEが「色」で CONDITIONが「受」「想」「行」「識」とも言い換えることができると思います。
目に見えない水蒸気が冷やされると水になるように、死んだということになった人間も、条件がそろえば、また人間としてこの世に生を受けます。
ただし、五蘊をうまくコントロールする事が出来ると、この生まれ変わり死に変わりのサイクル(輪廻転生)から抜け出すことができると説いたのが、初期の仏教の教えでした。
なぜならばお釈迦様にとって此の世は皆苦であり、再び人間に生まれるなどということは、絶対に避けたかったからです。
お釈迦様にとっての不幸は、死ぬことではなく、死んだあと再度この世に生まれて人間をしなければならないことでした。そのためにお釈迦様は本当に命がけで(ヨーガや瞑想などの)修行をなさいました。

「わたくしは、幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐってきた、―――家屋の作者(つくりて)を探し求めて。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
家屋の作者よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁すべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は(自己を)形成するはたらきを離れ、妄執を滅ぼしつくした。『ダンマパダ(法句経)』(巴: Dhammapada)153・154
 このお言葉は、お釈迦様が悟りを開かれた時に発せられたお言葉です。

これこそが仏教の教えの原点であり、出発点です。

8月に、30歳で突然亡くなった男性のお葬式をお勤めいたしました。何の予兆もなく、突然息子を亡くしたご両親の悲嘆は、想像を絶するものです。
お通夜、そして四十九日法要の席で、上記のような本当の仏教のお話をさせて頂き、「息子さんは苦の娑婆の修行を早々に免除されて、天国に帰って行かれたのですから息子さんの為に喜んであげて下さい」と心を込めて、お願い致しました。
普通、人々が悲しみのドン底にいる時に、こんなことを坊主が言えば「なんと非常識な」と怒られるところですが、息子さんの御父様は私が申し上げたいことを、まっすぐに受け止めて下さり、私がお葬式をお勤めしたことを本当に喜んで下さいました。
ここにしか、ご自分が救われる方法はないと、瞬時に悟られたのでしょう。

我々は、身を切られるような深い深い悲しみに直面した時にこそ、本当の意味で、お釈迦様の教えを理解し、目覚めることができるような気が致します。

2017年 「10月の標語」

気の抜けたビールのような坐禅は
何年やっても駄目だ

――― 沢木興道老師

2010年(平成22年)6月、私はそれまで20年以上の自身の坐禅から気づかせて頂いたこと、学んだことをまとめ、『坐禅を科学する』という小文を執筆いたしました。そのダイジェスト版が、当ウェブサイトにアップしてあります。
言うまでもなく、道元禅師の坐禅は「只管打坐」ですから、人によっては「只管打坐とは、ただ坐れ、なのだから坐禅について講釈をウダウダ言うなど邪道だ」という方も、中にはいらっしゃるかもしれません。
そもそも、道元様が一人でも多くの人に坐禅をしてもらおうと、およそ百巻に近い『正法眼蔵』を書かれたことは間違いのない所だと思います。餓鬼が水や食べ物を欲しがるように、何かを求めながら坐禅を行じることは邪道ですが(現実的にはそういう方がほとんどでした)、それでは結果的に何の変化もないかというと決してそうではありませんので、坐禅について何も語ってはいけない、ということはないと思います。いやむしろ、その位、曰く言い難い事柄ですので、何とかしてわかってもらおうとすると、ついつい言葉をあれこれ重ねてしまうということが本当の処だと思います。(-_-;)

常宿寺四世岡本光文師は沢木興道老師の愛弟子でしたから、おそばにいて、薫陶を受けていらっしゃいます。
 今でこそ随分衰えられましたが、私は、ウェブサイトに何か記事を書いたりするたびに、まず初めに光文師に読んで頂き、ご感想を聞かせて頂いておりました。
『坐禅を科学する』も、一番初めの原稿を読んで頂いた時、「そういえば…」とおっしゃって、「気の抜けたビールのような坐禅は、何年やっても駄目だ」と、始終言われていた、と伺いました。
しかも「気の抜けたビールのような坐禅にならないためには、腰をグッと前傾しなければ駄目」、ともおっしゃっていたそうです。「男は前にモノが付いているから不利だが、女はないので女の方が有利だ…」といった、具体的な表現も使われたそうです。老師のお言葉は下品だ、と評判が良くないのは否めませんが、そのくらい腰を前傾させることの重要性を説きたかったということはお分かり頂けると思います。
この文章を契機として、澤木老師が「坐禅する時には、十分に腰を前傾させる」と常日頃から仰っていたということを光文様に教えて頂き、私が意図したことと、同じことを老師が仰っていたことを知り、さらに、「皆に何とかして坐禅をしてもらおうというのが老師の誓願だったから、これは老師が喜ばれるよ」と仰って頂いた時には、大変有難く、嬉しかったので、昨日のことのように思い出されます。

坐禅の初めにする深呼吸のことを欠気一息(かんきいっそく)といいます。まず、身体を前に深く倒しながら息を吐き、鼻から空気を吸い込みながら体を起こしていきます。この時、腰が硬いと、せっかく前に倒した腰が起き上がってくる時に、元のように後屈してしまい、いわゆる腰が抜けた状態になる方がほとんどなのです。

『坐禅を科学する』にも書きましたが、最近は身体の固い方ばっかりといっても、過言ではないので、半跏(片方の足を腿の上に上げる坐法)さえもできないという方が珍しくありません。
このような状態ですと、仙腸関節なども相当固いと思われますので、自然治癒力も損なわれてしまいます。
現代人に精神疾患が激増しているのも、身体の固さと無縁ではないような印象さえ持っております。
特に、少し前までは子供は身体が柔らかいというのが、当り前のことだったように思いますが、ここ10年程、夏休みごとに、町内の子供たちがラジオ体操の後坐禅をしに来るのですが、本当に子供達の身体が固くなってきているということを実感し、非常に憂慮しています。

正しい坐禅の形は、様々なことに正しい気づきを与えてくれます。坐禅から導かれていくのです。そこにこそ、この坐法が数千年も続いた理由が存在します。
「無」になるぞーと、頭の中で理想を思い描き、期待したところで、坐禅の形が、正確にできていないと、どれだけ努力しても徒労に終わってしまうものです。ガマン大会のように、根性や気力だけで坐っていると、苦を増幅させるだけで、酷い場合、本当に身体を壊します。

「息」という漢字を見てみますと、「自」と「心」から成り立っています。私達の呼吸は、その時々の自身の心の状態を反映しています。緊張したり、怒っている時の呼吸は浅く短くなります。深くリラックスしている時は呼吸もまた、深く長くなっていることに気づきます。日常の動作をするうえで、常に呼吸に注意を向けてみるのも、気づきの練習(観の修行)になります。

私達の意識の及ばないところで、心と身体は密接に関連しています。まず、きちんと形を整え、呼吸を整えることを身体で覚えること。そうすれば、坐禅を組むことが大変気持ちの良いものだと分かってきます。
ほとんどの方の坐禅がなぜ続かないか。それは、足が痛い、眠い、思い描いていたように無になれない、雑念が湧いてくるetc.で、 心身ともに好ましく変化するところまで継続できないので、やめてしまうのだと思います。

身体のメカニズムに留意しながら、呼吸や、身体の中の状態に対して気づきを向けて行けば、気持ちの余裕も生まれ、自己と向き合うことがもっと興味深いものとなり、毎日の坐禅や日常生活にも、また違った味わいが出てくるように思います。
落ち込むような場面に遭遇しても、「たいしたことではない。」と、受け流せるようになります。何となく、息をすることが楽になり、明るく過ごせるようになります。何かとても自由になった感覚が生じてきます。本当の自由とは、好き勝手に、我儘に生きるということではなく、「自らを由り所として、いちいち人の言葉に左右されず、日常生活のすべての瞬間に、楽に生きることができるようになる。」ということであるように思います。

これを言うと誰にも信じてもらえず、大抵鼻で笑われるのですが、私は昔から泣き虫でした。坐禅を始める以前、心無い言葉に泣かされ、涙をポロポロとこぼしていた時、よく飼い犬が私の手の上に落ちた涙を慰めるように舐めてくれたことを思い出します。今では、どのようなことがあっても泣くことだけはありませんので、有難いことだと感謝しております。

坐禅とは「無になること」とか、頭の中だけで考えている人もいるのですが、「無になる」と英語で調べてみると、to be free という訳も出てまいります。「無」をこのように訳した方に唸りましたが、老師の言葉をお借りすれば「無になんて死ぬまでならん」のです。むしろ、欲でがんじがらめになっている自己から自由になっていく、このような表現の方が、適切であるように思います。

修行というものは、進めば進むほど、先が見えず「ここらでよい」ということはありません。自分なりに一生懸命やっているのだからと妥協してしまったらそこでストップしてしまうでしょう。「ただ坐れ」なのだから、何も言わずにただやっていればよいといった安易なものではないのです。
煩悩の奴隷となっている我々が、本当の意味で自由となるには、並大抵のことでありません。
『悟り』とか『成仏』とか簡単に言ってしまう人が多いのですが、血の滲む様な精進をし続けて、何十年も経ながら、結果的に身心共に、徐々に変化して行くというものであるように思います。

 「坐禅は龍の蟠(わだかま)るがごとく、颯爽たる姿勢と凛々たる気迫がこもっていなければならない。借り物の猫のようにフニャッとした坐禅、気の抜けたビールのような坐禅は何年やっても駄目」なのです。

今迄、200人以上の方が、この坐禅道場に足を踏み入れたのに、ほとんどの方が、坐禅の入り口にさえ立てないまま、やめていってしまったことが、残念でなりません。

2017年 「9月の標語」

はなてばてにみてり 
一多のきはならむや 
かたればくちにみつ
縦横きはまりなし

――― 正法眼蔵『辨道話』

前回このお言葉を取り上げた時(2006年2月)にはお釈迦様のお言葉との関連で取り上げました。
今回は、片岡鶴太郎さんがヨガのインストラクターになられたというニュースを読んで、このお言葉を思い出しましたので、紹介させて頂きます。

