非思量
非思量とは
坐禅中の心構えとして、考え事を追ってはいけません、ということがよく言われます。
「それはどうしてなのですか。今までは、学校でもどこでも、よく考えなさいとか、考えるということが人間の人間たる所以であり、考えないで行動するということは良くないこと、と言われてきたような気がしますが」という質問を、ある参禅者の方から受けました。人によっては、坐禅というのは、どうしたら悟れるか、悟りとは何か、一生懸命考えることだと思っていらっしゃる方もいるかもしれません。そのような質問を受けたこともありました。
出家して、僧堂での修行生活に入りますと、当然のように「坐禅中は考え事を追ってはいけない。」という指導を受けます。ただ、坐禅中考え事をしない為にどうしたらよいかということについては、今まで具体的には指導が頂けませんでしたので、人それぞれ工夫をしなければなりませんでした。
考えることの重要性を言う場合、それはあくまで、近代西洋哲学の「我」を基にした考え方を前提としており、さらにそれに則った現代の学校教育の場において特に顕著なのですが、仏教の基本的な教えである「諸法無我」は、物事の成り立ち、真理を説く上で、その「我」を認めないので、もともとの出発点が違っているのです。
お釈迦様は、「世の中の何ものをも執着することなく、安らいに入る為に、修行者はどのように観じたら良いのですか」という問いに対し、以下のようにお答えになっています。
「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ」(スッタニパータ916)
「内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。」(同917)
「これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。」(同918)
仏教的なものの捉え方からしますと、考え事とは煩悩によるブツブツとした感情の湧きあがり(ノイズつまり雑音のようなもの)、ということになります。
考え事即ち思考は感情から生ずるとみますので、思考をコントロールすることによって、感情もコントロールが可能になると言う立場です。
坐禅中の考え事は、対向車線を向こうから来る車だと捉えて、流れているままにしておきましょう。そちらに注意をとられると、脇見運転をしていることになり、ひどい場合事故につながります
今している呼吸に注意を向ける(観つづける)というのは、脇見運転をしないように、気がそれないように、なおざりにせず(不放逸)、注意深く気をつけているということ。今やるべきことは、今この瞬間に起こっていることに気づくということなのです。
この努力を続けて行くと、日常生活においても、気づきが機能してきます。欲や怒りなどは自分のものではなく、自己から分離されたものとして気づいていくようになります。
認識作用に変化が生じ、日常湧き上がる欲望や感情を客観的に捉えられるようになっていきます。そして、全ての現象がただ過ぎ去っていくものという理解が起こることによって、徐々に執着が取れていきます。「苦」もそのままの状態で知ろうとすること、客観的に観ることによって、抜け落ちて行くのです。
観るという修行中、それを妨げる考え事は全て、どれだけ重要なことのように思ってもそれを「妄想」とよびます。何か善くないことを考えるということだけではなく、「我」をあるものという前提で考えることが全て妄想という捉え方です。
我々は、煩悩(生存本能=自己形成力)によって生きており、それによって生まれ変わり死に変わり、迷いの生を受けるというのが、仏教の捉え方ですから、煩悩を消滅させるためには、煩悩の産物である考え事を野放しにすることを止める必要があるのです。
元々のお釈迦様の教えには、心が観の対象になる心随観が説かれておりますが、初心者にはかなり困難な修行となりますので、まず身体を徹底的に観ずることから始めるのがベストです。
坐る修行は動作が伴わないので、最もきついものです。じっとしている時も、呼吸とか少しでも動いている、感じている部分を観つづける、動の観が最も容易です。
歩く時には、自己の呼吸のペースに合わせながら、それぞれの足が動くたびに、できるだけ詳細に、多くの感覚を認識し、正しく知るように努めましょう。
日常生活の全ての瞬間に、身体や姿勢、呼吸について、感受されたことに対して注意深く気づきを持ち続けましょう。よく見ようとすることによって、自然に行動や呼吸がゆっくりになっていき、心の働きが捉えやすくなってきます。
身体が不自由な場合は、少しでも動く部分を動かして観ましょう。(手を左右とか上下に動かす。寝たきりでも、呼吸を観つづけることによって修行は可能です)
志さえあれば、1日中、どこでも誰でも修行は可能であり、要はやる気の問題です。
身体の状態のどこでもよいから注意(気づき)をもって観を続ける、あるいはすべての行動に気づきを持ち続ける。(注意を向けると、必ず吐く息が長くなるか、息を凝らしている)
↓ (脳を休める)
イライラや不安が徐々に消え、明るく、自由になる
以上のことは実践してのみ認知できることです。 本を読んだり考えたりしても、本当のところはわかりません。地図ばかり眺めていても、目的地に行けないのと同じことです。
また、以上述べてきたことからお分かりになると思いますが、実は仏法について言葉で説明しようとすることは、「貼り紙をしないで下さい」という紙を壁に貼るのと同じ行為であるように思います。今これを読んで頂いた貴方は、ご自分の今までの知識や経験に基づいて「考えながら」読んで頂いたはずです。これを書いている私も、一所懸命考えながら書きました。そこに自己矛盾があります。それを禅宗では「不立文字」という言葉で表現してきました。
お釈迦様の教えは、どれだけ机の上で学ぼうとしても無理です。泳ぎも水の中でしか覚えられないのと同じことで、とにかく実践あるのみです。