悟りとは
悟りとは
当WEBサイト上の『坐禅を科学する』の記事は、常宿寺参禅会にいらっしゃる方のテキストとして使うために、坐禅に広く用いられている結跏趺坐という坐法を身体的な側面から考察したものであり、どうしたら、坐禅の形を正確に伝えられるか、もっと楽に坐って頂けるようになるか、という意図をもって記述したものです。
その文中に「本来、仏道修行の究極目的は『悟り』を目指すものでありましたが、初心者的レベルとして、健康面の具体的効用、心身の疾患の改善等の日常的な事柄から、自己の心の持ち様を変化させていくといったことをまず目指すことが、ストレスに満ちた現代社会に生きる我々にとって必要と感じております。」と記述致しました。
これは、結跏趺坐の合理的側面を分析した結果、心身両面に対するかなりの健康効果が期待できるものでもあるということが分ったこと、また、実際に記録が残っている歴代禅師様達にしましても、かなり長命でいらっしゃった等々などのことから、坐禅の体に及ぼす効用について申し上げたわけです。
この『坐禅を科学する』の記事に関連して、朝日新聞の方が取材に来て下さいましたが、記者の方は科学医療グループに属する方で、やはり健康面の効用を主な目的としてお尋ねになりますので、私と致しましては、こちらの意図を曲げて伝えて頂くことのないよう、仏道修行の本質論として「欲を離れた日常生活を送ることが出来れば、結果として元気に生きられることにもつながります。欲を離れた生活の最も象徴的な場面が坐禅です。」ということを強調して頂きたいと、お願い申し上げました。
「健康になりたいということも、自分の身体に対する一種の欲です。お釈迦様や禅師様達は長生きすることを目標にしてご修行なさったわけではありません。肉体から生じる欲を少しでも減らして行こうというのが本来の仏道修行です。」と記者さんに申し上げたところ、「悟りを目指すことも、欲ではないのですか」と逆に聞かれてしまいました。
その時は、「仏教的に欲というのは、三毒といわれる貪瞋痴のうちの貪りであり、煩悩から生じた欲を言いますので、悟りを目指すことは欲には当たりません。」と申し上げましたが、実はこの問いには、本来の仏道修行と、いわゆる禅の修行との兼ね合いの中で、長い時代の流れを背景とした、非常に微妙で難しい様々な問題を含んでおります。
比較的、お釈迦様の原初の教えを忠実に説いていると思われる『パーリ仏典』に以下のような記述があります。
「比丘たちよ、そなたたちが集まった場所に、二つのなすべきことがあります。即ち、〈法の話〉、あるいは、〈聖なる沈黙〉です。
比丘たちよ、つぎの二つの求めがあります。すなわち〈聖なる求め〉と〈俗なる求め〉(=再生の根拠となるもの)です。
比丘たちよ、何が〈俗なる求め〉でしょうか。
ここに、比丘たちよ、ある者は自ら生まれる法(=性質)の者でありながら生まれの法のみを求め、自ら老いる法の者でありながら老いの法のみを求め、自ら病む法の者でありながら病いの法のみを求め、自ら死ぬ法の者でありながら死の法のみを求め、自ら憂う法の者でありながら憂いの法のみを求め、自ら汚れる法の者でありながら汚れの法のみを求めます。」
これに引き続き、「何を生まれの法というのか」という疑問については、「生存(の)素因が生まれの法となる」と表現され、「ここにかれは、縛られ、夢中になり、没頭し、自ら生まれる法の者でありながら生まれの法のみを求めます。」と説かれているのです。
お釈迦様は、かつて、御自分が悟りを開かれる前のこと、〈いったいどうして私は自ら生まれる法の者でありながら、生まれる法のみを求めるのか…〉との思いが生じました。
そして、〈自ら生まれる法の者でありながら、生まれの法に、危難を見て、不生の、無上の、無碍安穏の涅槃を求めてはどうかという、〈聖なる求め〉が生じました〉と仰っています。
そして父母の嘆きをよそに、出家をし、何が善かを探求する者として、最上の寂静句(涅槃のこと)を求めつつ、アーラーラ・カーラーマ、ウダカ・ラーマプッタという二人の師にまず近づいて行きました。パーリ仏典『中部』の「根本五十経篇」の第26「聖求経」(中山書房発行『原始仏教第14巻』 片山一良訳参照)
即ち、以上の御説法からも分かります通り、仏教において欲とは〈再生の根拠となるもの〉を指し、その再生の根拠となるものを滅しつくそうとすることが〈聖なる求め〉であると、説き示されておりますので、再生する力となるかどうかがキーワードとなります。悟りを求めることは〈聖なる求め〉であり、欲とははっきり区別されるものなのです。
さらに、以上の論理の展開の行き着くところとして「生きとし生けるものは生まれる性質のものである」と言われた時に、そこに危難(あやうさ)を見ることができる方でないと、容易に仏法は理解できません。それでお釈迦様のお説法を、全く理解できない、共感できないという方が沢山いらっしゃると思います。
「生まれる性質のものである」と言うことは、物質としての肉体をもつということですが、お釈迦様のお言葉を真直ぐに受け止めれば、お釈迦様にとっては、肉体を持った存在であるということが、決して好ましいことではなかったということが分かります。これを逆に言いますと、肉体を持たない存在の方がはるかに好ましいということがお釈迦様はご存知だったということになります。
私共は、赤ちゃんが生まれると、「おめでとう」と祝福します。人が亡くなると「お気の毒に」と御悔やみを言います。お釈迦様的に観れば、生まれる、肉体を持った存在となることは危難なのですから、決しておめでたいことではないということになります。本当のお釈迦様の教えとは、こういう世間的な常識とは、はるかに隔たった世界であるということがご理解頂けますでしょうか。
本論の表題『悟りとは』といたしましたが、以上述べてきたような、お釈迦様の目指された境地を『悟り』とするならば、生半可なことでは表現できないし、更にそこに到達しようとすることは、並大抵のことではないということは、お分かりになって頂けると思います。それこそが仏道修行の最も困難なところです。