「片岡鶴太郎ヨガを極めて体重43キロ。壮絶な修行と食生活」
https://geinou-news.jp/articles/%E7%89%87%E5%B2%A1%E9%B6%B4%E5%A4%AA%E9%83%8E-%E3%83%A8%E3%82%AC-%E6%BF%80%E3%83%A4%E3%82%BB 
2017年6月19日(上記、芸能ニュースより抜粋)
現在俳優の片岡鶴太郎さんが「インド政府公認プロフェッショナルヨガ検定」のレベル1にあたるインストラクター資格を獲得しました。合格記者会見に下着1枚で現れた姿はマッチ棒のようにガリガリ。衝撃の激ヤセぶり。
 マッチのモノマネをすればお笑い芸人として一躍脚光を浴び、絵を書けば美術館に展示されるなど、多彩な才能をみせる片岡鶴太郎。そんな彼が近年ハマっていたのが「ヨガ」です。今年の6月13日、「インド政府公認プロフェッショナルヨガ検定」の最難関に合格し、インド大使館で開かれた合格者記者会見に姿を現しました。
 
ヨガってこういう痩せ方をするんですね。骨が丸見えです。しかし、こんな場でも笑いをとることは忘れないところに、『オレたちひょうきん族』以来のプロ根性を感じます。ちなみに今回片岡が合格したヨガインストラクターの資格は実技だけではなく、筆記や瞑想を含めたかなりハードルの高い試験をくぐり抜けないと手に入れることはできません。ストイックな彼だから合格できたのですね。この資格が獲得できるのは、インド以外では日本だけ、合格者は日本人19名、インド人7名のたった26名です。

 会見では、独特な腹筋の動きをする呼吸法「ナウリ」も披露していくれました。ナウリはインドヨガの中でも最高の浄化技法と言われ、画像の片岡のように腹筋を操るのは並みのヨギー(ヨガをやる人)ではできない高等技術なのでそうです。やっている片岡の顔も少し歪んで見えます。やはり難しいのでしょうか。
 ヨガによって無駄な脂肪が全て消え、最高で63キロあった片岡の体重は43キロまで落ちました。片岡の身長は163センチ。163センチの成人の標準体重は58キロ、美容体重でさえ約50キロと言われているのに、片岡の体重はそれらの基準よりも遥かに下回ります。あまりの痩せっぷりに、尊敬の念を示す人から、心配する人まで、反応は様々です。

 一時期グーグルで「片岡鶴太郎 ヨガ」で検索をかけると、検索予測の欄に「もしかして流木?」とでるなど、AIまでも片岡の体型を人間とは認識できなかった様子。ただ者ではありません。

(修行僧のような生活)
片岡は5年前からヨガを始めました。きっかけは、「人体実験をやってみたかったから」。片岡の尊敬するブッダ、空海、ビートルズなど、歴史の偉人たちがみんな「瞑想」をしていることに気付いたので、自分もやってみようと思い立ったそうです。怪しいカルト教団に引っかからないように瞑想の先生を探していたら、行き着いたさきがヨガだったのです。初めはヨガではなく瞑想に興味があった片岡ですが、持ち前のストイックさと才能でどんどんその道を極めていきました。

 2016年の11月に「家をでるまでに6時間かかる俳優」として出演した片岡。心なしか頬がコケているように見えます。実は、ヨガを始めてからは、一日もかかさず、4時間のヨガトレーニングと2時間かけてゆっくり食べる食事を実践してきていました。その時間を確保するために、毎日午前1時に起床し、4時間のヨガと2時間の朝食をとっていたのです。そうしたストイックな修行のあとはドラマの撮影などの仕事をこなしていました。寝る前はシャワーを1時間も浴びて疲れを落とすといいます。

夜中にこんなトレーニングを1人でやり続けられることがすごいです。しかも食事は2時間かかる朝食の1食だけ。小皿に盛ったフルーツや野菜料理だけが片岡の一日分のエネルギーです。もちろん、お酒や甘味は口にしません。そんな食生活で倒れてしまうのではないかと心配になりそうですが、片岡曰く、この食事のおかげで風邪をひくこともなくなったそうです。まるで修行僧のような生活ですが、片岡にはいい方向に影響していました。

 画像だけ見ると意外と食べているようにも見えますが、品数が多いだけで量は大人一人分にもなりません。これだけで60代の男性が一日を送ることが出来る事自体かなり凄いことです。しかも、一日一食を実施しているのは片岡だけではありません。タモリさんやビートたけしなど芸能界の大御所も実施しています。意外といいのかも?
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鶴太郎さんの記事に対して以下のようなコメントの書き込みがありましたのでご紹介しましょう。

☆やりすぎないほうがいい・・・・かえって不健康にみえるんだけど・・・
☆俳優の榎木孝明さんの絶食にも驚いたけど、なんかやりすぎ感。
☆リアル「健康の為なら死んでもいい。」
☆芸術の人っておかしなことやるよね
☆此処までくると最早狂信的
☆信念を貫く姿、潔くて素晴らしいと思う。最期まで見届けたい。
☆化け物の域・・・怖いわ。生理的に無理だし。
☆人は、少なからず何かに依存して生きているんだよ。度合いが違うだけ。
☆昔、お笑い芸人メインの頃に、テレビの番組中で大橋巨泉からバカ呼ばわりされてプッツンきて、ガチで怒っていたのを思い出しました。
芸風やキャラは色々変えているけど、根は真面目で融通が効かないタイプなのかもしれませんね。
☆いつの間にか変な人になってる。。。
☆何事においてもプロなんでしょうが、かえって不健康に見える。

このような皆様のコメントを読んで、私も一日朝一食で過ごしておりますので、私の周りの方もきっと同じような感想をお持ちなのだろうと、笑ってしまいました。

ここで、冒頭にご紹介しました道元禅師様のお言葉ですが、
「はなてばてにみてり 一多のきはならむや かたればくちにみつ縦横きはまりなし」です。

直訳しますと「手放せば手に満ちるのです。これは多いとか少ないといった域を越えています。このことを語ろうとすれば言葉がいくらでも口にあふれてきて尽きることがありません。」

根本的に、仏教は「捨てること」執着からの解放を説く教えです。一般的に見れば、一日一食やヨガに執着しているように見えるかもしれませんが、それは違うように思います。「手放せば手に満ちる」ここがミソです。

食べ物や肉体に対する欲が、少しずつ手放されていくと、別の感覚に満たされてくるのです。これは当然のことですが、実際に一食で事足りるようにならないと、頭で想像しただけの世界や、現代の栄養学では到底計り知れないと思います。ニュースのタイトルからして「壮絶な修行」とありましたが、これは気に入りません。本人はますますハッピーになっていくのでやめられなくなる、目に見えないもので満たされていく、これが正解だと思います。

コメントの中に「これで癌で死んだら物笑い」というようなものもありました。元々、禅の言葉では人間を「臭皮袋(しゅうひたい」」と呼びます。(中身に臭い物を入れている皮袋のことで、我々人間の肉体をそのようにとらえています)
別に自分の肉体位何で死のうと、どうでも良いこと。遅かれ早かれ、誰でも、いずれ肉体の使用期限が切れて腐り始めるのですから、他人がこんなことを言うのは余計な御世話というものです。

と、ここまで書いたところで、8月18日東海テレビ「ダウンタウンなう」で鶴太郎さんが実は夫人と3月に離婚したことを放送していました。録画を見ていて、食事も生活パターンもいわゆる「普通」とは全く違うので無理からぬことと思いました。
番組内で、周りの人たちが、「随分禁欲的」と評していた時に、それは全く違って自分は「快楽的」なのだと、彼自身が言っていたのも上記の理由で納得できました。

果物や野菜だけの食生活というと、皆さんは食べたいものを我慢していると思うようですが、これは全く違います。月日が経つにつれて、徐々に、生臭いものが嫌になって食べられなくなっていくのです。運転していて「うなぎ屋」のあたりを通過するときなど、あまりの血生臭さに殺人現場を想起してしまい、よく口に入れられるなと思ってしまいます。お互いに罵り合ってもいけないことですが、立場が変われば、身も心も、全く違うのだということを想像できるだけのイマジネーションがあって頂きたいと、願っています。

2017年 「8月の標語」

人はみな多かれ少なかれ
自分の人生を自分なりに
満足いくものに作るために
目に見えぬ血を流しているのです

―――  『九十歳。何がめでたい』佐藤愛子(小学館)

佐藤愛子さんの書かれた『九十歳。何がめでたい』を読みました。
この本は、週刊誌『女性セブン』2015年4月9・16日号〜2016年6月2日号に連載された記事を元に、2016年8月に単行本として出版されたものです。現在佐藤さんは93歳でいらっしゃいますので、原稿は91歳の時に書かれたものと思いますが、本の冒頭の見出しは以下のように始まります。

「こみ上げる憤怒の孤独」
「……正直なところ、現在の私は一年前、いや半年前、三か月前と較べて、めっきり弱っている。私の家から地下鉄の駅まで約15分、タッタッタと歩いていたのが、気がつくと半分もいかないうちに脚がどよーンと重くなり、かつてのピョンピョン兎がノロノロ亀さんになっている。足が上がっていないものだから、やたらにつまずく。つまずいても立て直しが利かず、思いもよらぬ方向にヨロヨロヨロとつんのめって止まらない。後ろから来ていた自転車のおばちゃんから、聞えよがしの舌打ちを浴びせられるという情けなさ。…」
と、佐藤さんはどれだけ御自分が体力的に衰えたかを怒りをもって書かれているわけですが…。

大正14年1月生まれで当年92歳、今は要介護4で、車椅子から降りることもできず、ホームで御世話になっている先代住職とくらべて、それより2歳も年長とはとても思えない位の御丈夫さに、まず驚嘆してしまいました。
91歳にしてこの状態!地下鉄の駅まで歩くということは、そこから地下鉄に乗って、目的地まで行かれると想像しただけで、佐藤さんの怒りとは裏腹に、驚異的な若さ(!)と思ってしまいます。

さらに、動けるだけでなく、これだけの文章をお書きになられることにも驚きます。いくら作家を生業となさって来られても、字も書けなくてなってしまった老僧の状態を知っているだけに、本を出版できるということ自体に、驚きを禁じえません。

著者佐藤愛子さんの略歴です。
大正12年(1923年)11月5日(93歳)大阪生まれ。 甲南高等女学校卒業 。
『戦いすんで日が暮れて』昭和44年(1969年)で第61回直木賞、昭和54年(1979年)『幸福の絵』で第18回女流文学賞、平成12年(2000年)『血脈』で第48回菊池寛賞、平成27年(2015年)『晩鐘』で第25回紫式部文学賞を受賞。平成29年(2017年)旭日小綬章

 88歳で書き上げた長編小説『晩鐘』の後、のんびり暮らしていらしたそうですが、親しい人にはどんどん先立たれ、残っている人もどんどん衰える中、人付き合いが減ってウツウツと過ごしていた時、たまたま来た仕事が本書のエッセイだったとの事。ブランクで錆びついた頭を動かそうと、ウツウツとした気分の中で、半ばヤケクソで書き上げたらしく、本書の至るところに怒りや嘆きが渦巻いています。

 本書の中に「人生相談回答者失格」という章があります。佐藤さんは新聞の「人生相談」の愛読者だそうで、新聞に載せられた人生相談を本の中で何度か取り上げています。
この相談は、50代の女性の「田舎の近所付き合いが憂鬱」というものです。相談者は田舎暮らし。近所は高齢者ばかりで無神経に立ち入った質問をしてくる。今まで言いたくない時は嘘をついてきたので、嘘つきだと思われているかもしれません、というご相談です。

本書では、相談者と回答者のやり取りを載せ、その上で佐藤さんの見解を述べています。どのくらいお元気か、やはり原文に接して頂かないと分かりませんので、ちょっと長くなりますが抜粋します。

この相談への回答者橘ジュンさんは以下のように答えます。
「声をありがとうございます。『田舎の近所付き合いが憂鬱』ということですが、そういう一面もあるかもしれませんね」という丁寧な書き出しで穏やかに説く。
「現状は変えられないですし、人付き合いが苦手だとしてもどうしようもないので、気持ちが楽になるように、どこかに愚痴を言える場があるといいんですよね」
確かにそうだと私も思う。こういう場合は愚痴というより悪口を散々いえばいいのだ。いっていっていいまくって、疲れ果てるまでいい募るとガックリ来て、(つまり登山の時のように)気が鎮まる。私などそうして苦難の人生を生き抜いてきた。悪口をいいまくるなんて、はしたないなどと思う必要はない。これは楽しむための悪口ではなく、元気をとり戻すため、心の活性化に必要な悪口なのだから、よろしいのである。
と、簡単にいうけれど、あるいはこの人には悪口を聞いてくれる相手がいないのかもしれない。
橘ジュン女史はいっておられる。
「カルチャーセンターなどで女友達をつくるのも難しいかもしれませんが、気分転換のためにも、ご自身の趣味を生かして、その時間は没頭できるように、ちょっと離れた隣町あたりに出ていく機会をつくってはいかがですか?
 地元だと気分転換になるどころか、知り合い同士のゴタゴタに巻き込まれたりして、余計に気がめいってしまいかねませんが、知らない人なら正直、気が楽です。ちょうどいい距離感で、付き合えると思います」云々。
 そして「よくがんばってこられましたね。25年間、お疲れさまでした。これからは夫婦仲良く、そして一人の時間を楽しんでほしいなあと思います」と優しくねぎらっておられる。

一読して私は「たいへんですねえ。こういう質問に答えるのは…」としみじみ橘女史をねぎらいたくなった。私などはこういう相談に対してはもう何もいえない。無理にいうとしたら、「困ったねエ…」くらいしか。
「私は嫌な人間ですか?」
相談者は最後にそう訊いている。それに対してなら答えられる。
「嫌な人間ではありませんが、弱い人間です。あえてはっきりいうと気が小さいんです」
しかしこういう場合、すぐれた回答者はそんなあからさまないい方はせず、「あなたは優しいんです。優しすぎるんです」といって、相手の気持ちを傷つけない配慮をするだろう。だが私はこういう芸当ができないのだ。ズバリ、ハッキリ急所を突く、
「気が小さいからつまらん手合いのいうことが気になるんです。そんな奴にははっきりいった方がいいんです。『私、そんな話はしたくないの』とね」
しかし、それが出来ないから苦しんでるんじゃないですか、と相談者はいいたいでしょう。ハッキリいえないのならせめて、いやアな顔、困った顔をして口ごもってみせれば、そのうちだんだん相手はわかってきます。この人は立ち入った話はしたくない人なのだということが、人を理解しようとしないこういう無教養な手合は、あなたに対して親しみを持つのをやめます。好奇心を満足させてくれないあなたとは付き合う楽しみがないから。

あなたは親しめない変わり者として方々で悪くいわれるようになるだろうけれど、そんな手合に気に入られてそれがナンボのもんじゃい、と考えるようにすればいいのです。
でもあなたは気が小さいからそれが出来ない。出来ないからイヤイヤながら嘘をついてごま化す。それがあなたを苦しめる…。
この循環を裁ち切るには、覚悟の実行力が必要です。人はみな多かれ少なかれ、自分の人生を自分なりに満足いくものに作るために目に見えぬ血を流しているのです。当たりさわりのない人生なんて、たとえ平穏であったとしてもぬるま湯の中で飲む気の抜けたサイダーみたいなものです。
「佐藤さんのいうことはわかる。けれど私には出来ない」
多分、あなたはそう思うでしょう。そして「私ってダメな人間なんです」と付け加えて悲しむ。
 駄目だと思うなら、駄目さを駄目でなくすればいい。それだけのことだ。いいたいことをいえばいい。いえなければノートに書くんです。ノートに向かって思うさまいいたいことをぶちまける。そうすれば淀んでいるものは発散して軽くなります。
自分の弱さと戦う!
戦わないで嘆いているのは甘ったれだ!
――と、語るにつれて勝手にエキサイトしてきて、
「私にいえることはこれだけだ。あとは勝手にしろ、もう知らん!」
と投げ出す。相談者は怖くて慄えるばかり…。
私はとうてい、相談ごとの回答者にはなれっこないのである。

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30年以上前、人生に深く悩むところがあって、坐禅やヨーガを始めた私でしたが、もう一つやっていたこと、
それは、まさにここで佐藤さんが勧めておられる「ノートに書くこと」でした。それはいつしか、厚みが4,5センチもあるルーズリーフに2冊以上になりましたが、今読み返してみても当時の自分が何に悩み、落ち込んでいたのか、どのように立ち直っていったのかを、教えてくれる大変貴重な資料になります。

佐藤さんは本書のエッセイをヤケクソで書いたと述べていらっしゃいますが、そんなことはありません。
自分の人生を自分なりに満足いくものに作るために、必死で目に見えぬ血を流しながら生き抜いて来た人のみが言える「怒りの金言」が凝縮されています。
本書は『九十歳。何がめでたい』というタイトルですが、90年間覚悟を持って生き抜いて来た方の話を伺うことができるのは、私たちにとって有難く、めでたいことだと思っております。是非ご一読を!


2017年 「7月の標語」

過ぎたるは猶及ばざるが如し

―――  『論語』先進篇

5月30日、米国フロリダ州パームビーチ郡の保安官事務所が撮影し、公表された男子ゴルフのタイガー・ウッズ選手の写真に衝撃が走りました。
発信されたニュースのタイトルは「タイガー・ウッズ選手逮捕、本人は飲酒運転否定「処方薬で予期せぬ反応」」
男子ゴルフ元世界ランキング1位のタイガー・ウッズ選手(41)が29日、米南部フロリダ州でアルコールもしくはドラッグの影響下で運転した疑いがあるとして逮捕された、と米メディアが報じました。
ウッズ選手は同日夜、騒動を謝罪した上で、「アルコールは関係ない。処方薬で予期せぬ反応が起きた。薬が混ざると、自分にこれほど強い影響が出るとは思わなかった」との声明を発表。
米メディアによると、ウッズ選手は29日午前3時ごろ、フロリダ州ジュピターの自宅近くの路上で逮捕されましたが、数時間後に釈放されました。

 ウッズ選手は21歳でメジャーを初制覇し、メジャー通算14勝を挙げました。最近は腰痛のため、しばしば戦列を離れ、腰や脚の痛みを取り除くための手術を4月に受けていたようです。5月24日には公式サイトで手術が成功したと報告し、「再びプロの世界でゴルフをしたいと明確に思っている」と記したばかりでした。

ゴルフには全く疎く、ほとんど無関心な私でも知っている位メジャーな存在のウッズ選手の変わり果てた表情には、本当に驚きました。逮捕された直後の様子も動画で配信されていましたが、足元もふらつき、まともに立っていられない様子で、明らかに普通の状態ではないことが、見て取れました。

ここで話が突然変わり恐縮ですが、実は、私は47年前学習院大学入学と同時に弓道を始め、1年生の秋に初段、2年生で二段、3年で三段、4年で四段に昇段し、その後10年のブランクを経て、五段まで行きました。
弓の引き方については「射法八節」というものがあり、基本の動作は概ね8つの節に分かれます。
@射位(しゃい:弓を射る位置)で的に向かって両足を踏み開く、足踏み(あしぶみ)A両脚の上に上体を安静におく動作、胴造り(どうづくり)B矢を番えて弓を引く前に行う、弓構え(ゆがまえ)C弓を引き分ける前に、弓矢を持った両拳を上に持ち上げる、打起し(うちおこし)D打起こした位置から弓を押し弦を引いて、両拳を左右に開きながら引き下ろす、引分け(ひきわけ)E引分けが完成され(弓を引き切り)、矢が的を狙っている、会(かい)F矢を放つ、あるいは放たれた時の、離れ(はなれ)G矢が放たれた後の姿勢、残心(ざんしん)。

本物の和弓を手に取ったことのある方は分かるのですが、弓というものは、力で引くものではなく、5番目の引き分けの動作のところで、右肩を前に倒すように巻き込みながら、体ごと弓の中に割り込ませていく動作をしないと、弓は開いてくれません。始めるとすぐのめりこむタチの私は、大学の4年間は法律のお勉強など全くせず、ほとんど弓道に専念していたと言っても過言ではなく、そのおかげで卒業までに四段に昇段できたのだと思っています。
ただ、五段に昇段したころ、当時通っていた新宿区の弓道場で教えて頂いた坐禅に強い興味を持ち、さらに弓道界の人間関係に疑問を持ち始めていたこともあり、嫌気がさし、スッパリ弓道をやめ、ヨガと坐禅を始めました。

ただ、弓道をやめ、ヨガを始めてからとんでもないことが起きるようになりました。ヨガの動作をすると体のあちらこちらに痛みが出て来てしまったのです。その原因は体の歪みにあると気が付くまでにそれほど時間はかかりませんでした。それから数年かけて名人のカイロプラクティックの先生に直して頂いたので、痛みが出ることはなくなりましたが、今でも右肩の歪みがひどく、自分ではまっすぐ立っているつもりでも鏡の前で立つとガックリと下がってしまっています。最近の市民検診で、肺のレントゲン写真を撮って頂いた時、鎖骨の下あたりから、背骨が左に湾曲していることを先生に指摘された時は、本当にショックでした。

私は、元々身体がとても柔らかかったので、弓をひくために恐らく何万回も右肩を前に巻き込む動作をしたため、矯正不可能なほど、決定的に歪んでしまっていたのでした。

左右の動作が均等に行われる運動なら、こういうことは起こらないと思うのですが、どちらか一方にばかり偏った動作をする運動は、本当に良くないと、この頃つくづく思うようになりました。

ウッズ選手の現在の状態を知り、やはりゴルフのように片一方ばかりに玉を打つような動作もかなり体に歪みが生じ、良くないのだと今更ながら痛感しております。

ネットで調べて見ても、やはり、ゴルフで腰を痛めたという記事があちこちに見受けられます。
また、弓道で肩を痛めたという記事も、見ることができます。

特に身体の柔らかい方はどのような運動にせよ偏りが出ないよう、バランスを取って、ほどほどにすることが重要であると思います。
そんなことを思っていた時に、この論語の中にある「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉を思い出しました。これはもうわざわざご紹介するまでもないほど有名な言葉です。

この言葉の原義は「何事も程ほどが肝心で、やり過ぎることはやり足りないことと同じように良いこととは言えない。良いと言われることでも、やり過ぎは害になる」ということ。
『論語・先進』にある、孔子が二人の門人子張(師)と子夏(商)を比較して言った言葉に基づくものです。
「水準を越した師も水準に達しない商も、ともに十全ではない。人の言行には中庸が大切である」と説いたという故事が出典です。

[白文]16.子貢問、師与商也孰賢乎、子曰、師也過、商也不及、曰、然則師愈与、子曰、過猶不及也、

[書き下し文]子貢問う、師と商と孰れか(いずれか)賢れる(まされる)。子曰く、師は過ぎたり、商は及ばず。曰く、然らば則ち師愈れるか(まされるか)。子曰く、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。

[口語訳]子貢が質問した。『子張と子夏とではどちらが優れていますか?』。先生がお答えになった。『子張は行き過ぎであり、子夏は不足している。』。子貢がさらに聞いてみた。『そうであれば、子張のほうが優れているということですね。』。先生が言われた。『程度が行き過ぎているものは、不足しているものと同じである。(どちらも程よくバランスの取れた中庸から外れている)』

[解説]孔子は『中庸の徳』の実践を重んじており、才智や能力が極端に行き過ぎているものも、才智が劣っているものと同様にバランスが崩れていて安定性がないと考えていた。常識的に考えれば、平均的な能力・知性よりも極端に優れた人物の評価は高いはずであるが、安定的な持続性と人格的な徳性を大切にした孔子は、敢えて『過ぎたるはなお及ばざるがごとし』という警句を呈したのである。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo011_2.html (出典:Es Discovery's Encyclopedia)

聞くところによれば、ウッズ選手はタイ人のお母様の影響で、自分は仏教徒であると表明なさっているとのこと。
どれだけ世界中に名を馳せようと、巨万の富を得ようと、それで心身を損なってしまえば、晩年は本当に悲劇的になります。せっかく人々に感動と夢をもたらしてきたのですから、余生が穏やかでありますように、仏教が本当の意味で彼の救いになってくれることを、祈らずにはいられません。





2017年 「6月の標語」

家屋の作者よ
汝の正体は見られてしまった
汝はもはや家屋を作ることはないであろう
汝の梁はすべて折れ
家の屋根は壊れてしまった
心は(自己を)形成するはたらきを離れ
妄執を滅ぼしつくした

――― 『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)・感興のことば』 (岩波文庫)  中村 元 (翻訳)

2006年12月に取り上げて以来、「今月の標語」の欄に2度目の登場です。2006年は本堂改築が成り、お寺のウェブサイトを立ち上げた年でもあります。本当に時の経つのは早いもので、あれから11年が経ちました。

出典のダンマパダとは「真理(法:dhamma)の言葉(巴:pada)」です。様々なテクストから仏陀の真理の言葉だけを取り出し、偈(詩)の形にしたもので、パーリ語仏典の中で最もポピュラーな経典の一つであり、スッタニパータとならび現存経典のうち最古といわれております。
上記、標語の前の段は以下の通りです。
「わたくしは、幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、――家屋の作者(つくりて)を探し求めて。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。(ダンマパダ・153)」

そして、154へと続くのです。
「家屋の作者よ!汝(なんじ)の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は(自己を)形成するはたらきを離れ、妄執を滅ぼしつくした。
(ダンマパダ・154)」

家とはもちろん、現実の建物のことではありません。「わたし」を実体化し強く執着する自我意識の象徴です。つまり、家を壊すとは、実体視された自我の殻を壊すということで、ブッダはこの時「わたし」という幻想から解放された、と宣言されているのです。
そして、そのことによって、生まれ変わり死に変わりから解放され、もう2度と人間としてこの地球上には生れてこないぞ!という喜びの声を発したのです。
仏教の原点は、こうした極めて人間的苦しみから、起こったものだということを再確認したいと思います。

宗教としての仏教は、今から約2500年前(紀元前5世紀)に、自身の苦しみの原因とその解決法を見出したゴータマ・シッダールダが周囲の人々にそれを提唱し始めたことにより、インド北部ガンジス川中流域で発生しました(初期仏教)。

仏教の世界観は必然的に、その当時の世界観である輪廻と解脱の考えに基づいております。輪廻転生(生まれ変わり)はゴータマのオリジナルの思想ではありません。「人の一生は苦であり、永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむ。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指す」ということが当時の精神修養の目的でもありました。

ではどこがブッダのオリジナルかと申しますと、こうした輪廻や解脱を「因果論」に基づいて再編したことと言えるでしょう。

仏教では生きることの苦から脱するには、「苦悩は執着によって起きるという」真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)とします。そしてそれを目的とした出家と修行、また出家はできなくとも善行の実践を奨励しています。(八正道)。

このような理論を背景としておりますので、仏教では、ブッダの実体験を最大の根拠に、現実世界で達成・確認できる形で教えが示され、それをあくまでも個々人が自分で実践することを勧めているのです。

当然ながら、「私を信じなければ不幸になる。地獄に落ちる」という類の言説は一切ありませんし、逆に「私に祈れば、病気が治る、お金が儲かる」と言った安易な態度もとりません。
あるいは、やりたい放題、言いたい放題の生活をおくっていながら、口だけムニャムニャとおまじないを唱え「○○○様が救いとってくれる」などというのんきな態度は、もちろん仏教でもありません。

仏教における3つの根本思想、「三法印」の思想は古層仏典の法句経ですでに現れ、「諸行無常・諸法無我・一切行苦」が原型と考えられています。 大乗仏教では「一切行苦」の代わりに涅槃寂静をこれに数えることが一般的ですので、これに再度「一切行苦」を加えることによって四法印とする場合もあります。
1.諸行無常=一切の形成されたものは無常であり、縁起(因と縁によって生滅する)による存在としてのみある。
2.諸法無我=一切の存在には実体はない。
3.涅槃寂静=苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である。
4.一切行苦=一切の形成されたものは、苦しみである。
(以上、仏教教理についてはWikipedia参照。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

最近、私の周りで、余命を宣告されている人々が数人いらっしゃいます。病気による肉体の苦しみに加え、死に対する漠然とした不安、肉体が無くなることへの本能的恐怖、愛する家族と永遠に別れなければならないのか、等々、実際にその立場に立たされたら不安に駆られることは容易に想像できます。
(ただここで余命を宣告されたと申しますと、不気味に感じるかもしれませんが、私とて遅かれ早かれ死にますので、実刑判決か執行猶予か位の違いでしかありません。)

そういう方たちには、お手紙を書くことにしています。以下はその抜粋です。
「この地球上に、人間として生を受けるということは、よほど優れた霊がその使命の為に現れる以外、我々のような一般人は、苦の娑婆世界を生きることによって魂の修行を積んでいくことが目的です。
ですから、もろもろの条件が重なって、この世の修行を早く切り上げられるということは、私は基本的に幸運なことだと思っています。必死にやっていたトレーニングから解放されるのですから…
私の場合、仏縁によって修行に導いていただけ、何十年も続けることができたので、宇宙の真理を学ぶことができて最高に幸せな人生でした。
もし、今診断されていることが現実のものになった時、どうしたら最善の状態になると思われますか。いずれ皆天に帰る時が来ますから、貴女の家族との別れは一時的なものです。今の貴女の病状に直面して、ご主人やお子さんたちは、貴女よりもっと不安に満ち、もっと動揺しているかもしれませんね。そうした時、どうしたら、ご家族を癒してあげられるか、そのことを一緒に考えていきましょう。」

また、別の方への手紙です。
「私の姉も61歳で、4年前に癌で亡くなりました。日本人の2人に1人は癌になるそうで、ご葬儀の時も、最近は低年齢化していることを痛感します。
ただ、私自身は僧侶という仕事を通して、魂の声を肌で感じることが多くなりましたので、「死=忌むべきもの」という実感はありません。だって、死んだ人で、もう一度こちらに戻りたいと言ってきた人は、今まで一人もいませんでしたよ。
今、貴女の余命が本当に予告された通りになるならば、私が心配するのは二つだけです。この世に何か執着するものがあり過ぎて未練が残ること、後、肉体を離れた後に自分死んだことに気が付かないで、いつまでも、この世にウロウロしてしまうことですね。よく成仏していないと申しますが、あれは、死んだことに気が付かないでいつまでもそこら辺をウロウロしている魂のことです。実はこういう状態の方が、想像以上に多いのです。
死ぬということが、拍子抜けするくらい楽なことなので、このようなことが起きてしまうのかも知れません。

常宿寺のHP「ヨガのページ」にも書きましたが、肉体の本性は、一言でいうならば「束縛」です。肉体を纏って生きているとは「牢屋」の中で暮らしているようなものなのです。だから「死」とは、鳥籠から、鳥が自由の身になって解き放されるに等しいことなのです。私自身は、ですから、死ぬことは結構楽しみです。
実は今、お寺で全く新しいことを始めようと計画しており、全てのことをなげうって、その準備に時間を割いており、メチャクチャ忙しいのですが、それなりに楽しい日々です。出来れば来年には始めたいので、死ぬことは予定していませんが、それでも、もし余命を宣告されたら、今の、恥ずかしい位散らかっている身の回りを片付けて行けるので、それはそれでいいかなと思っています。今まで散々ご迷惑をお掛けしてきて、最後の最後まで身の回りの片づけを人様にやってもらうなど、考えただけで申し訳ないので、有難いです。
あちらの世界は魅力的ですよ。だからこそお釈迦様がこんなに苦しくて汚い地球上に生まれてくるのは2度とゴメンだと思われたのです。ただし、私はまだまだ修行が足りませんから、せっかくあちらに戻っても、「まだお前は修行が足りん」と、もう一度地球に落とされ、修行のやり直しをさせられる可能性があり、そちらの方が嫌ですね。」

皆さんが、もしかしたら次に行くかも?と心配している地獄とは案外この地球のことかもしれません。現に、今まさに戦争状態にある国、人々が憎みあい、殺しあっている地域はいくらでもあります。そういうことに無関心で、自分とは無関係だと思い、今まで「水と安全はタダ」と思っていた呑気な日本人の頭の上にも、もしかしたらミサイルが落ちてくるかもしれない時代になりました。

ちなみに、手紙の中で「死んだ人で、もう一度こちらに戻りたいと言ってきた人は、今まで一人もいませんでしたよ。」と書きました。
では、どのような声が一番多かったか?それは、残した家族になんでか「申し訳ない」というもの。これは本当です。そして、亡くなったと思われている人が一番嫌がるのは、残された家族が泣くこと、でした。

皆様の心の平安を、ただただお祈りしております。合掌

2017年 「5月の標語」

たとひ百歳の日月は
声色の奴卑と馳走すとも
そのなか一日の行持を行取せば
一生の百歳を行取するのみにあらず
百歳の他生をも度取すべきなり

―――  『正法眼蔵』「行持(上)」

最近ヨガの時間に、皆様にお話をしていた時、「食べたいだけ食べ、寝たいだけ寝て、ヨガをやりたいなんてチャンチャラおかしい」と申しました。
ヨガにみえる人の中にも様々な方がいらっしゃいます。今の健康志向の世の中で、「だれでも簡単にできる楽な運動」程度の認識と、お賽銭で参加できる…、と安易な気持ちで始めた方には、真剣味に欠ける方が多く、実は見えない部分で足を引っ張られることもあるのです。

 その時の、参加者や、皆さんの気の持ち方ひとつでがらりと雰囲気が変わり、「今日はよかった」と思える時と、逆に「骨折り損のくたびれ儲け」となってしまうこともあります。
 以前は、我慢して様子を見ていましたが、あまりにも無神経、空気が読めない場合には、最近は方針転換して、はっきり注意するようにしました。先日も、3人辞めてもらいました。

道元禅師のこのお言葉は、以前にもこの欄で取り上げました。

『正法眼蔵』「行持(上)」巻から少し長く引用しますと以下のようになります。
「しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生をも度取すべきなり。`この一日の身命は、たふとぶべき身命なり、たふとぶべき形骸なり。かるがゆえに、いけらんこと一日ならんは、諸仏の機を会せば、この一日を礦劫多生にもすぐれたるとするなり。このゆえに、いまだ決了せざらんときは、一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日は、をしむべき重宝なり。」

「だから、一日を大切にしなければならない。空しい生き方で百歳生きたとしたら、それは後悔すべきであり、誠に口惜しく、悲しむべきことである。たとえ百年という歳月を肉体の五欲(煩悩)の奴隷となって、駆けずり回って虚しく生きていたとしても、そのなかの一日だけでも仏道を修行し、仏祖の行いを実践すれば、この百歳の生が価値のあるものとなるだけでなく、これから先の生も済度する(すくう)ことができるのである。だからこそ、仏道を行ずる一日の命は誠に尊い命であり、貴重な身体なのである。生きていたのがたった一日であっても、その時に諸仏の機(はたらき)と会うことが出来たならば無限の長い間、何回も生を重ねるよりも、優れたことなのである。だからはっきり見極めがつかない間は、一日も虚しく過ごしてはならない。この一日は何物にも代えがたい宝なのである。

 お寺のヨガでは、常々「身体の本性=束縛」ということを申し上げております。それは、坐禅や、ヨガ、呼吸法などと、真剣に取り組んでいれば、おのずと教えて頂けるようになって参ります。
「食べたいだけ食べ、寝たいだけ寝る」状態を「声色の奴卑と馳走す」つまり、煩悩の奴隷になっていると申します。

道元禅師もそれに振り回される愚かさ、そのような生き方を戒めておられます。だからこそ毎日の生活では「なすべきことがある」とお釈迦様も道元禅師もおっしゃっているのです。

「愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎにまさる楽しみは存在しない。」(『法句経』第15章楽しみ202)
かりそめの身(khandha)とは「蘊」と漢訳され、我々の変化する生存の諸要素の集合、肉体を持った個人存在を指します。
この「やすらぎにまさる楽しみは存在しない。」の「やすらぎ」は、当然ながら、容易なことで成し遂げられるものではありません。

私が、「一日一食、朝食のみの生活」と申しますと「栄養が取れないのでは」とか、「5時間睡眠」というと「7時間は必要」とかいう人もいます。こういうことを言う人は、いわゆる、世間一般常識と言われていることを鵜吞みにしているだけであって、世の中で言われていることがそんなに正しければ、この世の中も、もっと、まともな方向へ行ってもよさそうなはずではないでしょうか。

そもそも、こんなセリフを、本堂の中で、私の前で堂々と言うあたり、いかにも空気が読めないというか、お寺の道場で何を目指しているかについて、全く、何の気付きもないことになります。
昨日今日ならともかく、一年以上通ってきてこのセリフでは、頭を一発位殴ったところで気が付かないでしょう。

「癒しを共有したい」という想いで、すべての行事を行っておりますが、この癒しとは、当然のことながら、御馳走を食べたり、温泉旅行にいったり、と言ったような癒しではありません。世界の人々が本当の意味で、安らかに平安に暮らせる、世界を、自分自身を清めていくことによって清めていく、そういう意味の本当の癒しです。生半可なことでは、成し遂げられないことは自明の理です。

どうも皆さんの様子を見ていると、真剣味に欠けるような気がしてなりません。
なんとなくやっていたらなんとなくの成果しか出ません。
いい加減にやっている人が多く出入りしていると、お寺もいい加減な雰囲気になって参ります。そうならないようにご協力頂ければ幸いです。

「働くために食うか、食うために働くかこれが大事なことである。たいていの者は食うために働く。これでは人間一生口につかわれる。これはもう負け戦で、そんな人間はまことに困った弱虫の動物、口に全部使われるという動物なみの人間といわなければならぬ。われわれはなんらかの使命のために命をつなぐので、そのためにこそどうしても食べなければならんのである。」沢木興道(『禅談』「食堂の宗教」148頁)

 皆さんの使命は何でしょうか。何のために、日々の糧が与えられ、過ごしていけるのか。
日々の食事を目の前にした時、今この食事を与えて頂けるにふさわしい行いをしているか、お互いに、心して頂きたいと思います。

2017年 「4月の標語」

人はみずから繋念(けねん)して
量を知って食をとるべし
さすれば、苦しみ少なく
老いることおそく
寿を保つであろう   

―――  相応部経典、3,13、大食

これはコーサラ国の王パセナーディの大食を戒めてお釈迦様がおっしゃったお言葉です。2009年11月にこの欄で取り上げましたが、最近このテーマに関する興味深い記事を目にしましたので、再度取り上げました。

Will Eating Less Help You Live Longer?  VOA News
http://learningenglish.voanews.com/a/will-eating-less-help-you-live-longer/3738785.html

米国の研究者らによると、食べる量を減らすことで体の細胞の老化作用を遅らせることができる。
今回の発見はいいニュースだ―もしもあなたがネズミだったなら。
研究者らは人ではなく、マウスを観察した。

ジョン・プライスは、米国ユタ州にあるブリガム・ヤング大学の生化学教授だ。
彼と他の研究者らは、マウスの2つのグループを観察した。 1つのグループは、食べたいだけ食べることができた。 研究者らはもう一方のグループにいる、別の動物が食べるものは制限した。 彼らの食餌は第1グループのマウスより、カロリーが35%低かった。

プライスは制限された食餌を与えられたマウスは「より活動的で、病気が少なかった」と述べている。 彼らは長生きなだけでなく、長い期間にわたって若さを保つようだった。

研究者らはカロリーを減らすことが、リボソームと呼ばれる細胞内の自然な作用を遅らせると理解した。 プライスはリボソームには細胞内で重要なたんぱく質を組成する役割があると説明する。 しかしカロリーが少ないと、それらは遅くなる。

プライスは老化を遅らせる手段としてのカロリー制限が、人には実験されていないと言及した。 しかし彼は加えて、人間にとって主要な研究結果は「我々の身体を管理する重要性」だと述べている。
プライスによると、この実験結果は我々の身体がそもそもどのように老化するのかを説明する助けになる。 そしてこのことは「我々が食べるものに関して、より良い決定を下す助けになる」かもしれない、とも述べている。

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私は、30年前に坐禅を始めた当時、それまでは、生まれてこの方それが当たり前のことでしたので、一日三度食事をしておりました。それが、坐禅を始めてみると、早朝3時〜4時に起きて、坐禅を組もうとすると前夜の食事をとらない方が、目覚めがずっとよく、すっきり起きることができると気が付きましたので、夜の食事は止めてしまいました。
さらに、今から4年前の秋、お葬式に続いて枕経が入り、昼食をとる暇がなく、結局朝食から次の朝食まで食事をする機会がありませんでした。この時はさすがにお腹がすきすぎて翌朝の坐禅に障りが出るかと思っておりましたが、朝になってみると意外に調子が良いということに気が付き、その時から昼食もやめて、一日一食になりました。
一食と言っても、もちろんバランスには配慮しますので、食パン一枚の時なら、野菜サラダ(レタス、トマト、アボガド、パプリカ、玉ねぎなど山盛り)、豆乳250ml、納豆(なめこ和え)、ブロッコリスプラウト、果物。
この組み合わせは必ず頂きます。
そもそも一日一食になってみると、当然のことですが、作って食べて片付けてという時間が必要ないので、使える時間が増えました。しかも翌朝までには完全に胃腸が空になるので、以前よりずっと体調がよくなりました。
人から、お腹がすきすぎて寝られないということはないですか?とよく聞かれますが、夜9時〜10時の間に布団をかぶっても、必ず翌朝2時台には目が覚めてしまうので、夜8時頃には空腹より眠気との闘いの方が大変です。冷蔵庫の前に立って食べ物を探すより、布団に早く入って休みたい気持ちの方が強いので、つまみ食いをする心配はゼロです。当然食費もそんなにかかりません。お寺では私の食費より確実に猫5匹の食費の方が多いです。

以上の記事はリボソームと寿命についてでしたが、以下の記事は遺伝子との関連についての研究です。

「老化を遅らせ長寿になる秘訣は空腹状態を保つこと(イスラエル研究)」2012年03月09日
http://karapaia.com/archives/52072007.html

イスラエルのバール・イラン大学研究チームは、「サーチュイン遺伝子」を活性化することで、マウスが約15%長生きするという研究結果を2月23日付の電子版学術誌『ネイチャー』に発表した。

 サーチュイン遺伝子は“長寿遺伝子”、“若返り遺伝子”とも呼ばれ、日本のテレビなどでも話題となった遺伝子だ。哺乳類が有する7つの同遺伝子のうち、欠損すると加齢症状に似た異常が出る「サーチュイン6」に注目した同チームは、遺伝子組み換え技術で、この遺伝子の働きを高めたマウスを2系統作成し、寿命の変化を調べた。その結果、オスのマウスでは、平均寿命がそれぞれ14.8%と16.9%延びたという。

 つまりはサーチュイン遺伝子を活性化させることが不老長寿の鍵を握るわけなのだが、さてどうすればこの遺伝子が活性化するのか?その秘訣はカロリーの摂取を抑え、空腹状態を保つことにあるという。

 サーチュイン遺伝子は、老化やがんの原因とされる活性酸素の抑制や、病原体のウイルスを撃退する免疫抗体の活性化、さらに全身の細胞の遺伝子をスキャンして修復するなど、さまざまな老化防止機能をもつとされる。1999年にマサチューセッツ工科大学生物学部のレオナルド・ギャランテ教授により酵母から発見された。その後の研究でこの遺伝子を活性化すると、ショウジョウバエの寿命は30%、線虫の寿命は50%も延びることが判明している。

現時点ではまだ「人間の寿命」に対する効果が学術的に証明されているわけではないが、実はマウスのように遺伝子組み換えをしなくても、「サーチュイン遺伝子のスイッチを入れる方法」がすでにわかっている。それは“腹ペコ”で我慢することである。

 「飢餓状態になると、サーチュインが活性化されることが判明しています。サーチュインが指令を出して、ミトコンドリアやタンパクの凝縮したものなど、細胞内にある老廃物を排除するオートファジーという機構が働き、細胞が若々しくなるのです」(金沢医科大学・古家大祐教授)

 サーチュイン遺伝子は、空腹の状態、つまり摂取カロリーが減ると活性化する。これは動物としての防衛機能と考えられ、食料が減って養分が足りなくなると、細胞レベルの損傷を防ぐために修復機能が活性化するというわけである。
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 現在の日本では1日3回が一般的な食事回数とされています。厚生労働省のホームページには「バランスのとれた適切な量の食事を心掛けるとともに、食事をする時間や食べ方などにも注意し、1日3食規則正しく食べましょう」と書かれてあるようですが、過食に伴う肥満や生活習慣病の増加の問題、また、日本人の2人に1人がガンになり、3人に1人がガンで亡くなると言われている昨今、果たしてそれが本当に正しいのかどうか私には疑問に思えてなりません。

 交通機関が発達し、ほとんどの家事は電化製品がこなしてくれるようになり、我々の運動量はますます少なくなっています。戦後の教育を受けた我々は、カロリー摂取と栄養バランスをうるさいほど言われて育った年代ですが、私の周りを見回してみても、この栄養教育のおかげで皆がより健康になったという実感は全く持てません。
 私の姉は、学校で皆勤賞をもらったほど健康でしたが、4年前61歳で、癌で亡くなりました。60代ならまだよい方で、最近のお葬式は、30代、40代なども珍しくなく、若いお母さんが癌で亡くなり、まだ小さな子供の手を若いお父さんが引いているのを見るだけで胸が痛みます

お釈迦様のお言葉通り「人はみずから繋念(けねん)して、量を知って食をとるべし。」人それぞれ自分の身体と状態をよく観察して、自分に必要な量と時間を知る必要がある時期に来ていると、痛感します。
少なくとも、ちょっとお腹がすいたからと言って、すぐ何か口に放り込むというような悪い習慣だけはやめるべきだと思います。(~_~;)

2017年 「3月の標語」

2月9日(木)
『ほっとイブニング』
常宿寺からNHKが生中継
顛末記 取材風景はこちらからご覧下さい。

――― 常宿寺住職 岡本慧光

1月20日(金)朝、これからお月経に出かけようとしていた時、1本の電話が掛かってきました。
それは東海3県(愛知、岐阜、三重)で平日夕方6時10分から放送されているNHK名古屋放送局のニュース番組『ほっとイブニング』で、中継を担当なさっていらっしゃる辻勝氏からのものでした。
辻さんは、元旦の中日新聞に掲載された記事(当サイト内「お寺でヨガ」参照)をご覧になって、お寺でのヨガ教室や、ヨガを住職自身がやっているということに興味を持たれたとの事等をお話し下さいましたが、その時にはすでに、お寺のウェブサイトを読んで頂いて下さっていることが十分に伝わって参りました。
『ほっとイブニング』は、いつもウチの猫達にご飯をやったり運動させたりする時間なので、ニュースや天気予報をチェックするために、毎日視聴しており、アナウンサーの池田達郎さん、福永美春さん、そして気象予報士の寺尾直樹さんはお寺の猫達にもお馴染みの方たちです。(特におバアの月子は天気予報をじっと見ていることが多く、翌日の天気が気になるのでしょうか?それとも私と同じ寺尾さんのファン?)
いつも見ている番組で、お寺から中継されるという事態に、初めは本当に信じられない思いでした。

翌日は土曜日で、ヨガのある日でしたので、辻さんは常宿寺に来て下さり、皆さんと一緒に体験なさいました。これは取材をお受けする時には、いつも私がご提案するのですが、実際に体験してみないと分からないと思うからです。この時に、これからの段取りをご説明頂きましたが、シナリオを作成したり、2日前には中継車やスタッフとの打ち合わせがあるなど、伺っている間にこれは大変なことなのだと、少しづつ実感が湧いてきました。
そもそも、ヨガは、土日午後3時に行っているのに、放送予定の9日木曜日には4時半にリハーサルなども始めるのでメンバーの方には、それから中継放送終了までお付き合いして頂かねばなりません。平日の夕方ですと、皆様お仕事の時間とか都合の悪い方も多かったので、最終的に13名の方が協力して下さったのは本当に有難かったです。

辻さんはその後、1月29日、2月4日と実際のレッスンに全部で3回見えて、その都度打ち合わせを行い、シナリオを作り上げていきました。
打ち合わせと言えば、まず初めにこんなことがありました。初めて辻さんが見えた時、終わった後のお茶の時間に、参加者の中には、私のことを庵主様と呼ぶ方もあり(これはこの地域では尼僧のことを昔からこう呼びますので普通なのですが)私のことを番組内で庵主様と呼ぶのか、住職と呼ぶのかと尋ねられました。その時は「どちらでも結構です」とお答えしたのですが、一晩考え、翌朝にお電話し、「住職」と読んで下さいとお願いしました。

そもそも、中日新聞の記事の時、中身を事前にチェックさせてもらえないかお願いしたのですが、だめだと言われ、記事が印刷され、配られてから記事の表題が「心身見つめ尼僧とヨガ」となっていた時には正直言って、一瞬「アチャー」と思いました。そして、辻さんが持っていらしたシナリオの表題も当初は「尼寺」となっておりましたので、これも「尼寺ではなく、お寺にしてください」とお願いしました。
「庵主様」と親しみを込めて呼んで下さる方も多くいらっしゃる一方で、ごく身近の特に年配の方から、面と向かって「尼寺はお寺ではない、庵主さんはお寺の留守番」と言われたことがありました。戦後は先輩の方々のご尽力により、尼僧も機会的には、全く男女平等になり、ウチのお寺も宗教法人であり、私はその代表役員なのですが、それを、尼寺というと、こちらの体感的には差別用語に等しい響きがあることは否めないのです。そもそも開祖道元禅師様は「設い七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずること勿れ、これ仏道極妙の法則なり。」とおっしゃるほどにリベラルな方でいらしたので、我が宗門の曹洞宗の中では、男女差別は絶対ないと心から信じておりますが、世の中的にはまだまだと思っております。
脇へ脱線してしまいましたが、このように細かいところまで、要望や変更点をいちいちお願いしましたが、それらを全てかなえて頂けたことに本当に心から感謝申し上げております。

2月7日、放送の2日前、当日中継して下さる豊田美穂キャスターとスタッフの方4名が、中継車と共に見えました。打ち合わせを行い、電波のテストなど、あらましをチェックして行かれました。

さて、いよいよ本番の2月9日(木)になりました。この日は、天気予報によりますと降雪も予想され、心配しましたがそうひどくもならず幸いでした。
頂いたシナリオでは、13:00、スタッフ顔合わせ、局内準備、14:00(名古屋を)出発とあります。午後6時半頃からの僅か6分の為に中継車ともう一台のマイクロバス、総勢9名のスタッフの方が、14時30分過ぎにはお寺に到着。シナリオには沢山専門用語が書いてありますが、分かる部分だけ書き出してみますと、現場到着、機材搬入、現場説明、セッティング、最終打ち合わせ、ドライリハーサル(カメラを通さないリハーサル)、となっています。併せて『夕刊ゴジらじ』というラジオ番組も17時40分から中継するということで、その準備も並行して行われました。
まず一番初めに、豊田キャスターと私にピンマイクが渡されましたが、ウェストポーチのようなものの中に発信機(?)が入っていてマジックテープで止めるようになっていて、それを作務衣の中に着け、マイクを襟の外から止めました。これは録画しておいたものを後で見て、つくづく感心しましたが、こちらの音は全部拾っているのですが、私と豊田さんが対話している時は同じ音量で、そうでない時は私の声はちゃんとバックで音が小さくなるように調整されていたことでした。
4時を過ぎる頃から参加者の方も来て下さいましたので何度かリハーサルを繰り返しました。辻さんがその度に時間を計るのですが、どうしても7分を過ぎてしまいます。最終的には5分20秒で納めねばならず、あの部分この部分とその度に短くしていきました。そして、5時10分名古屋放送局とつないで通しのリハーサルが行われました。
冒頭の坐禅のシーンの次は、開脚前屈のはずが名古屋から「準備運動にしかみえず、ヨガに見えない」と言われ、急遽三角のポーズに変更になりました。急な変更だったので皆さんが揃うか心配でしたが、後で見ると大変綺麗に揃っており、これも安堵しました。
そうこうするうち、5時40分には『夕刊ゴジらじ』の時間になり、これはほとんど豊田さんが主にお話しになり、後は参禅者の加藤さんへのインタビューでしたので、私は楽でした。
6時10分、いよいよ『ほっとイブニング』の番組開始です。恐らく、辻さんと豊田さんは、生で放送されている音声がイヤホンで逐一入っているので、現在何を放送していて、あとどのくらいでこちらに来るということが分かっていらっしゃるのですが、私には分かりません。「そろそろです」と言われ指定の立ち位置に立ちました。5,4,3、と秒数が刻まれている時も、全く緊張はしませんでした。ただ見ている方としては「緊張してましたね」という方もいらっしゃいましたが、実際やってみて思うことは、素人がテレビカメラの前で自分の伝えたいこと話したいことを言おうとすると、どうしても抑揚が無くなり棒読みのようになってしまうということです。豊田さんにも、マイクが来るとご住職は顔が怖くなると、注意されましたが、元々の顔なので仕方ありません。何度練習してもダメなので、ついにあきらめました。
この度実際に体験してみて、普通に見えるアナウンサーさん、タレントさんたちのスキルがどれほど鍛えられ上げられたものであるかということをまざまざと思い知りました。今回中継して下さった豊田さんの滑舌も立ち居振る舞いも見事で、ほとんど感動モノでした。私は隣りで終始彼女の引き立て役でした。
ヨガの実演も終わり、最後に皆さんの坐禅の場面になったとき、(後で分かったことですが)カメラがず〜っと本堂内を廻って皆さんの姿を追っていき、スタジオの池田さんが「綺麗な姿勢ですね〜皆さん」と言って下さって、その時にぴったりのタイミングで、毎日坐禅に励んでいらっしゃる加藤さんのりっぱな坐禅の姿がクローズアップされ、最高のエンディングを迎えることができました。

お寺からの生放送は6時40分に終わりましたが、それからの撤収作業のなんと早いこと(!)、7時には全ての荷物を片付けてお帰り頂けたので、それから遅ればせながら猫たちにご飯をやることができました。その間に、早い方は早速お寺にヨガに来たいと電話でお申込みを頂いたり、皆様方の感想のメールが次々と届いたり、あまりの反応の速さに驚きました。
「坐禅、ヨガが美しくて感動した」という感想を多く寄せて頂きました。やはり「地道な日々の精進は裏切らない」という実感を、私自身も後で録画を見て、そう思いました。お寺に足を運んで下さる方のみならず有形無形にお寺を支えて下さっている皆様に住職として心から感謝申し上げております。

またまた余談ですが、先日、いつもお世話になっている眼科に行きましたが、診察室に入っていくと先生が突然大きな声で「あ〜! 岡本さん、この間テレビでてたね〜! 俺もやりたいな〜」と言われ
 \(◎o◎)/! 先生はとてもお忙しい方でいらっしゃるので、まさかの出来事でした。

当日の模様を、NHK名古屋放送局のウェブサイト上、「アナウンサー・キャスター日記」で豐田さんが報告して下さっていますので、よろしかったらご覧ください。
http://www.nhk.or.jp/nagoya-ana-blog/310/262880.html
http://www.nhk.or.jp/nagoya/gojiradi/archives/2017/0209/index.html

別途カメラマンの方に一部始終を撮影してもらいましたので、近日中に、お寺のウェブ上で動画をアップする予定にしております。

現在は、土日いずれのクラスもお申込み多数で、満員になってしまい、空き待ちの状態です。
NHKから参加者の方に名入りのタオルと、お寺にNHKオリジナルのクッキーを記念に頂きましたが、それぞれのクッキーに番組名の入った珍しいもので、後日ヨガの時間に皆様と一緒に美味しく頂きました。m(__)m
NHKクッキー NHKクッキー

2017年 「2月の標語」

インスピレーションは
決して空虚な心には与えられません
それを得ようと血の滲むような苦心
努力をしている心のみに
与えられる尊い賜物です 

――― アルベルト・アインシュタイン

私は、坐禅中に よく自身の身体を宇宙から眺めた鳥瞰図としてイメージすることがあります。そうしていると今この坐っている大地は、盤石にじっと動かないように感じていても、実は地球は宇宙空間の上で浮いていて(!)、この、浮いているという気付きだけで、即、身も心も軽くなるので不思議です。(^^)
さらに、浮いているのみならずフルスピードで回転しながら移動している。しかもそれが寸分の狂いもなく、すべてが因(cause)と縁(condition)によって運行している。だからこそ科学者達もそれを発見することができる。約束通りだからこそ夜が明けると朝が来るし、冬が過ぎれば春になる。そう思っただけでワクワクしてきて日常的などのような事柄も大したことのないように思えてくるのです。しかも、広大な広大な宇宙のスケールから見れば、私の存在などウィルスの一個より小さいわけで、そうイメージするだけで、すべてのしがらみから解放され、逆に限りなく自由になっていくことに気が付きます。
ただ、自分のことなど大したことないと浮かれているばかりではなく、たまに偶然起こった様に思えることでもすべてが約束通りに生滅しているとすると、そのことを常に肝に銘じて行いに気をつけねばならないと日々思う所です。

物理学は学校に通っていた時は全く得意ではありませんでしたが、(当然今でも苦手です。(-_-;))それとは別次元で宇宙についての記事などを読むのは大好きで、NHKのEテレ『サイエンスゼロ』は土曜日午後12:30からの再放送をよく見ています。

少し前のことになりますが、2016年2月放送(No535)の『サイエンスゼロ』で「世紀の観測!重力波 〜アインシュタイン最後の宿題〜」をやっておりました。
その時のNHKの放送内容紹介が以下のようになっています。
「先日、ビッグニュースが届いた。アインシュタインが100年前にその存在を予言した「重力波」がついに観測されたというのだ。重力波は、ブラックホールなど質量の大きな物体が動く際、周りの時間と空間がゆがみ、そのゆがみが波のように伝わる現象だ。アインシュタインが一般相対性理論で予言した数々の事象のうち、最後に残されたもので、観測できたらノーベル賞級と言われてきた重力波。ZEROは予定を変更し、このビッグニュースに徹底的に迫る!」

アルベルト・アインシュタインは一般相対性理論の中で重力波の存在を予言していたそうですが、彼自身はそれを直接観測することは無理だろうと言っていたそうなのですが、LIGO(Laser Interferometer Gravitational Wave Observatory)が、なんとそれに成功したというのです。

LIGOが2月11日(現地時間)記者会見を行ない、重力波の直接観測成功を正式発表しました。彼らはこの数カ月、昼夜を問わず重力波の存在を示すシグナルの検証を行なってきました。

LIGOによると、重力波が観測されたのは現地時間2015年9月14日午前5時51分、米国ルイジアナ州リビングストンとワシントン州ハンフォードにある2台の検出器の両方ででした。重力波の元となったのは13億年前(!)に起きた超巨大なブラックホールの衝突だそうです。それが起きた時点では、太陽の3倍の質量が一瞬でエネルギーに変換されたと言います。
なんとスケールの壮大な話ではありませんか!あまりに大きすぎて想像しただけで目眩がしそうです。

LIGOは2002年から重力波観測に挑んでいましたが、最初の8年間はほとんど成果がありませんでした。そこで彼らは2010年から2015年にかけてアップデートを行ない、去年の秋に検出感度を高めたAdvanced LIGOをデビューさせていました。今回の重力波観測は9月14日ということなので、Advanced版を立ち上げるやいなやすぐに見つけたという感じですね。そしてその後の約5カ月間、彼らは検証に検証を重ねてきたことになります。

今回発見された重力波の元となったブラックホールの衝突は、それぞれ太陽の29倍と36倍の質量を持つブラックホールによるものでした。LIGOではそのときのエネルギー出力は、目に見える宇宙全体の50倍もあったと推定しています。

「今回観測されたことについては、100年前のアインシュタインの一般相対性理論の中で美しく説明されています。これはまた、強重力に関する同理論の最初のテストとなっています」とLIGOでの重力波検出を1980年代に初めて提案したRainer Weiss氏は言います。「今この発見をアインシュタインに報告できたら、どんな顔をするか見てみたいですね」Maddie Stone-Gizmodo US[原文]より抜粋。
http://www.gizmodo.jp/2016/02/_gravitationalwave_official.html

この『サイエンスゼロ』を見ていた時、彼の天才ぶりに改めて驚嘆したことを鮮明に思い出します。そして、凡人の私は、天才というものは、労せずしてひらめきと共に新しいアイデアがどんどん出てくるのだろうみたいなイメージを勝手に思い描いておりました。

そう思っていたところ、つい最近目に触れた書物の中に以下のようなアインシュタインの言葉を見出した時には、本当に衝撃でした。
「インスピレーションは 決して空虚な心には与えられません。それを得ようと血の滲むような苦心、努力をしている心のみに与えられる尊い賜物です」

あの天才にして、血の滲むような苦心、努力の賜物と言わしめているのですから…
天賦の才能のない私など、血の滲むような苦心、努力をしたとしても…(-_-;) (-_-;)

しかし落ち込んでばかりもいられません。このアインシュタインの示唆する言葉の意味は、まさに仏陀の説かれた「常精進」です。
ここで忘れてはならないことは「縁起の法」「常精進」を仏陀は2500年も前に既にこのことを説かれていらっしゃるということです。そのように気が付くとき、仏陀はどのような科学者にも勝る天才だったのだと、あらためて思い至ります。

2017年 「1月の標語」

生死事大 無常迅速
時不待人、謹勿放逸

――― 『祖堂集』巻三、一宿覚和尚章

常宿寺の本堂に「謹白大衆 生死事大 無常迅速 時不待人」と書かれた木板が掛かっています。この特大の分厚い絵馬の様な板は、禅の専門道場に懸けられていて、雲水(修行者)たちに時間を知らせる為に用いられています。以前は泊りがけの行事を行っていた時に使っておりましたが、最近は私の晋山結制の時に使ったのみで、すっかり飾り物になってしまいました(-_-;)

「謹白大衆 生死事大 無常迅速 時不待人」は「きんぱくだいしゅ しょうじじだい むじょうじんそく ときひとをまたず」と読みます。

「謹んで修行僧に言う 生と死は人生上の重大な課題である 時間というものはどんどん過ぎてしまい 待ってはくれないのだから 心して修行するように」ということです。

お山でパーンパーンと響き渡るあの音を聞くと、単に時間を知らせるためでだけでなく、これを聞く修行者に、時の無常を喚起させるためなのだなあとしみじみ思います。

最近、木板の音を聞くまでもなく、年のせいでしょうか、時間のたつのが早すぎて「無常迅速 時不待人」を痛いほど実感しています。

私ども僧侶の場合は、一般の方より、死者に向き合う機会が多いので、さらにこういった気持ちが強くなってまいります。私は、坐禅を志して出家しましたので、全くうかつにも僧侶とはこれくらい死者と向き合うものなのだということなど全然意識しておりませんでした。

スティーブ・ジョブズも常に死を意識し、鏡に向かい問いかけていたようです。
「もし今日が人生最後の日なら、今日やることは本当にやりたいことだろうか?」
毎日、自身に問いかけたい言葉ですね。

普通には、人より死者に会うことが多いと「縁起でもない」とか、悲観的になるだろうと思われるかもしれませんが、実は逆なのだと最近気が付いて参りました。私の場合、死者からのメッセージが直に伝わってくる、と言うか乗り移られるというか、微妙なところですが…(-_-;) お陰様で、「死」のイメージも180度変わってしまいました。(ここだけの話ですが、向こうに行った方でこちらに戻りたがっている方は、今までは一人もいませんでした。よほど良い所のようですから、私自身は楽しみにしています。ただし修行の為に人間をやらされているのですから、自殺はだめですよ。(^^) )

先月も取り上げました、お気に入りのサイト、TABI LABOにこんな記事があります。
これを読んだとき、今の私の状態を丸々書かれているように思いましたので、ご紹介させてください。
(最近、コピペが多くてスミマセン。事情をお察し下さいm(_ _)m )

「常に「死を意識している」人たちが、人生を最高に楽しんでいる9つのワケ」より抜粋
平野星良 TABI LABO ライター   LIFESTYLE   2015/12/31
http://tabi-labo.com/228864/deathordie

「常に、死を意識することのススメ」と題した記事をご紹介します。なんて、唐突に言われても、私たちが常日頃から、死について考えているかといえば、そんなに多くはないでしょう。

私たちは普段、目の前のことのために時間を使い、心配したり不安になったりしています。でも、死について考えることが、その不安からあなたを解放してくれるとしたら…?私たちが、死を意識することは、実は自由を手にすることなのかも。 (この部分は、当サイト「お寺でヨガ」を参照して頂ければ幸いです)

@ 自分の物語を俯瞰的に考えることができる
どんな物事にも、必ず終わりがあるものです。その「終わり」を意識することで、「今」を最大限楽しむことができるのです。
私たちを邪魔する些細なことから手を離し、短い人生の中の「終わり」を意識してみましょう。そういう視点を持てると、長い行列や電車の遅れ、悪天候だって楽しむことができるはず。

A 八方美人なんて必要ない 本当に大切な人と付き合える
自分の時間を台無しにするような人とは、付き合わないようにしましょう。常に死を意識している人は、自分の生活に新たな価値観や深みを与えてくれる人とだけ付き合っています。
彼らは自分が「有害」だと判断した人との付き合いは早々に打ち切り、いいと思った人とは、すぐに仲良くなります。なぜなら彼らは、自分たちの時間が有限であることを知っているからです。

B お金を無駄に溜めないで 自分の投資のために使える
貯金は大切なことかもしれません。でも、「後々の生活に必要だ」と思って貯めているお金は、いったいいつ使うのでしょうか?人生は一度きりだし、同じ日は二度と訪れません。
いつかは使ってしまうお金ですから、二度とない一つひとつの経験や瞬間を味わい、楽しみましょう。その時々の体験に集中しましょう。常に死を意識している人は、お金の使い時を知っています。

C 失敗や挑戦を怖がらなくなる
もし、間違えてしまったら…。そんなこと、死を前にしたら、ちっぽけなものです。死とは、あなたが知っていて愛している全てのものからの別れ。それと比べたら、あらゆる脅威は大したことではないのです。死を意識することで、生きているときに訪れる恐怖を、和らげることができるのもの。

D 常に、死ぬ気で。 ベストを尽くす
「いつかは自分も死ぬ」ということを意識する。それは明日かもしれませんし、一ヶ月先かもしれません。でも、この意識を持っていれば、常に高いモチベーションをキープすることができるのです。
黒澤明監督の「生きる」という映画では、死を前にした主人公が、死ぬ気で働いて一つのことを成し遂げます。そして彼が死んだ後に、葬式に参加した一人が、「死ぬ気でやれば誰だって成功できる!」といったのに対して、「あなただって明日死ぬかもしれないんだぜ?」という言葉を投げかけて、映画が終わっていきます。

E 他人に期待するのではなく 自分をもっと信じるようになる
全ての人やモノがいつかは消えてしまう。ということを理解できれば、それらに過剰な期待をしすぎることはありません。もちろん、人に失望することはあるかもしれないですが、「失望した」と思えること、そういう感情は、自分が生きているからこそ抱くことのできるものです。その重要さを噛みしめれば、冷静に現実的に、物事に接することができます。

F 小さなことにこだわらず 無駄に汗を流さない
死を意識することは、物事を正しい方向へ導くことでもあります。だから困難にぶつかったとき、目の前の小さなことに、本当に向き合うべきかどうかを考えてみましょう。
あなたはそこから離れることも、他にもっと楽しいことを見つけることもできます。常に死を意識している人は、そのことをわかっているはず。

G やるべきことでなく やりたいことに没頭できる
常に死を意識している人は、社会規範やルールに縛られません。彼らは望むときに、やりたいことをします。彼らはそれこそが人生の重要なポイントだと信じています。常に直感に従い、自分の心の思うままに動いていきます。

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最後の「やるべきことでなく やりたいことに没頭できる」という言葉に捕捉しますと、私自身は
「心の欲するところに従えども矩を踰えず(こころのほっするところにしたがえどものりをこえず)」
(自分の心に思う事をそのまま行なっても、道徳の規範から外れることはない)
という孔子の言葉を理想としたいと常日頃から思っております。

自分のやりたいことをやりたいように行って、しかも人の道にはずれない、ということは最高にフリーで楽しい生き方だと思いませんか o(^^)o

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